和田家文書一覧

第847話 2015/01/02

吉田松陰書簡の思い出

 今年のNHK大河ドラマは吉田松陰の妹、杉文(すぎ・ふみ)を主人公とした「花燃ゆ」で、女優の井上真央さんが演じられます。大河ドラマも幕末や戦国時代ばかりではなく、いつの日かは古代や近代も取り上げてもらいたいものです。
 吉田松陰は歴史上の偉人として尊敬する人物の一人ですが、20年ほど前に、わたしは吉田松陰書簡など江戸時代の史料を集中して読んだことがありました。 それは和田家文書偽作キャンペーンに対抗するのに、江戸時代研究の必要があったためで、具体的には江戸時代の「藩」表記についての調査が目的でした。
 当時、和田家文書偽作論者から、和田家文書には「藩」という表記があるが、江戸時代に「藩」という行政単位名は無く、従って和田家文書は現代人が書いた偽作であるという批判がなされました。松田弘洲氏の『歴史読本別冊 古史古伝論争』所収「『東日流外三郡誌』にはネタ本がある」(1993年12月)や『季刊邪馬台国』55号誌に掲載された「やはり『古田史学』は崩壊する」という論文です。
 松田氏は「『東日流外三郡誌』にはネタ本がある」において、「江戸時代に津軽藩とか、三春藩などと称することはなかった。読者は手元の辞典を引いて、大名領をいつから“藩”と表記したか確認したらよろしい。」として、和田家文書を偽作とされたのですが、わたしはこの「批判」に接したとき、「はあ?」というのが第一印象でした。というのも、わたしの乏しい江戸期史料の知識でも、「藩」表記は頻繁に目にしていたからです。そこで、持っていた『吉田松陰書簡』 などにある「藩」表記を再確認し、「藩」表記は江戸時代成立の文書にいくらでもあると反論したのです。本ホームページ掲載の下記の拙稿をご参照ください。

「偽書説と真実 真偽論争以前の基礎的研究のために」『古田史学会報』創刊号(1994年6月)
「知的犯罪の構造 『偽作』論者の手口をめぐって」『新・古代学』2集(新泉社、1996年)

 こうした論争を経験していましたので、今年の大河が吉田松陰の妹を主人公にしたことを知って、わたしは20年前に読み返 した『吉田松陰書簡』のことを思い出したのです。ちなみに、わたしからの史料根拠を提示しての具体的な反論に対して、松田氏も『季刊邪馬台国』編集部(安本美典責任編集)も「だんまり」を決め込み、某新聞社のように、論文(誤論・誤解)の撤回も訂正も謝罪も行わないまま、その後も延々と偽作キャンペーン (個人攻撃・人格攻撃)を続けました。それは、およそ学問的態度とは言い難いものでした。
なお、ご参考までに江戸期史料に見える「藩」表記の例をご紹介します。

○「吉田松陰書簡」嘉永四・五年、兄の杉梅太郎宛書簡
「肥後藩」「御藩之人」「本藩」
○根岸鎮衛(1737-1815)『耳嚢』
「会津の藩中」「尾州藩中」「佐竹の藩中」
○新井白石『折たく芝の記』(1716年成立、自筆原本現存)
「藩邸」
○「新井白石書簡」(『新井白石全集』より)
「賢藩」「加藩」※いずれも加賀藩のこと。
○杉田玄白『蘭東事始』(1815年成立)
「藩邸」「我藩」「藩士」「藩医」


第475話 2012/09/30

合田洋一著『地名が解き明かす古代日本』

 古田学派よりまた好著が出されました。合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、同四国の会事務局長)の『地名が解き明かす古代日本』(ミネルヴァ書房)です。
 同書では『日本書紀』などに見える「渡嶋」を通説の北海道ではなく、青森県下北半島・糠部地方とする新説が掲げられています。しかし、わたしが注目したのはその結論だけではなく、そこに至った方法です。
 合田さんは文献読解から、「渡嶋」が北海道では不自然であり、下北半島・糠部地方であることを明らかにされ、更に地名辞典から全国の「わたり」地名を調 べあげ、それが糠部地方に最も集中していることをことを発見されたのです。この「全数調査」という学問の方法は、古田先生が行われた三国志から全ての 「壹」と「臺」の字を抜き出して、両者が間違って混用されている例がないことを調べあげるという、古田学派にとって象徴的な方法を踏襲されたものです(倭 人伝の邪馬壹国は邪馬臺国の誤りとする従来説への反証としての全数調査です)。また、文献解釈と現存地名分布の一致という検証の仕方も、古田学派では重視 尊重されている学問の方法です。
 その他にも、筑前・筑後などの「前」と「後」地名や、「上」「下」地名の命名を九州王朝説に基づいて再検証するという、多元史観ならではの研究成果が収録されています。結論ではなく学問の方法を最も重視する古田学派への推奨の一冊です。


第412話 2012/05/13

『和田家文書』研究の発表

 昨日は淡路島までドライブしてきました。高速道路のサービスエリアで無料配布されていた「遊・悠・WesT」5・6月号に、「島根、奈良の古事記の旅」という特集があったので、いただいて読んでみました。
 出雲大社や石上神宮などの神社旧跡の他、古代出雲歴史博物館・橿原考古学研究所付属博物館などが写真付きで紹介されており、古代史ファンにはうれしい内 容です。しばらくはサービスエリアなどに置かれていると思いますので、高速道路ご利用時にはお勧めです。
 さて、6月17日(日)午後に古田史学の会会員総会・記念講演会を開催しますが、その講演内容が決まりましたのでお知らせします。今年の発表者は東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)の安彦克己さんとわたしです。演題は次の通りです。

○安彦克己さん
『和田家文書』の安日彦、長髄彦
-秋田孝季は何故叙述を間違えたか-

○古賀達也
文字史料から見える九州王朝
-百済禰軍墓誌・「大歳庚寅」銘鉄刀・「はるくさ」木簡・『勝山記』・他-

 安彦さんは古田学派で最も熱心に『和田家文書』を研究されている研究者のお一人です。関西例会では『和田家文書』についての研究発表が少ないこともあり、今回大阪で発表していただくことにしました。
 わたしは、近年新たに発見された金石文などの文字史料を九州王朝説の視点から解説することにしました。まだ検討不十分な内容もありますが、古田学派内での研究のたたき台にしていただければ幸いです。
 なお、午前中は同じ会場(大阪府立大学中之島サテライト2階ホール=大阪府立中之島図書館別館2階)で関西例会を開催します。午後、記念講演会終了後に 会員総会を行います。その後は恒例の懇親会となりますが、懇親会への参加申し込みは、当日会場での受付となります。講演会・例会は会員以外の方も参加でき ます。ふるってご参加ください。


第402話 2012/04/07

『真実の東北王朝』復刻

 ミネルヴァ書房から古田武彦古代史コレクションとして『真実の東北王朝』が復刻されました。「洛中洛外日記」第390話でもふれましたが、『真実の東北王朝』は大変思い出深い一冊です。
 今回の復刻版には、新たに和田家文書のカラー写真が掲載されており、虫食いだらけの和田家文書を見ることができ、戦後偽作説がいかに荒唐無稽なものか、読者にも実感できることでしょう。
 また巻末資料として、田中巌さん(東京古田会会員)の論稿「多賀城碑の里程等について」が収録されており、同書で示された古田説とは異なる説が展開されています。古田先生が自著の復刻版にこうした他者の論稿を収録されることは珍しいことです。しかも、自説と異なる内容ですから尚更です。それだけ田中さんの論稿が優れていることと、自説と異なっていても紹介するという古田先生の学問的度量の広さを感じます。
 『真実の東北王朝』は古田史学の多元史観における、東北王朝という新概念が提起された記念すべき一冊です。ともすると多元史観を九州王朝と大和朝廷との関係のみで理解される論者も見受けられますが、それは多元史観という学説の矮小化にもつながりかねませんので注意が必要です。そうした意味でも、『真実の東北王朝』は学問的に貴重な意義を持っていますので、まだ読んでおられない方には、この復刻版は時宜にかなっており必読です。


第392話 2012/03/05

秋田土崎の橘氏

この数年、いろいろと忙しくて和田家文書の研究は全く手つかずの状態が続いています。これからもしばらくは取り組めそうにないのですが、佐々木広堂さんからのファックスがきっかけで、昔書いた論文「知的犯罪の構造 –「偽作」論者の手口をめぐって」(『新・古代学』第2集、1996)を読みなおしました。おかげで当時の記憶が次から次へとよみがえってきたのですが、それらを忘れないうちに書きとどめておくのもいいかもしれないと思い、これから時折「洛中洛外日記」に記していくことにします。
その最初として、和田家文書『東日流外三郡誌』の著者、秋田孝季(あきたたかすえ)のことを少しご紹介します。『東日流外三郡誌』などの末尾には「秋田 土崎住 秋田孝季」と記されている例が多いのですが、これらの記述から、孝季が秋田土崎(今の秋田市土崎)で『東日流外三郡誌』などを著述したとがわかる のですが、なぜ津軽ではなく秋田土崎なのかが不明でした。
ところが、秋田県ご出身の太田斉二郎さん(古田史学の会・副代表)が現地調査などで秋田市土崎に橘姓が多いことを発見されたのです。というのも、和田家 文書によれば秋田孝季のもともとの名前は橘次郎孝季だったからです。孝季の母親が秋田家三春藩主に「後妻」として入ったことにより、橘次郎孝季から秋田孝 季と名乗るようになったのです。ですから、秋田土崎は秋田孝季の「実家」の橘家があった可能性が高いのです。だから、秋田土崎の地で『東日流外三郡誌』を 初めとした膨大な和田家文書の執筆に孝季は専念できたのです。
秋田県や秋田市には全国的に見れば、橘姓はそれほど多く分布していません。むしろ少ないと言った方がよいかもしれません。ところが、秋田市内の橘姓の七割が土崎に集中していることを太田さんが発見されたのです(太田斉二郎「孝季眩映〈古代橘姓の巻〉」、『古田史学会報』24号、1998)。この発見により秋田孝季がなぜ秋田土崎で執筆したのかがわかったのです。
こうした事実は偽作説では説明しにくいでしょう。現地調査により、秋田孝季の実在を証明する事実が明らかになるのではないかと期待しています。いつかわたしも現地調査を行いたいと思っており、現地に協力者が現れることを願っています。


第391話 2012/03/03

和田家文書の「稲作伝播」伝承

第370話「東北水田稲作の北方ルート伝播」で佐々木広堂さんらの論文をご紹介しました。東北地方への稲作は沿海州から伝播したという説ですが、その佐々木さんから一枚のファックスが届きました。その 中で、東北への稲作が九州からではなく、中国から伝わったとする伝承が和田文書に記されていることが指摘されていました。
このことを既に佐々木さんは『古代に真実を求めて』第9集(明石書店、2006年)に掲載された「東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北 部・ロシア沿海州から伝わったーー封印された早生品種と和田家文書の真実」で発表されています。わたしはその論文の内容の詳細を忘れていたのですが、 佐々木さんからのファックスで紹介していただき、再読しました。
同論文によれば、和田家文書の『東日流六郡誌大要』(八幡書店、554頁)に次のような記事があります。
「耶馬台族が東日流に落着せしは、支那君公子一族より三年後の年にて、いまより二千四百年前のことなり。~彼等また稲作を覚りし民なれど持来る稲種稔らず。支那民より得て稔らしむ。」
津軽に耶馬台族の持ってきた稲は実らず、支那の民より得た稲は実った、という記事ですが、おそらく日本列島の西南部(近畿か九州)から伝来した稲は寒さ で実らず、支那(大陸)の稲は早生種であったため、寒い津軽でも実ったという伝承が記されているのです。弥生時代の青森へ、大陸の早生種が伝来したという 佐々木さんの説と同じことが和田家文書に記されていたのです。
もちろん、和田家文書にはこの他にも津軽への稲作伝来に関する様々な異説が記されていますが、それらの中に佐々木さんの研究結果と同じ伝承が残っていた ことは驚きです。稲作の伝来一つをとっても、和田家文書の伝承力・記録量は素晴らしいものがあります。偽作論などに惑わされることなく、学問的な和田家文 書の史料批判と研究が期待されます。


第371話 2012/01/10

東北への稲作伝播と古田説

 『生物科学』(vol.62 No.2 2011)に佐々木広堂さんらが発表された、ロシア沿海州から東北へ水田稲作が直接伝播したという説を第370話で紹介しましたが、もしこの説が正しかったら、古田説とどのような関わりを持つか考えてみました。
 まず最初に思い起こされるのが、『出雲風土記』にある「国引き神話」との関係です。古田説によれば、この神話には金属器が登場していないことから、金属器以前の旧石器・縄文時代にまで遡る神話であり、しかもその内容は日本海を挟んでウラジオストックなど沿海州との交流を描いたものとされました。従って、 水田稲作が沿海州から東北地方へ直接伝わったとする佐々木説と矛盾しません。旧石器・縄文時代からの日本海を挟んだ交流の歴史を背景に、弥生時代に沿海州 から寒冷地で栽培できる稲作が東北地方にもたらされることは、十分に考えられることです。今後、沿海州から青森県砂沢水田遺跡と同時代の水田遺跡が発見さ れれば、佐々木説は更に有力なものとなるでしょう。
 古田説との関係でもうひとつ思い起こされるのが、和田家文書にあるアビヒコ・ナガスネヒコによる筑紫から津軽への稲の伝播に関する伝承です。
 古田先生によれば、筑紫の日向(ヒナタ)の賊(天孫降臨)に追われたアビヒコ・ナガスネヒコは稲穂を持って津軽へ逃げたとのこと。また、青森の水田遺跡 に福岡の板付水田との類似構造が認められており、両者の関係がうかがわれるとのことで、筑紫から直接津軽へ水田稲作技術が伝播したから、砂沢遺跡が関東な ど筑紫との中間地帯の水田遺跡より古いことも説明できるとされました。従って、和田家文書に遺された伝承は歴史事実を反映したものと説明されました。
 ところがこの古田説は先の佐々木説と対立しそうです。佐々木さんらは『生物科学』の論文で、「北部九州などで早生品種のイネであっても、そのモミをそのまま青森にもっていって水田稲作ができることにはならない。それは超晩生品種となって稔らない。」と北部九州から青森への直接伝播(海上ルート)を否定さ れています。
 わたしにはどちらの見解が正しいのかは、今のところわかりませんが、佐々木説にも説得力を感じつつ、それならばなぜ青森の水田と福岡の板付水田の構造が類似しているのかという説明が必要と思われました。
 ところで、今わたしは東武特急で新桐生から浅草へと向かっています。関東平野に沈む夕陽がとてもきれいです。


第370話 2012/01/10

東北水田稲作の北方ルート伝播

今日は東京に向かう新幹線の中で書いています。新幹線で上京のさいには富士山が見えるE席を予約するのですが、今回は残念ながらA席しか取れませんでした。冬の晴れた日の富士山の美しさは格別です。今朝はやや曇っているので、見えないかもしれません。
先日、「古田史学の会」草創の同志である仙台の佐々木広堂さんから『生物科学』(vol.62 No.2 2011)という専門誌が送られてきました。 同誌には佐々木さんと吉原賢二さん(東北大学名誉教授)の共同執筆による「東北水田稲作の北方ルート伝播」が掲載されていました。
同論文の主旨は、我が国への水田稲作は、従来中国江南地方や朝鮮半島から九州へまず伝播し、それから列島内を北上し、東北地方へも伝わったとされていま すが、そうではなく、東北地方へはロシア沿海州から直接伝播したとするものです。この主張は『古代に真実を求めて』誌上でも佐々木さんから発表されていた ものですが、今回は『生物科学』という専門誌に発表されたのですが、とても要領よくまとめられています。
ロシア沿海州ルートの主たる根拠は、青森の砂沢水田遺跡が仙台や関東の水田遺跡よりも古いということと、稲の寒冷地栽培が可能となるためには品種変異が 必須で、そのためには千年近くの長年月が必要ともいわれ、従来説では列島内北上スピードが早すぎるというものです。
わたしは専門外なのでこの佐々木説の当否をただちに判断できませんが、水田稲作伝播の多元説ともいうべきものであり、説得力を感じました。
なおもう一人の執筆者の吉原先生は高名な化学者であり、わたしもお名前はよく存じ上げていました。「古田史学会報」97号にもご寄稿いただいています。 電話やお手紙をいただいたこともありましたが、当初は有名な吉原賢二氏とまさか同一人物とは思わず、後になってそのことを知り、大変恐縮したことを覚えて います。吉原先生のことはインターネット上でも紹介されていますので、是非、検索してみてください。いろんな分野で古田先生を支持する人々がおられること に、とても心強く思いました。


第151話 2007/11/11

伊賀上野、芭蕉翁記念館を訪ねる
 昨日は伊賀上野までドライブし、芭蕉翁記念館を訪れました。当初の予定では天理から名阪国道を通るつもりでしたが、初心者には名阪国道は危険(時速60kmの速度制限にもかかわらず、トラックが100kmでビュンビュンとばすらしく、死亡事故も多い)とのアドバイスもあり、木津川沿いのルートを選びました。
 このドライブの一番の目的は芭蕉の生誕地伊賀上野の芭蕉翁記念館で「芭蕉かるた」を買うことでした。お城の一角にある俳聖殿と芭蕉翁記念館に足を運びましたが、記念館では「芭蕉と土芳」展が開催されており、良いタイミングでした。そこで「俳聖かるた」(800円)等を買いました。ところが、欲しかった「芭蕉かるた」とは別物であることを帰宅してから気づきました。「俳聖かるた」は芭蕉以外にも弟子の去来、そして蕪村・一茶の俳句からなっており、これはこれで良い買い物でしたが、「芭蕉かるた」は別にあるようなのです。もう一度伊賀上野に行くことにしたいと思っています。
 古田先生の影響で、わたしは芭蕉に興味を持つようになったのですが、古田先生からいただいた『俳諧問答』(岩波文庫)は貴重な宝物となっています。この本は、1996年に『奥の細道』自筆本の発見が話題となり、翌年、津市の博物館でその「自筆本」が展示されたので、古田先生と一緒に見学に行ったおりに頂いたものです。
 それには古田先生のサインとともに、次のような言葉が綴られています。初めてご紹介することにします。
  「−蕉門の離合の迹を辿りつつ(第三章など)−
   変る人々多き中、変らぬ心をお寄せいただくこと、この生涯最大の幸と存じます。
   一九九七、十月十九日 津紀行中。」
 冒頭の「蕉門の離合の迹を辿りつつ(第三章など)」の意味を知りたい方は、是非『俳諧問答』第三章をお読み下さい。当時は、和田家文書偽作説論者による古田攻撃が猖獗を極めたときでした。


第135話 2007/08/05

『古田史学会報』81号のご案内

  台風が去り、京都は蒸し暑い日が続いています。祇園祭も終わり、次は五山の送り火ですが、わたしは若い頃、如意ヶ岳の大文字に点火した経験があります。午前中から山に登り、用意された松の割り木を井桁に組んで、夜になるまで山で待つのですが、暑い最中ですから、これも結構体力勝負でした。今はとてもそんな気力はありませんので、近所の鴨大橋から眺めるだけとなっています。

 昨今、またまた太宰府から木柱跡や漆紙文書が出土していますが、これらも興味深いところです。さて、『古田史学会報』81号の編集が遅れに遅れて、今日ようやく完成しました。今号は久しぶりに古田先生から原稿をいただきました。ご期待下さい。
 
〔『古田史学会報』81号の目次〕
寛政原本と古田史学 古田武彦
○「安倍次郎貞任遺文」と福沢諭吉『学問のすすめ』
   ─『東日流外三郡誌』真贋論争に関連し─奈良市太田齊二郎
○エクアドルの地名 
菊池栄吾氏「バルディビア旅行で考えたこと」(会報八〇号)を読んで
    豊中市 大下隆司
○ホームページ「有明海・諫早湾干拓リポート号外」より転載
    伊倉─天子宮は誰を祀るか─武雄市 古川清久
○薩夜麻の「冤罪」 I 川西市 正木 裕
○古田史学の会 第十三回会員総会の報告
○古田史学の会 関西例会のご案内
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○お知らせ 10/21古田武彦氏豊中講演会
○「和田家資料4『北斗抄』十〜総結」の紹介


第134話 2007/07/29

「和田家資料4『北斗抄』十〜総結」発刊
         
       
       
         
            

 弘前市の竹田侑子さんから「和田家資料4『北斗抄』十〜総結」(北方新社刊・2900円+税)が送られてきました。平成17年10月に亡くなられた、お兄さんの藤本光幸氏の事業を引き継がれ、この度刊行されたものです。大変な作業だったと思います。
 先に出された和田家資料3の『北斗抄』一〜十の続刊で、明治・大正期の和田末吉や長作の文も含まれた貴重な史料群です。寛政期から明治・大正・昭和と書
写・書き継がれてきた和田家文書の史料性格を知る上でも第一級の史料です。また、和田家に伝わる膨大な史料の書写・相伝を運命づけられた末吉の感慨なども
記されています。
   この本が、多くの皆さまに読まれることを願っています。


第63話2006/02/17

『北斗抄』

 昨年10月に物故された藤本光幸さん(第39話参照)の妹、竹田侑子さんより待望の一冊が送られてきました。和田家資料3『北斗抄』(藤本光幸編・北方新社。2000円+税)です。これには『北斗抄』全29巻のうち、1〜10巻が採録されています。詳細は巻末の竹田さんによる「あとがき」を読んで下さい。
 和田家文書は江戸時代から明治・大正・昭和へと書写、書き継がれた文書であり、中でもこの『北斗抄』には明治期の文書も編集されており、十分かつ慎重な史料批判が必要な文書です。わたしも津軽で実見しましたが、歴代の書写者の息吹が随所に感じられました。
 また、本書には貴重な一論文が末尾に採用され、光彩を放っています。竹内強さん(本会会員・岐阜市)による「和田家文書『北斗抄』に使用された美濃和紙を探して」です。執念の現地調査により、『北斗抄』に使用されている美濃和紙が明治時代のものであったことを証明された記録です。この調査報告は昨年の古田史学の会会員総会(大阪市)の際に口頭発表されたものですが、今回論文として寄稿されたことにより、多くの方に読んでいただけることになりました。竹田侑子さんのご尽力の賜です。
 今回の発行に続いて、11巻以降の『北斗抄』も刊行されるとのこと。故藤本光幸さんと竹田侑子さん兄妹の刊行への取り組みに敬意を表すとともに、微力ではありますが、これからも応援していきたいと思います。

参照

真実の東北王朝』古田武彦(駸々堂 絶版)

日本国の原風景ー「東日流外三郡誌」に関する一考察ー 西村俊一氏