第3099話 2023/08/24

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (3)

 喜田貞吉のショッキングな仮説(親鸞「無学の坊主」説)は、親鸞自筆『教行信証』坂東本(東本願寺蔵)の研究により葬り去られました。しかし、〝もし「教行信証」が本当に親鸞の著作なら、何代も前の天皇である土御門を、あやまって「今上」などと呼ぶはずはない。〟とする喜田指摘の論理性は有効です(注①)。この喜田の学問の方法は、後の法隆寺再建論争のときの主張と同類のものです。

 『日本書紀』天智十九年条(670年)に、「法隆寺に火つけり。一屋余すなし。」と書かれていることを根拠に、喜田は〝燃えてもいない寺が燃えてなくなったなどと『日本書紀』編者は書く必要がない〟と主張しました。文献史学の視点からは、この意見はもっともなものです。しかし当時は、現存する法隆寺(西院伽藍)の建築様式や佛像などが古い時代のものであるとする、建築史や仏教美術史の立場による実証的な非再建説が有力で、『日本書紀』の記事は干支一巡(670年→610年)間違っているのではないかと反論されました。すなわち、720年に成立した『日本書紀』に記された、その50年前の火災記事よりも、現存する法隆寺という物証が優先するという反対論が説得力を有していたのです。ところが若草伽藍の火災跡出土により、同論争の趨勢は逆転し、喜田の再建説が通説となりました。これは文献史学による論証が、建築史などによる実証的な根拠(西院伽藍の年代)を覆したケースです(注②)。

 今回紹介した『教行信証』の「今上」問題も、何代も前の天皇を「今上」とはいわない、とする喜田の主張は、燃えてもいない寺を燃えてなくなったなどと書く必要がない、とする論証方法と同じ学問の方法なのですが、その結論「教行信証は親鸞の真作ではない」は、親鸞自筆『教行信証』坂東本の筆跡調査という実証的研究により否定されました。

 喜田の批判精神は、同じ学問の方法を駆使したにもかかわらず、後の法隆寺再建論争とは真逆の結論に至ったのです。これはとても興味深い現象です。この問題に決着をつけたのが、古田先生の論証と実証的研究方法でした。(つづく)

(注)
①喜田よりも早く「今上」問題の核心を表明した論稿がある。長沼賢海氏が『史学雑誌』に連載した「親鸞聖人論」(明治43年)だ。別述したい。
②喜田の再建説で一旦は決着がついた法隆寺論争だが、その後、より根源的な問題(年輪年代測定による五重塔心柱の伐採年が594年)が発生した。この点、後述する。

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