第2567話 2021/09/14

『東日流外三郡誌』の山王日吉神社

 「洛中洛外日記」2564話(2021/09/11)〝「東京古田会」月例会にリモート初参加〟では、津軽の福島城の築造年が通説よりも和田家文書の方が正しかったことが発掘調査により判明したことを紹介しました。そのことを『古田史学会報』(注)で発表しましたが、市浦村の山王日吉神社についても発掘調査により『東日流外三郡誌』の記述通りの遺構が出土したことを同稿で発表しました。その部分を下記に転載します。

【以下転載】
和田家文書と考古学的事実の一致
 ―『東日流外三郡誌』の真作性― 京都市 古賀達也

山王坊遺跡の配置

 和田家文書と考古学的事実との一致については早くから指摘されていた。例えば、福島城の北方にある山王坊遺跡(現日吉神社を含む一帯)である。坂田泉氏は「津軽山王坊における日吉神社の建築」(『東北古代史の研究』所収、高橋富雄編。昭和六一年、吉川弘文館。)において、昭和五七、五九年における発掘調査結果 と『東日流外三郡誌』に記されている山王坊絵図が一致することを次のように述べておられる。

 「調査により大石段が現実のものとして三図(『東日流外三郡誌』所収の三枚の絵図。下ABC図)と同じ形式で出現した。」
 「このC図の神社周辺の描写 は調査により判明した拝殿跡と西側小石段跡と、現在の参道との関係に近似している。この大石階の中央に、巨大な老杉の切株が残存していた。これは樹齢約三〇〇年とされ、伐採は日露戦争当時であるから、逆算すると約四〇〇年前にこの大石階は地下に埋没して人の目から隠されたことになる」※()内は古賀。

 このように、昭和五七、五九年の発掘調査により四〇〇年ぶりに明らかとなった山王坊跡の配置が、『東日流外三郡誌』の絵図と一致しているのである。更に、発掘により一致が明らかとなったのは、伽藍配置だけではなかった。『東日流外三郡誌』市浦村史中巻にある「十三福島城之秘宝」に山王坊の盗掘の記事が見える。

「秘宝の行方何れの像にも未だそれとなる
 謎銘もなく、山王坊跡に土を掘る者しきりなり。」

 そして坂田氏は次のように指摘している。

 「このような宝物が、山王坊に多く所蔵されていたとの記事を、無数に『外三郡誌』から拾うことができる。事実、今回の発掘調査においてもその跡らしい穴をみたのである。」

 もう一つ、『東日流外三郡誌』によれば山王坊は日枝神社のみを残し、他は焼討ちにより焼失したことが記されている。たとえば次の記事だ。

 「南部守行が焼討てる戦のあとぞ十三宗の軒跡今は范々たる草にむす半焼の老樹その昔を語る。奥高き所に日吉神社唯一宮残りしもいぶせき軒に朽ち、施主滅亡のあとに従へ逝くが如くに見ゆるなり。」(「十三往来巡脚記」)

 これに対し、山王坊遺跡の山麓大型礎石はすべてに火災の跡が見られるが、大石階や山腹の諸遺跡には焼失の跡はないことが指摘されており、ここでも『東日流外三郡誌』の内容と発掘調査結果 が一致しているという。
 配置図といい、盗掘や火災の状況など、昭和五七年の発掘調査後でなければ知ることが不可能な事実が、『東日流外三郡誌』には記されていたのである。
 こうした坂田氏(東北大学工学部)の指摘を紹介した以上、今後この問題を偽作論者は避けてはならない。

(A図)十三山王図 市浦村史版
(B図)十三山王金剛界 市浦村史版
(C図)十三宗図 市浦村史版

(注)古賀達也「和田家文書と考古学的事実の一致 ―『東日流外三郡誌』の真作性―」『古田史学会報』4号、1994年12月。

十三湊日吉ノ神社(中世津軽) 鳥居 C図十三宗図 市浦村史版 山王坊配置図 中世津軽十三湊日吉ノ神社

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