史料批判一覧

第2642話 2021/12/21

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (1)

 12月18日の「古田史学の会」関西例会で、野田利郎さんが『旧唐書』倭国伝の「去京師一萬四千里」という記事の里程についての新解釈を発表されました。唐の都(長安・洛陽)から倭国の都(福岡、大阪)までの実距離が短里(1里約77m)でも唐代の長里(1里約560m)でも、あるいはその「混合」でも一致しないため、起点の「京師」を山東半島の東莱として、「一萬四千里」を短里とする新説です。学問研究は仮説の発表と真摯な検証や論争により深化しますので、こうした新説が出されることは良いことです。
 実は同テーマについてはかなり以前にわたしも友人と検討したことがあり、懐かしく思いました。良い機会ですので、そのときの検討結果とそこに至る学問の方法について紹介することにします。もちろん、どの仮説が最も説得力を有するのかは、仮説の発表者ではなく、それを聞いた人々の判断に委ねられます。
 本テーマのような中国史書の内容についての読解を論じる場合には次のような基本的視点が必要と考えています。

(1) 史料性格を把握し、史料がどの程度真実を伝えているのかを確認する。〔史料批判〕
(2) 現在の常識や知識ではなく、当時の史料編者や読者の認識で理解する。〔フィロロギー〕
(3) 必要にして十分な根拠もなく、原文改訂してはならない。
(4) 写本間に異同がある場合は、史料批判の結果、最も信頼できる写本に依拠する。
(5) 史料批判を経た上で、同時代史料を優先する。

 以上のような視点が重要ですが、いずれも古田先生から学んだことです。(つづく)


第2629話 2021/12/06

水城築造年代の考古学エビデンス (7)

 水城第35次調査で、基底部から出土した敷粗朶の炭素年代測定値に200~400年のひらきがあるため、パリノ・サーヴェイ株式会社の報告書(注①)の最後には、「各1点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」とありました。そこで、その後の追加調査報告を探したところ第38次調査報告書(注②)にありました。
 第38次調査で水城から出土した木杭(SX181)の外皮1点を測定する際に、第35次調査で検出した敷粗朶サンプル3点を追加測定したものです。既に測定していたサンプルの測定値も含めて、下記の通りです。

○第35次発掘調査(2001) 東土塁南側下成土塁
 敷粗朶層サンプル中央値 660年(最上層)、430年(坪堀1中層第2層)、240年(坪堀2第2層)
 (第38次調査出土木材測定時に追加測定)
 暦年較正年代(1σ) 粗朶540~600年、葉653~760年、葉658~765年

 このように、追加サンプルの測定値は6世紀から8世紀を示しています。従って、240年や430年を示すサンプルは、「古い時代の流木が積土中に混入した」(注③)と見てよいようです。
 ちなみに、第38次調査で出土した木杭の測定値は8世紀から9世紀を示していることから、水城完成後の修理や補強で使用されたものと思われます(注④)。

○第38次調査(2004) 西門北西平坦面・西土塁丘陵取付部
 暦年較正年代(1σ) 木杭(外皮)777~871年

 更に第40次調査で基底部から出土した木片(敷粗朶)と炭化物の測定も行われており、いずれも7世紀後半から8世紀前半の測定値を示しています(注⑤)。

○第40次調査(2007) 西門木樋吐水部・外濠部
 暦年較正年代(1σ) 敷粗朶木片675~719年(41.7%)・742~769年(26.5%)、炭化物675~718年(42.0%)・743~769年(26.2%)

 以上の様に、水城築造時の考古学エビデンスとなる堤体内出土木材・炭化物の測定値の多くが7世紀後半以降を示しており、土器編年とも整合しています。従って、水城を5世紀「倭の五王」時代の築造とする仮説には、安定したサンプリング条件に基づく確かな考古学エビデンスはなく、成立困難と言わざるを得ません。(おわり)

(注)
①『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年、142頁。②『水城跡 下巻』九州歴史資料館、2009年、327~332頁。
③『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年、135頁。④同②。
⑤同②。


第2624話 2021/11/30

『東京古田会ニュース』No.201の紹介

 本日、『東京古田会ニュース』201号が届きました。拙稿「古代日本の和製漢字(国字) ―多利思北孤の『新字』―」を掲載していただきました。わが国における国字の発生が多利思北孤の時代まで遡ることを金石文や史料を上げて紹介した論稿です。例えば、「鵤(いかるが)」もその一例で、七世紀の金石文「観音像造像記銅板」銘文(注)に見えます。
 今号も好論が多かったのですが、中でも藤田隆一さん(足立区)の「ネット版『和田家資料』を制作」に注目しました。インターネット上で『和田家資料』(北方新社刊・藤本光幸編)を読めるサイト作成の報告がなされており、藤田さんの膨大な作成作業により、多くの人が和田家文書に触れることができるようになりました。和田家文書研究が加速されることと思います。藤田さんに厚く感謝します。
 論文としては久保玲子さん(藤沢市)の「南信濃から見えてきた古代『塩の道・馬の道』見つかった古代『塩の道』」が、信濃の土地勘に乏しい私にはとても勉強になりました。特に東信濃地方に「○○将軍塚古墳」という名称を持つ前方後円墳が多数存在しているというご指摘は興味深く思いました。

(注)
法隆寺「観音像造像記銅板」銘文
(表)
甲午年三月十八日鵤大寺德聡法師片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師三僧所生父母報恩敬奉觀世音菩薩
像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覺
(裏)
族大原博士百済在王此土王姓


第2599話 2021/10/21

佐藤隆さん(大阪歴博)の論文再読(1)

 多元的古代研究会の例会にリモート参加し、勉強させていただいています。そのおり、同じくリモート参加されていた荻上紘一先生(注)がエビデンスの重要性を述べられていました。歴史学におけるエビデンスとしては、文献や金石文・木簡などの史料根拠と考古学的出土事実などが相当しますが、これらが明示されていない研究や仮説の発表は学問的な手続きを欠いたもので、学問の世界では評価されません。ですから、荻上先生のご指摘は極めて真っ当で重要なことです。
 そこで問題となるのが考古学分野のエビデンスです。発掘調査の結果、遺物がどの遺構のどの層位からどのような状態で出土したのかという出土事実は報告書に詳述されますが、その出土事実に対する解釈が考古学者により異なる場合が少なくありません。しかし、歴史学的には、この解釈が遺構や遺物の歴史的位置づけや史料価値を決めますので、とても重要です。たとえば、どこから何が出土しても、大和朝廷や『日本書紀』の記事と関連付けて解釈する報告書が大半で、その結果、出土事実から描かれた歴史像がゆがんでしまうこともあるからです。
 ですから、わたしは考古学論文や発掘調査報告書の〝解釈〟部分を読む場合は、筆者が出土事実(考古学)と大和朝廷一元史観(文献史学)のどちらに基づいているのかを注視してきました。そうしたなかで、わたしの基本的歴史観(多元史観・九州王朝説)とは異なっていても、優れた考古学論文に出会うことが少なからずありました。その筆頭が大阪歴博の考古学者、佐藤隆さんの論考でした。(つづく)

(注)「古田武彦記念 古代史セミナー」実行委員長。大学セミナーハウス・理事長。元東京都立大学総長、元大妻女子大学学長。2021年、瑞宝中綬章受章。


第2590話 2021/10/12

『古田史学会報』166号の紹介

 『古田史学会報』166号が発行されましたので紹介します。
一面には、9月18日に亡くなられた竹内強さん(全国世話人、古田史学の会・東海会長)への弔辞として、故人の思い出と研究業績を綴らせていただきました。古田先生や古田史学を守り続けてきた同志のご逝去は耐えがたい悲しみです。

 本号で、わたしがもっとも注目したのは野田さんの論稿です。『隋書』の表記「自A以東」において、「以東」の中にAを含むのか含まないのかという文法についての研究で、当時の人々の文法認識に迫る点では、フィロロギーに関わるテーマです。従来の研究では〝含む場合もあれば、含まない場合もある〟という説が有力だったのですが、それでは『隋書』の中の重要な位置情報が、読む人の主観に任されるという懸念があり、わたしは疑問に感じていました。野田稿では『隋書』の史料批判の結果、含まないとされました。野田説の当否は置くとしても、こうした位置情報に関して、含むのか含まないのかという基本的な文法に曖昧さを残さないという研究は貴重と思いました。

 正木さんの論稿は、『赤渕神社縁起』(兵庫県朝来市)を史料根拠とする九州王朝の天子、伊勢王の事績研究です。七世紀における九州王朝史研究の基本論文の一つではないでしょうか。

 大原さんの論稿は関西例会で論議を巻き起こした研究です。『日本書紀』斉明紀に見える「狂心の渠」を水城のこととする古田説を深化させたもので、更なる論議検証が期待されます。

 166号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』166号の内容】
○竹内強さんの思い出と研究年譜 古田史学の会・代表 古賀達也
○「自A以東」の用法 ―古田・白崎論争を検証する― 姫路市 野田利郎
○九州王朝の天子の系列(3) 『赤渕神社縁起』と伊勢王の事績 川西市 正木 裕
○『無量寺文書』における斉明天皇「土佐ノ國朝倉」行幸 高知市 別役政光
○狂心の渠は水城のことだった 京都府大山崎町 大原重雄
○「壹」から始める古田史学・三十二
多利思北孤の時代Ⅸ ―多利思北孤の「太宰府遷都」― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己


第2583話 2021/09/29

『東日流外三郡誌』公開以前の和田家文書(3)

 「金光上人」史料を開米智鎧氏が紹介

 昭和24年に編纂された『飯詰村史』(注①)にて、和田家史料「役小角」関連遺物(銅銘板、舎利壺等)の調査報告「藩政前史梗概」を発表した開米智鎧氏(注②)は、次に和田家文書中の「金光上人」関連史料の研究を昭和39年(1964)に出版されます。『金光上人』(全288頁。注③)です。同書「序説」には、刊行までの経緯を次のように記されています。

 「野僧昔日芝中在学中、故平沢謙純先生の指示を体し、日夜に係念すること五十年、一も得る所ありませんでしたが昭和二十四年「役行者と其宗教」のテーマで、新発見の古文書整理中、偶然曙光を仰ぎ得ました。
 行者の宗教、即修験宗の一分派なる、修験念仏宗と、浄土念仏宗との交渉中、描き出された金光の二字、初めは半信半疑で蒐集中、首尾一貫するものがありますので、遂に真剣に没頭するに到りました。
 此の資料は、末徒が見聞に任せて、記録しましたもので、筆舌ともに縁のない野僧が、十年の歳月を閲して、拾ひ集めました断片を「金光上人」と題し、二三の先賢に諮りましたが、何れも黙殺の二字に終わりました。
 (中略)
 特に其の宗義宗旨に至っては、法華一乗の妙典と、浄土三部教の二大思潮を統摂して、而も祖匠法然に帰一するところ、全く独創の見があります。加之宗史未見の項目も見えます。
 文体不整、唯鋏と糊で、綴り合わせた襤褸一片、訳文もあれば原文もあります。原文には、幾分難解と思はれる点も往々ありますが、原意を失害せんを恐れて、其の儘を掲載しました。要は新資料の提供にあります。
 且つまた、上人の大遠忌を眼前に迎へ、篇者老衰甚しく、余命亦望むべからず。幸にして、資料提供者和田喜八郎氏と、摂取院檀頭の篤信者藤本幸一氏との懇志に依って、茲に出版の栄に浴しました事は、大慶の至りであります。
 起筆以来十五年、粒々辛苦の悲願は、偏に上人高德の、一片をも伝ふるを得ば僥倖之に過ぐるものありません。
 是非は諸彦の高批を仰ぎ、完成は後賢の力を俟つものであります。
     上人七百四十七年の忌辰の日
         於 大泉精舎
               七十七老 忍 阿 謹識」

 ここに記されている昭和24年当時、資料提供者の和田喜八郎氏はまだ22歳の若者です。開米氏が述べるように「其の宗義宗旨に至っては、法華一乗の妙典と、浄土三部教の二大思潮を統摂して、而も祖匠法然に帰一するところ、全く独創の見」のような難解高度な宗教書を22歳の喜八郎氏に書けるはずがありません。同書に掲載された和田家史料を読めば、そのことは質量共に一目瞭然です。ちなみに、同書巻末に収録されている、金光上人関連の和田家史料一覧には、231編の「金光上人編纂資料」名が列挙されています。その内の数十編はわたしも実見しています。(つづく)

(注)
①『飯詰村史』昭和26年(1951)、福士貞蔵編。
②五所川原市飯詰、大泉寺(浄土真宗)の住職。
③開米智鎧『金光上人』昭和39年(1964)。

開米智鎧氏

開米智鎧氏

金光上人 開米智鎧編

金光上人 開米智鎧編

金光上人由来一部 開米智鎧編

 

 

 


第2505話 2021/06/29

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (2)

    法華経「薬王菩薩本事品」の阿弥陀浄土思想

 近年の「古田史学の会」関西例会では、九州王朝仏教についての研究発表があり、論議検討がなされています。『古田史学会報』164号(2021年6月)に掲載された服部静尚さんの論稿「女帝と法華経と無量寿経」もその一つで、「女人往生」の視点から、六~七世紀における仏典受容に着目され、釈迦信仰(法華経)から阿弥陀信仰(無量寿経)への流れを説明されています。同研究は会報発表に先だって本年四月の関西例会で口頭発表されました。浄土信仰の痕跡はわが国には古くからあったとする論文を読んだ記憶があったのですが、そのときには出典を思い出せませんでした。その後、九州王朝における仏典受容史の勉強をしていて、ようやく出典の一つを思い出しました。東野治之さんの『日本古代史料学』(注①)に収録されている「太子信仰の系譜」という論文で、次のように記されています。

〝太子の作とされる三経義疏の一つは『勝鬘経義疏』であるが、勝鬘経では勝鬘夫人という女性が主役になっている。こういう経典が注釈の対象にされたのは推古女帝の存在と無関係ではなく、逆に太子が勝鬘経を講義したという伝えも認めていいであろう。もう一つの注釈『法華義疏』は、いうまでもなく法華経の注であるが、法華経の「薬王菩薩本事品」という章には、女性の阿弥陀浄土への往生が述べられていて、これも女性に縁がある。太子は日本人として最初に法華経を将来、流布した人とみられていた(『延暦僧録』上宮皇太子菩薩伝)。
 光明皇后のころになると、女性救済を説く「題婆達多品」を加えた法華経が普及しており、太子忌日の法華経講讃が企画されたのも、女性としての関心から出ているのではないだろうか。〟同書、39頁

 ここにあるように、法華経「薬王菩薩本事品」に女性の阿弥陀浄土への往生が述べられているという指摘は興味深いものです。もちろん、九州王朝説に立てば、近畿天皇家の聖徳太子伝承は九州王朝の多利思北孤や利歌彌多弗利の事績を転用したとする視点での史料批判が必要です。
 なお、「薬王菩薩本事品」には次の説話が見えます。

『妙法蓮華経』「薬王菩薩本事品二十三」
(前略)
 宿王華、若し人あって是の薬王菩薩本事品を聞かん者は、亦無量無辺の功徳を得ん。若し女人にあって、是の薬王菩薩本事品を聞いて能く受持せん者は、是の女身を尽くして後に復受けじ。若し如来の滅後後の五百歳の中に、若し女人あって是の経典を聞いて説の如く修行せば、此に於て命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の圍繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん。復貪欲に悩されじ。亦復瞋恚・愚痴に悩されじ。亦復・慢・嫉妬・諸垢に悩されじ。菩薩の神通・無生法忍を得ん。是の忍を得已って眼根清浄ならん。是の清浄の眼根を以て、七百万二千億那由他恒河沙等の諸仏如来を見たてまつらん。(後略)

 当時、「成仏」できないとされた「女人」でも、薬王菩薩本事品を聞いて説の如く修行すれば、死後に「安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の圍繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん」と阿弥陀浄土への往生ができると説いています。
 拙稿「九州王朝仏教史の研究 ―経典受容記事の史料批判―」(注②)で紹介したように、九州年号の「端政」年間(589~594年)での法華経伝来記事「自唐法華経始渡」が『二中歴』「年代歴」にあり、これは多利思北孤の時代に相当します。ですから法華経の受容により、同「薬王菩薩本事品」に基づく女人往生を可能とする阿弥陀浄土信仰が六世紀末頃の九州王朝宮廷内の女性達にもたらされたのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①東野治之『日本古代史料学』岩波書店、2005年。
②古賀達也「九州王朝仏教史の研究 ―経典受容記事の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。


第2452話 2021/05/08

水城の科学的年代測定(14C)情報(2)

 水城の第35次発掘調査(2001年)で発見された敷粗朶層のサンプルの炭素同位体比(14C)年代測定の中央値は、660年(最上層)、430年(坪堀1中層第2層)、240年(坪堀2第2層)でした。最上層と坪堀とでは約200~400年の差があることから、「調査報告書」(注①)には、「各一点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」とありました。その追加測定が既に実施されており、報告書(注②)も出されていたことを知りましたので紹介します。
 水城には東西二つの門があり、その西門付近北東側が平成十九年(2007年)の第40次調査で発掘されました。そこから敷粗朶の木片と炭化物が採取され、14C年代測定が行われました。それらの暦年較正年代(1σ)は、共に675~769ADの範囲に含まれることがわかりました。そして、報告書には次のように説明されています。

 「記録では水城の建設は664ADとされているので、堤体基底部の敷粗朶の年代値がこれより21年以上新しい理由として、1)年代値は30年程度の誤差を持っている、2)664AD以降も建設が行われた、3)678ADの筑紫地震で水城堤体が部分的に崩壊しその跡を修復した、の3つが考えられる。この年代値の暦年較正年代グラフは時間軸に対する傾きがゆるく変動幅が大きく出やすいことから、1)の可能性が強いと考えられる。」『水城跡 ―下巻―』(注③)

 このように考察され、『日本書紀』天智三年是歳条(664年)の水城築城記事と矛盾しないと判断されています。すなわち、前回紹介した第35次調査での敷粗朶最上層の測定中央値660年と同様の年代観が示されたわけです。
 次に、第38次調査(2004年)に出土した木杭の外皮と、比較検討のため第35次調査(2001年)で出土した植物遺体(粗朶1点、葉2点)3点が測定されています。第38次調査は西土塁丘陵付近の調査で、丘陵取り付き部に版築状積土が確認されました。その積土層の下層から1条の杭列が出土し、そこから採取した木杭の外皮ですから、ほぼ伐採年を測定できる理想的なサンプルです。それら4サンプルの暦年較正年代(1σ)は、木杭(38次調査、外皮)がcalAD777~871年、粗朶(35次調査)がcalAD540~600年、葉calAD653~760年、葉calAD658~765年と報告されています(注④)。
 木杭(38次調査、外皮)の測定値が8世紀後半~9世紀後半を示していることから、水城西端部修築時の木杭と思われます。『続日本紀』天平神護元年(765年)三月条に「修理水城専知官」任命記事が見えますから、水城修理の痕跡ではないでしょうか。
 比較用に測定された第35次調査の粗朶は、天智三年(664年)の水城築城記事よりも100年ほど古い値ですので、使用された敷粗朶に古いものもあったことをうかがわせます。葉2点の測定値は7世紀後半築造を示すものです。
 以上のように、今回紹介した炭素同位体比(14C)年代測定結果は、水城の築造(完成)時期を7世紀後半、おそらくは天智三年(664年)の築城とする説を支持するものと思われます。

(注)
①『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。
②『水城跡 ―下巻―』九州歴史資料館、2009年。
③同②、259頁。
④同②、328~329頁。

※1σ(シグマ)とは、ばらつきの幅に関する数学的定義で、ある測定値のばらつきが正規分布する場合、その約68%が収まる区間を1σとする。すなわち、1σ区間に収まる確率が約68%であることを意味する。


第2450話 2021/05/06

「倭王(松野連)系図」の史料批判(12)

 ―系図を伝えた松野氏の多元的歴史観―

 本テーマの最後に、「倭王(松野連)系図」を伝えてきた松野氏の歴史認識について考察します。
 「倭王(松野連)系図」の特徴は次のような点で、こうした祖先の系譜と伝承を歴代の松野氏は「是」として伝えてきたということが、フィロロギーの視点からは重要です。

(1)呉王夫差を始祖とする一族が日本列島に渡来し、あるときから火国(肥後)に土着した。
(2)その祖先には『日本書紀』景行紀に記された人物(厚鹿文、取石鹿文、市鹿文、他)がいた。
(3)その後、『宋書』に記された「倭の五王」「倭国王、哲」らが続く。
(4)更に、7世紀中頃になると筑紫の夜須評督になり、7世紀後半には松野連姓を賜った。
(5)8世紀には、律令官僚として大和朝廷に仕えた(注)。

 概ね、以上のようです。自家の系図を造作するときは始祖を近畿天皇家や藤原鎌足などの歴史上の権威者にすることはよくあるのですが、松野氏の場合は中国の周王朝に繋がる呉王夫差を始祖とし、近畿天皇家との繋がりは全く見られません。他方、『宋書』に見える「倭の五王」やその次代の「哲」に「倭国王」と傍注を付けて、自らを倭国王の裔孫としています。これは不思議な現象で、この系図を伝えてきた歴代の松野氏は、近畿天皇家と「倭の五王」「倭国王、哲」を別の家系と認識していたことがわかります。このような歴史認識が松野氏内に連綿と続いていたわけで、これはとても珍しい多元的歴史認識ではないでしょうか。
 このような「倭王(松野連)系図」が示す歴史認識は、近畿天皇家の時代の8世紀以後、『日本書紀』成立以降に造作できるものではありませんし、そのメリットもありません。ですから、こうした〝多元史観の系図〟を伝えた松野家は、ある時代までは九州王朝の歴史的存在を記憶していたと考えざるを得ないのです。その意味でも、研究に値する貴重な系図と言えるのではないでしょうか。(おわり)

(注)同系図には、8世紀の人物「弟嗣」「楓麿」の傍注に「従七位下」「外従七位上」などの律令制官位が見えることからも大和朝廷の官人だったことがわかる。


第2443話 2021/04/28

「倭王(松野連)系図」の史料批判(9)

 ―倭人伝に周王朝の痕跡―

 古代中国の諸史料(注①)に記された倭国の始祖「太伯」伝承は、歴史事実を反映しているのではないかと、わたしは推定しています。その理由について説明します。なお、太伯とは、中国の春秋時代に存在した呉国を起こした、周王朝建国期の人物です。
 この周王朝の官職名「大夫」が、『三国志』倭人伝に散見されることを古田先生が早くから指摘されてきました。『「邪馬台国」はなかった』(注②)で次のように述べています。

 「『大夫』については、倭人伝中に
  古より以来、其の使中国に詣るに、皆自ら大夫と称す。
 とある。魏晋ではすでに『大夫』は県邑の長や土豪の俗称と化していた。(中略)
 ところが、倭国の奉献使は自ら『大夫』を名のった。これは下落俗化した魏晋の用法でなく、『卿・大夫・士』という、夏・殷・周の正しい古制のままの用法であった。」『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社版)376頁

 この指摘は、倭国が古くから周の影響を受けていたことを意味します。その史料根拠の一つとして、『論衡』(注③)に次の有名な記事があります。

 「周の時、天下太平にして、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸を貢す。(中略)成王の時、越常、雉を献じ、倭人鬯艸を貢す。」『論衡』巻八、巻十九

 成王は周王朝を建国した武王の子供で、二倍年暦を考慮しない通説では紀元前11世紀頃の人物です。その頃から、倭人は中国(周)と交流(鬯草の献上)があったとれさており、周王朝の官職名「大夫」が倭人伝の時代、3世紀でも使用されているのです。
 更に、倭人伝と周王朝との関係を明らかにした、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の一連の優れた研究があります。『俾弥呼と邪馬壹国』(注④)に収録された「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」です。同稿では、倭国の官職名などに用いられた漢字に、周代の青銅器に関係するものがあることを明らかにされました。
 こうした研究により、倭人と周王朝に深い繋がりがあることを疑えず、「太伯」始祖伝承や「呉王夫差」始祖伝承は、何らかの歴史的背景に基づくのではないかと考えるに至ったのです。(つづく)

(注)
①『翰苑』『魏略』『晋書』『梁書』。
 「聞其旧語、自謂太伯之後。昔夏后小康之子、封於会稽。断髪文身、以避蛟龍之害。今倭人亦文身、以厭水害也。」『翰苑』30巻「倭国」引用『魏略』
 「文身黥面して、猶太伯の苗と称す。」『翰苑』30巻「倭国」
 「男子は身分の上下の別なく、すべて黥面文身している。自ら、呉の太伯の後裔と謂う。」『晋書』倭人伝
 「倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。風俗には、皆、文身がある。」『梁書』倭伝
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻。
③『論衡』の著者は王充で、後漢代の成立。
④古田史学の会編『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)明石書店、2021年3月。


第2442話 2021/04/26

「倭王(松野連)系図」の史料批判(8)

  — 始祖「太伯」説の史料と論理

 『記紀』神話とは異なり、九州王朝・倭王の始祖を周の太伯やその子孫の呉王夫差とする伝承は、国内史料としては「倭王(松野連)系図」の他に、その一端を示す『新撰姓氏録』があります。また中国史料としては、『翰苑』や『翰苑』に引用された『魏略』があり、正史の『晋書』『梁書』もあります。次の通りです。

○「松野連 出自呉王夫差也」『新撰姓氏録の研究』右京諸藩上
○「男子は身分の上下の別なく、すべて黥面文身している。自ら、呉の太伯の後裔と謂う。」『晋書』倭人伝
○「倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。風俗には、皆、文身がある。」『梁書』倭伝
○「文身黥面して、猶太伯の苗と称す。」『翰苑』30巻「倭国」
○「聞其旧語、自謂太伯之後。昔夏后小康之子、封於会稽。断髪文身、以避蛟龍之害。今倭人亦文身、以厭水害也。」『翰苑』30巻「倭国」引用『魏略』

 ここで注目されるのが、中国側史料すべてに倭人の風俗として「文身」(いれずみ)が見えることです。特に『翰苑』に引用された『魏略』の記事は重要です。
 『魏略』は『三国志』と同時期に成立した史書であることから、両書は倭国を訪問した魏使の報告書に基づいて記されたと考えられます。そうすると、『三国志』倭人伝には倭王の始祖伝承は記されず、『魏略』は太伯を始祖とする倭人の伝承を記したということになります。これは両書の編纂方針の差によると考えざるを得ませんが、それが何なのかは未詳です。もしかすると、『三国志』の著者陳寿は、倭人の始祖伝承を信ずるに足らずとして、採用しなかったのかもしれません。
 しかし、『魏略』に採用された倭人の始祖伝承は、史実かどうかは別にしても、当時の倭国がそのように認識しており、そのことを魏使に伝えたということは否定し難いのではないでしょうか。わたしは、この始祖伝承は歴史的背景を持つもので、一定の真実を秘めているのではないかと考えています。(つづく)


第2440話 2021/04/22

「倭王(松野連)系図」の史料批判(7)

 ―祖先は天照大神か太伯か―

 多元史観・九州王朝説を支持する、わたしたち古田学派の研究者が「倭王(松野連)系図」を扱いにくかった理由として、史料批判の難しさがありましたが、より根源的には倭王の始祖を呉王夫差とする同系図の基本姿勢が、九州王朝の祖神を天照大神とする古田説と相容れなかったことにあります。すなわち、天孫降臨による〝建国〟なのか、中国からの移動による〝転国〟なのかという歴史の大枠に対する理解の問題があったのです。
 この問題は国家権力側にとっても、自らの権威の正統性にかかわる重要問題です。大和朝廷は『古事記』『日本書紀』で主張しているように、天照大神による「天壌無窮の神勅」(注①)による天孫降臨を自らの権威や支配の正統性の根拠としています。他方、日本の神々や皇祖と異国の君臣が混雑した系図系譜を厳しく取り締まっていることが『日本後紀』(注②)に記されています。

 「勅、倭漢惣歴帝譜図、天御中主尊標為始祖、至如魯王・呉王・高麗王・漢高祖命等、接其後裔。倭漢雑糅、敢垢天宗。愚民迷執、輙謂実録。宜諸司官人等所蔵皆進。若有挾情隠匿、乖旨不進者、事覚之日、必処重科。」『日本後紀』平城天皇大同四年(809年)二月五日条

 天御中主尊を始祖とし、中国や朝鮮の王家との繋がりが記されている『倭漢惣歴帝譜図』を「禁書」とする詔勅が記されています。この『倭漢惣歴帝譜図』の始祖伝承は、呉王夫差や太伯を始祖とする「倭王(松野連)系図」や『晋書』『梁書』の記述とは倭漢の関係性が真逆です。このような例もあることから、呉王夫差を始祖としながら、九州王朝の「倭の五王」へと繋がる「倭王(松野連)系図」の信頼性(史実性)を調べる作業、すなわち史料批判は困難を窮めるのです。(つづく)

(注)
①『古事記』「上巻」に次の記事がある。
 「この豊葦原水穂国は、汝知らさむ国ぞと言依さしたまふ。」
 『日本書紀』「神代下 第九段(一書第一)」に次の記事がある。
 「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就(い)でまして治(し)らせ。行矣(さきくませ)。宝祚の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌と窮(きわま)り無けむ。」
②『日本後紀』は『続日本紀』に続く正史で、六国史の第三にあたる。成立は承和七年(840年)で、延暦十一年(792年)から天長十年(833年)に至る42年間を記す。編者は藤原緒嗣ら。全40巻(現存10巻)。