和田家文書一覧

第2885話 2022/11/29

『東京古田会ニュース』No.207の紹介

本日、『東京古田会ニュース』207号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』公開以前の史料」を掲載していただきました。同稿は和田家文書調査を開始した1994年頃からの思い出やエピソードを紹介したもので、昭和50年(1975年)から『市浦村史』資料編として世に出た『東日流外三郡誌』よりも先に公開された和田家文書について詳述しました。それは次のような資料です。

一、「飯詰町諸翁聞取帳」 昭和24年(1949年)
『飯詰村史』に和田家から提供された「飯詰町諸翁聞取帳」が多数引用されています。『飯詰村史』は昭和26年(1951年)の刊行ですが、編者の福士貞蔵氏による自序には昭和24年(1949年)の年次が記されており、終戦後間もなく編集されたことがわかります。福士氏は「飯詰町諸翁聞取帳」を『陸奥史談』第拾八輯、昭和26年(1951年)にも紹介しています。「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」という論文です。

二、開米智鎧「役小角」史料 昭和26年(1951年)
『飯詰村史』で和田家の「役小角」史料を紹介されたのが開米智鎧氏(飯詰・大泉寺住職)です。開米氏は「青森民友新聞」にも和田家発見の遺物について、昭和31年(1956年)11月1日から「中山修験宗の開祖役行者伝」を連載し、翌年の2月13日まで68回を数えています。さらにその翌日からは「中山修験宗の開祖文化物語」とタイトルを変えて、これも6月3日まで80回の連載です。

三、開米智鎧『金光上人』昭和39年(1964年)
和田家から提供された金光上人関連文書に基づいて著された金光上人伝が『金光上人』昭和39年(1964年)です。同書には多くの和田家文書が紹介されています。

来年1月14日(土)に開催される「和田家文書」研究会(東京古田会主催)で、これらについて詳しく説明させていただきます。


第2884話 2022/11/28

「和田家文書調査の思い出」を作成

 来年1月14日(土)、東京古田会主催の「和田家文書」研究会で、「和田家文書調査の思い出」というテーマを発表させていただくことになりました。安彦克己さん(東京古田会・副会長)から要請されていたもので、ようやく発表用のパワーポイントファイルが完成しました。

 内容は、1994年から始めた古田先生との津軽行脚や独自調査の写真などを中心としたもので、懐かしい方々の写真や関連資料なども掲載しました。当時、津軽でお会いした方々の多くは物故されており、わたしの記憶が確かなうちにと、未発表の調査内容や証言をまとめました。

 たとえば昭和24年に和田家文書『諸翁聞取帳』を見て、『陸奥史談』『飯詰村史』で紹介した福士貞蔵氏。同じく役小角や金光上人史料を村史や著書で発表した開米智鎧氏(飯詰・大泉寺住職)、佐藤堅瑞氏(泊村浄円寺住職、青森県仏教会々長)。市浦村日吉神社に秋田孝季らが奉納した「寛政元年宝剣額」が戦前から、あるいは戦後すぐに同神社にあったことを証言された青山兼四郎氏(中里町・測量士)、白川治三郎氏(市浦村々長)、松橋徳夫氏(荒磯崎神社宮司、日吉神社宮司を兼務)。『東日流外三郡誌』約二百冊を昭和46年に市浦村役場で見たと証言された永田富智氏(北海道史編纂者)らの写真や手紙などをお見せします(肩書きや地名はいずれも当時のもの)。残念ながらこれらの方々は既に物故されており、古田先生亡き今、証言内容や調査当時のことを詳しく知っているのはわたし一人となりました。

 後半は、行方不明になった『東日流外三郡誌』明治写本や「寛政原本」の所見、戦後作成の和田家文書レプリカについても説明させていただく予定です。和田家文書に関心を持つ多くの皆さんにお聞きいただければ幸いです。

参考 令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

和田家文書調査の思い出 — 古田先生との津軽行脚古賀達也


第2882話 2022/11/24

古田先生の御遺命「和田家文書」の保存

 過日の八王子セミナーの晩、安彦克己さん(東京古田会・副会長)がわたしの部屋に見えられ、夜遅くまで和田家文書研究の情報・意見交換をさせていただきました。安彦さんは和田家文書研究の第一人者で、優れた研究をいくつも発表されています。その安彦さんから、和田家文書研究会(東京古田会主催)での発表の打診があり、その打ち合わせを兼ねて和田家文書調査の思い出を夜遅くまで語り明かしました。
 当初(1993年頃)、和田家文書を偽書ではないかと思っていたわたしでしたが、古田先生と津軽行脚を続ける中で、偽作説は成立困難であり、むしろ真作としなけば説明できない事象が調査の度に次々と明らかになったことを安彦さんに説明しました(注)。そうした津軽行脚の経緯など、まだ論文として発表していない事実を研究会でお話しできればと思います。そして、古田先生が果たせなかった課題(和田家文書の保存など)や、和田家文書研究における困難な問題点についても紹介する予定です。

(注)次の拙稿をご参照ください。
 「『和田家文書』現地調査報告和田家史料の『戦後史』」『古田史学会報』3号、1994年。「古田史学の会」のHP「新・古代学の扉」に収録。
 「洛中洛外日記」2577話(2021/09/22)〝『東日流外三郡誌』真実の語り部(3) ―「金光上人史料」発見のいきさつ(佐藤堅瑞さん)―〟HP「新・古代学の扉」に収録。
 「平成・諸翁聞取帳 東北・北海道巡脚編 出土していた縄文の石神(森田村石神遺跡)」『古田史学会報』16号、1996年。HP「新・古代学の扉」に収録。
 「和田家文書に使用された和紙」『東京古田会ニュース』206号、2022年。
 「『東日流外三郡誌』公開以前の史料」『東京古田会ニュース』に投稿中。


第2881話 2022/11/22

「イシカ・ホノリ・ガコ」の語源試案

 11月18日(金)に開催された「多元の会」主催の「古代史の会」にリモート参加させていただき、淀川洋子さんの研究発表「三つ鳥居巡り 和田家文書をしるべに」を拝聴しました。そのなかで、『東日流外三郡誌』など和田家文書に見える「イシカ・ホノリ・ガコ」という神像(土偶)の紹介がありました。この「イシカ・ホノリ・ガコ」は「イシカ・ホノリ・ガコ・カムイ」と記される場合もあり、古代からの東北地方の神様のようです。和田家文書ではイシカを天の神、ホノリを地の神、ガコを水の神と説明されており、この名称が中近世のアイヌ語なのか、古代縄文語まで遡るのかについて関心がありました。今回の淀川さんの発表を聞き、この語源について改めて考察する契機となりました。
 全くの思いつきに過ぎませんが、「イシカ」「ホノリ」「ガコ」がアイヌ語に見当たらないらしく、もしかすると倭語ではないかと考えたのです。まず、イシカは石狩(イシカリ)由来の地名で、たとえば佐賀県の吉野ヶ里(よしのがり)・碇(イカリ)のように、地名接尾語の「ガリ」「カリ」が付いたとすれば、本来はイシカ里であり、語幹はイシあるいはイシカとなります。同様にホノリもホノ里ではないかと考えたわけです。
 ガコはちょっと難解ですが、和田家文書では「水の神」とされていることから、川(カワ)の古語ではないかと推定しました。すなわち、黄河の河(ガ)と揚子江の江(コウ)です。たとえば久留米市には相川(アイゴウ)という地名があります。島根県にも江の川(ゴウノカワ)・江津(ゴウツ)があり、いずれも江・川のことを古語でゴウと呼んでいたことの名残です。このように川のことを「ガ」「コウ」と呼ぶのは倭語であるとされたのは古田先生でした。こうした例から、水の神「ガコ」とは河江(ガコウ・ガコ)のことではないかと考えたのです。
 以上の推定(思いつき)が当たっていれば、「イシカ・ホノリ・ガコ」とはイシカという地域のホノ里を流れる河と考えることができそうです。残念ながらイシカやホノの意味はまだわかりませんが、アイヌ語というよりも、倭語あるいはより古い縄文語ではないでしょうか。
 なお、ウィキペディアでは、「石狩」地名の由来は諸説あり、未詳とされているようで、「アイヌ語に由来する。蛇行する石狩川を表現したものとする考え方が大勢だが、解釈は以下のように諸説ある。」として次の説が紹介されています。

イ・シカラ・ペッ i-sikar-pet – 回流(曲がりくねった)川(中流のアイヌによる説、永田方正『北海道蝦夷語地名解』より)
イシ・カラ isi-kar – 美しく・作る(コタンカラカムイ(国作神)が親指で大地に川筋を描いた)(上流のアイヌによる説、同書より)
イシ・カラ・ペッ isi-kar-pet – 鳥尾で矢羽を作る処(和人某の説だがアイヌの古老はこれを否定、同書より)
イシカリ isikari – 閉塞(川が屈曲していて上流の先が見えない)〟

 わたしの「イシカ・ホノリ・ガコ」倭語説は、淀川さんの研究発表を聞いていて思いついたものであり、たぶん間違っている可能性が大ですが、いかがでしょうか。


第2846話 2022/09/28

『東京古田会ニュース』No.206の紹介

 本日、『東京古田会ニュース』206号が届きました。拙稿「和田家文書に使用された和紙」を掲載していただきました。同稿は和田家文書に使用された紙が明治時代の和紙であることや、故・竹内強さんによる美濃和紙の紙問屋調査報告(注①)などを紹介したものです。
 同号には拙稿の他にも皆川恵子さん(松山市)「意次と孝季in『和田家文書』」、玉川宏さん(弘前市、注②)「大神神社と三ツ鳥居」が掲載され、和田家文書特集の観がありました。これも東京古田会ならではの特色と思いました。わたしも、これを機にしばらくは和田家文書関連の投稿を続けたいと考えています。

(注)
①竹内強「寄稿 和田家文書『北斗抄』に使用された美濃和紙を探して」『和田家資料3 北斗抄 一~十一』藤本光幸編、北方新社、二〇〇六年。
②秋田孝季集史研究会・事務局長。


第2750話 2022/05/30

「宇曽利(ウソリ)」地名の古さについて

 和田家文書に見える「宇曽利」地名が沿海州のウスリー川(中国語表記は「烏蘇里江」)と語源が共通するのではないかと、「洛中洛外日記」(注①)で推測しました。WEB辞書などにはウソリをアイヌ語とする説(注②)が紹介されていますが、わたしはもっと古く、縄文語かそれ以前の言葉に由来するのではないかと考えています。
 古田先生が提唱された言素論で「ウソリ」を分析すると、語幹の「ウ」+古い神名の「ソ」、そして一定領域を示す「リ」から成っているように思われます。語幹の「ウ」の意味については未詳ですが、「ソ」が古層の神名であることについて「洛中洛外日記」などで論じてきました(注③)。「リ」は現代でも「里」という字で使用されています。弥生の環濠集落で有名な「吉野ヶ里」はもとより、「石狩」「香取」「白鳥」「光」などの地名末尾の「リ」もたぶんそうでしょう。
 これらのことから、神様を「ソ」と呼んだ古い時代にウソリという地名が成立したと考えられます。他方、宇曽利の類似地名「加曽利(カソリ)」が現存しています(千葉県千葉市)。縄文貝塚で有名な加曽利貝塚があるところです。現時点の考察では断定できませんが、初歩的な仮説としては成立しているように思いますが、いかがでしょうか。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2738話(2022/05/09)〝ウスリー川と和田家文書の宇曽利〟
 同「洛中洛外日記」2748話(2022/05/28)〝菊地栄吾さん(古田史学の会・仙台)から「ウスリー湾」の紹介〟
②ウソリはアイヌ語ウショロ(窪地・入り江・湾)に由来するとする。
③古賀達也「洛中洛外日記」40~45話(2005/10/29~11/09)〝古層の神名〟
 同「『言素論』研究のすすめ」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。


第2748話 2022/05/28

菊地栄吾さん(古田史学の会・仙台)から

  「ウスリー湾」の紹介

 多元的古代研究会の5月例会にリモート参加させていただいたとき、沿海州のウスリー川と和田家文書に見える地名の宇曽利(下北半島)との関係について質問したことを「洛中洛外日記」2738話(2022/05/09)〝ウスリー川と和田家文書の宇曽利〟で紹介しました。
 同様の質問を東京古田会主催の和田家文書研究会でもリモートで質問したのですが、菊地栄吾さん(古田史学の会・仙台)からメールが届き、ウラジオストクがある湾がウスリー湾と呼ばれているとのことでした。メールの一部を転載し、紹介させていただきます。菊地さんのご教示に感謝します。

【菊地栄吾さんからのメール】
 (前略)先日の和田家文書研究会で、「宇曽利」と「ウスリー」について話題・疑問を出されておられましたが、その時には発言しませんでしたので改めてお話します。
 アイヌ語では「ウソリ」は「ふところ」「湾」「入り江」を意味します。「湾」とは陸奥湾のことで、下北半島全体を「宇曽利郷」と言ったようです。
 一方、ウラジオストクの在る所の湾は現在は「ピョートル大帝湾」となつていますが元々は「ウスリー湾」でした。そしてこの辺一帯を古くから「ウスリー」と呼んでおり近くには「ウスリースク」という都市があります。ーウスリー川」はウスリー地域から流れ出る川であることから名付けられた様です。(中略)
 コロナでは、家に籠りがちとなりますが、歴史の勉強が唯一の老後の楽しみになります。今後とも、楽しく勉強できる古田史学をご指導くださるようお願いします。
 古田史学の会・仙台 菊地栄吾

 菊地さんのメールを読んで、わたしもウィキペディアで調べたところ、ピョートル大帝湾の東部分がウスリー湾と説明されていました。次の通りです。

【ウィキペディアから一部転載】
 ピョートル大帝湾(ピョートルたいていわん;ロシア語:Залив Петра Великого ザリーフ・ピトラー・ヴィリーカヴァ)は、日本海最大の湾。日本海の北西部、ロシア沿海地方の南部に位置する。湾の奥行きは80km、入口の幅は200kmほどで、中央のムラヴィヨフ半島とルースキー島などの島々が湾を東西(東のウスリー湾および西のアムール湾)に分けている。極東ロシアの港湾都市ウラジオストクはムラヴィヨフ半島の先端のアムール湾側(西側)にある。湾に注ぐ最大の河川は、中華人民共和国の黒竜江省から流れる綏芬河で、アムール湾の奥に河口と三角州がある。


第2739話 2022/05/12

『陸奥話記』の「宇曾利」

 沿海州のウスリー川や中国語表記の「烏蘇里江」について、由来や語源・出典調査を続けていますがよくわかりません。沿海州オロチ語辞典(注①)にもそれらしい言葉は見つかりません。そこで、下北半島の地名「宇曽利」についての史料調査を行っています。その結果、平安後期(11世紀頃)の成立とされる『陸奥話記』(むつわき、注②)に「宇曾利」がありました。

 「奥地の俘囚を甘言で説き、官軍に加えた。是れに於いて鉇屋(かんなや)、仁土呂志(にとろし)、宇曾利(うそり)の三部の夷人を合わせしめ、安倍富忠を首と為して兵を発(おこ)し、将に為時に従わせた。」『陸奥話記』(岩波書店、日本思想大系『古代政治社会思想』。古賀訳)

 鉇屋・仁土呂志・宇曾利の地名が記されていますが、鉇屋と仁土呂志は現存していないようです。いずれも下北半島の地名と見られているようですが、『陸奥話記』の合戦の舞台としては宮城県多賀城付近から出羽国(岩手県)の地名(注③)が見えますので、この三地名を下北半島にあったとしてよいのか、少々不安が残ります。今のところ、この『陸奥話記』の「宇曾利」が出典としては古いようです。

(注)
①松本郁子訳「オロチ語 ―簡約ロシア語=オロチ語辞典」(古田武彦編『なかった 真実の歴史学』1~6号、ミネルヴァ書房、2006~2009年)
②『ウィキペディア』によれば、『陸奥話記』は、日本の戦役である前九年の役の顛末を描いた軍記物語とある。『将門記』とともに軍記物語の嚆矢とされる。成立は平安時代後期、11世紀後期頃と推定される。
③『陸奥話記』に鳥海柵(とのみのさく)が見える。岩手県胆沢郡金ケ崎町にあった平安時代の豪族安倍氏の城柵。


第2738話 2022/05/09

ウスリー川と和田家文書の宇曽利

 昨日の多元的古代研究会月例会にリモート参加させていただきました。佐倉市の赤尾恭司さんによる「古代の蝦夷を探る その1 考古遺跡から見た古代の北東北(北奥)」という発表がありました。東北地方の縄文遺跡の紹介をはじめ、沿海州やユーラシア大陸に及ぶ各種データや諸研究分野の解説がなされ、「円筒土器・玦状耳飾りに象徴される大凌河・遼河上流域の興隆窪(こうりゅうわ)文化」など初めて知る内容が多く、とても勉強になりました。
 特に言語学やDNA解析による古代人の移動や交流に関する研究は刺激的でした。それらの説明で使用された沿海州の地図にウスリー川があり、その中国語表記が「烏蘇里江」であることを知りました。この「烏蘇里」はウソリと読めることから、和田家文書『東日流外三郡誌』に見える地名の「宇曽利」と言語的に共通するのではないかと思いました。
 ウィキペディアではウスリー川について、次の様に説明されています。

 「ユーラシア大陸の北東部を流れる川。アムール川の支流のひとつ。ロシア沿海地方・ハバロフスク地方と中国東北部吉林省・黒竜江省の国境をなす川として重要視される。」
 「古代以来、ウスリー川の両岸にわたり、ツングース系の粛慎・挹婁・勿吉・靺鞨や女真といった民族が活動しており、中国・朝鮮との間で交易をするほか戦争も起こしていた。
 6世紀から9世紀にかけての唐の時期、勿吉は靺鞨と改称し、南の粟末靺鞨と北の黒水靺鞨にわかれ、粟末靺鞨は渤海を建国してウスリー川上流を領土に納め、黒水靺鞨はウスリー川の東岸や下流で活動した。」

 中国語名としての「烏蘇里」が古代まで遡るのかどうかは未調査ですが、日本語地名の「宇曽利(うそり)」については次のように解説されています。

「宇曽利、宇曾利(うそり)は入江を示す東北地方の地名
 芦崎湾・大湊湾・大湊港の古代の名
 宇曽利川
 宇曽利湖(宇曽利山湖)
 宇曽利山は、恐山の古名。宇曽利湖を中心とした8以上の外輪山の総称
 宇曽利蝦夷
 陸奥国糠部郡宇曽利郷
 青森県むつ市大湊・宇曽利川村。宇曽利川に因む
 宇曽利八幡宮
 青森県むつ市田名部・字宇曽利山」
 (出典:フリー百科事典『ウィキペディア』)

 青森県の下北半島に宇曽利山(恐山)・宇曽利山湖があり、ウソリはアイヌ語ウショロ(窪地・入り江・湾)の意味に由来すると説明するweb辞書もありました。また、イタコで有名な恐(オソレ)山は、宇曽利(ウソリ)山が転化した山名のようです。沿海州のウスリー川(烏蘇里江)の意味は知りませんが、両者は同一言語に由来するのではないかと想像しています。この他にも多くの気づきに恵まれた赤尾さんの発表でした。


第2709話 2022/03/30

『東京古田会ニュース』No.203の紹介

 昨日、『東京古田会ニュース』203号が届きました。拙稿「大和『飛鳥』と筑紫『飛鳥』」を掲載していただきました。古田先生の小郡市の字地名「飛島(とびしま)」飛鳥説をはじめ、正木さんの筑前・筑後広域飛鳥説、服部さんの太宰府「飛鳥浄御原宮」説を紹介し、通説の大和飛鳥説と比較したものです。そして考古学成果と『日本書紀』の飛鳥記事との齟齬が考古学者から指摘されている近年の状況について説明しました。
 同号に掲載された皆川恵子さん(松山市)の論稿「意次と孝季in『和田家文書』その1」には、ベニョフスキー事件の紹介があり勉強になりました。1771年に起こった同事件は、ポーランド人の対ロシア抵抗組織に加わりロシアの捕虜となりカムチャッカ半島に流刑されたモーリツ・ベニョフスキーが船で脱走し、土佐で飲料水を補給し、さらに南下して奄美大島に上陸して、そこからオランダ商館長に書簡(注)を出し、ロシアの北海道(松前)攻撃計画を知らせたというものです。
 ロシアによるウクライナ侵略を目の当たりにしていることもあり、興味深く拝読しました。

(注)ベニョフスキー書簡 1771年7月20日付。ハーグ市の国立中央図書館蔵。


第2581話 2021/09/26

『東日流外三郡誌』公開以前の和田家文書(2)

  「役小角」史料を開米智鎧氏が紹介

 『飯詰村史』(昭和24年編集。注①)で和田家文書『飯詰町諸翁聞取帳』を福士貞蔵氏が紹介されたのですが、同時に和田家の「役小角」史料を同村史で紹介されたのが開米智鎧氏でした。同氏は和田家近隣の浄土真宗寺院・大泉寺のご住職で、洛中洛外日記(注②)で紹介した佐藤堅瑞氏(柏村・淨円寺住職)のご親戚です。
 開米氏は和田家が山中から発見した仏像・仏具・銅銘板や和田家収蔵文書を『飯詰村史』で紹介されました。それは村史巻末に収録された「藩政前史梗概」という論稿で、その冒頭に和田家が発見した「舎利壺」3個、「摩訶如来塑像」1体、「護摩器」多数の写真が掲載されています。本文1頁には次のように記され、それらが和田家発見のものであることが示されています。

 「今、和田氏父子が發見した諸資料を檢討綜合して、其の全貌をお傳へし度いと思ふ。」
 「今回發見の銅板に依って其の全貌が明らかにされた。」

 このように紹介し、銅板銘「北落役小角一代」の全文(漢字約1,200字)や樹皮に書かれた文書なども転載されています。この銅銘板は、昭和20年頃という終戦直後に、炭焼きを生業とする和田家に偽造できるようなものではありません。このことも和田家文書真作説を支持する事実です。なお、銅板は紛失したようで(盗難か)、写真でしか残されていないようです。
 開米智鎧氏の論稿「藩政前史梗概」について紹介した『古田史学会報』3号(注③)の拙稿を一部転載します。

【以下転載】
『和田家文書』現地調査報告 和田家史料の「戦後史」

開米智鎧氏の「証言」
 和田喜八郎氏宅近隣に大泉寺というお寺がある。そこの前住職、故開米智鎧氏は金光上人の研究者として和田家文書を紹介した人物であるが、氏もまた『飯詰村史』に研究論文「藩政前史梗概」を掲載している。グラビア写真と三三頁からなる力作である。内容は和田元市・喜八郎父子が山中の洞窟から発見した「役小角関連」の金石文や木皮文書などに基づいた役小角伝説の研究である。
 この論文中注目すべき点は、開米智鎧氏はこれら金石文(舎利壷や仏像・銘版など)が秘蔵されていた洞窟に自らも入っている事実である。同論文中にその時の様子を次のように詳しく記している。

 「古墳下の洞窟入口は徑約三尺、ゆるい傾斜をなして、一二間進めば高サ六七尺、奥行は未確めてない。入口に石壁を利用した仏像様のものがあり、其の胎内塑像の摩訶如来を安置して居る。總丈二尺二寸、後光は徑五寸、一見大摩訶如来像と異らぬ 。(中略)此の外洞窟内には十数個の仏像を安置してあるが、今は之が解説は省略する。」
 このように洞窟内外の遺物の紹介がえんえんと続くのである。偽作論者の中にはこれらの洞窟の存在を認めず、和田家が収蔵している文物を喜八郎氏が偽造したか、古美術商からでも買ってきたかのごとく述べる者もいるが、開米氏の証言はそうした憶測を否定し、和田家文書に記されているという洞窟地図の存在とその内容がリアルであることを裏付けていると言えよう。
ちなみに和田氏による洞窟の調査については、『東日流六郡誌絵巻 全』山上笙介編の二六三頁に写真入りで紹介されている。
 このように、和田家文書に記された記事がリアルであることが、故開米氏の「証言」からも明らかであり、それはとりもなおさず和田家文書が偽作では有り得ないという結論へと導くのである。
【転載おわり】

 更に、開米氏は地元紙「青森民友新聞」にも和田家発見の遺物についての紹介記事を長期連載されています。『古田史学会報』16号(注④)で紹介しましたので、これも一部転載します。

【以下転載】
「平成・諸翁聞取帳」東北・北海道巡脚編
出土していた縄文の石神(森田村石神遺跡)

 旅は五所川原市立図書館での調査から始まった。和田家文書を最も早くから調査研究されていた大泉寺の開米智鎧氏が、昭和三一年から翌年にかけて青森民友新聞に連載した記事の閲覧とコピーが目的だ。
 昭和三一年十一月一日から始まったその連載は「中山修験宗の開祖役行者伝」で、翌年の二月十三日まで六八回を数えている。さらにその翌日からは「中山修験宗の開祖文化物語」とタイトルを変えて、これも六月三日まで八十回の連載だ。
 合計百四十八回という大連載の主内容は、和田家文書に基づく役の行者や金光上人、荒吐神などの伝承の紹介、そして和田父子が山中から発見した遺物の調査報告などだ。その連載量からも想像できるように、開米氏は昭和三一年までに実に多くの和田家文書と和田家集蔵物を見ておられることが、紙面に記されている。これら開米氏の証言の質と量の前には、偽作説など一瞬たりとも存在不可能。
 これが同連載を閲覧しての率直な感想だ。まことに開米氏は貴重な証拠を私たちに残されたものである。
【転載おわり】

 開米氏は「役小角」史料調査のおり、和田家文書のなかに「金光上人」史料が存在することに気づかれ、後に『金光上人』(注⑤)を著されています。(つづく)

(注)
①『飯詰村史』昭和26年(1951)、福士貞蔵編。
②古賀達也「洛中洛外日記」2577話(2021/09/22)〝『東日流外三郡誌』真実の語り部(3) ―「金光上人史料」発見のいきさつ(佐藤堅瑞さん)―〟
「『和田家文書』現地調査報告 和田家史料の『戦後史』」『古田史学会報』3号、1994年11月。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga03.html
④古賀達也「平成・諸翁聞取帳 東北・北海道巡脚編 出土していた縄文の石神(森田村石神遺跡)」『古田史学会報』16号、1996年10月。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou16/koga16.html
⑤開米智鎧『金光上人』昭和39年(1964)。

開米智鎧氏

開米智鎧氏

「藩政前史梗概」に掲載された舎利壺

「藩政前史梗概」に掲載された舎利壺

「藩政前史梗概」に掲載された仏像

「藩政前史梗概」に掲載された仏像


第2580話 2021/09/25

『東日流外三郡誌』公開以前の和田家文書

『飯詰町諸翁聞取帳』

  昭和24年、福士貞蔵氏が紹介

昭和50年頃から『市浦村史』資料編として世に出た『東日流外三郡誌』よりも先に公開された和田家文書があります。それは『飯詰町諸翁聞取帳』(注①)というもので、『飯詰村史』に多数引用されています。『飯詰村史』は昭和26年に刊行されていますが、編者の福士貞蔵氏による「自序」には昭和24年の年次が次のように記されており、終戦後間もなく編集されたことがわかります。

「昭和廿四巳(ママ)丑年霜月繁榮を極めたる昔の飯詰町を偲びつゝ
七十二翁 福士貞蔵識之」

福士氏は『飯詰町諸翁聞取帳』を学会誌(注②)にも紹介されています。「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」という論文です。

〝(前略)然るに今回端なくも飯詰本村に於て意外の史料を発見した。
記録は『諸翁聞取帳』といって、飯詰を中心に隣村の史實を或る文献より寫したり、又は口碑傳説など聞取った事柄を書留めた物で、筆者と同じく餘り學力のある方ではないらしく、文体は成って居らんし、それに用語も無頓着で意味の判らぬ個所もあるが、全く耳新しい史料であるから、同好の士に紹介することにした。〟『陸奥史談』第拾八輯、昭和26年(1951)、20頁

このような前文に続いて、「高舘城系譜」という史料を転載されています。『飯詰村史』にも同文の「高舘城系譜」が転載されていますから、『陸奥史談』で紹介された『諸翁聞取帳』は『飯詰村史』に多数引用された『飯詰町諸翁聞取帳』のことであることがわかります。おそらく『飯詰町諸翁聞取帳』表紙には「飯詰町」と「諸翁聞取帳」を二行わたって表題が識されていたと推定されますから、『飯詰町諸翁聞取帳』と『諸翁聞取帳』という二つの書名が現れたと思われます。『飯詰村史』123頁には「諸翁聞取帳」という表記も見え、このことを裏付けています。なお、和田家文書には『東日流 津軽諸翁聞取帳』(注③)という史料があり、これも表紙には「東日流」と「津軽諸翁聞取帳」の二行表記になっています。
ちなみに『飯詰村史』の「編輯を終へて」には福士氏により次の謝辞があり、『飯詰町諸翁聞取帳』は和田家文書であることがうかがえます。

「本史編纂に當り、資料提供せられたる青弘両圖書館長、岩見常三郎、種市有隣、大久保勇作翁の方々に感謝し、併せて資料蒐集に協力せられし開米智鎧、濱館徹、和田喜八郎等の有志者に對し、茲に敬意を表する。」326頁

昭和24年といえば、和田喜八郎さんが22歳のときであり、専門の歴史研究家である福士氏により『飯詰村史』に引用されるような古文書を偽作できるはずはありません。これは、和田家文書真作説を支持する事実であり、わたしがこのことを指摘(注④)しても偽作論者からの応答反論はありません。この後も、和田家からは多くの古文書が研究者に開示されています。(つづく)

(注)
①五所川原市図書館の福士文庫には福士貞蔵氏の蔵書や研究記録が収蔵されている。その中の「郷土史料蒐集録 第拾壱號」に『飯詰町諸翁聞取帳』が書き写されている。その書名の下に「文政五年 今長太」とあり、同書の成立が文政五年(1822)であり、今長太は編者名と思われる。『飯詰村史』収録の同村絵地図には「今長太」と記された人家が見える。これは『飯詰町諸翁聞取帳』編者と同一人物ではあるまいか。
②福士貞蔵「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」『陸奥史談』第拾八輯、陸奥史談會、昭和26年(1951)4月。
③和田喜八郎編『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』八幡書店、1989年。④古賀達也「『和田家文書』現地調査報告和田家史料の『戦後史』」『古田史学会報』3号、1994年11月。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga03.html

一冊残った『東日流(六郡語部録) 諸翁聞取帳』原本

一冊残った『東日流(六郡語部録) 諸翁聞取帳』原本

『飯詰村史』編者の福士貞蔵氏

『飯詰村史』編者の福士貞蔵氏

古田先生からいただいた『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』。

古田先生からいただいた『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』。