史料批判一覧

第1734話 2018/08/28

杉本直治郞博士と村岡典嗣先生 (2)

 杉本直治郞氏の論稿「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」(『文学』36-11、岩波書店。1968年)がフィロロギーの方法論に立脚しているのではないかと考えたのですが、何かそのことを示す証拠はないだろうかと、わたしは同論稿を再読しました。そうすると論稿末尾の次の記事に気づきました。

 「(前略)文字通りのアルバイト(労働)の積み重ねによって、できるだけ厳密な、文献的批判的方法(Philologische=Kritische Methode)により、確実なる歴史事実を把握し、自由なる想像よりも、史実を前提とする推理によって、あくまで真実に肉薄しなければならない。」(1289頁)

 わざわざドイツ語の「アルバイト(労働)」や「文献的批判的方法(Philologische=Kritische Methode)」を用いて説明されているところを見ると、杉本博士はドイツでアウグスト・ベークが提唱したフィロロギーを知っていたのではないかと思われました。そこで、「古田史学の会・関西例会」でベークのフィロロギーを講義された茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部員)のご意見を聞いてみたところ、次のような感想をいただきました。

 「Philologische=Kritische Methodeはドイツ語の一般的な単語で、フィロロギー特有の用語ではない。〝確実なる歴史事実を把握し、自由なる想像よりも、史実を前提とする推理によって、あくまで真実に肉薄しなければならない。〟という考え方はフィロロギーとは異なる。フィロロギーにとって〝確実なる歴史事実を把握〟は前提ではなく、むしろ結果である。」

 このように述べられ、この部分はベークのフィロロギーとは異なるとのご意見でした。ただベークには何人かの後継者が細い糸で繋がっており、その影響を間接的に杉本氏が受けた可能性は否定できないとのこと。そこでわたしはベークの学問を日本において〝細い糸〟として継承された村岡典嗣先生と杉本直治郞博士に接点があったのではないかと考え、調査することにしました。(つづく)


第1733話 2018/08/27

杉本直治郞博士と村岡典嗣先生 (1)

 あまの原 ふりさけ見れば かすがなるみかさの山にいでし月かも(『古今和歌集』巻九)

 延喜五年(905)に成立した紀貫之の編纂になる『古今和歌集』に見える阿倍仲麻呂のこの歌は有名です。古田先生がこの「みかさの山」が奈良の御蓋山(みかさ山、標高約二八三m)ではなく、福岡県の三笠山(宝満山、標高八六九m)であるとされたことは古田ファンにはよく知られています。

 その研究に取り組んでいたとき、わたしは杉本直治郞氏の論稿「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」(『文学』36-11、岩波書店。1968年)を見つけました。同論稿には、仲麻呂の歌の原型が「みかさの山に」ではなく、「みかさの山を」であると論証されており、このことは古田説が正しかったことを決定的にしました。すなわち、奈良の御蓋山では低すぎて、月はその後の春日山連峰から出るため、「みかさの山をいでし月」はありえず、福岡の三笠山なら太宰府から見れば月はそこから出るので、極めてリーズナブルな表現となるのです。

 『古今和歌集』には貫之による自筆原本いわゆる「三証本」や、貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)があったとされていますが、残念ながらいずれも現存しません。しかし、二つの古写本の存在が知られています。一つは前田家尊経閣文庫所蔵の『古今和歌集』清輔本(保元二年、1157年の奥書を持つ)であり、もう一つは京都大学所蔵の藤原教長(のりなが)著『古今和歌集註』(治承元年、1177年成立)です。清輔本は通宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写したもの)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に」と書いた「に」の横に「ヲ」と新院御本による校合を付記しています。また、教長本は「みかさの山を」と書かれており、これもまた新院御本により校合されています。これら両古写本は「みかさの山に」と記されている流布本(貞応二年、1223年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えていると杉本直治郞氏は先の論稿で紹介されています。
こうした『古今和歌集』古写本の分析に基づき、流布本の「みかさの山に」よりも「みかさの山を」の方が原型であり、仲麻呂の望郷の気持ちをよく現していると杉本博士は解説されています。こうした仲麻呂の気持ちになってその歌を解釈し、古写本の史料事実を根拠とされた論稿を読んで、これはフィロロギーの方法論に立脚しているのではないかとの印象をわたしは抱いたのです。(つづく)


第1731話 2018/08/26

「采女氏塋域碑」拓本の混乱

 〝那須国造碑「永昌元年」の論理〟ということで、理屈っぽい「洛中洛外日記」が続いていますが、ここで話題を少し変えて「息抜き」することにします。もっとも学問的には重要なテーマですから、しっかりと論じます。
 それは「釆女氏塋域碑」拓本の文字の異同についての問題です。同碑の「飛鳥浄原大朝庭」という表記について、わたしは「飛鳥浄原大朝庭」と記した拓本の他に、「飛鳥浄御原大朝庭」あるいは「飛鳥浄原大朝廷」と記した拓本や訳文が入り交じって存在していることに気づきました。わたしの「洛中洛外日記」原稿中にも同様の混乱があり、校正・チェックをお願いしている加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市。元高校教諭)からそのご指摘を受け、この問題の存在にはっきりと気づきました。
 わたしは「釆女氏塋域碑」の碑文については主に「古京遺文」(日本古典全集本)所収拓本に基づいた訳文を採用していたのですが、ネットなどで見る拓本やそれらの訳文に微妙な差があることが気になっていました。そこで、京都府立歴彩館の総合資料館で先行研究論文や拓本が掲載された書籍を片っ端から閲覧しました。そして「釆女氏塋域碑」拓本についての近江昌司さんの研究論文「釆女氏塋域碑について」(『日本歴史』431号、1984.04)に巡り会いました。
 この「釆女氏塋域碑」は実物が存在しないため、研究は拓本によらざるを得ません。ところがその拓本間に文字の異同があったり、拓本から読み取られた訳文間にも文字の異同があるのです。そのことを近江昌司さんは「釆女氏塋域碑について」にて明らかにされ、複数ある拓本の中で「真拓」として現存するのは「小杉文庫蔵拓本」(静岡県立博物館蔵)だけであるとされたのです。そしてその他の拓本のほとんどは「真拓」ではなく、後世に造られた模造品の拓本であったり、印刷用の木製彫版によって摺られた「摺本」であるとのことなのです。
 幸い、わたしが依拠した「古京遺文」(日本古典全集本)所収拓本は「真拓」とされていました。ただし現在は行方不明とのこと。また、拓本作成時期はその碑文のひび割れの進み具合の差から、「小杉文庫蔵拓本」の方が古いとされています。結果としてわたしが採用した「拓本」は〝セーフ〟でしたが、まさか模造品の拓本やら印刷用の木版摺本が「拓本」として世の中に出回っているとは思いもしませんでした。
 文献史学における「史料批判」がいかに重要か、改めて思い知らされた一件で、まさに冷や汗ものでした。従って、「釆女氏塋域碑」の碑文は「飛鳥浄原大朝庭」であり、「飛鳥浄御原」と「御」を付記したり、「大朝庭」の「庭」を「廷」としている論稿は要注意です。なお、付言すればこれらの文字以外にも、碑文のキズなのか、本来の文字の一部なのかで論争されている字(「十」か「千」か)もありますが、こちらは碑文そのものを見つけ出さないと決着がつかないかもしれません。


第1721話 2018/08/13

『古田史学会報』147号のご案内

『古田史学会報』147号が発行されましたので、ご紹介します。

 本号冒頭には茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)による論理学から見た「論証」と「実証」に関する論稿が掲載されました。こうした分野の本格的論稿の掲載は『古田史学会報』では初めてのことと思います。なお、茂山さんは会報初登場です。関西例会で11回に及ぶアウグスト・ベークのフィロロギーの解説をされた茂山さんによる総まとめともいうべき論稿です。論理学に慣れていない方にはちょっと難解かもしれませんが、ぜひしっかりと読んでみて下さい。

 同じく『古代に真実を求めて』編集員の古谷さんからは久しぶりの投稿です。中国長沙市から発見された三国時代の「長沙走馬楼呉簡」の研究です。そこに記された「都市史」いう官職名から、『三国志』倭人伝に見える「都市牛利」の「都市」も官職名ではないかとされました。文字史料に強い古谷さんならではの研究です。

 わたしは、古田先生との長期にわたった論争的対話「都城論」についての経緯と互いの説の論理構造の違いについてまとめた論稿を発表しました。先生が亡くなられて三年が過ぎましたので、研究史的意義もあるかと思い、書き残したものです。

 掲載された第24回会員総会の決算報告を見て、ようやく会員数400名に手が届くところまで来たことを実感しました。毎年、会員数は増加していますが、これも無給(手弁当と交通費自腹)で献身的に会を支えていただいている役員や会員の皆様のおかげと深く感謝しています。

 今号に掲載された論稿は次の通りです。

『古田史学会報』147号の内容
○「実証」と「論証」について 吹田市 茂山憲史
○よみがえる古伝承
大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その3) 川西市 正木裕
○長沙走馬楼呉簡の研究 枚方市 古谷弘美
○古田先生との論争的対話 -「都城論」の論理構造- 京都市 古賀達也
○古田史学の会 第二十四回会員総会の報告
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○編集後記 西村秀己


第1720話 2018/08/12

肥後と信州の共通遺伝性疾患分布

 九州と信州が古代から交流があったことを「洛中洛外日記」でも紹介してきました。本稿末尾にそのタイトルを転載しています。それらの記事を読まれた読者のSさんから興味深い情報がメールで寄せられました。
 Sさんは長崎県在住の医師で、家族性アミロイドポリニューロパチーという遺伝性の病気の集積地が熊本県と長野県にあり、このことは両地域の交流を示す痕跡ではないかとお知らせいただいたのです。それは専門家の間ではよく知られた分布状況とのことです。アミロイドポリニューロパチーは難病の一つで、患者さんは同じ遺伝子異常を持っていることがわかっており、長野のかたは熊本から移住したひとたちの子孫の可能性があるのではないかとSさんは考えておられました。
 この疾患は、常染色体優性遺伝形式をとり、お父さんかお母さんのどちらかにその遺伝子があれば50%の確率で子供に遺伝するそうです。実際に発症するのはそれほど多くはないそうです。
 送っていただいた分布図を見ても、熊本県と長野県に大きな分布が見られ、両者に血縁的関係があることを示唆していました。もっとも遺伝子情報だけではどちらからどちらへ伝播したのか、その時代が現在からどのくらいまで遡るのかは未詳です。歴史研究に遺伝子情報がどの程度有効なのか、その分野の進展が期待されます。今回、アミロイドポリニューロパチーの分布情報をお知らせいただいたSさんにお礼申し上げます。

「洛中洛外日記」の信州と九州関連記事タイトル

422話 2012/06/10 「十五社神社」と「十六天神社」
483話 2012/10/16 岡谷市の「十五社神社」
484話 2012/10/17 「十五社神社」の分布
1065話 2015/09/30 長野県内の「高良社」の考察
1240話 2016/07/31 長野県内の「高良社」の考察(2)
1248話 2016/08/08 信州と九州を繋ぐ「異本阿蘇氏系図」
1260話 2016/08/21 神稲(くましろ)と高良神社


第1692話 2018/06/16

「千字文」熟語の記・紀・三国志検索

 本日、「古田史学の会」関西例会がi-siteなんばで開催されました。7〜10月もi-siteなんば会場です。翌日の「古田史学の会」会員総会出席も兼ねて、常連参加の冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の他にも「古田史学の会・四国」の合田洋一事務局長(全国世話人)、「古田史学の会・東海」の竹内強会長(全国世話人)も見えられました。
 今回の関西例会では様々なジャンルの研究が発表され、いずれも面白いものでした。参加者の評価は分かれましたが、わたしが特に興味深かったのが神戸市の田原さんの「『千字文』熟語と記・紀・三国志について」でした。デジタルデータベースを利用して、『千字文』の二文字熟語の、記紀や三国志での使用比率や各巻の傾向分布を調べるという、かなり労力が必要な基礎データ作成の報告です。その結果は、『古事記』での「熟語」使用比率が『三国志』『日本書紀』に比べてかなり低いこと、『日本書紀』各巻の傾向として孝徳紀の使用比率が高く、斉明紀・天智紀・天武紀が低いという傾向でした。
 このことが何を意味するのか、どのような仮説の根拠に使用できるのかという点をわたしは注目しました。他方、『千字文』の熟語は同じ字を一回しか使用しないという制約から一般的でないものが多いので、そうした熟語による検索データは信頼性が落ちるという批判が西村秀己さん(全国世話人、会計)から出されました。そうした限界はあるものの相対的な傾向分析には有効とわたしは思うのですが、この点、意見が分かれました。
 たとえば『古事記』は熟語使用比率が低いという傾向は、編纂にあたり稗田阿禮が誦習(しょうしゅう)したことの反映とも考えることができるのではないでしょうか。すなわち、稗田阿禮が倭語で誦習した場合、それを口述筆記した部分は中国語による熟語が少なくなると思われるからです。たとえば「しかく」という熟語を口述した場合、「四角」「資格」「視覚」「死角」「刺客」など何種類もの意味から適切なものを選ばなければなりませんから、熟語は口述筆記には不向きなのです。そのため自ずと倭語による誦習と口述筆記にならざるをえず、その結果として『古事記』の熟語使用率が『日本書紀』よりもかなり低いものになったとする仮説が成立するように思われます。
 いずれにしても、こうした多大な労力を必要とする基礎研究がデジタルデータ処理を駆使して発表される時代を迎えたことは、古代史研究における新たな史料批判の時代の本格的幕開けを古田学派も迎えたということです。この分野での更なる発展が期待されます。
 6月例会の発表は次の通りでした。
 なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔6月度関西例会の内容〕
①「邪馬台国と火の国(1〜3)」の紹介(茨木市・満田正賢)
②周髀による距離測定について(茨木市・満田正賢)
③古墳の分布状況より(大山崎町・大原重雄)
④森博達説の検証-谷川清隆氏の講演をひかえて-(八尾市・服部静尚)
⑤「俾弥呼と『倭国大乱』の真相」(川西市・正木裕)
⑥「千字文」熟語と記・紀・三国志について(神戸市・田原康男)
⑦九州年号が消された理由
 聖徳太子の伝記の中の九州年号(その2)(京都市・岡下英夫)
⑧「誦習」の理解について(東大阪市・萩野秀公)
⑨伊予(越智国)における「斉明」「紫宸殿」「天皇」地名の意味するもの(松山市・合田洋一)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 6/17「古田史学の会」会員総会と記念講演会(講師:東京天文台の谷川清隆氏)・新会員の報告・『古代に真実を求めて』21集「発見された倭京 太宰府都城と官道」の発行記念講演会(9/09大阪i-siteなんば、9/01東京家政学院大学千代田キャンパス、10/13久留米大学)の案内、5/25プレ記念セッション(森ノ宮)の報告・7/03奈良中央図書館で「古代大和史研究会(原幸子代表)」講演会(講師:正木裕さん「よみがえる日本の神話と伝承 天孫降臨の真実」)・11/10-11「古田武彦記念新八王子セミナー」発表者募集・7/07史跡巡りハイキング(整備なった唐古鍵遺跡と鏡作神社)・合田洋一さん新著『葬られた驚愕の古代史』紹介・7/27「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の案内・「古田史学の会」関西例会会場、7〜10月はi-siteなんば、11月は福島区民センター・その他


第1684話 2018/06/04

「実証と論証」茂山さんからのメール

 「学問は実証よりも論証を重んずる」と村岡典嗣先生が言われたこの言葉の意味や、それを受け継がれた古田先生の学問の方法についてより深く学びたいとわたしは願ってきました。
 そこで、フィロロギーの創始者であるアウグスト・ベークの著書『解釈学と批判 -古典文献学の精髄-』にまで遡っての解説を茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)にお願いして始まった「フィロロギーと古田史学」と題した関西例会での11回に及んだ講義もこの五月で最終回を迎えました。毎回、資料を作成して難解なベークの著書を解説していただいた茂山さんに深く感謝いたします。
 その終了後に、「学問は実証よりも論証を重んずる」に絞ってご意見をまとめて欲しいと更にお願いしていたところ、メールで「実証と論証について」という御論稿をいただいたのですが、わたし一人のものとするのはもったいないと思い、茂山さんのご了解をいただいて、転載することにしました。
 茂山さんは哲学を専攻されたとのことで、難解なベークの著作を深く考察され、そのエッセンスをわたしたちに教えていただきました。このテーマは奥が深く、まだまだこれからも勉強しなければならないと考えていますが、今回いただいた茂山さんの論稿はよく納得できるもので、学問の方法を身につけるためにもこれからの指針にしていきたいと思っています。

【以下、メールを転載】
古賀 様
          2018.5 茂山憲史

 村岡典嗣氏の「学問は実証より論証を重んじる」という言葉を理解するためには、村岡氏が自らの学問を「アウグスト・ベークのフィロロギーに基づいています」と公言していたのですから、ベークのフィロロギーからこの言葉を理解しなければならないように思います。
 ベークのフィロロギーについて1年にわたって報告してきたことを踏まえると、村岡氏の「学問は実証よりも論証を重んじる」という言葉は、具体的には多くの意味を内蔵していて、「肯定してもよい部分」と「容認してはいけない部分」があるように思います。

 肯定できるのは、
「事実を示すことが実証だと勘違いしてはいけません」
「実証にも常に論証が含まれていなければ、つまり、事実の理解と主張についての論証がなければ、学問的とは言えません」
「論証抜きの事実だけを根拠に、ひとの論証を否定することはできません。ひとの論証を否定できるのは、さらなる論証によってのみです」
という意味に理解することです。

 一方、容認できないのは
「実証の証明力(信頼度)よりも論証の証明力(信頼度)の方が、より大きい」
「実証と論証の結果が対立したときは、論証の方が正しいと結論するべきです」
「論証が完全であれば、実証の作業は必要ありません」
などと理解することです。

 村岡氏が言及していない方法論上の問題を、論理学とベークのフィロロギーから追加するなら
「仮説は論証されるべきものです」
「事実と合わない、という理由だけで仮説を葬り去ることはできません」
「文献学における論証は、かならず事実から出発しなければなりません」
「したがって、自ずとその論証は実証でもあり、実証がないという批難は当たりません」
「個別部分的に実証がないという批判はできますが、それを理由に仮説や論証の全体を葬り去ることはできません」
「実証より論証を重んじるからといって、論証にあぐらをかき、論証に緻密さや論理性を欠くようでは学問とは言えません」
などでしょうか。

 ベークは「未完成は欠陥ではない」といっていました。「未完成」ですから「証明できた」ということでないのは、当然なのです。ここで重要なのは、それが「欠陥ではない」ということです。「その仮説を捨て去ってしまってはいけませんよ」と言ってくれているのです。「未完成」ということは「否定の論証」も完成していないのですから、何も決まっていません。


第1676話 2018/05/24

九州王朝の「分国」と

      「国府寺」建立詔(1)

 「洛中洛外日記」に連載した「九州王朝の『東大寺』問題(1〜3)」を「古田史学の会」会員の山田春廣さんがご自身のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)に転載されました。そうしたところ、早速、読者から反応があり、山田さんと読者の服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)による応答が続けられました。学問的で真摯な応答であり、多元的「国分寺」研究の深化をもたらすものと思われました。

 同応答を読みますと、山田さんや服部さんが指摘された主たる疑問は概ね次の三点に集約できるようです。

①九州王朝による66国への分国が告貴元年(594)にはなされていたとは思えない。(山田さんからの疑義)

②中国ではじめて全国に同じ寺院名の寺院を建立(あるいは既存の寺院に新たに命名する)したのは、隋もしくは唐の時代であると考えられ、告貴元年(594)に「国府寺」が建立されたとは考えにくい。7世紀以降ではないか。(服部さんからの疑義)

③中国では隋や唐になって初めで全国に同名の寺院が建立されており、倭国での同様の建立あるいは命名は、中国を習ってのこととみるのが妥当と考えられる。従って、倭国がそれよりも早く「国府寺」という名称の寺院を諸国に造らせたとは考えにくく、「国府寺」という名称にもこだわらない方がよいのではないか。(服部さんからのご意見)

 これらのご指摘・疑義に対して、わたしは告貴元年(594)までには九州王朝は全国を66国に「分国」しており、諸国に「国府寺」建立を命じたのも告貴元年とするのが最も有力な仮説であり、その通称として「国府寺」と称されていたとしても問題ないと、今のところ考えています。学問的論議が更に深化するよう、その理由について説明することにします。(つづく)


第1668話 2018/05/11

山田春廣さんの「実証・論証」論

 今年9月に東京家政学院大学で開催される『発見された倭京』出版記念講演会で、多元的古代官道について講演される山田春廣さん(古田史学の会・会員)がご自身のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)で、「実証」と「論証」について論じられています。わたしは「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡典嗣先生の言葉を古田先生から教えていただいたのですが、わたし自身の理解が不十分なため、その意味についてうまく説明できないでいました。この山田さんのブログを拝見し、このような説明の仕方もあるのかと感銘しました。
 山田さんのご了解のもと、以下転載します。

「学問は実証より論証を重んじる」
―「実証主義」は「教条主義」、科学は「仮説主義」―

 肥さんが夢ブログでこの難しいテーマを論じられた。
 学問は実証より論証を重んじる
 http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/05/post-4dad.html
 私は、肥さんとは別の角度から論じてみたいと思う。
 学問は、様々な分野に分化している(化学、物理学、歴史学、社会学、…、〜学と)。
 〜学とつけば学問かといえば、そうではない。文学は学問ではなく芸術だ。芸術は「表現したい」という欲求を満たす活動で、副次的にその表現が他の人を楽しませる。
 学問は芸術とは違う。学問する者は、「表現したい」という欲求をもっているかもしれないが、それは目的ではない。学問は「知りたい」という欲求を満たす活動だ。ただ「知りたい」のであれば「読書」、「鑑賞」、「見学」、「旅行」などといった行為をすればよい。文学は鑑賞法といったことも扱うかも知れないが、それはハウ・ツー(How to 〜)であり、ハウ・ツー(うまくやるにはどうすれば良いか)を知ることは、学問とは異なる。学問は「真実」を「知りたい」という欲求を満たすための活動で、それが他の人の同じ欲求を満たす。
 「能書き」はこれくらいにして、本題に入ろう。
 私は、学問を「真実を知ろうとする活動」だと考えている。しかし、この考えを他人に強制しようという意図はない。
 学問(真実を知ろうとする活動)=サイエンス(科学)と考える。サイエンスでなければ真実を知ることができないと考えている。この考えに反対の考えもある。宗教やイデオロギーである。
 宗教やイデオロギーは「論証されていないこと」を事実・真実としている。科学と対極の考え方と言える。だとすれば、科学と宗教の違いを確認しておくことが重要だと考える。

 科学的とは

 「科学」は「科学的な方法論」によって成り立つ。「科学的な方法論」には「科学的なものの考え方」が含まれる、というよりそれが基礎になってはじめて成り立つといえる。
 「科学的なものの考え方」とは「科学は仮説によって成り立っている」とする考え方である。今現在「正しい」とされていることも、それは「今のところ、正しいとされている(だけ)」と考える「ものの考え方」である。昨日まで「太陽が地球を回っている」とされていても(それで天体の運行が計算できていても)、今日は「地球が太陽を回っている」と証明されてしまうようなことは科学では「起きるのが当たり前」と考える「ものの考え方」である。「科学的なものの考え方」によれば「現在正しいとされていること(認識や理論)も仮説である」ということである。これと対極にあるのが宗教・イデオロギーである。

 神学(イデオロギーの典型)

 宗教・イデオロギーの典型として「神学」をとりだして論じよう。
 神学は、科学とは「ものの考え方」において科学の対極の考え方に基づいている。科学は「科学は仮説によって成り立っている」と考えるのに対して「神学は絶対的真理によって成り立っている」と考えている。いや、神学は言うであろう。「神は絶対的真理だ」と。
 とにかくこう言おう。科学が「真理・真実」といっても「仮の正しさ」であるが、神学が「真理・真実」といえば「絶対的正しさ」をいっている。これが科学と神学の違いである。

 神学の証明法

 神学の真理の証明法は、次の通りである。
・絶対的真理が定義されている(経典・福音書などに)
・ここにこう書かれていると実証する
・Q.E.D(証明終り)

 科学の証明法

・現象・事実をうまく説明できる仮説を立てる
・従来説明できなかったことがその仮説によって説明できると論証する
・論証した仮説の通りであることを実証する
・Q.E.D(証明終り)

 神学と科学の違い

 ご覧の通り、神学と科学の違いは「論証」が有るか無いかなのです。そしてこの「論証」は何の為になされているかといえば、「従来説明できなかったことがこの仮説によって説明できる」と論証しているのです。つまり「仮説」を立てて「この仮説で説明できる」と論証し、「仮説の通りである」ことを実証する、これが科学的方法論なのです。
 これに対して「神学」の真骨頂は「実証」です。「実証」こそが「神学」の「神学」たる所なのです。神学の実証法は「典拠主義」といわれます。「どこどこにこう書いてある」「誰々がいつどこでこう言われた」という実証法です。この実証からは何も新しい知見は出てきません。いや、出てきては困るのですから、神学にとって「典拠主義」は正しいありかたなのです。「実証主義(実証することが目的、つまり実証すれば事足りるとする立場)」は「典拠主義」なのです。「典拠主義」は英語で dogmatismといいます。「典拠主義」は「教条主義」とも訳されます(教義の条文をもって証明するから「教条」です)。これによって異端審判(宗教裁判)ができるわけです。
 一方、科学は、従来説明できないことを何とか説明できるようにする仮説を立てることに努力しますから、新しい仮説によって新しい知見がもたらされて、「真実(いまのところはそう見えている)を知りたい」という欲求を満たし、他の人の同じ欲求を満たすわけです。
 神学(イデオロギーの代表)が一つたりとも新しい知見をもたらさず、科学が新しい知見をもたらすのは、神学は「実証主義」であるが、科学は「仮説主義」だからなのです。
 つまり、科学の本質は「実証」などではなく、「仮説」を立てるところにあるのです。

 結語

 学問は新しい知見を得るための活動なのですから、「学問(科学)は実証より論証を重んじる」のです。
(追加注記)
「論証」は論理的に証明すること。
「実証」は具体的な事実を示して証明すること。
 これを混同してはならない。


第1667話 2018/05/10

九州王朝の「東大寺」問題(1)

 一昨日の東京出張では、代理店やお客様との夕食の予定が入らなかったので、肥沼孝治さん宮崎宇史さん冨川ケイ子さんと夕食をご一緒し、夜遅くまで5時間以上にわたり古代史談義を行いました。そこでの話題は、『論語』の二倍年暦、多元的「国分寺」研究、九州王朝の「東大寺」問題、そしてわたしが5月27日の多元的古代研究会主催「万葉集と漢文を読む会」で発表予定の「もう一つのONライン 670年(天智九年庚午)の画期」など多岐にわたり、とても有意義でした。

 中でも精力的に多元的「国分寺」研究に取り組んでおられる肥沼さんとの対話には大きな刺激を受けました。古田学派の研究者で進められている多元的「国分寺」研究の成果はいずれ『古代に真実を求めて』で特集したいと願っていますが、そのためにはどうしても避けて通れない研究テーマがあります。それは九州王朝にとっての「東大寺」はどこかという問題です。

 大和朝廷による国分寺の場合、その全国国分寺の「総本山」としての東大寺がありますが、もし九州王朝による「国分寺(国府寺)」創建が先行したのであれば、同様に九州王朝にとっての「東大寺」が九州王朝の中枢領域(筑前・筑後)にあってほしいところです。ところがその九州王朝「国府寺」の総本山にふさわしい寺院が見つかっていないのです。しかも、この問題についての古田学派内での研究を見ません。この問題抜きでの多元的「国分寺」研究特集は完成しないとわたしは思うのです。(つづく)


第1665話 2018/05/07

『論語』二倍年暦説の史料根拠(7)

 関西例会で出された『論語』二倍年暦説への批判として、周代や「周代」史料が二倍年暦であったとしても、『論語』の年齢記事が二倍年暦かどうか論証されていないというものがありました。たとえば「周代」史料である『春秋左氏伝』が一倍年暦による編年体史料であることは、わたしも知っていましたし、谷本さんからも同様の指摘が関西例会でなされていました。こうした「周代」史料に一倍年暦のものがある理由について、わたしと谷本さんとでは見解が異なっていましたが、同時に同じような認識の部分もありました。今回はこのことについて説明します。
 わたしが二倍年暦の研究をしていて、いつも悩まされる問題がありました。それは二倍年暦から一倍年暦への変化に伴って発生する「二倍年齢」という概念でした。すなわち、天文観測技術の発展により、一年を360日(より正確には365日)とする一倍年暦が発明され、公権力により一倍年暦の暦法が採用されたのですが、このとき人間の年齢だけは従来の二倍年暦で計算するという「二倍年齢」が、一倍年暦の暦法と共に併存するという現象が発生しうるという問題です。一倍年暦を採用した公権力が年齢計算でも一倍年暦を同時に採用していればことは簡単なのですが、今までの研究結果からは「一倍年暦暦法下の二倍年齢表記」という史料痕跡が存在しており、当テーマの『論語』についても、その可能性をどのように論理的に排除できるのかという視点が必要となります。『春秋左氏伝』も同様の問題を抱えています。
 一例をあげれば、記紀に記された継躰天皇の寿命が『古事記』では42歳(485-527)、『日本書紀』では84歳(450-534)となり、継躰天皇の寿命が『古事記』との比較から『日本書紀』では二倍年暦に基づいて記された痕跡を示しています。すなわち、『日本書紀』に見える継躰の生年が二倍年齢により没年から逆算して記されたと思われます。しかし、『日本書紀』は一倍年暦で編年されていますし、継躰天皇の時代であれば、九州王朝は年号を建元しており、当時採用していた暦法が一倍年暦であったことを疑えません。
 この史料事実は、暦法は一倍年暦の時代でも、人の年齢は二倍年暦を淵源とする「二倍年齢」で計算され伝承されたことを示しているのです。すなわち、一倍年暦と「二倍年齢」併存の可能性を疑うという視点が、二倍年暦研究における史料批判には必要ということなのです。『論語』の史料批判においても、この問題があるため、わたしは『論語』の年齢記事が二倍年暦で理解したほうがリーズナブルであること、弟子の曾参が二倍年暦による年齢理解で語っていることなどを根拠として説明してきたわけです。(つづく)


第1659話 2018/04/28

『論語』二倍年暦説の史料根拠(3)

 わたしは「周代」史料の年齢記事は基本的に二倍年暦で表記されていると考えていますが、同時に後代の編纂時に一倍年暦に書き換えられる可能性もあることを指摘しました。たとえば『春秋左氏伝』などは一倍年暦で編年表記されていると関西例会で述べました。この点は谷本茂さんからも指摘された通りです。そこで、「周代」史料に一倍年暦と二倍年暦のものがあることについて、その史料状況が何を意味するのかについて説明します。
 おおよその目検討ですが、わたしは二倍年暦から一倍年暦への公権力による暦法変更は秦の始皇帝による度量衡の統一の頃に行われたのではないかと推定しています(今のところ史料根拠は見つけられていません)。そのため、「周代」の記録や伝承が一倍年暦の時代の漢代で編纂される際に、暦日記事が書き換えられる可能性があります。
 そうしたことから、漢代成立史料に「百歳」とかの二倍年暦による「長寿」記事が散見されるという史料状況が発生します。逆から言えば、周代における二倍年暦の存在がなければ、そのような史料状況は発生しません。すなわち、もし周代からずっと一倍年暦であれば、漢代に成立した「周代」史料に「百歳」などという長寿記事は空想の産物でもなければ出現できないのです。
 ところが「周代」史料に散見する「百歳」などの超長寿記事は通常の会話(説話)部分にも出現しており、当時の人々の普通の認識として語られています。たとえば、孔子の弟子の曾子の会話として次のような記事が『曾子』に見えます。

 「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(『曾子』曾子疾病)

 この記事は「曾子曰く」で始まり、曾子が親孝行について述べたもので、その普通の会話中に「人の生るるや百歳の中」という普通の人を対象にした発言です。従って、当時の一般的な人間の二倍年暦による「百歳(一倍年暦の五十歳)」の人生中に「疾病あり、老幼あり。」と記していることからも、孔子の弟子の曾子は二倍年暦により寿命や年齢を認識していたと考えざるをえません。この史料事実から、曾子の師である孔子も二倍年暦により年齢を認識をしていたと考えるのが真っ当な文献理解のあり方なのです。(つづく)