第3098話 2023/08/23

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (2)

 喜田貞吉氏の研究分野は日本古代史をはじめ考古学や郷土史など広い分野に及んでいます。なかでも法隆寺の再建・非再建論争は日本古代史研究において有名な論争でした。本シリーズにおいて後述します。

 他方、親鸞研究においても喜田はショッキングな仮説(親鸞「無学の坊主」説、注①)を提起し、大正時代に大論争を巻き起こしています。それは『教行信証』に関するもので、最終的には古田先生の研究により決着したというテーマでした。『教行信証』は親鸞の代表作の一つで、生涯にわたり手元に置いて添削し抜いた親鸞思想を表現した一書です。ところがこの『教行信証』を偽作とする説を喜田貞吉が発表し、熾烈な論争が行われたのです。この背景と当時の状況を古田先生は次のように綴っています(注②)。

 〝親鸞の主著、ライフワークをなす著述、それは「教行信証」である。その書には、三つの序文がある。総序、信巻序、後序だ。いずれにも、幾多の問題が存在したが、中でも殊に奇妙な「矛盾」があったのは、総序中の「今上」の一語である。

号土御門院
今上〈諱為仁〉聖暦承元丁卯歳仲春(下略)

 右で「今上」と呼ばれているのは、土御門天皇だ。在位期間は「一一九八(三月)~一二一〇(十一月)」である。年号は、正治・建仁・元久・建永・承元と経緯している。最後の「承元」の場合、「承元元年(一二〇七)十月二十五日~承元五年(一二一一)三月九日」の間である。したがってこの期間内であれば右の「今上――承元」の表現が成立しうるのである。

 ところが、これは親鸞三十五歳から三十九歳に当る。越後流罪中だ。だが、こんな時期に「教行信証」が撰述された、と考える論者はまずいない。江戸時代以来、元仁元年(一二二四)、親鸞五十二歳の成立とされてきた(わたしも、これを再論証した)。(中略)

 実はこの点、大正十一~十二年の間に、熾烈な論争が行われた。提起者は、のちに法隆寺再建論争で有名となった喜田貞吉。もし「教行信証」が本当に親鸞の著作なら、何代も前(「元仁」は後堀河天皇。土御門――順徳――仲恭――後堀河。晩年は、四条、後嵯峨、後深草、亀山の各天皇)の天皇である土御門を、あやまって「今上」などと呼ぶはずはない。したがって教行信証は親鸞の真作に非ず、という、驚くべき帰結を提示したのであった。

 これに対して本願寺系等の各学者は怒り、こぞってこれを攻撃した。その烈しい論争の中で、喜田は“親鸞は無学。代作者に依頼して本書を書いてもらったのであろう”とし、その代作候補者の名前まであげるに及んで、彼の立場は一種グロテスクな色合いさえ帯びたのであった。〟※〈〉内は細注。

 こうした論争が続き、その後、親鸞自筆の坂東本『教行信証』(東本願寺蔵)の研究が進み、喜田の憶説は葬り去られました。しかし、その立論の発起点たる「今上」問題そのものは解決されたわけではありませんでした。ここに喜田貞吉の批判精神と学問の方法が見えてきます。(つづく)

(注)
①古田武彦「現代との接点を求めて Ⅰ晩年の親鸞」『わたしひとりの親鸞』(明石書店、2012年)による。「晩年の親鸞」部分の初出は『伝統と現代』39号、1976年。
②同「家永第三次訴訟と親鸞の奏状」『市民の古代』増補版 第2集、市民の古代研究会編、1984年。『古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編Ⅱ』(明石書店、2002年)に収録。

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