和田家文書一覧

第402話 2012/04/07

『真実の東北王朝』復刻

 ミネルヴァ書房から古田武彦古代史コレクションとして『真実の東北王朝』が復刻されました。「洛中洛外日記」第390話でもふれましたが、『真実の東北王朝』は大変思い出深い一冊です。
 今回の復刻版には、新たに和田家文書のカラー写真が掲載されており、虫食いだらけの和田家文書を見ることができ、戦後偽作説がいかに荒唐無稽なものか、読者にも実感できることでしょう。
 また巻末資料として、田中巌さん(東京古田会会員)の論稿「多賀城碑の里程等について」が収録されており、同書で示された古田説とは異なる説が展開されています。古田先生が自著の復刻版にこうした他者の論稿を収録されることは珍しいことです。しかも、自説と異なる内容ですから尚更です。それだけ田中さんの論稿が優れていることと、自説と異なっていても紹介するという古田先生の学問的度量の広さを感じます。
 『真実の東北王朝』は古田史学の多元史観における、東北王朝という新概念が提起された記念すべき一冊です。ともすると多元史観を九州王朝と大和朝廷との関係のみで理解される論者も見受けられますが、それは多元史観という学説の矮小化にもつながりかねませんので注意が必要です。そうした意味でも、『真実の東北王朝』は学問的に貴重な意義を持っていますので、まだ読んでおられない方には、この復刻版は時宜にかなっており必読です。


第392話 2012/03/05

秋田土崎の橘氏

この数年、いろいろと忙しくて和田家文書の研究は全く手つかずの状態が続いています。これからもしばらくは取り組めそうにないのですが、佐々木広堂さんからのファックスがきっかけで、昔書いた論文「知的犯罪の構造 –「偽作」論者の手口をめぐって」(『新・古代学』第2集、1996)を読みなおしました。おかげで当時の記憶が次から次へとよみがえってきたのですが、それらを忘れないうちに書きとどめておくのもいいかもしれないと思い、これから時折「洛中洛外日記」に記していくことにします。
その最初として、和田家文書『東日流外三郡誌』の著者、秋田孝季(あきたたかすえ)のことを少しご紹介します。『東日流外三郡誌』などの末尾には「秋田 土崎住 秋田孝季」と記されている例が多いのですが、これらの記述から、孝季が秋田土崎(今の秋田市土崎)で『東日流外三郡誌』などを著述したとがわかる のですが、なぜ津軽ではなく秋田土崎なのかが不明でした。
ところが、秋田県ご出身の太田斉二郎さん(古田史学の会・副代表)が現地調査などで秋田市土崎に橘姓が多いことを発見されたのです。というのも、和田家 文書によれば秋田孝季のもともとの名前は橘次郎孝季だったからです。孝季の母親が秋田家三春藩主に「後妻」として入ったことにより、橘次郎孝季から秋田孝 季と名乗るようになったのです。ですから、秋田土崎は秋田孝季の「実家」の橘家があった可能性が高いのです。だから、秋田土崎の地で『東日流外三郡誌』を 初めとした膨大な和田家文書の執筆に孝季は専念できたのです。
秋田県や秋田市には全国的に見れば、橘姓はそれほど多く分布していません。むしろ少ないと言った方がよいかもしれません。ところが、秋田市内の橘姓の七割が土崎に集中していることを太田さんが発見されたのです(太田斉二郎「孝季眩映〈古代橘姓の巻〉」、『古田史学会報』24号、1998)。この発見により秋田孝季がなぜ秋田土崎で執筆したのかがわかったのです。
こうした事実は偽作説では説明しにくいでしょう。現地調査により、秋田孝季の実在を証明する事実が明らかになるのではないかと期待しています。いつかわたしも現地調査を行いたいと思っており、現地に協力者が現れることを願っています。


第391話 2012/03/03

和田家文書の「稲作伝播」伝承

第370話「東北水田稲作の北方ルート伝播」で佐々木広堂さんらの論文をご紹介しました。東北地方への稲作は沿海州から伝播したという説ですが、その佐々木さんから一枚のファックスが届きました。その 中で、東北への稲作が九州からではなく、中国から伝わったとする伝承が和田文書に記されていることが指摘されていました。
このことを既に佐々木さんは『古代に真実を求めて』第9集(明石書店、2006年)に掲載された「東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北 部・ロシア沿海州から伝わったーー封印された早生品種と和田家文書の真実」で発表されています。わたしはその論文の内容の詳細を忘れていたのですが、 佐々木さんからのファックスで紹介していただき、再読しました。
同論文によれば、和田家文書の『東日流六郡誌大要』(八幡書店、554頁)に次のような記事があります。
「耶馬台族が東日流に落着せしは、支那君公子一族より三年後の年にて、いまより二千四百年前のことなり。~彼等また稲作を覚りし民なれど持来る稲種稔らず。支那民より得て稔らしむ。」
津軽に耶馬台族の持ってきた稲は実らず、支那の民より得た稲は実った、という記事ですが、おそらく日本列島の西南部(近畿か九州)から伝来した稲は寒さ で実らず、支那(大陸)の稲は早生種であったため、寒い津軽でも実ったという伝承が記されているのです。弥生時代の青森へ、大陸の早生種が伝来したという 佐々木さんの説と同じことが和田家文書に記されていたのです。
もちろん、和田家文書にはこの他にも津軽への稲作伝来に関する様々な異説が記されていますが、それらの中に佐々木さんの研究結果と同じ伝承が残っていた ことは驚きです。稲作の伝来一つをとっても、和田家文書の伝承力・記録量は素晴らしいものがあります。偽作論などに惑わされることなく、学問的な和田家文 書の史料批判と研究が期待されます。


第371話 2012/01/10

東北への稲作伝播と古田説

 『生物科学』(vol.62 No.2 2011)に佐々木広堂さんらが発表された、ロシア沿海州から東北へ水田稲作が直接伝播したという説を第370話で紹介しましたが、もしこの説が正しかったら、古田説とどのような関わりを持つか考えてみました。
 まず最初に思い起こされるのが、『出雲風土記』にある「国引き神話」との関係です。古田説によれば、この神話には金属器が登場していないことから、金属器以前の旧石器・縄文時代にまで遡る神話であり、しかもその内容は日本海を挟んでウラジオストックなど沿海州との交流を描いたものとされました。従って、 水田稲作が沿海州から東北地方へ直接伝わったとする佐々木説と矛盾しません。旧石器・縄文時代からの日本海を挟んだ交流の歴史を背景に、弥生時代に沿海州 から寒冷地で栽培できる稲作が東北地方にもたらされることは、十分に考えられることです。今後、沿海州から青森県砂沢水田遺跡と同時代の水田遺跡が発見さ れれば、佐々木説は更に有力なものとなるでしょう。
 古田説との関係でもうひとつ思い起こされるのが、和田家文書にあるアビヒコ・ナガスネヒコによる筑紫から津軽への稲の伝播に関する伝承です。
 古田先生によれば、筑紫の日向(ヒナタ)の賊(天孫降臨)に追われたアビヒコ・ナガスネヒコは稲穂を持って津軽へ逃げたとのこと。また、青森の水田遺跡 に福岡の板付水田との類似構造が認められており、両者の関係がうかがわれるとのことで、筑紫から直接津軽へ水田稲作技術が伝播したから、砂沢遺跡が関東な ど筑紫との中間地帯の水田遺跡より古いことも説明できるとされました。従って、和田家文書に遺された伝承は歴史事実を反映したものと説明されました。
 ところがこの古田説は先の佐々木説と対立しそうです。佐々木さんらは『生物科学』の論文で、「北部九州などで早生品種のイネであっても、そのモミをそのまま青森にもっていって水田稲作ができることにはならない。それは超晩生品種となって稔らない。」と北部九州から青森への直接伝播(海上ルート)を否定さ れています。
 わたしにはどちらの見解が正しいのかは、今のところわかりませんが、佐々木説にも説得力を感じつつ、それならばなぜ青森の水田と福岡の板付水田の構造が類似しているのかという説明が必要と思われました。
 ところで、今わたしは東武特急で新桐生から浅草へと向かっています。関東平野に沈む夕陽がとてもきれいです。


第370話 2012/01/10

東北水田稲作の北方ルート伝播

今日は東京に向かう新幹線の中で書いています。新幹線で上京のさいには富士山が見えるE席を予約するのですが、今回は残念ながらA席しか取れませんでした。冬の晴れた日の富士山の美しさは格別です。今朝はやや曇っているので、見えないかもしれません。
先日、「古田史学の会」草創の同志である仙台の佐々木広堂さんから『生物科学』(vol.62 No.2 2011)という専門誌が送られてきました。 同誌には佐々木さんと吉原賢二さん(東北大学名誉教授)の共同執筆による「東北水田稲作の北方ルート伝播」が掲載されていました。
同論文の主旨は、我が国への水田稲作は、従来中国江南地方や朝鮮半島から九州へまず伝播し、それから列島内を北上し、東北地方へも伝わったとされていま すが、そうではなく、東北地方へはロシア沿海州から直接伝播したとするものです。この主張は『古代に真実を求めて』誌上でも佐々木さんから発表されていた ものですが、今回は『生物科学』という専門誌に発表されたのですが、とても要領よくまとめられています。
ロシア沿海州ルートの主たる根拠は、青森の砂沢水田遺跡が仙台や関東の水田遺跡よりも古いということと、稲の寒冷地栽培が可能となるためには品種変異が 必須で、そのためには千年近くの長年月が必要ともいわれ、従来説では列島内北上スピードが早すぎるというものです。
わたしは専門外なのでこの佐々木説の当否をただちに判断できませんが、水田稲作伝播の多元説ともいうべきものであり、説得力を感じました。
なおもう一人の執筆者の吉原先生は高名な化学者であり、わたしもお名前はよく存じ上げていました。「古田史学会報」97号にもご寄稿いただいています。 電話やお手紙をいただいたこともありましたが、当初は有名な吉原賢二氏とまさか同一人物とは思わず、後になってそのことを知り、大変恐縮したことを覚えて います。吉原先生のことはインターネット上でも紹介されていますので、是非、検索してみてください。いろんな分野で古田先生を支持する人々がおられること に、とても心強く思いました。


第151話 2007/11/11

伊賀上野、芭蕉翁記念館を訪ねる
 昨日は伊賀上野までドライブし、芭蕉翁記念館を訪れました。当初の予定では天理から名阪国道を通るつもりでしたが、初心者には名阪国道は危険(時速60kmの速度制限にもかかわらず、トラックが100kmでビュンビュンとばすらしく、死亡事故も多い)とのアドバイスもあり、木津川沿いのルートを選びました。
 このドライブの一番の目的は芭蕉の生誕地伊賀上野の芭蕉翁記念館で「芭蕉かるた」を買うことでした。お城の一角にある俳聖殿と芭蕉翁記念館に足を運びましたが、記念館では「芭蕉と土芳」展が開催されており、良いタイミングでした。そこで「俳聖かるた」(800円)等を買いました。ところが、欲しかった「芭蕉かるた」とは別物であることを帰宅してから気づきました。「俳聖かるた」は芭蕉以外にも弟子の去来、そして蕪村・一茶の俳句からなっており、これはこれで良い買い物でしたが、「芭蕉かるた」は別にあるようなのです。もう一度伊賀上野に行くことにしたいと思っています。
 古田先生の影響で、わたしは芭蕉に興味を持つようになったのですが、古田先生からいただいた『俳諧問答』(岩波文庫)は貴重な宝物となっています。この本は、1996年に『奥の細道』自筆本の発見が話題となり、翌年、津市の博物館でその「自筆本」が展示されたので、古田先生と一緒に見学に行ったおりに頂いたものです。
 それには古田先生のサインとともに、次のような言葉が綴られています。初めてご紹介することにします。
  「−蕉門の離合の迹を辿りつつ(第三章など)−
   変る人々多き中、変らぬ心をお寄せいただくこと、この生涯最大の幸と存じます。
   一九九七、十月十九日 津紀行中。」
 冒頭の「蕉門の離合の迹を辿りつつ(第三章など)」の意味を知りたい方は、是非『俳諧問答』第三章をお読み下さい。当時は、和田家文書偽作説論者による古田攻撃が猖獗を極めたときでした。


第135話 2007/08/05

『古田史学会報』81号のご案内

  台風が去り、京都は蒸し暑い日が続いています。祇園祭も終わり、次は五山の送り火ですが、わたしは若い頃、如意ヶ岳の大文字に点火した経験があります。午前中から山に登り、用意された松の割り木を井桁に組んで、夜になるまで山で待つのですが、暑い最中ですから、これも結構体力勝負でした。今はとてもそんな気力はありませんので、近所の鴨大橋から眺めるだけとなっています。

 昨今、またまた太宰府から木柱跡や漆紙文書が出土していますが、これらも興味深いところです。さて、『古田史学会報』81号の編集が遅れに遅れて、今日ようやく完成しました。今号は久しぶりに古田先生から原稿をいただきました。ご期待下さい。
 
〔『古田史学会報』81号の目次〕
寛政原本と古田史学 古田武彦
○「安倍次郎貞任遺文」と福沢諭吉『学問のすすめ』
   ─『東日流外三郡誌』真贋論争に関連し─奈良市太田齊二郎
○エクアドルの地名 
菊池栄吾氏「バルディビア旅行で考えたこと」(会報八〇号)を読んで
    豊中市 大下隆司
○ホームページ「有明海・諫早湾干拓リポート号外」より転載
    伊倉─天子宮は誰を祀るか─武雄市 古川清久
○薩夜麻の「冤罪」 I 川西市 正木 裕
○古田史学の会 第十三回会員総会の報告
○古田史学の会 関西例会のご案内
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○お知らせ 10/21古田武彦氏豊中講演会
○「和田家資料4『北斗抄』十〜総結」の紹介


第134話 2007/07/29

「和田家資料4『北斗抄』十〜総結」発刊
         
       
       
         
            

 弘前市の竹田侑子さんから「和田家資料4『北斗抄』十〜総結」(北方新社刊・2900円+税)が送られてきました。平成17年10月に亡くなられた、お兄さんの藤本光幸氏の事業を引き継がれ、この度刊行されたものです。大変な作業だったと思います。
 先に出された和田家資料3の『北斗抄』一〜十の続刊で、明治・大正期の和田末吉や長作の文も含まれた貴重な史料群です。寛政期から明治・大正・昭和と書
写・書き継がれてきた和田家文書の史料性格を知る上でも第一級の史料です。また、和田家に伝わる膨大な史料の書写・相伝を運命づけられた末吉の感慨なども
記されています。
   この本が、多くの皆さまに読まれることを願っています。


第63話2006/02/17

『北斗抄』

 昨年10月に物故された藤本光幸さん(第39話参照)の妹、竹田侑子さんより待望の一冊が送られてきました。和田家資料3『北斗抄』(藤本光幸編・北方新社。2000円+税)です。これには『北斗抄』全29巻のうち、1〜10巻が採録されています。詳細は巻末の竹田さんによる「あとがき」を読んで下さい。
 和田家文書は江戸時代から明治・大正・昭和へと書写、書き継がれた文書であり、中でもこの『北斗抄』には明治期の文書も編集されており、十分かつ慎重な史料批判が必要な文書です。わたしも津軽で実見しましたが、歴代の書写者の息吹が随所に感じられました。
 また、本書には貴重な一論文が末尾に採用され、光彩を放っています。竹内強さん(本会会員・岐阜市)による「和田家文書『北斗抄』に使用された美濃和紙を探して」です。執念の現地調査により、『北斗抄』に使用されている美濃和紙が明治時代のものであったことを証明された記録です。この調査報告は昨年の古田史学の会会員総会(大阪市)の際に口頭発表されたものですが、今回論文として寄稿されたことにより、多くの方に読んでいただけることになりました。竹田侑子さんのご尽力の賜です。
 今回の発行に続いて、11巻以降の『北斗抄』も刊行されるとのこと。故藤本光幸さんと竹田侑子さん兄妹の刊行への取り組みに敬意を表すとともに、微力ではありますが、これからも応援していきたいと思います。

参照

真実の東北王朝』古田武彦(駸々堂 絶版)

日本国の原風景ー「東日流外三郡誌」に関する一考察ー 西村俊一氏


第57話2006/01/1

佐賀の「中央」碑

  「日本中央」碑という有名な石碑が青森県東北町にありますが、佐賀県にも「中央」碑があることを林俊彦さん(本会全国世話人、古田史学の会・東海の代表)より教えていただきました。この佐賀県の「中央」碑についてご紹介したいと思います。
  佐賀平野の地神信仰に「チュウオウサン」(中央神)があります。この中央神は古い家々の庭先の、多くはいぬい(乾・北西)やうしとら(艮・北東)のすみに祀られ、小さな石か石塔が立っています。文字を刻んだものは「中央」「中央尊」「中央社」とあるそうです。これが今回紹介する佐賀の「中央」碑です。これらは大地の神を祀ったもので、旧佐賀市内や神埼郡に多く分布しているそうです。
 この中央神は肥前盲僧の持経「地神陀羅尼王子経」などに、荒神が中央を占めて四季の土用をつかさどると説くことに由来するとされていますが、もしかすると、この佐賀の「中央」碑は青森県の「日本中央」碑と同じ淵源を持つのではないでしょうか。それは次のような理由からです。
 青森の「日本中央」碑は「日の本将軍」とも自称していた安倍・安東と関係するものと思われますが、古代では蝦夷(えみし)国だった地域ですし、東北や関東に分布する荒覇吐(アラハバキ)信仰とも繋がりそうです。一方、佐賀(北部九州)には『日本書紀』神武紀に見える次の歌謡があり、蝦夷との関係が指摘されています(古田武彦『神武歌謡は生きかえった』新泉社、1992年)。

「愛瀰詩(えみし)を 一人 百(もも)な人 人は云えども 抵抗(たむかひ)もせず」

 古田氏によれば、これは天孫降臨時の天国軍側の歌(祝戦勝歌)であったとされ、侵略された側の人々は「愛瀰詩」と呼ばれていたことがわかります(おそらく自称)。津軽の和田家文書によれば、この侵略された人々(安日彦・長髄彦)が津軽へ逃げ、アラハバキ族になったとされています。従って、神武歌謡の「愛瀰詩」と東北の蝦夷国とは深い関係を有していたこととなります。そして、その両地域に「中央」碑が現在も存続していることは偶然とは考えにくいのではないでしょうか。「中央」信仰が両者に続いていたと考えるべきではないでしょうか。
 先に紹介しましたように、佐賀の「中央」神が「荒神」とされていたり、庭先の北西や北東に祀られていることも、東北の蝦夷国や荒覇吐信仰との関係をうかがわせるに充分です。また、佐賀県三養基郡に江見という地名がありますが、これもエミシと関係がありそうな気がしています。
佐賀の「中央」碑は「あまりそまつにしても、あまりていねいにお祭りしてもいけない」とされているそうで、侵略された側の神を祀る上での民衆の知恵を感じさせます。


第39話 2005/10/25

故・藤本光幸さんのこと

 早くから和田家文書を世に紹介されてきた藤本光幸さん(本会会員・青森県南津軽郡藤崎町)が10月21日に急逝されました。行年75歳とのこと。残念です。
 ほがらかで、笑顔を絶やさない紳士。そんな藤本さんとの出会いにより、わたしの和田家文書研究は本格化しました。わたしは学問的資料として、あるいは偽作説に反論するために和田家文書に取り組んできたのですが、藤本さんの場合はちょっと違っていたような気がします。埋もれた歴史史料として扱うにとどまらず、和田家文書に記された思想性、たとえば「生命尊重の哲学」などに心酔しておられました。和田家文書の思想性こそ現在に必要なものであり、それを世に出さなければならない、それが自分の使命だと、よく言っておられました。
 藤本さんはお酒(特にウイスキー)を大変好まれていました。わたしが和田家文書の調査のために津軽入りすることをお知らせすると、ご自宅で一泊するよう希望されました。調査研究のためには五所川原市か弘前市で宿泊するのが便利なのですが、藤崎町の藤本さんのお屋敷で杯を傾けながら、夜が更けるまで和田家文書の話を続けるのも、秘かな楽しみの一つとなりました。ある年の夏にうかがったときは、ちょうど藤崎町のねぶた祭の日で、藤本邸の玄関先に縁台を並べて、祭の行列を見物したことが、今でも鮮やかに思い起こされます。
 わたしは亡くなられる十日前に藤本さんから手紙をいただきました。それには、『古田史学会報』掲載予定の和田家文書を紹介された原稿が同封されていました。そしてそれが、はからずも御遺稿となってしまいました。原稿の題は「『和田家文書』に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史についての考察」というもので、4編いただきました。10回連載の予定でしたので、「未完」の御遺稿です。『古田史学会報』71号より掲載開始いたします。合掌


第2話 2005/06/13

和田家文書に使用された美濃紙追跡調査

 昨日は大阪で「古田史学の会」の会員総会と、それに先だって講演会を開催しました。遠くは九州や四国、山陰、関東からもお越し頂き、ありがとうございました。
 講演会では、竹内強さん(古田史学の会会員・岐阜市在住)の「和田家文書に使用された美濃紙追跡調査」がスリリングで圧巻でした。和田家文書に使用された美濃紙に押印された紙問屋の屋号や商標を手掛かりに、岐阜市内の紙問屋街の全戸調査を行ったり、紙の史料館や図書館での調査など、何度も壁に突き当たりながらも、ついにその紙が明治30年から40年の間に製造販売されたことを突き止められたくだりは、思わず拍手喝采したくなるほど興奮しました。
 九年前、わたしが和田家文書調査のため北海道松前町を訪れ、当地の歴史研究者永田富智氏(北海道史編纂委員)に聞き取り調査を行ったとき、永田氏は昭和46年に『東日流外三郡誌』二百〜三百冊を見たと証言され、使用されていた紙は明治の末頃に流行りだした機械織りの和紙とのことでした。この永田証言と今回の竹内さんの調査結果とが見事に一致したのです
永田証言は「古田史学会報」16号と『新・古代学』第4集に掲載しています)。
 「歴史は足にて知るべきものなり」(秋田孝季)を実践された竹内さんの見事な調査報告でした。

他の証言は古田史学会報 をご覧ください。
「平成・諸翁聞取帳」起筆にむけて
  「 平 成 ・ 諸 翁 聞 取 帳 」 東  北 ・ 北 海 道 巡 脚 編 も参照。
 当事者の発言はー津軽を論ず ーを御参照ください.