和田家文書一覧

第2576話 2021/09/21

『東日流外三郡誌』真実の語り部(2)

 『東日流外三郡誌』が初めて本格的に世に出たのは、『市浦村史』の資料編(注①)として収録されたときです。その『市浦村史』を刊行された当時の市浦村々長の白川治三郎さん(昭和四六年から3期12年村長を務められた)からお手紙をいただきました。というのも、安本美典氏責任編集『季刊邪馬台国』52号(注②)に掲載された「虚妄の偽作物『東日流外三郡誌』が世に出るまで」という記事で、白川さんに対して、秘宝探しのために公費を支出したなどという誹謗中傷が同誌編集部からなされたため、白川さんの反論を御寄稿いただいたものです。
 秘宝探しのために公費を支出したなどという『季刊邪馬台国』の記事は、事実無根の中傷であり、村の公費支出が事実ならば、記録が残されているはずです。議会の承認がなければそのような支出を村長個人で決められるものでもありません。あまりにひどい中傷記事でしたので、『古田史学会報』6号(注③)に白川さんからの反論を掲載しました。その一部を転載します。

【以下、転載】
○和田氏から発掘調査の費用を出してほしいと申し出たこと。
 この話は村にもちかけられたこともないし、従って公費を出す訳はない。
 他の五~六人のひとが、また藤本氏が多額出資したと言うことも聞いていない。その後秘宝が出ないからと言って、和田氏といざこざがあったと言うことも聞いていない。
 また、村では秘宝探しの発掘もしていないから、和田氏を追及する根拠もない。 

○『東日流外三郡誌』と市浦村関係者が名付けたと言うこと。
 『東日流外三郡誌』を初めて見たのは、昭和四十六年の秋頃と思う。場所は市浦村役場の村長室です。資料は一冊がコピーされてから次の一冊が届けられるので、日数の間隔はかなり費やされている。その都度一冊ずつ、全部読み切らず断片的に見ていた。
 私の記憶では最初から史料に『東日流外三郡誌』と書かれていたと思う。

○秘宝探しに公費支出した責任逃れの為、『外三郡誌』を刊行したと言うこと。
 資料(『東日流外三郡誌』)はこれまでの日本史に書かれなかった、安倍安東氏にまつわる極めて貴重と思われる内容が多く、これを一般に公開して世論を喚起し、その真偽の程を学者の研究にゆだねると共に、安倍安東氏の政策の根底には、混迷せる国際情勢に於てこれからは真に平和な国際社会醸成の為の人権確立や、正しい宗教観が貫かれていること等を世に喧伝したいという目的があった。責任逃れ等とは、とんでもないことだ。

○仏像その他出土品を分けた話。
 村として秘宝発掘の事実はないし、他にも仏像その他発掘による出土品のことは全く聞いていない。従って、これらを出資者が分けたと言う話は全く根拠がない。
【転載おわり】

 以上のような反論を掲載した『古田史学会報』に対して、偽作論者からは〝白川氏はそのようなことは言っていない、『古田史学会報』の内容は詐術〟とする中傷報道がなされました(注④)。そこで『古田史学会報』16号に白川さんのお手紙のコピー(冒頭部分)をそのまま掲載しました。なぜ偽作論者達は〝すぐにばれる嘘〟をつくのか、不思議に思ったものです。こうしたなりふりかまわぬ偽作論者の攻撃は、真実を語る現地の人々の証言に、彼らが追い詰められている証拠と思われました。(つづく)

(注)
①『市浦村史資料編』(上・中・下)市浦村史編纂委員会、昭和五〇年(1975)~昭和五二年(1977)。『市浦村史資料編』刊行以前、『車力村史』(1973年刊。つがる市)にも『東日流外三郡誌』の一部が掲載されているようです。
②「なぜ原本を出さぬ、詐術にまみれた三郡誌騒動」『ゼンボウ』1996年9月号。
③白川治三郎「『季刊邪馬台国』の中傷記事に反論する『東日流外三郡誌』公刊の真実」『古田史学会報』6号、1995年4月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/kaihou06.html
④古賀達也「古田史学会報への中傷に反論する 地に堕ちた偽作キャンペーン」『古田史学会報』16号、1996年10月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou16/koga16.html

【写真】白川元村長からの手紙(部分)。『市浦村史資料編』他。

白川元村長からの手紙(部分)

白川元村長からの手紙(部分)

『市浦村史資料編』他

『市浦村史資料編』他


第2575話 2021/09/20

『東日流外三郡誌』真実の語り部(1)

 『東日流外三郡誌』の編著者、秋田孝季(あきた・たかすえ)の名前が記された「寛政宝剣額」を見つけ、青山兼四郎さん(当時72歳、中里町)の証言を得ることができました(注①)。「洛中洛外日記」2572話(2021/09/17)〝『東日流外三郡誌』、「寛政宝剣額」の発見(2)〟で紹介した通りです。それ以降も古田先生とわたしは、津軽の古老達の証言を求める調査を続けました。
 平成6(1994)年8月4日には、山王日吉神社宮司松橋徳夫さん(市浦村・洗磯崎神社宮司)の証言を得ることができました。「寛政宝剣額」が奉納されていた神社宮司の証言ですから、第一級の証言と言えるでしょう。松橋宮司は見るからに誠実な方で、「わたしは神に仕える身ですから、嘘はつけません」と次のように語られ、ビデオ撮影とその公開も了承されました。聞き手は古田先生です(注②)。

(古田)お忙しいところ、どうもすみません。この宝剣額(宝剣額の写真を示しながら)は市浦の教育委員会にあったものでございますが、その前は日枝神社にあったとお聞きしてておりますが、そうでございますか。

(松橋)はい、間違いございません。わたくしが昭和二十四年五月に宮司に就任いたしまして、ここのお神楽は毎年旧の六月の十六日でございまして、その場に参りました時に、昭和二十四年の年に初めてこの額を拝見したわけでございます。

 二十四年でございますね。

 そうでございます。剣が二本と、「奉納御神前日枝神社」というような字は見ておりますけれども、あとは何が書いてあるかよく気をつけなかったのではっきりしたことは判りません。

 この特徴的な図柄でございますから、この二本の宝剣のついた額はあった、ということは間違いございませんですね。

 はい。

 それで、やはりこの宝剣の額のことについて、それまでの氏子さんや氏子総代さんともお話になったわけですね。

 ええ。珍しい額だというので、その時は「ああ、これ古い額ですね」ということを申し上げまして、皆で見ておりました。しかし、下の文字とかは記憶しておりませんので。

 「御神前」とか「日枝神社」とかいうのはあったわけでございますね。

 そうでございます。

 ここに「日枝神社」と書いてありますが、現在、現地で(神社を)拝見しますと「日吉神社」と字は書いてございますね。

 そうでございます。

 発音はやはり「ひえ」神社と。

 そうでございます。東京に同じ日枝神社という神社がございますし、ここは俗に山王様と申し上げまして、昔は山王宮とも言われた神社でございます。いずれにしても「ひえ」神社、字は違っていても「ひえ」神社、「日」の下に「吉」書いても「枝」書いても「ひえ」神社ということでございます。

 京都の比叡山の所にもございますものね。

 はい、そうでございます。

 そうしますと、念を押すようでございますけれど、氏子さんや氏子総代さんも含んで、そういう方々も永年この額には慣れ親しんできておられると。

 ええ、当時の方はそういうことでございますね。

 昭和四十年代の終りの頃か五十年代の初めに教育委員会に移ったということのようで。

 そうでこざいますね。私もはっきり記憶はございませんが、昭和五十年頃ではないかと記憶しております。

 それまでは氏子さんたちもよく慣れ親しんでおられたということでございますね。

 そうです。

 それからもう一つお聞きしておきたいのですが、先ほど、文字が「奉納御神前」とか「日枝神社」というのははっきり憶えていると、他ははっきり憶えていなかったと仰ったんですが、しかし、ここ(額面の「秋田孝季」「東日流外三郡誌」などの部分)にこういうふうに文字があったこと自身はよく憶えておられるのですね。

 ええ、それは書いてあったことはよく憶えております。その時分まだ興味はなかったものですので、はっきりしたことは憶えておりません。ただ文字が書いてあったことは記憶しております。

 こういう感じの字面というか、姿をしておったわけですね。

 はい

 貴重な御証言、どうもありがとうございました。

 以上の証言を得ました。次いで、市浦村元村長の白川治三郎さん(『東日流外三郡誌』や「宝剣額」写真を収録した『市浦村史』発刊時の村長)からはお手紙をいただきました。(つづく)

(注)
①古賀達也「特集/和田家文書 秋田孝季奉納額の「発見」 「和田家文書」現地調査報告」『古田史学会報』創刊号、1994年6月
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga01.html
「山王日吉神社宮司松橋徳夫氏の証言 宝剣額は日吉神社にあった」『古田史学会報』5号、1995年2月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/kaihou05.html

【写真】「寛政宝剣額」と『東日流内三郡誌』

寛政宝剣額 土崎之住人 秋田孝季

寛政宝剣額 土崎之住人 秋田孝季

東日流内三郡誌 土崎之住人秋田孝季

東日流内三郡誌 土崎之住人秋田孝季


第2574話 2021/09/19

竹内強さんの思い出と研究年譜

 昨日(令和三年九月十八日)、古田史学の会・東海の会長、竹内強さん(古田史学の会・全国世話人、愛知県阿久比町議)がご逝去されました(享年七一歳)。謹んで哀悼の意を捧げます。
 昨年の暮れ、竹内さんからお電話がありました。手術入院するとの連絡でした。病状がかなり悪いようで、「古賀さんへのお別れの電話になると思う」と言われ、「お互い、まだ使命があります。使命を果たすまで死ぬことはできません。古田先生ならもっと頑張れと言われるはずです。」と励ますことしか、わたしにはできませんでした。そして、今年春のお電話が最後の会話となりました。
 竹内さんが阿久比町議になられ、研究の第一線から退かれてからも、名古屋出張のおりには夕食をご一緒していました。学問研究のこと、古田史学の将来のこと、議員活動のことなど、話題は尽きませんでした。しかし、体調が良くないようでしたので、町議を引退されてはどうかと、会う度に進言しましたが、地方町議の議員報酬は少ないので若い人では生活ができず、そのため後任の立候補者もなく、辞められないとのことでした。
 竹内さんが町議に立候補する際、古田先生に報告されたのですが、先生は猛反対されました。二時間にわたり立候補への思いを訴えられ、古田先生も最後には「がんばりなさい」と言われたそうです。
 竹内さんは二十年ほど前から「古田史学の会」関西例会に岐阜市から参加されていました。二〇〇三年からは、古田先生の呼びかけに応えて、和田家文書に使用された美濃和紙の紙問屋調査に入られました。そして、廃業した紙問屋の御子孫を探しだし、和田家文書の紙が明治時代の美濃和紙であることをつきとめ、二〇〇五年六月の「古田史学の会」大阪講演会で発表されました。その研究論文「和田家文書『北斗抄』に使用された美濃和紙を探して」は『和田家資料3 北斗抄』(北方新社)に掲載されました(古田史学の会HPに収録)。
 その経緯を「洛中洛外日記」2570話(2021/09/16)〝『東日流外三郡誌』に使用された和紙(2)〟で紹介したのですが、その翌々日に竹内さんは亡くなられました。偶然とは思えません。和田家文書偽作キャンペーンに抗して、古田先生と古田史学を守り続けてきた同志のご逝去、無念と言うほかありません。
 竹内さんの研究年譜をここに書きとどめ、弔いといたします。

【竹内強さんの研究年譜】
2003/06 古田先生の大阪講演会(「王朝の本質 九州王朝から東北王朝へ」)に参加。先生の呼びかけに応えて、美濃和紙の調査を始める。
2005/05 「法隆寺金石文金銅仏『笠評君観音菩薩立像』の分析」(古田史学の会・関西例会)
2005/06 「和田家文書に使用された美濃紙追跡調査」(古田史学の会・大阪講演会)
2005/08 「安倍仲麻呂『天の原ふりさけみれば…』を考える」(古田史学の会・関西例会)
2005/09 「闇の中に消された『竺志』」(古田史学の会・関西例会)
2006/01 「和田家文書『北斗抄』に使用された美濃和紙を探して」(『和田家資料3 北斗抄』北方新社)
2006/03 「大安寺伽藍縁起並流記資財帳の中の仲天皇と袁智天皇とは?」(古田史学の会・関西例会)
2006/07 「大野城創建と城門柱の刻書」(古田史学の会・関西例会)
2006/10 「竺志考2」(古田史学の会・関西例会)
2007/02 古田先生のエクアドル調査旅行に同行。
2007/03 「エクアドルの旅─古田武彦と共に」(古田史学の会・関西例会)
2007/08 「『上宮聖徳法王帝説』中のもう一つの九州年号」(古田史学の会・関西例会)
2007/10 古田史学の会・東海会長に就任。その後、古田史学の会・全国世話人に就任。
2008/03 「両面宿儺伝説についての一考察」(古田史学の会・関西例会)
2008/08 「伊予の湯の岡碑文と九州王朝論 ─白方勝氏の歴史観について─」(古田史学の会・関西例会)
2008/09 「『上宮聖徳法王帝説』再考」(古田史学の会・関西例会)
2008/11 「二人の天子と『仁王経』―『隋書』「俀国伝」日出ずる処の天子についての新理解」(古田史学の会・関西例会)
2009/01 「前期難波宮の中の九州王朝」(古田史学の会・関西例会)
2009/03 「愛知県刈谷市の天子神社と海士族の伝播」(古田史学の会・関西例会)
2011/07 「板付水田遺跡は弥生か縄文か」(古田史学の会・関西例会)
2013/09 「ワニ氏の北方系海人族としての歴史的考察」(古田史学の会・関西例会)

古田史学の会・東海 第3代会長 故竹内強氏

古田史学の会・東海 第3代会長 故竹内強氏


第2572話 2021/09/17

『東日流外三郡誌』、「寛政宝剣額」の発見(2)

 『東日流外三郡誌』の編著者、秋田孝季(あきた・たかすえ)の名前が記された「寛政宝剣額」を探し求めて、古田先生と二人で津軽の五所川原市を訪れたのは1994年5月5日のことでした。そして、市浦村役場の成田義正さんのご協力を得て、「宝剣額」が同村教育委員会で保管していることをつきとめ、ガラスケースの中に納められていた「宝剣額」とようやく対面することができました。
 その「宝剣額」の実見調査に基づく古田先生の所見が『古田史学会報』創刊号に報告(注①)されています。次の通りです。

〝「新しい段階」は、一枚の奉納額によって導入された。長さ、約七十センチ、幅、約三十三センチ、厚さ、約三・四センチの木板だ。その中央には、二振りの矛状鉄剣(宝剣)が打ちつけられている。長さ、約四八・五センチ。
 その周辺の文字は、次のようである。
 「(向って右側)
 奉納御神前 日枝神社
 (下部署名)
 土崎住
  秋田孝季
 飯積住
  和田長三郎
  (向って左側)
 寛政元年酉八月□日 東日流外三郡誌 (右行)筆起(左行)爲完結」(後略)〟『古田史学会報』創刊号

 後日、古田先生は「宝剣額」を市浦村からお借りして、昭和薬科大学で木材部分の顕微鏡写真撮影、東北大学金属研究所にて金属部分の検査を実施されました。その検査結果については後述します。
 このように徹底した学術調査が実施されました。しかし、偽作論者たちによる〝反論〟、たとえば「宝剣額は和田喜八郎氏による偽造」、あるいは「別の所にあった宝剣額を盗んで、文面を書き換えた」などの中傷が予想されたので、「宝剣額」が昔(例えば戦前)から山王日吉神社に奉納されていたことを知っている当地のご老人の証言を得るために、それこそ津軽半島を駆け巡りました。そして、ついに青山兼四郎さん(当時72歳、中里町)の証言を得ることができたのです。次の通りです。

〝青山兼四郎氏、七二歳。地元で建築関係の仕事に携わられておられ、郷土史にも詳しい方だ。青山氏の証言によれば次の通りだ(ビデオに収録。後日、手紙で再確認)。
①この額は山王日吉神社に掲げられていたものである。子供の頃から見て知っていた。
②昭和二八年秋頃、市浦村の財産区調査により測量を行ったが、自分以外にも調査関係者がこの額を見ている。存命の者もいる。
③当時、関係者の間でも大変古い貴重な額であることが話題になった。
④「日枝神社」「秋田孝季」という字が書かれていたことは、はっきりと覚えている。〟『古田史学会報』創刊号(注②)

 青山さんには詳細な事実関係等について、『古田史学会報』(注③)にも寄稿していただきました。
 古田先生とわたしは、津軽の古老達の証言を求める調査旅行を翌年以降も続けました。その結果、山王日吉神社宮司の松橋徳夫さん、市浦村元村長の白川治三郎さん(『東日流外三郡誌』や「宝剣額」写真を収録した『市浦村史』発刊時の村長)、青森県仏教会々長の佐藤堅瑞さん(柏村・浄円寺住職)ら当地有力者による貴重な証言を次々と得ることができました。(つづく)

(注)
①古田武彦「決定的一級史料の出現 ―「寛政奉納額」の「発見」によって東日流外三郡誌「偽書説」は消滅した―」『古田史学会報』創刊号、1994年6月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/furuta01.html
②古賀達也「特集/和田家文書 秋田孝季奉納額の「発見」 「和田家文書」現地調査報告」『古田史学会報』創刊号、1994年6月
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga01.html
③青山兼四郎「『東日流外三郡誌』は偽書ではない ―青森県古代・中世史の真実を解く鍵―」『古田史学会報』6号、1995年4月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/tugaru06.html


第2571話 2021/09/17

『東日流外三郡誌』、「寛政宝剣額」の発見(1)

 『東日流外三郡誌』を歴史史料として使用するにあたり、学問的手続きとして、事前に進めなければならないことがありました。それは文献史学で言うところの史料批判という作業です。その史料がどの程度歴史の真実を伝えているのか、信頼性がどの程度あるのかを確かめる作業です。『古事記』『日本書紀』など、既に広く学界で認められている史料の場合は、とりたてて基礎的な史料批判の手続きを求められることはありませんが、和田家文書のように戦後になって世に出た史料の場合は、この手続きが不可欠なのです。
 なお、和田家文書の場合は、こうした学問的作業の最中に、悪意に満ちた偽作キャンペーンが始まりましたので、不幸なことであったと言わざるを得ません。学問研究には、静かで落ち着いた環境が必要だからです。もっとも、当時の偽作キャンペーンは古田先生やその学説(多元史観、九州王朝説)への中傷攻撃という側面が強かったので、その意味では偽作論者の目論見は、一応は成功したのかもしれません。
 その史料批判の第一段階として、使用された紙の調査を実施したことを先の「洛中洛外日記」〝『東日流外三郡誌』に使用された和紙〟(注①)で紹介しました。結論として和田家文書の多くが明治時代末頃からの機械漉きの和紙(美濃和紙)であったことが確認できました。
 もう一つの確認作業として、編著者とされる秋田孝季(あきた・たかすえ)についての調査も並行して行いました。わたしとしては、この秋田孝季調査が、『東日流外三郡誌』の真偽論や学問的史料として使用可能かを判断する上で重要課題と考えていましたので、最初に取り組みました。秋田孝季の実在を証明するためには、和田家文書以外の史料からその存在を証明しなければなりませんので、孝季が活躍した寛政年間(1789~1800年)から文政年間(1818~1830年)頃の地誌や日記類を調べました。たとえば津軽を旅行した文人、菅江真澄(すがえ・ますみ)は著名でしたので、『菅江真澄全集』は丹念に読み込みました。そして、菅江真澄の津軽での足跡について、偽作説への反証論文(注②)も書きました。
 ところが、秋田孝季と『東日流外三郡誌』のことを記した「寛政元年酉八月」(1789年)の年次を持つ「宝剣額」が市浦村に存在していることを偶然に知りました。そのきっかけは次のようなことでした。

〝昨年(1993年)八月発行の歴史読本特別増刊号『「古史古伝」論争』に掲載された藤本光幸氏の論文「『東日流外三郡誌』偽書説への反証」中に、秋田孝季が山王日吉神社に奉納したとされる額の写真がある。印刷が不鮮明なため正確には読み取れなかったが、「寛政元年八月」「土崎」「秋田」という字が読み取れた。
 この額が現存していれば和田家文書真作説の有力な証拠となるはずである。さっそく、藤本氏に問い合わせてみたが、現在どこにあるか不明とのこと。そこで、今回(1994年5月)の調査目的の一つにこの奉納額の探索を加えたのだが、事態は二転三転、スリリングな展開を見せた。〟(注③)

 この「寛政宝剣額」の調査旅行を皮切りに、5年間に及んだ、わたしたちの津軽行脚がスタートしました。古田先生67歳。わたしは38歳のまだ若かりし日のことでした。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2569~2570話(2021/09/169〝『東日流外三郡誌』に使用された和紙(1)~(2)〟
②古賀達也「『山王日吉神社』考(3) 菅江真澄は日吉神社に行っていない」『古田史学会報』8号、1995年8月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga08.html
③古賀達也「特集/和田家文書 秋田孝季奉納額の「発見」 「和田家文書」現地調査報告」『古田史学会報』創刊号、1994年6月
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga01.html


第2570話 2021/09/16

『東日流外三郡誌』に使用された和紙(2)

 『東日流外三郡誌』を始めとする和田家文書に使用されている紙が明治時代末頃の和紙らしいことまでは分かってきたのですが、それを確認する方法はないものかと思案していたところ、古田先生が講演(注①)で次のようなことを話されました。

〝『丑寅風土記』(和田家文書)の先頭に和田末吉が、佐々木嘉太郎(五所川原の豪商)という紙問屋の御主人に対して感謝の言葉を書いてある。つまり寛政原本が古びて破損してきたので和田末吉が筆写しています。それが出来たのは、もっぱら和紙を提供していただいた佐々木嘉太郎さんのおかげであると、感謝の辞を筆写した文言の中に書き連ねている。
 和田末吉は不用になった大福帳を貰ってきて、それに『東日流外三郡誌』を筆写している。この「北斗抄」の最後のところに岐阜県の美濃の会社名の判子がいくつも押してありました。つまり和紙は美濃紙なのです。美濃紙のことを、岐阜県の博物館や美術館に行って郷土史に詳しい方にお聞きすれば、この判子は明治何年まで使っていました。そのようなことが分かるのではないか。〟〈講演録を古賀が要約〉

この講演を聴いた、当時岐阜県に住んでいた竹内強さん(古田史学の会・東海 会長)による執念の美濃紙調査が始まりました。この時のことを竹内さんは次のように報告されています(注②)。

〝講演終了後、「私は岐阜に住んでいます。一度調べてみましょうか。」と申し出ていた。こんな大変なことを素人の私が申し出たことを今思えば、冷汗の出る思いです。
 古田氏から渡された九枚の「北斗抄」のコピーをよく見ると四つに大別することができる。

 A、判印の無いもの
 B、岐阜市元濱町山下商店の角印
  「常盤」の大判、「ヤマセ」の記号(屋号)
 C、「岐阜市岡田商舗」の角印
  「八島」の大判、「マル小」の記号
 D、読みとれない角印「白龍」の大判、「カネト」の記号

 Cの「八島」の大判、岡田商舗の印の用紙は、明治三十年から明治末期までの間に「紙兵」の前身、玉井町に店のあった岡田商舗から売られた美濃和紙にまちがいない。(中略)
 美濃史料館の(中略)一番奥の資料展示室をのぞいて興奮した。なんと私が探していた、Dの大判「白龍」の版木がそこに展示してあるのだ。よくわからなかった角印も、更に見わたすとあの「カネト」の屋号の入った判天や提灯があちこちに置いてあるのです。
 係の人に話を聞くと、ここ今井家は、江戸時代からの庄屋で、その一方で和紙問屋も商っていた。当主は、代々今井兵四郎を名乗り明治三十年代に最も栄えたが、昭和十六年子孫が絶えて紙問屋も廃業となり、現在この建物は美濃市の管理となって、史料館として利用されているとのことです。
 これまでの調査の結果をまとめてみると、B、C、Dの紙がほぼ同時期の品物であれば明治三十年から四十年代末のものと思われる。〟

 和田家文書に捺されていた角印を手がかりに、現在は廃業している紙問屋の御子孫を探し出し、それらの問屋が明治末頃に操業していたことを突き止められたのです。竹内さんの執念の調査により、和田家文書に明治末頃の美濃和紙が使用されていたことが判明したのでした。この調査結果は真作説を決定づけるものです。戦後偽作説では、あれだけの大量の明治末頃の美濃和紙の入手を説明できないからです。

(注)
①古田武彦講演録「王朝の本質1 九州王朝から東北王朝へ」2003年6月29日、大阪市 毎日新聞社ビル六階研修センター。
②竹内強「寄稿 和田家文書『北斗抄』に使用された美濃和紙を探して」『和田家資料3 北斗抄 一~十一』藤本光幸編、北方新社、2006年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosa108/takeutim.html


第2569話 2021/09/16

『東日流外三郡誌』に使用された和紙(1)

 今から30年程前のことです。『東日流外三郡誌』の真偽が問題となった当時、わたしは和田家文書を偽作文書と思い、お叱りを受けることを覚悟して古田先生に数度にわたり意見しました。しかし、先生は頑として同書は真作であると主張され、論議は平行線をたどりました。そこでわたしは、古田先生の和田家文書調査に同行させてほしいとお願いしました。そして、1994年5月に古田先生と二人で五所川原市を訪問し、所有者の和田喜八郎さんと支援者の藤本光幸さん(共に故人)にお会いし、和田家文書を初めて見ることができました。その経緯は『古田史学会報』(注①)に掲載しました。
 そのときの第一印象は、紙質や墨跡などの状況から戦後になって偽作されたものとは思えず、また、失礼ながら和田喜八郎さんが執筆に必要な歴史教養をお持ちとはとても感じられないというものでした。しかし、それだけでは学問的根拠にはなりませんので、文面だけではなく、使用された和紙の調査、大福帳などの裏紙再利用の場合は裏面の文字や内容に至るまで調べました。更に専門家の意見を聞くために和田家文書の一部をお預かりして、紙の調査も行いました。その結果、お二人の方から所見を聞くことができました。
 お一人は中井康さん(故人)。わたしの元勤務先の上司(研究開発部長、京都工芸繊維大学卒)で、和紙や繊維・染料の専門家です。わたしとの質疑応答については『古田史学会報』(注②)に掲載しました。

 「紙質については、和紙や染料に造詣が深い、中井康さん(山田化学工業(株)相談役・京都工芸繊維大学卒)に見ていただいたところ、手漉の和紙であるとの見解を得た。他の文書も同様であった。」『古田史学会報』8号

 もうお一人は、『北海道史』編纂に関わられた永田富智さん(故人)です。1996年8月、北海道松前町阿吽寺での聞き取り調査で次のように証言されました(注③)。

〈永田さん〉それ(『東日流外三郡誌』)を私が見せてもらった時(昭和46年)に、一番最初に感じたのは、まず、たくさんの記録が書かれてありますが、その記録は古いものではないということです。それから、墨がそんなに古いものではない。だいたい明治の末期頃のものだという感じを受けました。
 それは何故かというと、だいたい明治の末頃にはやりだした機械織りの和紙がありまして、その和紙を使っているということです。
 (中略)
〈古賀〉『東日流外三郡誌』は山内英太郎さんの御自宅で見られたのですか。
〈永田さん〉市浦村の村役場の中です。
〈古賀〉数にして二百冊から三百冊をその時点で見られたのですね。
〈永田さん〉はい。
〈古賀〉それは明治の末頃の紙に、だいたい明治時代に書かれたものと考えてよろしいでしょうか。
〈永田さん〉はい。
〈古賀〉たとえば、戦後になって最近書いたものだとか。
〈永田さん〉いや、そういうふうには感じません。
〈古賀〉そういうふうには見えなかったということですね。
〈永田さん〉はい。

 永田さんは『北海道史』編纂に関わられた中近世史の専門家で、多くの古文書を調査されてきた研究者です。この理系と文系の専門家による見立ては、「手漉きの和紙」あるいは「明治の末頃にはやりだした機械織りの和紙」というもので、和田家文書は戦後の紙ではないという心証を強めるものでした。
 この紙質調査はその後さらに進展を見せます。竹内強さん(古田史学の会・東海 会長)による執念の美濃紙調査です。(つづく)

(注)
①古賀達也「『新・古代学』のすすめ ―「平成・諸翁聞取帳」―」『古田史学会報』8号、1995年8月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga08.html
②同①
「永田富智氏へのインタビュー 昭和四六年『外三郡誌』二百冊を見た ―戦後偽作説を否定する新証言―」『古田史学会報』16号、1996年10月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou16/kaihou16.html

北斗抄 美濃和紙

北斗抄 美濃和紙  B、岐阜市元濱町山下商店の角印   「常盤」の大判、「ヤマセ」の記号(屋号)  C、「岐阜市岡田商舗」の角印   「八島」の大判、「マル小」の記号  D、読みとれない角印「白龍」の大判、「カネト」の記号

故竹内強氏

古田史学の会・東海 第3代会長故竹内強氏


第2568話 2021/09/15

『東日流外三郡誌』山王坊の磐座

 前話で紹介した拙稿「和田家文書と考古学的事実の一致」(注①)には、追記として山王坊(山王日吉神社)の発掘調査で発見された磐座前の三列石が『東日流外三郡誌』に見えることを紹介しました。これなども発掘調査で発見されたことであり、このことも和田家文書の真作性をうかがわせるものです。また、山王日吉神社にそのような「石塔」があることが『東日流外三郡誌』(注②)にも次のように記されています。

 「安部求道記
 十三山王の渓水を汲みて掌を清め、生垣を見越しに崇む十三宗の伽藍、山門より境内に参ずれば、香々たる法場のかんばせに、知らず歩を駐めて仰ぐ老樹の梢霞かかりて、枝々にほろほろと鳴く山鳥の声、寂々たる仙境にこだまむ。
 苔の華は、古墓、石塔に衣となり、老木に含む露雫わがすずかけをぬらしめり。
 十三宗の仏堂みな香灯仏壇に献ぜられ、あたかも天竺、支那の正伝仏陀の世界を感応す。六根清静各堂参礼なし、以て三(ママ)王権現日吉神社の大鳥居神々しき聖域の威ぞ尚顕しぬ。(後略)」

 このように山王日吉神社に「古墓、石塔」があったと記されています。『東日流外三郡誌』の「十三宗三神社山王坊図」の右上部分に「古墓、石塔」が小さく描かれており、和田家文書が往時の山王日吉神社の景観をかなり正確に伝承していたことがうかがえます。拙稿の【追記】当該部分を転載し、皆さんに紹介します。

【以下転載】
和田家文書と考古学的事実の一致
 ―『東日流外三郡誌』の真作性― 京都市 古賀達也

【追記】
 加藤孝氏の山王坊調査報告『「中世津軽日吉神社(仮称)東本宮社殿列石考(その一)』(『東北文化研究所紀要』十八号、一九八六)によると、山腹の社殿東側に「磐座」の存在が報告されている。

 「本社殿跡北方に位置し、約三〇・〇〇メートル北方の傾斜地に長三角形一辺三・〇〇メートル程の安山岩質の大石が一基あって、その前方一〇・〇〇メートル前方に、平坦な礎石様の上面 の平らな安山岩質の石が、三基接近して置いてある。
 この長三角型の大石が、この日吉神社の磐座と考えられるのである。何故なれば、この磐座に当る長三角型大石から南方線を延長すると、本社殿の中軸線を貫き、舞殿跡、渡廊跡の南北中軸線に重なり、さらに、拝殿跡の南北中軸線に重複するからである。」

 この報告で注目されるのが、磐座の存在と三基の列石である。なぜならば、『東日流外三郡誌』北方新社版第五巻二九七頁、「十三宗三神社山王坊図」の当該場所に「石造物」らしきものが三基記されているからだ。描かれた位置や三基という数の一致は偶然とは思えない。これも『東日流外三郡誌』と考古学的事実との貴重な一致点ではあるまいか。 
 このように和田家文書と考古学的事実の見事な対応関係は真作説の有力な根拠であり、同時に和田喜八郎氏の偽作など、とうてい不可能な事柄であることを指し示すのである。『東日流外三郡誌』を先入観を排して、謙虚に見据える時、多くの学的収穫が得られる。
 そうした発見は現在もなお続出しているが、順次報告していきたい。まことに和田家文書は驚くべき「一大伝承史料群」であった。

(注)
①古賀達也「和田家文書と考古学的事実の一致 ―『東日流外三郡誌』の真作性―」『古田史学会報』4号、1994年12月。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga04.html
②『東日流外三郡誌』第五巻、北方新社版、271頁。


第2567話 2021/09/14

『東日流外三郡誌』の山王日吉神社

 「洛中洛外日記」2564話(2021/09/11)〝「東京古田会」月例会にリモート初参加〟では、津軽の福島城の築造年が通説よりも和田家文書の方が正しかったことが発掘調査により判明したことを紹介しました。そのことを『古田史学会報』(注)で発表しましたが、市浦村の山王日吉神社についても発掘調査により『東日流外三郡誌』の記述通りの遺構が出土したことを同稿で発表しました。その部分を下記に転載します。

【以下転載】
和田家文書と考古学的事実の一致
 ―『東日流外三郡誌』の真作性― 京都市 古賀達也

山王坊遺跡の配置

 和田家文書と考古学的事実との一致については早くから指摘されていた。例えば、福島城の北方にある山王坊遺跡(現日吉神社を含む一帯)である。坂田泉氏は「津軽山王坊における日吉神社の建築」(『東北古代史の研究』所収、高橋富雄編。昭和六一年、吉川弘文館。)において、昭和五七、五九年における発掘調査結果 と『東日流外三郡誌』に記されている山王坊絵図が一致することを次のように述べておられる。

 「調査により大石段が現実のものとして三図(『東日流外三郡誌』所収の三枚の絵図。下ABC図)と同じ形式で出現した。」
 「このC図の神社周辺の描写 は調査により判明した拝殿跡と西側小石段跡と、現在の参道との関係に近似している。この大石階の中央に、巨大な老杉の切株が残存していた。これは樹齢約三〇〇年とされ、伐採は日露戦争当時であるから、逆算すると約四〇〇年前にこの大石階は地下に埋没して人の目から隠されたことになる」※()内は古賀。

 このように、昭和五七、五九年の発掘調査により四〇〇年ぶりに明らかとなった山王坊跡の配置が、『東日流外三郡誌』の絵図と一致しているのである。更に、発掘により一致が明らかとなったのは、伽藍配置だけではなかった。『東日流外三郡誌』市浦村史中巻にある「十三福島城之秘宝」に山王坊の盗掘の記事が見える。

「秘宝の行方何れの像にも未だそれとなる
 謎銘もなく、山王坊跡に土を掘る者しきりなり。」

 そして坂田氏は次のように指摘している。

 「このような宝物が、山王坊に多く所蔵されていたとの記事を、無数に『外三郡誌』から拾うことができる。事実、今回の発掘調査においてもその跡らしい穴をみたのである。」

 もう一つ、『東日流外三郡誌』によれば山王坊は日枝神社のみを残し、他は焼討ちにより焼失したことが記されている。たとえば次の記事だ。

 「南部守行が焼討てる戦のあとぞ十三宗の軒跡今は范々たる草にむす半焼の老樹その昔を語る。奥高き所に日吉神社唯一宮残りしもいぶせき軒に朽ち、施主滅亡のあとに従へ逝くが如くに見ゆるなり。」(「十三往来巡脚記」)

 これに対し、山王坊遺跡の山麓大型礎石はすべてに火災の跡が見られるが、大石階や山腹の諸遺跡には焼失の跡はないことが指摘されており、ここでも『東日流外三郡誌』の内容と発掘調査結果 が一致しているという。
 配置図といい、盗掘や火災の状況など、昭和五七年の発掘調査後でなければ知ることが不可能な事実が、『東日流外三郡誌』には記されていたのである。
 こうした坂田氏(東北大学工学部)の指摘を紹介した以上、今後この問題を偽作論者は避けてはならない。

(A図)十三山王図 市浦村史版
(B図)十三山王金剛界 市浦村史版
(C図)十三宗図 市浦村史版

(注)古賀達也「和田家文書と考古学的事実の一致 ―『東日流外三郡誌』の真作性―」『古田史学会報』4号、1994年12月。

十三湊日吉ノ神社(中世津軽) 鳥居 C図十三宗図 市浦村史版 山王坊配置図 中世津軽十三湊日吉ノ神社


第2564話 2021/09/11

「東京古田会」月例会にリモート初参加

 本日は東京古田会月例会にリモートで参加させていただきました。リモートでの月例会参加やスカイプ使用は初めてでしたが、トラブルもなく楽しく参加できました。関東の研究者の皆さんとはいつでもお会いできるわけではありませんから、リモート参加も良いものです。
 今回は和田家文書をテーマとする月例会(和田家文書研究会)で、安彦克己さんと藤田隆一さんによる下記の発表がありました。事前に資料が同会アーカイブに用意されていたこともあり、内容もよく理解できました。

○「奥州仏教伝来」 安彦克己さん
○「十三湊明神 願文」「十三往来」(『津軽一統志』附巻)の解説 藤田隆一さん

 いずれも勉強になりました。藤田さんは十三湊や山王日枝神社、福島城跡現地調査時の写真なども紹介され、30年ほど昔に古田先生と訪れた地でしたので、とても懐かしく思いました。なかでも、福島城については、その築造年が通説よりも和田家文書の記録の方が正しかったということが発掘調査により判明し、和田家文書は真作であることが証明されました。そのことを『古田史学会報』(注)で次のように発表しましたので、抜粋して紹介します。

和田家文書と考古学的事実の一致
 ―『東日流外三郡誌』の真作性― 京都市 古賀達也

福島城の築造年代
 東北地方北部最大の城館遺跡として知られる、福島城跡(青森県市浦村)は昭和三〇年に行われた東京大学東洋文化研究所(江上波夫氏)による発掘調査の結果、築造年代は安藤氏の城という所伝から南北朝~室町のころ(十四~十五世紀)のものとされ、長く通説となっていた。
 また文献史学の立場からも、秋田家で発見された『十三湊新城記』の次の記事を根拠に正和年中(一三一二~一三一六)の築城とする説が出されている(佐々木慶市「中世の津軽安藤氏の研究」『東北文研究所紀要』十六号所収。一九八四年十一月、東北学院大学発行)。
 (中略)
 ところが、一九九一年より三ヶ年計画で富山大学考古学研究所と国立歴史民俗博物館により同城跡の発掘調査がなされ、その結果福島城遺跡は平安後期十一世紀まで遡ることが明らかとなった(小島道祐氏「十三湊と福島城について」『地方史研究二四四号』所収。一九九三年八月)。そして『東日流外三郡誌』には福島城の築城は承保元年(一〇七四)と記されており、従来の通説とは異なっていた。
  福島城 別称視浦館
  城領半里四方 城棟五十七(中略)
  承保甲寅元年築城
  (『東日流外三郡誌』北方新社版第三巻、一一九頁、「四城之覚書」)
 近年の発掘成果により『東日流外三郡誌』ではなく通説の方が覆ったのである。このような考古学的新知見と和田家文書の見事な一致は真作説にとって有利な根拠と言える。(後略)

(注)古賀達也「和田家文書と考古学的事実の一致 ―『東日流外三郡誌』の真作性―」『古田史学会報』4号、1994年12月。


第2553話 2021/09/02

『多元』No.165の紹介

 本日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.165が届きました。前号の「太宰府、「倭の五王」王都説の検証 ―大宰府政庁編年と都督の多元性―」に続いて、「倭の五王」の王都をテーマとした拙稿「太宰府、「倭の五王」王都説の限界 ―九州大学「坂田測定」の検証―」を掲載していただきました。
 本年11月に開催される、「倭の五王」をテーマとする〝八王子セミナー2021〟のために執筆したものですが、同セミナーでの実りある論議を期待して、事前にわたしの考えを明示し、考古学的事実の情報共有化を目指しました。なお、『多元』を読まれていない参加者のために、同セミナー「予稿集」に当該論稿を資料として掲載したいと考えています。
 本号掲載の論稿で、〝これは面白いな〟と思ったのが安彦克己さん(東京都港区)の「『和田家文書』で読む『渡島(渡嶋)』」でした。安彦さんの検証によれば、「和田家文書」に見える「渡島(渡嶋)」は「おしま」と訓まれており、北海道のこととされました。
 『日本書紀』などにも「渡嶋」が見えますが、こちらについては下北半島(宇曽利・糠部地方)にあった「渡嶋(わたりしま)」とする合田洋一さんの研究(注)が著書『地名が解き明かす古代日本』にあり、通説の北海道説を批判されています。この合田説は詳細な地名調査などに基づいており、通説よりも有力とわたしは評価してきました。しかし、今回の安彦さんの検証結果が異なっていたので、興味深く思ったしだいです。
 合田さんは『地名が解き明かす古代日本』で、〝この『東日流外三郡誌』では「渡嶋」を北海道としている。これについては、この書は寛政年間つまり江戸時代中期に、史料収集・編纂されたものであり、編者の秋田孝季・和田長三郎吉次の歴史観によるところが大きい。そのため、六国史の「渡嶋」を北海道と見なしたものと考える。〟(141頁)とされています。
 もしかすると、「渡嶋(おしま)」と「渡嶋(わたりしま)」は漢字では共に「渡嶋」ですが、本来は異なる時代の異なる地域だったのでしょうか。安彦さんや合田さんにより、和田家文書や「渡嶋」研究が更に深まることを願っています。

(注)合田洋一「第I部 渡嶋と粛慎 ―渡嶋は北海道ではない―」『地名が解き明かす古代日本 ―錯覚された北海道・東北―』ミネルヴァ書房、2012年。


第2390話 2021/02/24

「古田・桐原対談」録音テープを発見

 昨日の正木裕さんの奈良講演会(「古代大和史研究会」主催)の終了後、参加されていた水野孝夫さん(古田史学の会・顧問、前代表)のご自宅を訪問しました。蔵書などを処分されるとのことで、事前に貴重な書籍をいただきました。その際、水野さんが保管されていた古田先生関連の録音テープを調査したところ、平成9年に京都市で行った桐原正司氏との対談録音テープを発見しました。
 このテープは平成9年4月9日、京都駅前の京都タワーホテルの会議室をお借りして行った対談記録で、参加者は桐原正司さん、古田先生、水野孝夫さん(当時、古田史学の会・代表)と古賀(当時、古田史学の会・事務局長)の四名で、会談は二時間以上に及んだと記憶しています。当初はビデオ録画も予定していましたが、桐原さんが拒まれたため取りやめ、音声収録のみとなりました。
 当時、安本美典氏らを中心とする〝和田家文書偽作キャンペーン〟により、古田先生へのいわれなき誹謗中傷が酸鼻を極め、特にひどいものには、古田先生が桐原さんへ偽書作成依頼をしたという、名誉毀損もありました。そこで「古田史学の会」としても、そうした〝濡れ衣〟をはらし、真実を明らかにするため、当事者として名前を出された桐原さんに対談を申し入れ、偽書作成依頼などの事実がないことを証言していただきました。
 この対談を含め、わたしは古田先生と共に二度ほど桐原さんとお会いしたことがあります。二度目は京都駅前の阪急ホテルのラウンジで、桐原さんのお嬢さんもご一緒でした。そのときの様子は和気藹々とした雰囲気で、お嬢さんの勉学の様子などを古田先生は聞かれていました。
 こうした経緯により、この録音テープは貴重な証言記録なのです。テープが経年劣化している恐れもありますので、専門業者による再生テストとCDへのダビングを依頼する予定です。その後の取り扱いについては「古田史学の会」で検討したいと思います。