史料批判一覧

第2440話 2021/04/22

「倭王(松野連)系図」の史料批判(7)

 ―祖先は天照大神か太伯か―

 多元史観・九州王朝説を支持する、わたしたち古田学派の研究者が「倭王(松野連)系図」を扱いにくかった理由として、史料批判の難しさがありましたが、より根源的には倭王の始祖を呉王夫差とする同系図の基本姿勢が、九州王朝の祖神を天照大神とする古田説と相容れなかったことにあります。すなわち、天孫降臨による〝建国〟なのか、中国からの移動による〝転国〟なのかという歴史の大枠に対する理解の問題があったのです。
 この問題は国家権力側にとっても、自らの権威の正統性にかかわる重要問題です。大和朝廷は『古事記』『日本書紀』で主張しているように、天照大神による「天壌無窮の神勅」(注①)による天孫降臨を自らの権威や支配の正統性の根拠としています。他方、日本の神々や皇祖と異国の君臣が混雑した系図系譜を厳しく取り締まっていることが『日本後紀』(注②)に記されています。

 「勅、倭漢惣歴帝譜図、天御中主尊標為始祖、至如魯王・呉王・高麗王・漢高祖命等、接其後裔。倭漢雑糅、敢垢天宗。愚民迷執、輙謂実録。宜諸司官人等所蔵皆進。若有挾情隠匿、乖旨不進者、事覚之日、必処重科。」『日本後紀』平城天皇大同四年(809年)二月五日条

 天御中主尊を始祖とし、中国や朝鮮の王家との繋がりが記されている『倭漢惣歴帝譜図』を「禁書」とする詔勅が記されています。この『倭漢惣歴帝譜図』の始祖伝承は、呉王夫差や太伯を始祖とする「倭王(松野連)系図」や『晋書』『梁書』の記述とは倭漢の関係性が真逆です。このような例もあることから、呉王夫差を始祖としながら、九州王朝の「倭の五王」へと繋がる「倭王(松野連)系図」の信頼性(史実性)を調べる作業、すなわち史料批判は困難を窮めるのです。(つづく)

(注)
①『古事記』「上巻」に次の記事がある。
 「この豊葦原水穂国は、汝知らさむ国ぞと言依さしたまふ。」
 『日本書紀』「神代下 第九段(一書第一)」に次の記事がある。
 「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就(い)でまして治(し)らせ。行矣(さきくませ)。宝祚の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌と窮(きわま)り無けむ。」
②『日本後紀』は『続日本紀』に続く正史で、六国史の第三にあたる。成立は承和七年(840年)で、延暦十一年(792年)から天長十年(833年)に至る42年間を記す。編者は藤原緒嗣ら。全40巻(現存10巻)。


第2439話 2021/04/21

「倭王(松野連)系図」の史料批判(6)

 ―「呉王夫差」始祖伝承の痕跡―

 前話に於いて、「倭王(松野連)系図」の少なくとも3世紀末・4世紀初頭から7世紀部分を編纂した松野連一族は、自らを「倭の五王」の後裔と主張していたとしました。次に、同系図のもう一つの主張、「呉王夫差」始祖伝承について検討します。
 鈴木真年氏の稿本「松野連倭王系図(静嘉堂文庫所蔵)」(注①)の冒頭部分には次の人物名が並びます。

 「夫差《呉王》 ― 公子慶父忌 ※― 阿弓《怡土郡大野住》 ― 宇閇《》 ― (後略)」《》内は傍注。
 「※― ○ ― ○― (中略) ―」(「公子慶父忌」からの枝分かれとして追記され、「阿弓」へと繫ぐ。)
 「※― 順《》 ― (八代略) ―」(「公子慶父忌」からの枝分かれとして追記され九代続き、同系図の「卑弥鹿文」の子供の位置に繫ぐ。)

 このように鈴木真年氏の稿本には複数の所伝が書き込まれており、複数の「松野連系図」に基づいて、異伝も加筆書写された姿を示しているようです。このことから、同系図のいずれかが現代も御子孫に伝わっている可能性があります。全国の松野姓の分布状況などを調査すれば、系図をお持ちの御子孫が見つかるのではないでしょうか(注②)。
 鈴木真年氏と親交のあった中田憲信氏による稿本「松野連倭王系図(国立国会図書館所蔵)」(注③)の冒頭部分は次のようです。

 「松野連 姫氏
 呉王夫差 ― 忌《字慶父》《孝昭天皇三年来朝 住火国山門菊池郡》 ― 順《字去□》《居于委奴》 ― 恵弓 ― (後略)」 《》内は傍注。□の字は、わたしの持つコピーからは読み取れない。

 鈴木真年氏の稿本とは異なっており、別の異本によるのかもしれません。しかし、呉王夫差を始祖とする点は同じですから、九州王朝内にこうした伝承を持ち、それを誇る氏族がいたと考えられます。このことを示唆する史料が中国史書にあります。唐代に成立した『晋書』と『梁書』です。

 「(前略)男子は身分の上下の別なく、すべて黥面文身(顔や身体に入墨)している。自ら、呉の太伯の後裔と謂う。(後略)」『晋書』倭人伝

 「倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。風俗には、皆、文身(入墨)がある。(後略)」『梁書』倭伝

 『晋書』は3~5世紀の西晋・東晋、『梁書』は6世紀の梁を対象とした史書ですが、その著者は『晋書』が房玄齢(578~648年)、『梁書』が姚思廉(?~637年)。成立は『晋書』が648年、『梁書』が629年です。この7世紀前半に成立した両書に、「呉の太伯の後裔」記事が現れ、倭国からもたらされた情報であると記されています。
 史書ではありませんが、同じく唐代成立の『翰苑』(注④)の「倭国」条にも次の記事が見え、同条に引用されている『魏略』(注⑤)にも「自謂太伯之後」の記事があり、それによれば同伝承史料の存在が3世紀まで遡ることになり、注目されます。

 「文身黥面して、猶太伯の苗と称す。」『翰苑』30巻「倭国」

 「(前略)自帯方至女國万二千余里。其俗男子皆黥而文。聞其旧語、自謂太伯之後。昔夏后小康之子、封於会稽。断髪文身、以避蛟龍之害。今倭人亦文身、以厭水害也。」『翰苑』30巻「倭国」引用『魏略』

 これらの中国(唐)側の認識に対応しているのが、「倭王(松野連)系図」に記された〝主張〟です。同系図に遺された始祖伝承と通じる伝承(注⑥)が、7世紀前半成立の『晋書』『梁書』に記されていることから、同伝承の成立が7世紀前半以前であることがわかります。このことも、同系図の始祖伝承が後代の造作ではないことを指示しています。(つづく)

(注)
①尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』晩稲社、1984年、1頁。
②例えば、柿本人麻呂の御子孫「柿本氏」が佐賀県に分布しており、人麻呂を含む同氏の系図が伝わっている。その内の一つのコピーを古田先生からいただいている。機会があれば「洛中洛外日記」でも紹介したい。
③尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』晩稲社、1984年、4頁。
④唐代に張楚金によって書かれた類書。後に雍公叡が注を付けた。現在は、日本の太宰府天満宮に第30巻及び叙文のみが残る。
⑤中国三国時代の魏を中心に書かれた歴史書。著者は魚豢(ぎょかん)。成立年代は魏末から晋初の時期と考えられている。
⑥呉は中国の春秋時代に存在した国の一つで、国姓は姫(き)である。周王朝の祖の古公亶父の長子の太伯(泰伯)が次弟の虞仲と千余家の人々と共に建てた国とされ、紀元前12世紀から紀元前473年、7代の夫差まで続き、越王の勾践により滅ぼされた。従って、「倭王(松野連)系図」で始祖を呉王夫差とすることは、太伯を始祖とすることにもなる。


第2438話 2021/04/18

「倭王(松野連)系図」の史料批判(5)

 ―傍注「評制」記事の証言―

 「倭王(松野連)系図」に記されている傍注記事中に「評」や「評督」が見え、同系図の成立過程の一端をうかがうことができます。先に同系図傍注に次の評制(評督)記事があることを紹介しました(注①)。

 「牛慈」《金刺宮御宇 服従 為夜須評督》
 「長堤」《小治田朝評督 筑紫前国夜須郡松狭野住》
    ※「 」内は人物名。《》内はその傍注。

 これは7世紀頃の人物に付記されたもので、7世紀後半が評制期であることがわかっている現代のわたしたちにとっては当然の表記です。しかし、九州王朝から大和朝廷への王朝交替に伴い、8世紀から郡制に変更となります。この郡制は近代まで続いており、歴史学上の〝郡評論争(注②)〟以前の人々(系図蒐集者の鈴木真年を含む)には、そもそも評制という歴史概念さえありません。ですから後代(郡制の時代)において、「評」を「郡」に書き換えることはできても、「評」への改変造作は不可能なわけです。従って、同系図に見える「評制」記事は、7世紀後半時点であれば執筆可能な表記であり、すなわち、その記事原文は九州王朝時代に成立した可能性が高いのです。遅くとも、「評」の記憶が系図編纂者に残っている時代の成立と考えざるを得ません。
 こうした視点に立ったとき、同系図の次の傍注にわたしは着目しました。「倭の五王」の三世代前の「宇也鹿文」という人物の傍注です。

 「火国菊池評山門里住」(注③)

 「倭の五王」の三世代前なので、3世紀末から4世紀初頭に相当しますから、地名表記として「火国」は妥当ですが、「菊池評」という評制期の行政区画は存在しません。従って、この傍注は7世紀後半に成立したと考えられます。こうした史料状況により、少なくとも「宇也鹿文」から「牛慈」「長堤」までの系図部分は7世紀後半に成立したと考えることができます。同時に、このような「評制期」記事の後代造作は困難であるため、歴史事実を反映した傍注記事を持つ系図としての評価が可能です。
 こうした理解により、同系図の少なくとも3世紀末・4世紀初頭から7世紀部分を編纂した松野連一族は、自らを「倭の五王」の後裔と主張していたことになります。この理解は、「倭の五王」が近畿ではなく、北部九州(少なくとも肥後から筑後に至る範囲)を拠点とする王権(倭国)であったことを強く示唆します。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2436話(2021/04/16)〝「倭王(松野連)系図」の史料批判(4) ―松野連(まつのむらじ)と松野郷―〟。
②7世紀以前の行政区画名が『日本書紀』に見える「郡」とするのか、金石文や古代史料に遺る「評」とするのか、戦後の日本古代史学界で続いた学問論争。出土木簡などにより、650年頃から700年までは「評」、701年からは「郡」であることで決着した。古田武彦先生は、評制を九州王朝(倭国)が制定したものであり、王朝交替により大和朝廷が郡制に変更したとした。
③尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』晩稲社、1984年、63頁。「火国菊池評山門里」は熊本県菊池市付近が対応する。『和名抄』に「肥後国菊池郡山門郷」が見え、古代に遡る地名であることがわかる。


第2429話 2021/04/10

百済人祢軍墓誌の「日夲」について (3)

 ―対句としての「日夲」と「風谷」―

 石田泉城さんの「『祢軍墓誌』を読む」(注①)では、百済人祢軍墓誌に見える「于時日夲餘噍」を「于時日、夲餘噍」(この時日、当該の餘噍は)とする新読解を発表されました。「本」と「夲」は別字であり、墓誌の「日夲」を国名の「日本」とはできないとしたため、こうした読解に至ったものと思われます。漢文の訓みとしては可能なのかもしれませんが、この訓みを否定することになる見解を東野治之さんが発表していますので紹介します。

 百済人祢軍墓誌の当該部分は次の通りです。

「于時日本餘噍據扶桑以逋誅風谷遺氓負盤桃而阻固」

 これを東野さんは次のように訓まれ、正格漢文として対句になっているとされました。(注②)

「時に日本の餘噍、扶桑に據りて以て誅を逋(のが)れ、風谷の遺氓、盤桃を負いて阻み固む。」

 この「日本の餘噍」と「風谷の遺氓」が対句になっており、「正格の漢文体で書かれた文章は、厳格な対句表現を特徴とする。」と指摘されました。ただし東野さんは、この「日本」を国名とはされず、「日本餘噍」は百済の残党とされています(注③)。

 この東野さんの訓みは優れたものと思いますが、わたしは「日本餘噍」を前期難波宮か近江朝に落ち延びた九州王朝の残党と考えており、この点が大きく異なっています。言わば、一元史観と多元史観の相違です。なお、「于時日本餘噍」を「于時日、本餘噍」と区切る訓みは、ブログ「古代史の散歩道など」(注④)の主宰者が既に発表されていますので、ご参考までに当該部分を転載します。

【以下、部分転載】
私の本棚 東野治之 百済人祢軍墓誌の「日本」 2018/07/01
掲載誌『図書』2012年2月号(岩波書店)
(前略)
東野氏は、「于時」を先触れと見て、「日本余噍、拠扶桑以逋誅」とこれに続く「風谷遣甿、負盤桃而阻固」を四字句+六字句構成の対句と捉え、まことに、妥当な構文解析と思う。
ここに、当ブログ筆者は、「于時日本余噍、拠扶桑以逋誅」と六字句+六字句と読めるではないか、そして、それぞれの六字句は、三字句+三字句で揃っているのではないか、と、あえて異説を唱え、見解が異なる。
つまり、当碑文は、「于時日 本余噍 拠扶桑 以逋誅」と読み、国号にしろ、詩的字句にしろ「日本」とは書いてないとするのが、当異説の壺であり、無謀かも知れないが旗揚げしているのである。
ちなみに、「本余噍」とは、「本藩」、すなわち「百済」余噍、つまり、「百済」残党である。
従って、当碑文は「日本」国号の初出資料ではないと見るのである。これは、東野氏の説くところに整合していると思う。(後略)
【転載おわり】

 百済人祢軍墓誌については『古代に真実を求めて』16集(2013年、明石書店)で特集しており、ご参照いただければと思います。次の論稿が掲載されています。

阿部周一 「百済祢軍墓誌」について ―「劉徳高」らの来倭との関連において―
「百済禰軍墓誌」について — 「劉徳高」らの来倭との関連において 阿部周一(古田史学会報111号)

古賀達也 百済人祢軍墓誌の考察
百済人祢軍墓誌の考察 古賀達也(古田史学会報108号)

水野孝夫 百済人祢軍墓誌についての解説ないし体験
資料大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序

(注)
①石田泉城「『祢軍墓誌』を読む」『東海の古代』№248、2021年4月
②東野治之「百済人祢軍墓誌の『日本』」岩波書店『図書』756号、2012年2月。
③東野治之「日本国号の研究動向と課題」『史料学探訪』岩波書店、2015年。初出は『東方学』125輯、2013年。
④https://toyourday.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-337c.html

百済人祢軍墓誌


第2379話 2021/02/13

多賀城碑「東海東山節度使」考(4)

―田中巌さんの〝東の国界〟説―

 多賀城碑文の里程距離の齟齬、すなわち多賀城からほぼ同距離に位置する「常陸國界」と「下野國界」が、碑文では「四百十二里」「二百七十四里」と大きく異なっている問題について、古田先生はそれら里程を両国の〝西の国界〟までの距離とする理解により、距離が妥当になるとする説を『真実の東北王朝』(注①)で発表されました。この古田説に対して、わたしは違和感を抱いてきたのですが、それに代わる仮説を提起できないでいました。そのようなときに田中巌さん(東京古田会・会長、発表当時は同会々員)による新説(注②)が発表されたのです。
 わたしが理解した田中説(〝東の国界〟説)の要点と論理性は次の通りです。

(1)多賀城から「常陸國界」と「下野國界」への古代官道実距離を求めるにあたり、直線距離や新幹線・高速道路でもなく(非現実性の排除)、複数のルートがある自動車道路でもなく(ルート選択における恣意性の排除)、地方都市を経由しながら進むJR在来線の路線距離を採用した。

(2)それに基づいて、次の距離を算出した。※1里を550mとする(注③)。
○多賀城(国府多賀城駅)から常陸國界(常陸大子駅)までの距離223.6km(406里)
 ※国府多賀城駅→仙台駅→郡山駅→水郡線常陸大子駅〔勿来関より内陸で南へ入る〕
○多賀城(同上)から下野國界(須賀川駅)までの距離148.4km(269里)
 ※国府多賀城駅→仙台駅→郡山駅→在来線須賀川駅
○多賀城(同上)から京(奈良駅)までの距離862.6km(1568里)
 ※国府多賀城駅→仙台駅→東京駅→中央線塩尻駅→名古屋駅→奈良駅

(3)上記(2)の計算里数が碑文の里数と対応している。古田説(〝西の国界〟説)では、「常陸國界」「下野國界」までは1里が約1km、「京」までは約0.5kmとなり、里単位に統一性がない。

《碑文里数》     《田中説による計算里数》
「常陸國界四百十二里」   406里
「下野國界二百七十四里」  269里
「京一千五百里」     1568里

 以上のように、田中説は客観性が担保され、構成論理に矛盾がない唯一の仮説であり、現状では最有力説とわたしは考えています。従って碑文にある「西」の字は、京やこれらの国々(蝦夷國、常陸國、下野國、靺鞨國)が多賀城の「西」にあるということを示しているわけで、そうした理解が最も単純で、碑文を読む人もそのようにとらえると思われるのです。
 また、碑文後段に記された藤原朝獦の官職名が「東海東山節度使」とあることは、東海道・東山道の奥(道の奥)まで東へ東へと侵攻したことを示しているのですから、出発地の「京」を含めて途中の通過地(注④)は多賀城の西にあることを「西」の字は示しているとするのが最も平明な碑文理解ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版、1991年。後にミネルヴァ書房から復刊。
②田中巌「多賀城碑の里程等について」。『真実の東北王朝』ミネルヴァ書房版(2012年)に収録。
③奈良時代の一里は535mと復原されており、田中説で採用された550mに近い。このことは田中論稿「多賀城碑の里程等について」で紹介されている。
④この場合の「西」とは大方向としての「西」とする古田先生の理解が妥当と思われる。なお、通過地ではない「靺鞨國界三千里」が碑文に記されている理由については今後の研究課題であるが、藤原朝獦にとって何らかの必要性があったのではあるまいか。


第2372話 2021/02/07

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(5)

 『史記』天官書には、「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」を総称した「五官」の他に、「官」の字を使った「員官」という用語が二カ所に見えます。その一つは「南宮」の記事中にある次の文です。

 「七星は頸(くび)にして、員官と爲し、急事を主(つかさど)る。」『新釈漢文大系 史記 四』(注①)150頁

 同書の通釈では、「七星は朱鳥の頸で員官として天庭の危急事をつかさどる。」(151頁)とあります。

 『史記会注考証』(注②)には次の引用と考証があります。

 「七星、頸爲員官、主急事。〔索隠〕七星頸爲員宮主急事、案宋均云、頸、朱鳥頸也、員宮、喉也、物在喉嚨、終不久留、故主急事也、〔正義〕七星爲頸、一名天都、主衣装文繍、主急事、以明爲吉、暗爲凶、金火守之、國兵大起、〔考證〕梁玉縄曰、案宮字譌作官、索隠本作宮、漢以後志皆然、王先謙曰、辰星下云、七星爲員官、則作官者是、査愼行曰、頸*[口素]羽翮四字、多従鳥義、」『史記会注考証 四』20頁

 ここに引用された〔索隠〕〔正義〕とは、唐の司馬貞の『史記索隠』、唐の張守節による『史記正義』のことです。〔索隠〕には「員宮」とあり、「員官」ではありません。もしこの「員宮」が誤写誤伝でなければ、唐の司馬貞は「員宮」と書かれた『史記』を見たのかもしれません。このことについて〔考證〕では、清代の儒学者梁玉縄の「案宮字譌作官、索隠本作宮、漢以後志皆然、《案ずるに、宮の字を官と作るは譌(あやまり)なり、「索隠」では宮と作る、漢以後の志(ふみ)は皆然(しか)り》」という説を紹介しています。すなわち、「原文」にある「員官」は誤りであり、『史記索隠』のように「員宮」とするのが漢代以後の用語であるとする説です。他方、清代末の儒学者王先謙(注③)の「七星爲員官、則作官者是《七星爲員官、則ち官と作るは是(ぜ)なり》」とする説も紹介しています。
 このように、天官書には「五官」だけではなく、「員官」についても「官」の字を「宮」とする説がありました。そしてそれは唐代にまで遡る可能性があり、清代に至っては諸説論じられていたことがわかりました。(つづく)

(注)
①吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記 四』(明治書院、1995年)
②滝川亀太郎著『史記会注考証』東方文化学院、1932年~1934年。
③王先謙について、ウィキペディアに次の解説がある。
 王 先謙(おう せんけん、Wang Xianqian、1842年~1917年)。字は益吾。清末の儒学者・郷紳。葵園先生と呼ばれた。
 湖南省長沙出身。1865年に進士となって、翰林院庶吉士、散館編修を歴任した。古今の書物に通じ、考証学者の阮元のあとを継いで『続皇清経解』を、姚鼐のあとをついで『続古文辞類纂』を編纂した。1889年から官を辞して郷里の長沙に居を定め、嶽麓書院の院長を十年近く務めた。戊戌の変法時には康有為や梁啓超の急進思想に反対した。ただし改革自体には反対しておらず、科挙の廃止と西洋の科学知識の学習を主張した。1902年以降、鉱山の開発や鉄道事業に関わった。
 著作『漢書補注』『水経注合箋』『後漢書集解』『荀子集解』『荘子集解』『詩三家義集疏』。

*[口素]:口偏に旁は「素」の字。


第2370話 2021/02/06

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(4)

 『史記』天官書「原文」には「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」とあるのですが、それら五つを総称したものが「五官」であるとその末尾に記されています。次の文です。

 「故に紫宮・房・心・権・衡・咸池・虚・危・列宿の部星は、此れ天の五官の坐位なり。」吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記 四』(明治書院、1995年)、215頁

 天官書には、紫宮は中宮、房・心は東宮、権・衡は南宮、咸池は西宮、虚・危は北宮とありますから、これらの総称は「五官」ではなく、「五宮」とあるべきところです。そのため、明治書院版『史記』には「五官」は「五宮」の誤りとする次の注があります。

○五官 「五宮」の誤りか(考証)。張宇節は「列宿部内之是也」(正義)という。列宿部内とは、二十八宿の部内の星。(同書、216頁)

 ここに見える(考証)とは『史記会注考証』(注①)のことで、わが国における『史記』研究の基本文献の地位を占めている優れた注釈書です。そこで、同書を調べることにしました。幸いにも、閲覧できるwebサイト(注②)があり、そこには次の引用と考証が記されていました。

 「列宿部星、此天之五官坐位也。〔正義〕五官列宿部内之星也、〔考証〕猪飼彦博曰、篇中唯此字未訛、方苞云、官當作宮、首所列五宮也、不知五官爲正、五佐爲副、於文義亦不可易官爲宮也、」『史記会注考証 四』93頁

 ここで引用された〔正義〕とは、唐の張守節による注釈書『史記正義』のことで、六朝・宋の裴駰(はいいん)の『史記集解』(しきしっかい)、唐の司馬貞の『史記索隠』の注釈とを合わせて『史記』の三家注と呼ばれている有名な注釈書です。その『史記正義』を引用した後、著者滝川亀太郎氏の考証が続きます。
 その考証冒頭には、江戸時代末期の学者猪飼彦博(注③)の説として「篇中唯此字未訛」(篇の中に唯此の字を未だあやまらず)を引用し、次いで中国清代の儒学者方苞(注④)の説「官當作宮、首所列五宮也、不知五官爲正、五佐爲副、於文義亦不可易官爲宮也」を引用しています。このように滝川氏は「五官」は「五宮」の誤りとする説を考証で紹介しているわけです。
 これら一連の解説から、唐代の『史記正義』には「五官」とあり、清代の儒家方苞は「五官」を誤りとして「五宮」が正しいと認識していたことがわかります。前話で紹介した、清代の儒家孫星衍の『史記天官書補目』(注⑤)では「中官」「東官」「西官」「南官」「北官」と『史記』天官書「原文」を改訂(宮→官)していることから、末尾の「五官」の部分はそのままでよいと判断していたのではないでしょうか。このように、清代でも「官」と「宮」について諸説出されていたわけですから、西村さんやわたしの疑問には先例があったわけです。(つづく)

(注)
①滝川亀太郎著『史記会注考証』東方文化学院、1932~1934年。
②「臺湾華文電子書庫」https://taiwanebook.ncl.edu.tw/zh-tw/book/NTUL-0272410/reader
③猪飼敬所(いかい けいしょ) 宝暦11年(1761年)~ 弘化2年(1845年)は、日本の江戸時代後期の折衷学派の儒学者。名は彦博(よしひろ)、字は文卿、希文。近江国
出身。著作に「論孟考文」「管子補正」などがある。
④方苞(ほう ぼう)1668年~1749年は、中国清代の儒学者・文人・政治家。字は鳳九、号は霊皋、晩年には望渓と号する。著作に『史記注捕正』などがある。
⑤孫星衍撰『史記天官書補目』(王雲五主編『中西経星同異考及其他一編』中華民国二十八年十二月初版、1939年)。


第2369話 2021/02/05

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(3)

 『史記』天官書の「中宮」「中官」問題を調査した結果、現在の流布刊本の「原文(漢文)」はいずれも「中宮」とあるため、投稿原稿に『史記』からの引用として「中宮」と表記することは妥当で有り、そのまま掲載しても差し支えないと西村さんに報告しました。原稿採否審査としてはこれで一件落着なのですが、わたしの中ではなぜこのような史料状況が発生したのかという疑問を払拭できないため、西村さんとも意見交換し、自らの勉強にもなるので、『史記』天官書の調査と史料批判を試みることにしました。
 京都府立図書館での調査時も、同様の疑問により史料批判・版本調査の必要を感じていたところ、いつもお世話になっている図書館員の方が一冊の小冊子を書庫から探し出して、「わたしには読めませんが、何か関係はないでしょうか」と『史記天官書補目』(注)なる本を見せていただきました。
 同書は、『史記』天官書に見える用語がどの星座や星に相当するのかなどを記した説明書のような性格の本でした。そして、その説明の冒頭に「中官」と小見出しがあり、「中官」に位置する星座・星の説明(星の数や位置など)が続いています。更にその後に「東官」「西官」「南官」「北官」の小見出しと共に同様の解説が続きます。従って、同書は『史記』天官書について、平凡社版『史記』と同様の表記になっているのです。すなわち、日本の平凡社版だけではなく、中国清代の解説書にも「中官」を採用するものがあったのです。それでは『史記』の原文は本来はどちらだったのでしょうか。わたしの学問的探究心はますますかき立てられていきました。(つづく)

(注)孫星衍撰『史記天官書補目』(王雲五主編『中西経星同異考及其他一編』中華民国二十八年十二月初版、1939年)。冒頭の著者名部分には「清 陽湖孫星衍撰」とあり、同書成立は清代のようである。
 著者の孫星衍について、ウィキペディアでは次のように説明されている。

 孫 星衍(そん せいえん、1753年-1818年)は、中国清の官僚・学者。字は淵如、号は季逑。常州府陽湖県の出身。その著書『尚書今古文注疏』は『尚書』に関する清朝考証学の集大成として知られる。
《生涯》
 曾祖父に明末の礼部代理尚書の孫慎行。孫子の遠い子孫であると自称している。
 1787年に榜眼の成績で進士に及第した。1795年から山東省兗沂曹済道の道員の官についた。1799年に母の喪のために故郷に帰り、浙江巡撫であった阮元の招きにより、杭州の詁経精舎で教えた。三年の喪があけると山東に戻った。1807年に権布政使に昇任し、1811年に病気のため辞任した。
 孫星衍は詩人としても優れ、袁枚は「天下の奇才」と呼んだ。孫星衍は1771年に結婚し、妻の王采薇も詩をよくしたが、わずか24歳で病死した。王采薇の詩集である「長離閣集」は孫星衍の『平津館叢書』に収められている。
《著作》
 孫星衍の代表的な著書は『尚書今古文注疏』30巻で、1794年に作業を開始し、1815年に完成した。閻若璩以来、古文尚書と呼ばれるものが後世の偽作であることが明かになっていたので、古文の部分は『史記』をはじめとする書籍から本来のテキストを復元し、漢代以来の注を集め、さらに疏を加えたもので、現在も『尚書』研究上の重要な文献である。ほかに、『孫氏周易集解』、『孔子集語』、『寰宇訪碑録』などの著書がある。
 孫星衍は蔵書家でもあり、多くの書物を校訂・出版した。孫星衍が編集した叢書に『平津館叢書』・『岱南閣叢書』がある。


第2368話 2021/02/04

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(2)

 『史記』天官書の記述が「中宮」か「中官」かという不思議な史料状況を調査するために、京都府立図書館に行きました。顔なじみになったご年配の図書館員の方に訪問目的を告げると、蔵書やweb掲載書籍調査をしていただきました。その結果、今回の蔵書調査を含めて次のことを確認できました。

○『国譯漢文太成 経子史部 第十四巻』(國民文庫刊行會、1923年)
 「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」/「五官」

○野口定男訳『中国古典文学大系 史記 上』(平凡社、1968年)
 「中官」「東官」「西官」「南官」「北官」「五官」 ※全て「官」とする。
(注)
 官 天官書では以下、天を中官・東官・西官・南官・北官の五官に分けて星座、また恒星について記す。中官は晋書以後は紫宮、紫微垣と称する部分で、現在では大熊・小熊・竜・ケフェウス・カシオペア・きりんなどのある処である。(同書、263頁)
 五官 紫宮=中官。房・心=東官。権・衡=南官。咸池=西官。虚危=北官官。(同書、266頁)

○吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記 四』(明治書院、1995年)
 「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」/「五官」 ※「五官」は「五宮」の誤りとする注がある。
(注)
 五官 「五宮」の誤りか(考証)。張宇節は「列宿部内之是也」(正義)という。列宿部内とは、二十八宿の部内の星。(同書、216頁)

 以上のように、わたしが確認できた国内の書籍では、平凡社版は全て「官」が使われており、明治書院版は中と東西南北は「宮」としながら、その総称は「五官」としたため、注で「五官」は「五宮」の誤りとしたものと考えられます。大正十二年に刊行された『国譯漢文太成 経子史部 第十四巻』も明治書院版と同様でした。
 この現象はいったい何故なのだろうと考えていると、冒頭紹介したご年配の図書館員の方が、「わたしは読めないのですが、関係ないでしょうか」と国外の本を書庫から見つけていただきました。(つづく)


第2367話 2021/02/03

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(1)

  『古田史学会報』投稿原稿の採否審査は、採用・不採用にかかわらず、ほとんどの場合、編集部の意見は一致します。ごくまれに意見が分かれたり、悩む場合があります。この度、面白いテーマへと発展した投稿審査事案がありましたので、紹介することにします。
 ある方の投稿原稿中に司馬遷の『史記』天官書からの引用が有り、その当否について編集担当の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からお電話がありました。投稿論文自体は内容が優れていたので、採用することに編集部内で異議は出なかったのですが、論文に引用された『史記』天官書に見える「中宮」という用語について、本当に正しいのか調査してほしいとのことでした。西村さんがお持ちの『史記』には「中官」とあって、「中宮」ではないとのこと。また、天官書という書名やその文脈からも「中官」でなければならないとのことでした。中国古典に詳しい西村さんからの疑義でしたので、わたしは調査を約束しました。
 まず手持ちの平凡社版『史記 上』(注)を調べると、「中官」となっており、「中宮」ではありません。そして、同書「注」には次の説明がありました。

 「中官 天官書では以下、天を中官・東官・西官・南官・北官の五官に分けて星座、また恒星について記す。中官は晋書以後は紫宮、紫微垣と称する部分で、現在では大熊・小熊・竜・ケフェウス・カシオペア・きりんなどのある処である。」同書、263頁

 天官書の終わりの方にも、これら五つの星座・恒星群を「五官」と記しており、「官」が使われています。次の通りです。

 「紫宮・房・心・権・衡・咸池・虚・危の星座は天の五官が位置する処である。正しく並んで移動することはなく、星の大小、また相互の距離も変わらぬのである。」同書、262頁

 そして、この「五官」にも次の「注」がありました。

 「五官 紫宮=中官。房・心=東官。権・衡=南官。咸池=西官。虚危=北官。」同書、266頁

 また、題名からして「天官書」ですから、西村さんが言うように文脈や意味の上から考えても「中官」が妥当で有り、「中宮」では論理整合性(理屈)が通りません。
 他方、web上で『史記』天官書を検索すると、いずれも「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」となっており、平凡社版『史記』とは異なっていました。ただし、「五官」部分は「官」であり、「五宮」とはなっていません。こうした不思議な史料状況を知り、『史記』の版本や写本間に異同があるのではないかと考え、このことを西村さんに報告し、引き続き図書館で版本調査を行い、再度、報告することにしました。(つづく)

(注)野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。


第2354話 2021/01/18

古田武彦先生の遺訓(28)

―二倍年暦の「以閏月正四時」―

 『史記』「五帝本紀」で、堯(ぎょう)が定めたとする暦について、司馬遷は次のように記しています。

 「歳三百六十六日、以閏月正四時。」『新釈漢文大系 史記1』39頁、明治書院(注①)。

 この前半部分の「歳三百六十六日」が二倍年暦の影響を受けた表記であることを前話で説明しました。続いて、後半の「以閏月正四時(閏月を以て四時を正す」について考察します。平凡社の『史記』(注②)では、この部分を次の通り現代語訳しています。

 「一年は三百六十六日、三年に一回閏月をおいて四時を正した。」『中国古典文学大系 史記』上巻、10頁。(注②)

太陰太陽暦では、月の満ち欠けによる一箇月と太陽周期による一年を整合させるために、閏月を定期的に設ける必要があります。そのため、原文にはない「三年に一回」という閏月の周期を平凡社版『史記』には書き加えられたものと思われます。その〝出典〟は恐らく明治書院版『史記』の解説に見える次の記事ではないでしょうか(注③)。

 「○以閏月正四時 太陰暦では三年に一度一回閏月をおいて四時の季節の調和を計った。中国の古代天文学では、周天の度は三百六十五度と四分の一。日は一日に一度ずつ進む。一年で一たび天を一周する。月は一日に十三度十九分の七進む。二十九日半強で天を一周する。故に月が日を逐うて日と会すること一年で十二回となるから、これを十二箇月とした。しかし、月の進むことが早いから、この十二月中に十一日弱の差を生ずる。故に三年に満たずして一箇月のあまりが出る。よって三年に一回の閏月を置かないと、だんだん差が大きくなって四時の季節が乱れることになる。」『新釈漢文大系 史記1』41頁。

この閏月について、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)より、二倍年暦の閏月のことと思われる『周易本義』の次の記事が紹介されています。

 「閏とは、月の餘日を積んで月を成す者なり。五歳の間、再び日を積んで再び月を成す。故に五歳の中、凡そ再閏有り、然して後に別に積分を起こす。」朱熹『周易本義』

 同書は南宋の朱熹が『周易』に注を付したもので、この五年経つごとに再び閏月が来るという暦法は、三十日を一月として、その六ヶ月を1年とする二倍年暦にのみ適合することを西村さんは論証されました(注④)。司馬遷が『史記』に記した堯の暦法記事の分析結果とこの西村説を総合すると、古代中国における二倍年暦の暦法が復原できるのではないでしょうか。以上、推論的作業仮説として提起します。(つづく)

(注)
①吉田賢抗・他著『新釈漢文大系 史記』全十五巻。明治書院、1973~2014年。
②野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。
③出版年次は平凡社版が五年ほど先だが、漢文学の泰斗とされる吉田賢抗氏(1900~1995年)の見解を野口定男氏(1917~1979年)が採用したのではあるまいか。
④西村秀己「五歳再閏」『古田史学会報』151号(2019年4月)


第2353話 2021/01/17

古田武彦先生の遺訓(27)

―司馬遷の認識「歳三百六十六日」のフィロロギー

 『史記』冒頭の「五帝本紀」で、堯(ぎょう)が定めたとする暦について、司馬遷は「歳三百六十六日」と紹介しています。『史記』原文は次の通りです。

 「歳三百六十六日、以閏月正四時。」『新釈漢文大系 史記1』39頁、明治書院(注)。

 この記事から、聖帝堯の暦法は一年が三百六十六日と伝えられていると、司馬遷は認識していたことがわかります。もちろん、司馬遷の時代(前漢代)の暦法では、一年が三百六十五日と四分の一日であることは司馬遷も知っています。それにもかかわらず、「五帝本紀」には「歳三百六十六日」と書いたのですから、これは誤記誤伝の類いではなく、何らかの古い伝承や史料に基づいて、司馬遷はそのように記したと考えざるを得ません。しかしながら、通常の暦法からは一年を三百六十六日とすることを導き出すことはできません。そこで、わたしは一見不思議なこの「歳三百六十六日」の記事に、二倍年暦の暦法を推定復原するヒントがあるのではないかと考えたのです。
 このアイデアを共同研究者の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)に伝え、二人で検討協議を続けました。その結果、こうした司馬遷の認識に至る経過を次のように推定しました。

(1)二倍年暦では一年(365日)を二分割するわけだが、春分点と秋分点で日数を分割するのが観測方法からも簡単である。〔荻上紘一さんの見解〕
(2)そうすると、183日と182日に分割することになる。これを仮に「春年」「秋年」と称する。
(3)このような理解に基づいて、一年(365日)のことを「春秋」と称したのではないか。〔西村秀己説〕
(4)二倍年暦表記で「春年183日」と記された史料を司馬遷が見たとき、一年(春秋)の日数を183×2と計算し、366日と理解した。あるいは、このように計算された史料を司馬遷は見た。
(5)一年を366日とする暦を堯が制定したと理解した司馬遷は、『史記』「五帝本紀」に「歳三百六十六日」と記した。

 以上のように、司馬遷の認識経緯をフィロロギーの対象として検討し、推定しました。この推定が正しければ、後半の「以閏月正四時」についても、同様に二倍年暦の暦法にも「閏月」が存在していたとする史料を司馬遷は見たことになります。(つづく)

(注)吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記1』明治書院、1973年。