和田家文書一覧

第3586話 2026/02/01

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (10)

 ―写真裏書「和田長三(郎)」の考察―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に、並んで写っている男性六名中の前列左端、坊主頭の若者が同写真裏書きに見える「和田長三(郎)」であれば、それは和田家仏壇の上に架けられた和田元市氏(喜八郎氏の父)遺影との一致により、元市氏の若い頃である可能性が最有力候補となります(注①)。この判断が正しければ、和田家(青森県五所川原市飯詰)と秋田子爵家(東京)との交流が明治・大正時代に遡ることを証明する写真となります。

 「東日流外三郡誌」偽作キャンペーンでは、和田家と秋田子爵家との交流は『東日流外三郡誌』が有名になった昭和六十年頃からであり(注②)、それまでは無関係と主張していました。「東日流外三郡誌」明治写本を書写した和田長三郎末吉(喜八郎氏の曾祖父)と秋田子爵家との交流が、和田家文書(寛政原本の写本ではなく、末吉が明治期に執筆した部分)に少なからず遺されており、偽作論者はそれらの記事を和田喜八郎氏による偽作として退けてきました。しかし、この写真の人物が和田長三郎元市であれば、そうした偽作説を否定する証拠となります(和田家では代々の当主が「長三郎」を襲名)。

 「洛中洛外日記」3585話で説明したとおり、この写真の撮影時期が大正10年であれば、和田元市氏21歳の写真となり、年齢が判明している他の五名の男性の風貌と比べても、妥当な年齢であることがわかります。大正10年時点の年齢は次の通りです。
❶天内兼太郎(1885~1985) 36歳
❷森 林助 (1880~1935) 41歳
❸菊池 巍 (1876~1934) 45歳
❹和田元市 (1900~1981) 21歳
❺秋田重季 (1886~1958) 35歳
❻綾小路護 (1892~1973) 29歳
(つづく)

(注)
①記念写真中の男性(全七名)で、調査により判明した六名は下記の通り。写真左上円内の人物は未詳。秋田重季氏の晩年の写真かもしれないが、そうと断定できるほどの根拠が今のところない。
[後列]
❶天内兼太郎(1885~1985) 弘前中学教師 《男A》「天内」
❷森 林助 (1880~1935) 弘前中学教師 《男B》「森」
❸菊池 巍 (1876~1934) 弘前中学教師 《男C》不記載
[前列]
❹和田元市 (1900~1981)        《男D》「和田長三(郎)」
❺秋田重季 (1886~1958) 貴族院子爵議員《男E》「秋田重(季)」
❻綾小路護 (1892~1973) 貴族院子爵議員《男F》「綾小路」
※《》内は裏書きの文字。写真下部が切り取られているため、切り取られた部分にあると思われる()内の字は、推定による。
②昭和62年7月30日、秋田家当主の秋田一季氏(重季氏の子息。1915~1997)が安倍晋太郎氏(安倍家も始祖を津軽の安日王〈東日流外三郡誌に見える安日彦〉とする)と共に石塔山神社を訪れ、植樹している。石塔山神社収蔵庫を見学する安倍洋子さん(暗殺された安倍晋三元総理大臣の母)の写真もある(年次不明)。安倍洋子さんは和田喜八郎氏の葬儀(1999年)にも参列しており、両家の深い関係をうかがわせる。

 古田武彦先生から聞いた話だが、喜八郎氏の紹介で秋田一季氏に会う際、会話の冒頭に「おそれながら」、末尾に「~でございます」と敬語を使うよう、喜八郎氏からきつく言われたとのことであった。ちなみに、喜八郎氏は一季氏を「秋田様」「殿(との)」と呼んでいた。いかにも時代がかった表現だが、そのときの喜八郎氏の表情は真剣そのものであった。


第3585話 2026/01/30

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (9)

 ―最後の男性は和田元市氏か―

 本シリーズも佳境に入りました。「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に、並んで写っている男性六名中の五名については下記の通りでほぼ間違いないと思われますが、前列左端の坊主頭の若者が同写真裏書きに見える「和田長三(郎)」でよいのか、これが最も重要な調査テーマだからです。なぜなら、これが事実なら、和田家と秋田子爵家とのお付き合いが明治・大正時代に遡ることの証拠写真となるからです。

[後列]
❶天内兼太郎(1885~1985) 弘前中学教師 《男A》「天内」
❷森 林助 (1880~1935) 弘前中学教師 《男B》「森」
❸菊池 巍 (1876~1934) 弘前中学教師 《男C》不記載
[前列]
❹未 詳                《男D》「和田長三(郎)」
❺秋田重季 (1886~1958) 貴族院子爵議員《男E》「秋田重(季)」
❻綾小路護 (1892~1973) 貴族院子爵議員《男F》「綾小路」
※《》内は裏書きの文字。

 「東日流外三郡誌」偽作キャンペーンでは、五所川原飯詰の和田家と秋田子爵家との交流は『東日流外三郡誌』(市浦村史版)が刊行され有名になった昭和六十年頃からであり、それまでは無関係と主張してきたからです。和田家文書には、東日流外三郡誌明治写本を書写した和田長三郎末吉(注①)と秋田子爵家との交流が少なからず記されており、偽作論者はそれらの記事を和田喜八郎氏による偽作として退けてきました。しかし、この写真の人物が「和田長三郎」であれば、そうした偽作説を否定する証拠となるのです(和田家では代々の当主が「長三郎」を襲名)。

 当写真に見える秋田重季氏や綾小路護氏が当主となり貴族院議員になった時期は大正10年頃であり、また弘前中学の教師に天内兼太郎氏が着任したのが大正9年11月であることからも、この写真の撮影時期を大正10年頃として大過ないと思われます。そうであれば、その頃の和田家の人物は和田長作氏かその息子の和田元市氏(喜八郎氏の父)が相当しますが(注②)、写真の人物が若者であることから、元市氏が有力です。そこで、和田家の仏壇の上に飾られていた元市氏と思われる人物の遺影と比較したところ、次の一致点が見られました。

(a)両写真とも坊主頭である。
(b)遺影の右耳が左耳より明らかに小さい。記念写真では右耳に布のようなものが当てられており、これらは右耳「負傷」の痕跡か。
(c)両写真とも額上の髪の生え際のジグザグが似ている。
(d)両写真とも頭髪前部分中央に丸い凹みのように見える跡がある。
(e)年齢差はあるものの、両写真の顔の輪郭(やや丸顔)が似ている。

以上の共通点に基づき、両写真は同一人物(和田元市氏)の可能性が高いと判断でき、少なくとも別人とすべき理由は見あたりません。何十年と続いた悪意に満ちた偽作キャンペーンにより、和田家は一家離散し、和田元市氏についてのご家族への聞き取り調査は事実上不可能な状況です。残念でなりません。(つづく)

(注)
①和田長三郎末吉(和田末吉。1847~1919)は和田喜八郎氏の曾祖父。息子の長作とともに、虫食いなどで傷んだ「東日流外三郡誌」寛政原本(和田家所蔵副本)の書写を行った。秋田孝季所蔵の正本は火災で焼失していた。この明治期に書写されたものを「明治写本」と古田武彦氏は命名し、和田家文書群の学問的分類を行った。
②和田長作(1874~1940)。和田元市(1900~1981)。


第3584話 2026/01/20

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (8)

 撮影場所は弘前市元寺町の石場旅館か

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に、並んで写っている男性五名(注①)の確認と撮影時期の推定できました。次に撮影場所についての調査検討を行いました。

 まず、後列の男性三名が弘前中学の教師であることから、この写真が撮られた場所は弘前市と推定するのが穏当です。写真に「女将」や「芸妓」と思われる女性たちが写っていることから、弘前市内の格式の高い旅館か料亭と思われます。東京から来た二人の貴族院子爵議員〔秋田重季氏(1886~1958)、綾小路護氏(1892~1973)〕が写っているのですから、この理解が最有力でしょう。その上で、主客は前列中央に着席する秋田重季子爵と考えることができます。秋田家の始祖(安日王)の地が津軽であることも、この理解を支持します。

 以上の考察を前提として、弘前市内の老舗旅館をWEBで調べてみました。その結果、明治から続く弘前市内の老舗旅館は三軒ほどあり、弘前市元寺町の石場旅館がその最有力候補となりました。同旅館は明治12年の創業で、そのときの建物が改修しながらも、今でも残っているという稀有な例でした。同旅館のHPによれば(注②)、その建物は平成23年に国指定登録有形文化財に認定され、その登録概要には次の記述があり、注目しました。なお、石場旅館(元寺町)と弘前中学(新寺町、現・弘前高校)間の距離は地図で見ると2㎞ほどです。

 石場旅館 国指定登録有形文化財(平成23年12月9日付答申により)
1 文化財の種別 登録有形文化財(建造物)
2 名称及び員数 石場旅館 1棟
3 所在地 弘前市大字元寺町55番地
4 建築年代 明治12年頃(推定)逐次改修あり
5 登録基準 国土の歴史的景観に寄与しているもの
6 構造・形式 木造2階建、鉄板葺、建築面積456㎡
7 所有者 石場久子
8 創造、創始由緒及び沿革

 創業者である石場久蔵は、30歳の頃に道路側の表部分に小間物屋と旅籠を兼ねた旅館業を営んだのが始まりで、本建物は明治12年頃に新築されたとされる。久蔵は、明治19年(1886)に当時の駅伝取締所から駅伝宿舎としての木札を受けている。

 明治22年(1889)の間取図に奥部分の建物が記載されている。

 明治27年(1894)に弘前・青森間に鉄道が開通し、明治30年に陸軍第八師団が設置されている。

 明治29年の軍が発行した「大日本旅館」という冊子には石場旅館が掲載されており、また、「陸軍召集軍用旅館」という看板や皇室、政府関係の看板も遺っていることから、多くの関係者が宿泊したものと考えられる。 (後略)

 このように政府関係者が利用した旅館とのことで、東京から貴族院子爵議員が逗留するに相応しい格式を持つ旅館です。「記念写真」が撮影された場所の有力候補と思われました。このことを東京古田会主催の和田家文書研究会(1月10日)にてリモート発表したところ、愛媛県松山市からリモート参加されていた皆川恵子さんから、昨年九月の弘前市での『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会に参加したおり、玉川宏さん(秋田孝季集史研究会・事務局長)の紹介で石場旅館に宿泊したことを教えていただきました。ちなみに、皆川さんと玉川さんは『東日流外三郡誌の逆襲』(注③)の共著者で、不思議なご縁を感じました。

 そこで玉川さんにお願いして、石場旅館に「記念写真」や秋田重季氏の来訪について何か記録が残っていないかを調査していただきました。その調査報告が本日届きましたが、百年も前のことであり、写真や宿泊者名簿などは残っていないとのことでした。残念ではありますが、撮影場所の候補に相応しい老舗旅館が現在でも弘前市に残っていることは確認できました。なお、廃業した旅館は調査できていませんし、WEBで紹介されていない老舗旅館があるかもしれません。(つづく)

(注)
①「記念写真」の男性六名のうち、次の五名を確認できた。
[後列]
❶天内兼太郎(1885~1985) 弘前中学教師 《男A》「天内」
❷森 林助 (1880~1935) 弘前中学教師 《男B》「森」
❸菊池 巍 (1876~1934) 弘前中学教師 《男C》不記載
[前列]
❹未 詳                《男D》「和田長三(郎)」
❺秋田重季 (1886~1958) 貴族院子爵議員《男E》「秋田重(季)」
❻綾小路護 (1892~1973) 貴族院子爵議員《男F》「綾小路」
②石場旅館のHPアドレスは次の通り。
https://ishibaryokan.com/
③古賀達也編『東日流外三郡誌の逆襲』八幡書店、2025年。


第3582話 2026/01/17

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (7)

 ―撮影時期は大正十年頃か―

「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に、並んで写っている六名の男性の内、五名の素性を確認できました。次の通りです。

[後列]
❶天内兼太郎(1885~1985) 弘前中学教師 《男A》「天内」
❷森 林助 (1880~1935) 弘前中学教師 《男B》「森」
❸菊池 巍 (1876~1934) 弘前中学教師 《男C》不記載
[前列]
❹未 詳                《男D》「和田長三(郎)」
❺秋田重季 (1886~1958) 貴族院子爵議員《男E》「秋田重(季)」
❻綾小路護 (1892~1973) 貴族院子爵議員《男F》「綾小路」

後列の男性三名が弘前中学の教師であることから、この写真が撮られた時期を推定することがてきます。それは天内兼太郎氏の経歴によります。天内氏は長い軍歴(陸軍)の後、大正九年十一月に弘前中学の教師に着任します。従って、同写真の撮影時期は大正十年頃以降で、菊池巍氏が没した昭和九年以前と考えられます。
この当時、秋田重季氏は貴族院子爵議員で、遅れて綾小路護氏も子爵議員となり、ともに「研究会」という政治団体に所属しています。また、宮中の「歌会」にも二人は参加しており、仲が良かったのではないでしょうか。しかも、二人とも他家から養子として秋田家・綾小路家に入り、先代の物故により当主(子爵)を継いでいます。
両氏が子爵・議員になった年次は次の通りです。

○秋田重季 明治四十年に子爵を継ぐ。大正八年に議員となる。
○綾小路護 大正十年四月に子爵を継ぐ。同十四年に議員となる。

このように大正十年頃は両者にとっておめでたいことが続き、それを祝って、秋田家の始祖の地である津軽を訪れたのではないでしょうか。そのときの記念写真が、本シリーズで取り上げた一枚の写真と思われます。(つづく)


第3581話 2026/01/16

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (6)

 弘前中学の名物教師、

  天内氏・森氏・菊池氏

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)後列の男性三名の内、裏に書かれた「天内」《男A》と「森」《男B》が、旧制弘前中学校(現青森県立弘前高校)教師の天内兼太郎氏(1885~1985)と森林助氏(1880~1935)であることが判明しました。そうすると、裏書きに名前の記載がない後列右端の男性も弘前中学の教師か関係者ではないかと思い、玉川宏さん(秋田孝季集史研究会・事務局長)から送っていただいた『鏡ヶ丘百年史』(注①)のコピーを精査しました。そうしたところ、「菊池巍」という教師の写真が目にとまりました。

 同誌(217頁)に掲載されている菊池巍(きくち たかし)氏の写真も画質が荒く不鮮明ですが、「記念写真」に見える長身の《男C》と容貌や雰囲気が似ているのです。そこで、WEBで同氏の写真を探したところ、「近代文献人名辞典(β)」(注②)に顔写真がありました。得られた三枚の写真を見比べると、同一人物と見て良いと思われました。長身で大きな耳と面長の顔、ちょっと気取ったような雰囲気などが共通しており、しかも菊池巍氏も弘前中学の教師であり、天内兼太郎氏(1885~1985)・森林助氏(1880~1935)と一緒に「記念写真」に写っていることも、この推定を強く支持します。

 ちなみに、秋田孝季集史研究会の増田達男さんからご教示いただいた『青森県人名辞典』(東奥日報社、1969年)には次のようにあり、年代的にも「記念写真」に見える他の人物と整合します。

 「菊池 巍(きくち・たかし) 明治九~昭和九(一八七六~一九三四)南津軽郡大光寺村の名門、菊池家の一族健左衛門の長男。東奥義塾に入学したが、卒業にいたらず独学で明治三一年小学校教員検定試験に合格、各地小学校につとめ三四年中津軽郡青柳小学校長となる。その間、研学を怠らず三九年中学校教員検定試験に合格して国漢科の免許状を取得、四○年弘前中学校教諭となる。以来昭和八年末に至るまで、終始同校に勤務した。人格は円満そのもので孜々として生徒を教導、深く敬愛され同校の偶像的存在であった。孤峰と号して漢詩をよくした。没後知友(森林助)の手により、「孤峰遺稿」が刊行された。」※(森林助)は古賀による補記。

 菊池巍氏(1876~1934)も弘前中学の名物教師だったようで、『鏡ケ丘同窓会報』6号(昭和39年・1964年)に掲載された高木直衛氏による「在校時代の思い出」には次のように記されています(注③)。

 「それから、忘れることのできないのは、菊池巍(たかし)先生である。先生は大光寺村の旧家の出で、小学校の先生をしながら国漢の文検をとられた篤学の士である。漢文が特に得意のようだった先生は元来他人を疑うことを好まぬ極く正直なお人柄であった(後略)」

 こうして、「秋田重季氏ら記念写真」に並んで写っている六名の男性の内、五名の素性を確認でき、裏書きの名前の正確性が更に高まりました。(つづく)

[後列]
❶天内兼太郎(1885~1985) 弘前中学教師 《男A》「天内」
❷森 林助 (1880~1935) 弘前中学教師 《男B》「森」
❸菊池 巍 (1876~1934) 弘前中学教師 《男C》不記載
[前列]
❹未 詳                《男D》「和田長三(郎)」
❺秋田重季 (1886~1958) 貴族院子爵議員《男E》「秋田重(季)」
❻綾小路護 (1892~1973) 貴族院子爵議員《男F》「綾小路」

(注)
①『鏡ヶ丘百年史』弘高創立百年記念事業協賛会、昭和58年(1983)。
②WEB辞典『近代文献人名辞典(β)』「菊池孤峰(きくちこほう)、本名:菊池巍」。
③高木直衛(明治四十三年卒)「在校時代の思い出」『鏡ケ丘同窓会報』6号、鏡ケ丘同窓会、昭和39年・1964年。


第3580話 2026/01/15

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (5)

 ―弘前中学の教師、天内氏と森氏―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)の裏に書かれた、「森」《男B》が、著名な津軽の歴史家で旧制弘前中学校(現青森県立弘前高校)教師の森林助氏(1880~1935)である可能性がでてきました。そこで、森林助氏の写真探索のため、秋田孝季集史研究会の皆さんに協力を要請しました。そうしたところ、玉川宏さん(同会・事務局長)より、『鏡ヶ丘百年史』(注①)のコピーが送られてきました。

 同誌には、弘前中学校の著名な教師として森林助氏の名前や記事が散見され、同氏の写真も掲載されているのですが、画像が不鮮明で「記念写真」の「森」《男B》と断定できるほどではありません。しかし、顔の輪郭や眼鏡をかけていることなどが似ており、別人と断定することもできないように思いました。

 ところが、同誌には「森林助」と並んで「天内兼太郎」の名前が散見するのです。すなわち、弘前中学には「森」と「天内」という「記念写真」裏に記された名字を持つ二名の教師がいたのです。この事実は、「記念写真」の人物が森林助氏と天内兼太郎とすることを強く示唆するもので、わたしには決定的な証拠と思えました。こんなことが偶然に起きるとは考えにくいからです。

 しかしながら、同誌には天内兼太郎氏の写真はなく(大勢の集合写真はあるが、人物は小さくて見分けられない)、「記念写真」後列の「天内」《男A》と比較確認することができません。そのため、天内兼太郎氏の写真を探したところ、『鏡ケ丘同窓会報』六号(昭和39年・1964年)に同氏最晩年(八十歳)のときの写真があり、「記念写真」とは年齢は離れていますが、顔の輪郭や禿頭であること、右肩が左肩より下がっていることなどの共通点があり、同一人物であると思われます。『鏡ヶ丘百年史』にも、同氏のことを記した記事(599頁)に「小柄で禿頭」とあり、「記念写真」後列に見える他の二人の男性と比べると、「天内」《男A》が最も低身長であり、記事に記された容貌・体型と一致しています。

 『青森県人名辞典』(東奥日報社、1969年)には、弘前中学で大正9年(1920)11月から昭和21年まで教鞭をとっていたと記されており、次の説明があります(注②)。

 「天内兼太郎(あまない・けんたろう) 明治一八~昭和四○(一八八五~一九六五)県立弘前中学校教諭。中津軽郡岩木町生まれ。旧姓坂本。軍隊生活が長く、大正九年特務曹長(後の准尉)で退職して、県立弘前中学校に奉職。教練と体操を担当、昭和二一年まで二五ヵ年余にわたって、幾千の弘中生から〝カレコ〟のあだ名で敬愛された名物教員。八〇歳で死去。」

 同じく『青森県人名辞典』には、森林助氏についても次の説明があります。

 「森 林助(もり・りんすけ) 明治一三~昭和一〇(一八八〇~一九三五)福島県の人。国学院大学で国史学を専攻。青森県火造中学校を振り出しに明治四二年弘前中学校に転じ、没するまでながく同校に教鞭をとった。その間、地方史の開拓研究にうちこみ、陸奧史談会の運営の中心となり、青森県史の編さんにも関与し、地方史研究の進展におおきな功績を残した。その著書は「山鹿素行と津軽信政」「津軽弘前城史」其の他数多く、後進を益するところ多大なものがある。」

 こうして、「秋田重季氏ら記念写真」に並んで写っている六4名の男性の内、四名の素性が明らかとなり、裏書きの名前の正確性が高まってきました。(つづく)

(注)
①『鏡ヶ丘百年史』弘高創立百年記念事業協賛会、昭和58年(1983)。
②秋田孝季集史研究会の増田達男氏からの情報による。


第3579話 2026/01/14

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (4)

 ―津軽の歴史学者、森林助氏―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)の裏に書かれた、「天内」《男A》・「森」《男B》・「和田長三(郎)」《男D》の内の「森」について、偶然にも弘前市立図書館で閲覧した史料中に、書写者・編纂者として「森林助」という名前が散見されることを知りました。たとえば、同館蔵「八木橋文庫」目録に次の記述が見えます(注①)。

 北畠史料ノート(ロ) 森林助 K091-3-5-2
大正4〜大正12(1915〜1923)写 1冊 半紙 仮和
註:「波岡御所史料」 北畠系図、波岡系図、波岡御所断片、弘前藩士浪岡氏、津軽郡中名字、金光上人伝、西光寺、他

 調査の結果、森林助氏は津軽の著名な歴史家であり、旧制弘前中学校(現青森県立弘前高校)の教師であることを知りました。本田伸「〈史料紹介〉森林助宛の二通の書簡:花山院忠長の津軽滞在をめぐって」(注②)に次の説明がありました。

 「森林助〈一八八〇~一九三五〉は、陸奥史談会を立ち上げるなど、津軽地方史の掘り起こしに功繍を挙げた人物である。長らく弘前中学校で教鞭を執り、棟方悌二・中里忠香・中道等らとともに、大正十五年(一九二六) の『青森県史』(青森県教青委員会編、全八巻)編纂に関わった。『山鹿素行と津軽信政』『東日流弘前城史』など多くの著作があり、平賀町(現平川市)の葛西覧造をはじめ、多くの後継者を育成した。」

 この記事により、森林助氏は明治・大正・昭和に活躍した歴史研究者であり、旧制青森県立弘前中学校の教師であったことがわかりました。しかも、秋田重季氏や綾小路護氏と同時代の人物ですから、「記念写真」に記された「森」《男B》の有力候補です。そこで、森林助氏の写真探索のため、秋田孝季集史研究会の皆さんに協力を要請しました。(つづく)

(注)
①弘前市立図書館、八木橋文庫目録(平成25年10月)。
https://www.city.hirosaki.aomori.jp/tosho/old/yagihashi.pdf
②本田伸「〈史料紹介〉森林助宛の二通の書簡:花山院忠長の津軽滞在をめぐって」『弘前大学國史研究』123号、2007年。


第3578話 2026/01/13

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (3)

 ―裏書きの「天内」「森」とは誰か―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)の裏側に書かれた男性の名前5名のうちの2名「綾小路」《男F》・「秋田重(季)」《男E》について、綾小路護子爵と秋田重季子爵であることを確認できました。そうすると他の3名「天内」《男A》・「森」《男B》・「和田長三(郎)」《男D》も正確な情報に基づく名前ではないかと考えました。そこで、最初に「天内」の調査をしました。

【写真の裏書き】※表の写真の配置とは左右が逆転している。
○後列 「森」《男B》・「天内」《男A》・「女」
○前列 「女」・「綾小路」《男F》・「秋田重(季)」《男E》・「女」・「和田長三(郎)」《男D》

 というのも、当写真が藤本光幸氏の遺品中にあったことから、光幸氏のお父上(光一氏)が藤崎町の旧家、天内(あまない)家から藤本家に養子として入ったとお聞きしていたので、その天内家の一人ではないかと考えたのです。そこで、秋田孝季集史研究会の会長、竹田侑子さん(藤本光幸氏の妹)に天内家の写真が遺っていないか調査して欲しいとお願いしました。残念ながら、天内家には古い写真が残っていないとのことでしたが、写真の「天内」は〝父親とよく似た顔だち〟とのことでした。しかし、写真が遺っていなければ比較検証できませんので、「天内」《男A》調査は暗礁に乗り上げました。

 次に取り組んだのが、「森」《男B》の調査。昨年9月27日、弘前市での『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会のおり、「明治大正時代に秋田子爵に会えるほどの有名な「森」さんを知りませんか」と、秋田孝季集史研究会の方々に尋ねました。しかし、有力な情報は得られませんでした。ところが、津軽での最終調査日(10月2日)に行った弘前市立図書館での古文書調査で、史料中に「森林助」という名前が散見していることに気づいたのです(注③)。(つづく)

(注)
①秋田重季(あきた しげすえ) 1886年(明治19年)~1958年(昭和33年)は、明治から昭和時代の技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員、秋田家第14代当主。旧名・重光。位階は従三位。1910年(明治43年)、東京帝国大学工科大学を卒業し、逓信省臨時発電水力調査局や鉄道院で技術者として働く。1919年(大正8年)に貴族院子爵議員に選出され、研究会(政治団体)に属して活動した。
②綾小路護(あやのこうじ まもる) 1892年(明治25年)~ 1973年(昭和48年)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。綾小路家19代当主。旧姓・野宮。位階は正四位。
③弘前市立図書館蔵「八木橋文庫」目録に次の記述がある。
北畠史料ノート(ロ) 森林助  YK091-3-5-2
大正4〜大正12(1915〜1923)写 1冊 半紙 仮和
註:「波岡御所史料」 北畠系図、波岡系図、波岡御所断片、弘前藩士浪岡氏、津軽郡中名字、金光上人伝、西光寺、他

〖写真の説明〗
秋田重季氏と綾小路護氏の比較写真(左が「記念写真」、右がWEB上の写真)。


第3577話 2026/01/12

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (2)

 ―写真の裏書きにあった「秋田重季」―

 残された研究テーマ「秋田重季氏ら記念写真」調査分析には貴重な〝ヒント〟がありました。その写真の裏側に書かれた次の文字(縦書き)です。

○後列 「森」《男B》・「天内」《男A》・「女」
○前列 「女」・「綾小路」《男F》・「秋田重(季)」《男E》・「女」・「和田長三(郎)」《男D》

 ※❶ 男性5名にのみ名前が記されており、女性5名は「女」あるいは不記載。

 ※❷ 写真の下部が何故か切り取られているため、(郞)は見えず、推定による。(季)は「禾」の部分が残っているので、「季」と判断した。「綾小路」の下に名前があったのかどうかは不明。後列の男性2名は名字のみ。

 ※❸ 後列右端の長身の人物《男C》には名前の記載がない。左上に付された円内の《男X》も不記載。

 ※❹ 表の写真とは名前の位置が左右逆転している。写真の人物の真裏の位置に名前を記したことによる現象か。

 ※❺ 裏書きの名前は後列「天内」の下に「秋田重(季)」と記されているが、表の写真では「森」《男B》の下に「秋田重(季)」《男E》がいる。これが意図的なものか、ただ単に不正確な記述によるのかは不明。

 この写真裏の書き付けにある人物名の当否を調査した。まず、秋田重季氏(注②)の写真をWEBで探したところ、若い頃(20歳代か)の写真があり、「記念写真」の《男E》と同一人物であることが確認できました。

 次いで、「綾小路」もお公家さんか華族ではないかと考え、調査したところ、綾小路護氏(注③)が同時期の子爵であったことがわかりました。そこで、WEBにあった同氏の写真により、「記念写真」の《男F》と綾小路護子爵とが同一人物であることを確認できました。

 裏書きにあった氏名の内、2名が正しかったことから、他の人名「森」「天内」「和田長三(郎)」も正しいのではないかと考え、調査を進めました。(つづく)

(注)
①写真の人物配置は次の通り。
○左上の円内《洋服正装の男X》1名
○後列(立ち姿)5名
《和服の女A》《洋服正装の男A》《和服正装の男B》《和服の女B》《和服正装の男C》
○前列(ソファーに着座)5名
《和服の男D》《和服の女C》《和服の男E》《和服の女D》《和服の女E》
○前列(床に着座)1名
《和服の男F》
②秋田重季(あきた しげすえ) 1886年(明治19年)~1958年(昭和33年)は、明治から昭和時代の技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員、秋田家第14代当主。旧名・重光。位階は従三位。1910年(明治43年)、東京帝国大学工科大学を卒業し、逓信省臨時発電水力調査局や鉄道院で技術者として働く。1919年(大正8年)に貴族院子爵議員に選出され、研究会(政治団体)に属して活動した。
③綾小路護(あやのこうじ まもる) 1892年(明治25年)~ 1973年(昭和48年)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。綾小路家19代当主。旧姓・野宮。位階は正四位。


第3576話 2026/01/11

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (1)

 ―藤本光幸氏の遺品、一枚の写真―

 令和五年五月六日~九日、わたしは青森県弘前市を訪れ、三十年ぶりとなる和田家文書の本格調査を再開しました。〝令和の和田家文書調査〟と名付けたこの津軽行脚は、当地の「秋田孝季集史研究会」(会長 竹田侑子氏)の方々から物心両面のご協力をいただき、多くの成果に恵まれました。ところが、どうしても進まなかった重要な研究テーマがありました。「秋田重季氏ら記念写真」の調査分析です。

 〝令和の和田家文書調査〟のとき、興味深い資料を弘前市の竹田家で拝見しました。竹田侑子さんのお兄様、藤本光幸さんの遺品中にあった一枚の「記念写真」です。縦約9cm・横約14cmのモノクロ写真で、前後2列に並んだ男女11名と左上に付された円内の男1名の写真です。人物は次のように並んでいます。撮影年次・場所は不明です。

○左上の円内《洋服正装の男X》1名
○後列(立ち姿)5名
《和服の女A》《洋服正装の男A》《和服正装の男B》《和服の女B》《和服正装の男C》
○前列(ソファーに着座)5名
《和服の男D》《和服の女C》《和服の男E》《和服の女D》《和服の女E》
○前列(床に着座)1名
《和服の男F》

 女A・女B・女Eの3名は日本髪を結った若い女性で、芸妓さんのようです。女C・女Dの2名は「女将」のような雰囲気の女性です。
後列の男A・男B・男Cはいずれも正装で緊張した面持ち。それに比べて、前列の男D・男E・男Fは和服を着て、くつろいだ様子。しかも隣の女性と手をつないでいます。前列左端の男Dは、最も若い青年のように見えます。

 こうした構図から、前列3名の男性が宿泊・宴会している旅館か料亭に、後列の3名の男性が訪問したときの記念写真のようです。恐らく主賓は前列中央の男Eと思われます。言うならば、地方の旅館に遠方より来た男D・男E・男Fが、地元の男A・男B・男Cにもてなされた際の記念写真とでもいったところでしょうか。男Xについては未詳。

 これだけでしたら、どうということもない記念写真に過ぎませんが、前列中央の男Eが秋田重季子爵(注②)のようなのです。秋田子爵家は三春藩の藩主、秋田家の子孫です。すなわち、秋田孝季・和田長三郎吉次に東日流外三郡誌の編纂を命じた7代目藩主(秋田*倩季・よしすえ)の子孫なのです。その人物の記念写真が、なぜ藤本光幸さんの遺品にあったのか。このことの解明が、〝令和の和田家文書調査〟での未解決テーマとして残っていました。(つづく)
*倩:人偏に青(倩の異体字)。

(注)
①古賀達也「『東日流外三郡誌』の証言 ―令和の和田家文書調査―」『東日流外三郡誌の逆襲』八幡書店、2025年。
②秋田重季(あきた しげすえ)1886年(明治19年)~1958年(昭和33年)は、明治から昭和時代の技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員、秋田家第14代当主。旧名・重光。位階は従三位。1910年(明治43年)、東京帝国大学工科大学を卒業し、逓信省臨時発電水力調査局や鉄道院で技術者として働く。1919年(大正8年)に貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動した。


第3570話 2026/01/02

令和八年の抱負 (2)

『東日流外三郡誌の挑戦』

         に合田論稿転載

 昨年末、「運命と使命の一書 ―東日流外三郡誌の逆襲―」を執筆し、『東京古田会ニュース』に投稿しました。運命の一書とは『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店、2025年)であり、使命の一書とはその続編『東日流外三郡誌の挑戦』(仮称)です。続編には前著に収録できなかった重要論文を掲載します。その一つが合田洋一さんの「『東日流外三郡誌』と永田富智先生にまつわる遠い昔の思い出」です(注①)。元日に合田さんに電話で年賀のご挨拶をしたおり、転載の了解を頂きました。

 同稿は『東日流外三郡誌』(明治写本)二百~三百冊を昭和46年に市浦村役場で見たと証言(注②)した永田富智さんとの思い出が記されたもので、永田さんは昭和38年時点で東日流外三郡誌のことをご存じであったとのこと。偽作説論者たちは〝東日流外三郡誌は昭和40年代から50年代に和田喜八郎が偽作した〟と偽作キャンペーンを繰り返しましたが、それが真っ赤な嘘であることが、『北海道史』を編纂した中近世史の専門家である永田氏の証言からも明白となりました。合田稿では、『東日流外三郡誌』市浦村誌版が刊行された昭和50年よりも十年以上前の昭和38年に、永田氏がその存在を知っていたことが証言されています。当該部分を抜粋します。

 〝私は、明治大学三年(昭和三十八年)の八月に帰省(北海道江差町)した時、父に卒業論文(『蝦夷地に於ける戦国時代』)の史料研究のため函館図書館に寄るので一日早く帰ると話したところ、父は「それならいい人を紹介するよ」と目の前で函館図書館に電話してくれた。なんと、その相手の人こそ当時図書館で学芸員をされていた永田富智先生だったのである。(中略)早速、永田先生にお会いして長時間に亘りご指導戴いた。(中略)その時の先生の言葉を今も鮮明に覚えている。「合田君、北海道・東北の歴史を研究するなら『つがる外三郡誌』という書があるからそれを研究したらいいよ」(その時はつがるの字は「東日流」ではなく「津軽」とばかり思っていた)と。私は「その書はここにあるのですか」とお聞きしたところ「ここにはなく、青森のある人が持っているので紹介してあげるから東京への帰途寄ったらどう」と言って下さったのである。当時の私は奨学金とアルバイトで学生生活を送っていた貧乏学生だったことから、青函連絡船(四時間半)で青森に行き夜行列車(二十二時間)で急いで東京に帰り、仕事(アルバイト)に間に合わせなければならなかったので、丁重にお断りして「またの機会に是非お願いします」と辞したのである。のちのち寄り道できなかったことがなんとも悔やまれた。(中略)

 振り返って見ると、昭和三十八年とは、『東日流外三郡誌』がまだ活字本になっていない時であった。古賀さんの前掲論稿によると、昭和五十年頃「市浦村史版」、六十年頃「八幡書店版」が発刊されるが、永田先生はその前の昭和四十六年に市浦村役場で二、三百冊の『東日流外三郡誌』明治写本を見たとのことであった。〟

 運命の一書『東日流外三郡誌の逆襲』に次いで、使命の一書『東日流外三郡誌の挑戦』の刊行。これが令和八年、新年の抱負の二つ目です。(つづく)

(注)
①合田洋一「『東日流外三郡誌』と永田富智先生にまつわる遠い昔の思い出」『古田史学会報』148号、2018年。
②古賀達也「真実を語る人々」『東日流外三郡誌の逆襲』明石書店、2025年。

〖写真の説明〗永田富智先生。北海道松前町阿吽寺にて、1996年9月15日。東日流外三郡誌(明治写本。)


第3569話 2026/01/01

令和八年の抱負 (1)

 ―「秋田孝季遺訓」の編纂―

 「古田史学の会」会員の皆様、友人、読者の皆様、新年のご挨拶を申し上げます。令和八年も「洛中洛外日記」をよろしくお願いいたします。

 昨年11月、持病治療のため入院手術しました。お陰様で一週間で退院でき、寿命も延びたようです。延びた寿命をどのように使うべきか、病院のベッドで、古田先生がやり残された研究を引き継ぐのは当然として、それは何だろうかと考え続けました。

 先生最後の公の場となったKBS京都放送のラジオ番組「本日、米團治日和。」の収録にお供したとき、対談の最後に桂米團治さんと次のようなやりとりがありました(注①)。

米團治 本当に、話は尽きませんね。湯水のごとく出てまいります。――まだまだ先生、研究続けられますよね。
古田 ハハハ、まあ、もう今年ぐらいでお陀仏になると思いますが……。
米團治 何をおっしゃいます。でも、たくさんのお弟子さん……。
古田 こういうね、素晴らしい後継者が出てますからね。私は安心して……。ま、古田が死んだら、と楽しみにしている人もおると思うんですがね。しかし、私が死んだからってね、ここまで分かって来たら、ストップはかけられませんわね。
米團治 うちの親父(桂米朝)と同世代ということで、そんなよしみもありまして、KBS京都に来ていただきまして、本当にありがとうございました。お弟子さんの古賀達也さんもどうもありがとうございました。

 二時間に及んだ収録(2015年8月27日)の後、対談は三回(9月9日、16日、23日)に分けて放送され、翌月の10月14日に先生は亡くなられました。

 先生が〝弟子〟らに託したこととは何か、残された寿命で何をなすべきか、先生没後10年に当たる昨年、病床で考えました。そして、最初に思い浮かんだのが、『東日流外三郡誌』の編者、秋田孝季伝の筆を執ることでした。わたし一人でできる事業ではありませんので、志を継ぐ後学のために、秋田孝季の遺訓を『東日流外三郡誌』などから抜粋する作業だけでも始めることを改めて決意しました。

 この思いを『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店、2025年)の掉尾に記しています(注②)。

 〝あるとき、古田先生はわたしにこう言われた。「わたしは『秋田孝季』を書きたいのです」と。東日流外三郡誌の編者、秋田孝季の人生と思想を伝記として世に出すことを願っておられたのだ。思うにこれは、古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣(むらおかつねつぐ)先生が二十代の頃に書かれた名著『本居宣長』を意識されてのことであろう。

 それを果たせないまま先生は二〇一五年に逝去された。ミネルヴァ書房の杉田社長が二〇一六年の八王子セミナーにリモート参加し、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされた。恐らく、それこそが『秋田孝季』だったのではあるまいか。先生が遺した『秋田孝季』の筆を、わたしたち門下の誰かが握り、繋がねばならない。その一著が世に出るとき、東日流外三郡誌に関わった、冥界を彷徨い続ける人々の魂に、ひとつの安寧が訪れることを信じている。〟

 令和八年、新年の抱負の一つです。(つづく)

(注)
①桂米團治・古田武彦・古賀達也「古代史対談」『古田武彦は死なず』古田史学の会編、明石書店、2016年(『古代に真実を求めて』19集)。
②古賀達也「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」『東日流外三郡誌の逆襲』八幡書店、2025年。

〖写真説明〗『古田武彦は死なず』。米團治さんの還暦記念パーティーにて(2018.12.20)。