史料批判一覧

第2260話 2020/10/13

古田武彦先生の遺訓(4)

プロジェクト「夏商周断代工程」への批判

 2000年に発表された中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」以降の古代中国史研究についても紹介した佐藤信弥著『中国古代史研究の最前線』(星海社、2018年)を購入して精読しています。
 同書には、岳南著『夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源』(柏書房、2005年)で紹介されたプロジェクト「夏商周断代工程」の研究成果への学界からの批判として、次の事例が紹介されています。

〝夏商周断代工程の年表では懿王の在位年数は八年であり、銘文(注①)の紀年と矛盾する。あるいは『史記』の三代世表では第八代の孝王が懿王の弟、すなわち共王の子とされているが(周本紀では孝王は共王の弟とされている)、夏商周断代工程では孝王の在位年数も六年しかなく、いずれにせよ夏商周断代工程が設定した西周の王の紀年が誤っていたことが示されてしまったのである。
 北京大学の金文研究者朱鳳瀚はその誤りを認め、年表の修正を試みた。朱鳳瀚は夏商周断代工程の専門家チームのひとりである。彼は取り敢えず懿王元年とされる前八九九年から懿王の在位年をそのまま引き延ばそうとしたが、ここでまた問題が生じた。懿王一〇年にあたる前八九〇年の正月(一月)の朔日は丙申の日であり、銘文の「甲寅」は一九日となり、一日から一〇日までという月相の初吉の範囲に合わないのである。結局「天再び鄭(てい)に旦す」(注②)を基準に定めたはずの懿王元年の年も誤りであったと認めざるを得なくなった。〟110~111頁

 こうした批判と、その批判を認めざるを得なくなったプロジェクト「夏商周断代工程」の専門家による年表修正、そして修正により新たな矛盾が発生したことを紹介し、著者の佐藤信弥さんは次のように指摘されました。

〝「夏商周断代工程は国家プロジェクトの一環として進められたのではなかったのか? それがあっさりと間違いでしたと掌(てのひら)を返してしまって問題がないのか?」と思われる読者もいるかもしれない。しかし、金文に見える紀年を頼りに西周の王年を復元するという試み自体が、もともと誰がやっても無理が生じるものであり、このように新しい材料の出現にともなって修正を迫られるものなのである。(中略)
 金文の紀年による西周王年の復元は、中国だけでなく、日本も含めた外国の研究者も取り組んでいる研究課題であるが、一方でこのような観点から王年の復元自体に否定的な意見もある(実は筆者も否定的な立場をとる)。〟111~112頁

 この佐藤さんの指摘はもっともなものです。様々な解釈が可能な金文の記事に対して、自説に都合の良い解釈を当てはめ、年代を確定するという中国国家プロジェクト「夏商周断代工程」の方法自体にわたしも疑念を抱いています。この周代の編年・暦法研究はそれこそ後秦代(384~417年。注③)から試みられており、未だに決着がついていません。やはり、二倍年暦という概念(仮説)を含めた年代研究が不可欠であるとわたしは感じています。(つづく)

(注)
①呉鎮烽『商周青銅器銘文曁(および)図像集成』(2012年)で初公開された「㽙簋」(いんき)の銘文冒頭にある「隹(こ)れ十年正月初吉甲寅」。
②『竹書紀年』に見える「天再び鄭に旦す」について、第七代懿王元年に「日の出の際に皆既日食が起こった」とする解釈。この解釈により、プロジェクト「夏商周断代工程」は懿王元年を前899年と「確定」した。
③新城新蔵「春秋長暦」に、後秦の姜笈が「三紀甲子元歴によりて春秋の日食を推算す」(『狩野教授還暦記念支那學論叢』京都弘文堂書房1927年。33頁)とある。


第2257話 2020/10/10

古田武彦先生の遺訓(3)

中国国家プロジェクト「夏商周断代工程」の方法

 中国の国家プロジェクトとして実施された中国古代王朝の絶対年代決定プロジェクト「夏商周断代工程」を紹介した岳南著『夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源』(柏書房、2005年)を読みましたが、その学問の方法には納得できていません。もちろん、プロジェクトの報告書ではなく日本語訳された概要と結論の紹介ですから、断定はできません。
 同書によれば、プロジェクトの方法論とは、複数の古典史料に記された年代や天文現象(日食など)の史料事実の取捨選択、金文(青銅器に記された文字記録)の紀年や記事の解釈、出土物(炭・人骨など)の放射性炭素C14年代測定、古天文学による天体現象の暦年復元、これらの研究結果が一致・近似するケースを求め、古代王朝の王の即位年代を確定していくというものです。このように、測定・観察方法が原理的に異なる複数分野の方法により求められた結論が一致する場合は、その仮説や結論はより真実であるという考え方は、自然科学分野でもクロスチェックとしてよく用いられています。
 こうした方法で「確定」された国家プロジェクト「夏商周断代工程」の結論の一つとして、周の武王が殷(商)を滅ぼした年代「前1046年」の「確定」があります。そして、この「前1046年」などを定点として、周王(武王から幽王まで)の在位年代が次々と「確定」されました。更に、夏王朝の始まりは「ほぼ前2070年」、殷(商)の始まりは「ほぼ前1600年」などと「確定」されたのです。
 1996年5月から開始されたこの国家プロジェクトの「段階的成果」は、国家科学技術部の承認を経て、2000年11月9日に北京で正式に発表されました。2004年1月には国家科学技術部に報告書が提出され、審査を受けて承認されたとあります。ちなみに、同プロジェクトが政府(国務院)の「指導グループ」からの全過程にわたる「指導」に基づいて実施されたことが次のように記されています。

 「幸いなことに《プロジェクト》が始まる段階から政府と社会各界の力強い支持を受けた。国務院の七部門の主要な責任者からなる指導グループは、全過程にわたって支持と指導を怠らず、実施過程で遭遇した重大な問題や困難の解決を力強く支援してくれた。」267頁

 全過程にわたる政府の「指導」により実施され、結果が「承認」される、という「学術研究」はわたしには理解し難いのですが、これもお国柄なのでしょう。
 他方、従来の文献研究では『竹書紀年』(古本)に記された周の武王が殷(商)を滅ぼした年代は前1027年と解読されてきました。プロジェクト「夏商周断代工程」が「確定」した「前1046年」説が〝正しい〟とするのであれば、なぜ『竹書紀年』に〝正しくない〟年代が記されたのかという研究(論証)が文献史学では必要ですが、『夏王朝は幻ではなかった』にはそのことについて触れられていません。(つづく)


第2202話 2020/08/11

『古田史学会報』159号の紹介

 『古田史学会報』159号が発行されましたので紹介します。わたしは、「造籍年のずれと王朝交替 ―戸令『六年一造』の不成立―」を発表しました。『養老律令』戸令で戸籍は六年ごとに造ることと定められていますが、初めての全国的戸籍とされている「庚午年籍」(670年)から現存最古の戸籍「大宝二年籍」(702年)の間は32年であり、6年で割り切れません。このことから、両戸籍は異なる権力者により造籍されたと考えられ、それは九州王朝から大和朝廷への王朝交替の痕跡であると論じたものです。

 正木さんは、九州年号「大化」(元年は695年)と『日本書紀』「大化」(元年は645年)が50年ずれていることから、九州王朝史料から『日本書紀』大化年間頃へ50年ずらして転用された記事があり、それには藤原宮造営も含まれるとする論稿「移された『藤原宮』の造営記事」を発表されました。『日本書紀』の編集方法(九州王朝記事の転用方法)がまた一つ明らかになったようです。

 阿部さんの論稿「『藤原宮』遺跡出土の『富本銭』について ―『九州倭国王権』の貨幣として―」は、従来の研究では富本銭の中でも新しいタイプに分類されていた藤原宮出土品が、その重量や銭文の字体などから判断して古いタイプであり、九州王朝により造られたとするものです。これからの多元的古代貨幣研究にとって、基本論文の一つになるのではないでしょうか。

 服部さんの「磐井の乱は南征だった」は関西例会で発表された研究で、『日本書紀』に引用された『芸文類聚』の内容分析から、『日本書紀』の「磐井の乱」記事は、九州王朝内での「南征」記事の転用とされました。『芸文類聚』の内容に立ち入って、多元的に『日本書紀』記事を検証するという新しい研究方法の提示という意味に於いても注目される論稿です。

【古田史学会報』159号の内容】
○移された「藤原宮」の造営記事 川西市 正木 裕
○造籍年のずれと王朝交替 ―戸令「六年一造」の不成立― 京都市 古賀達也
○「藤原宮」遺跡出土の「富本銭」について ―「九州倭国王権」の貨幣として― 札幌市 阿部周一
○「俀国=倭国」は成立する ―日野智貴氏に答える― 京都市 岡下英男
○磐井の乱は南征だった 八尾市 服部静尚
○「壹」から始める古田史学・二十五
多利思北孤の時代Ⅱ ―仏教伝来と「菩薩天子」多利思北孤の誕生― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○各種講演会のお知らせ
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○『古田史学会報』原稿募集
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己


第2187話 2020/07/18

「倭」と「和」の音韻変化について(3)

 「洛中洛外日記」で連載中の拙論「九州王朝の国号」では、九州王朝の国号変化(委奴→倭→大委)の要因として、①「倭」字の中国側での音韻変化(wi→wa)の発生、②その音韻変化を九州王朝が知り、影響を受けた、という二点が基本前提となっています。この二点が認められなければ拙論の仮説は成立しませんから、この基本前提は重要です。
 そこで、読者の皆さんにこの音韻変化という通説成立の根拠として、『記紀』歌謡における「わ」表記に使用される漢字として「和」「倭」があり、『日本書紀』成立時には「倭」は「わ」表記として使用されており、八世紀初頭の大和朝廷内では「倭」の音韻変化を受容したことを説明しました。それに先立ち、中国側での「倭」の音韻変化が南朝から北朝への権力交替により発生したのではないかとも述べました(中国側での音韻変化については、古代中国の音韻史料『説文解字』『切韻』などを別途解説したいと思います)。
 『古事記』歌謡の「わ」表記には「和」が使用され、『日本書紀』歌謡では「和」と「倭」が併用されており、その巻毎の分布状況が森博達さんの仮説(α群とβ群分類。『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』中公新書)にほぼ対応していることも〝「倭」と「和」の音韻変化について(2)〟で紹介したとおりです。ただし、八世紀初頭成立の『記紀』よりも古い同時代史料でも音韻を説明したいと思案していたところ、「洛中洛外日記」802話(2014/10/15)〝「川原寺」銘土器の思想史的考察〟のことを思い出しました。改めてその要旨を紹介します。
 奈良県明日香村の「飛鳥京」苑地遺構から出土した土器(坏・つき)に次の銘文が記されています。

 「川原寺坏莫取若取事有者??相而和豆良皮牟毛乃叙(以下略)」

 和風漢文と万葉仮名を併用した文章で、インターネット掲載写真を見たところ、杯の外側にぐるりと廻るように彫られています。文意は「川原寺の杯を取るなかれ、もし取ることあれば、患(わずら)はんものぞ(和豆良皮牟毛乃叙)~」という趣旨で、墨書ではなく、土器が焼かれる前に彫り込まれたようですから、土器職人かその関係者により記されたものと思われます。ということは、当時(七世紀)の土器職人は「漢文」と万葉仮名による読み書きができたわけですから、かなりの教養人であることがうかがわれます。
 この七世紀の銘文の「わ」表記に「和」が使用されているという史料事実から、遅くとも七世紀後半の近畿天皇家中枢の人々は万葉仮名を使用し、「わ」表記に「和」字を用いていたことがわかります。「和」を「わ」と発音するのは、南朝系音韻(日本呉音)ですから、『日本書紀』α群歌謡を「音訳」(森博達説)したとされる中国人史官(渡来唐人)による唐代北方音(「和」ka、「倭」wa)の影響を受けていないことになります。従って、『記紀』歌謡に見える「わ」表記の「和」と「倭」では、「和」字使用が倭国のより古い伝統的音韻表記であることがわかります。(つづく)


第2180話 2020/07/03

「倭」と「和」の音韻変化について(2)

 「倭」の字の音韻変化については一応の「解答」は出せたのですが、それではなぜ古くから使用された「和」の字に換わって「倭」が使用されたのかという新たな疑問がわたしの中で生まれました。その疑問解決の一助となったのが、森博達さんによる『日本書紀』研究でした。

 ご存じの方も多いと思いますが、森博達さんは、『日本書紀』は各巻ごとに正格漢文で書かれているα群と和風漢文で書かれているβ群とに分けることができ、前者は中国人史官により述作され、後者は日本人史官によって述作されたとする説を発表され、その研究は学界で高い評価を得ました。そして、一般読者向けに書かれた『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』(中公新書、1999年)は古代史ジャンルでのベストセラーとなりました。

 『日本書紀』雄略紀の歌謡から、「わ」表記に「倭」の字が使用され始めていることが気になり、森説のα群β群と照合したところ、歌謡に「倭」の字が採用されている巻(雄略紀、継体紀、皇極紀、斉明紀)は全てα群でした。他方、「和」の字が採用されている巻(神武紀、神功紀、応神紀、仁徳紀、允恭紀、推古紀、舒明紀)は何れもβ群に属しています。

森説では、α群の各巻は中国人史官が編纂したものであり、「α群の表記者は当時の北方音に全面的に依拠し、中国原音によって日本語の歌謡を音訳しました。」(『日本書紀の謎を解く』第二章第五節「α群歌謡中国人表記説」103頁)とされています。この「当時の北方音」とは長安を中心とする七世紀後半から八世紀初頭の唐代北方音のことです。

 『日本書紀』編纂に於いて、渡来唐人がα群を著述したとする森説に従えば、それまで「和」の字で「わ」表記されていた古代歌謡が唐代北方音で書き改められたこととなるのです。唐代北方音では「和」は「ka」「kwa」ですから、そのため「わ(和)れ」「わ(和)が」という従来表記では「かれ」「かが」のような発音になり、本来の意味とは異なってしまいます。そこで、唐代北方音では「わ」の音である「倭」の字に換えたものと思われます。すなわち、一部の例外を除きα群歌謡の「わ」の音が一斉に「和」から「倭」に置き換わっているのは、それまでの南朝系音(日本呉音)から唐代北方音(日本漢音)の採用による、「和」と「倭」の音韻変化の発生が理由であると考えられるのです。

 ちなみに、現代日本でも「和尚」の訓みに、「わじょう」「かしょう」「おしょう」があり、それぞれ「呉音」「漢音」「中世唐音(十二~十六世紀頃の南方杭州音)」と森さんは説明されています(『日本書紀の謎を解く』60~61頁)。

 この森説は先に詳述したわたしの推察結果と対応しており、拙論を支持する有力説と感じました。更に、拙論では不明とした古代歌謡の「わ」表記に「倭」が採用された時期は、『日本書紀』編纂時であることになります。以上のように、古代歌謡に痕跡を残す「倭」の音韻変化について、拙論(作業仮説・思いつき)は森説という強力な援軍を得て、学問的な仮説になったのではないでしょうか。


第2179話 2020/07/01

「倭」と「和」の音韻変化について(1)

 「洛中洛外日記」に連載中の「九州王朝の国号」について、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、『日本書紀』歌謡における「倭」の音韻変化とその成立時期の理解についてご指摘が寄せられました。九州王朝の国号変化をテーマとする同シリーズの主旨や目的と離れますし、専門的になりすぎることもあって、この音韻変化の説明には深入りしなかったのですが、この機会にわたしの理解を詳述したいと思います。
 古代中国語音韻研究では、「倭」の字の発音が変化(音韻変化、音声変化)していることが知られています。音韻学上の正式な表現ではありませんが、「wi」「wei」から「wa」「wo」に変化したとされています。その影響や痕跡が『古事記』『日本書紀』に残されており、その時期は『日本書紀』成立以前、恐らくは六~世七紀頃ではないかと「九州王朝の国号(6)」で論じました。また、中国での音韻変化発生の理由として、南朝から北朝への権力交替が考えられ、南朝に臣従していた九州王朝の独立や北朝との交流により、その音韻変化の影響が日本にも及んだと推察しました。
 古代日本語で詠われた歌が一字一音の漢字で表記されている『記紀』歌謡の分析により、この音韻変化をとらえることが可能で、今回の拙論「九州王朝の国号」は次のような論理展開に基づいています。

①『古事記』に掲載された歌謡の、たとえば「われ」「わが」という言葉の「わ」の表記に使用されている漢字は「和」であり、その訓みは現代日本まで続いている。
②『日本書紀』も神武歌謡などでは「和」が使用されているが、雄略紀や継体紀などの歌謡では「倭」の字が使用されており、若干の例外を除き「和」は使用されなくなっている。
③この『日本書紀』の史料状況からも、「wi」と読まれていた「倭」の字が、『日本書紀』成立以前に「wa」へと音韻変化していることがわかる。
④『古事記』と『日本書紀』の「わ」表記の差から、『古事記』は「わ」の音に「和」の字を使用した古代歌謡史料を採用しており、『日本書紀』編者は何らかの理由で「和」と「倭」を併用したと考えざるを得ない。
⑤『古事記』と『日本書紀』の「わ」表記の漢字使用状況の差から、元々は、「わ」表記に「和」の字を使用した時間帯があり、その後、「倭」の音韻変化により、「わ」表記に「倭」の字も使用されるようになったと考えられる。
⑥『日本書紀』では神武歌謡などの古い時代の歌謡に「和」が使用され、そこでは「倭」との混用がされていないことも、「和」表記が先行し、その後、音韻変化した「倭」表記の採用が開始されたとする理解に有利である。
⑦付言すれば、『日本書紀』に記された歌謡がその天皇紀の時代のものかどうかは別途論証が必要だが、神武東征説話やそこでの歌謡が天孫降臨説話の転用であることがわかっており、神武の時代ではないものの、九州王朝内で伝承された天孫降臨時代の古い歌謡である。
⑧恐らく、九州王朝内で伝承・記録された古代歌謡には「和」が採用されており、『古事記』や神武紀などはその用法を引き継ぎ、他方、雄略紀・継体紀などの歌謡には音韻変化後の「倭」の字を採用したと考えることができる。
⑨ただし、「倭」の音韻変化の時期とそれを歌謡の「わ」表記に採用し始めた時期は未詳であり、とりあえずは「『日本書紀』成立以前」のこととし、可能性としては九州王朝が南朝から独立し、北朝(北魏、隋、唐など)と交流し始めた六~七世紀頃としておくのが学問的に慎重な姿勢である。

 以上のような考察の結果、「倭」の字の音韻変化と『記紀』歌謡への採用過程について、一応の「解答」は出せたのですが、森博達さんの『日本書紀』研究の成果を援用することにより、更に理解は進展しました。(つづく)


第2131話 2020/04/10

「大宝二年籍」断簡の史料批判(9)

延喜二年『阿波国戸籍』を例に挙げて、古代戸籍における偽籍という問題と、その偽籍に「二倍年齢」による「年齢加算」の痕跡がある可能性について論じました。そして、古代戸籍にも史料批判が必要であり、そこに記された高齢表記をそのまま「実証」として、古代人の年齢の根拠とすることの学問的危険性について注意を促しました。
 そこでようやく本シリーズのテーマとした「大宝二年籍」断簡の史料批判に入ります。現存最古の戸籍である「大宝二年籍」は、延喜二年『阿波国戸籍』のような極端な偽籍はないようなのですが、それでもこれまでの研究では様々な問題点が指摘され、その解釈について諸説が出されています。特に、同じ大宝二年の造籍であるにもかかわらず、筑前・豊前の西海道戸籍と美濃国戸籍とでは様式が大きく異なっており、より規格が統一された西海道戸籍は大宰府により『大宝律令』に基づいて造籍され、美濃国戸籍は古い飛鳥浄御原令に基づいたとされています。(つづく)


第2126話 2020/04/05

「大宝二年籍」断簡の史料批判(7)

 延喜二年(902)『阿波国戸籍』には各種の偽籍がなされていると考えられます。たとえば、班田の没収を避けるため、死亡者を除籍せずに年齢加算し登録するという偽籍による高齢者の「増加」現象。兵役や徴用を逃れるために男子を戸籍に登録しない、あるいは女性として登録するという偽籍による女性比率の「増加」現象。そして、婚姻による他家への転籍者を除籍せず、班田を維持するための偽籍による高齢女性の「増加」現象。更には、班田受給年齢の六歳にはやく到達するため、「二倍年齢」による年齢加算という偽籍による幼年者「減少」現象などの痕跡が見て取れます。
 「粟凡直成宗」の戸(家族)の戸主の両親(父98歳、母107歳)が飛び抜けた超長寿として偽籍されている理由は不明ですが、父が「従七位下粟凡直田吉」として登録されていることから、「従七位下」という位階を持つために偽籍されたのかもしれません。この偽籍によりどのようなメリットがあるのかはわかりませんが、たとえば五位以上であれば「位田」が受給できますから、「従七位下」でも何らかの特典があったのかもしれません。今後の研究テーマにしたいと思います。
 延喜二年『阿波国戸籍』のように、偽籍が顕著に認められるケースもあれば、それほどでもない戸籍もあります。しかし、古代戸籍を歴史研究の史料として使用する場合は、この偽籍の可能性を充分に検討したうえで使用しなければなりません。文献史学における基本作業としての「史料批判」が古代戸籍にも不可欠なのです。すなわち、「史料批判」というどの程度真実が記されているのかという基本調査が必要です。ある古代戸籍に長寿者が記録されているという「史料事実」を無批判に採用して、その時代の寿命の根拠とすることは学問的手続きを踏んでおらず、その結論は学問的に危ういものとなるからです。(つづく)


第2057話 2019/12/25

『太平記』古写本の「壬申の乱」異説

 12月の関西例会では、不思議な伝承(史料)が西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から紹介されました。それは、『太平記』に「二萬(にま)の郷(さと)」について説明する件(くだり)があり、その地で天智天皇と大友皇子が争ったと同古写本には記されており、新しい写本では天武天皇と大友皇子との争いに書き直されているというのです。
 西村さんのこの報告を聞いて、わたしはフィロロギーのテーマとして関心をいだきました。それは、どのような歴史事実があればこのような伝承(史料事実)が発生するのだろうか、あるいはこうした伝承(史料事実)への変化が起こりうるのだろうかという問題です。
 この「二萬の郷」の地名説話については、「備中国風土記逸文」の記事が著名です。同風土記逸文には、天智天皇が白村江戦に参戦するために「邇摩郷」に来て兵士を二万人集めたが、斉明天皇が筑紫で崩御されたため、引き返したという説話が記されています。その説話に登場するのは天智天皇であり、その地で戦闘があったとも記されていません。ところが、『太平記』古写本では天智天皇と大友皇子の戦争譚となっており、新写本では天武天皇と大友皇子の争い(壬申の乱)説話に変化しているわけです。
 古写本の「天智」が新写本で「天武」に〝改変〟されている理由はよくわかります。『日本書紀』などの「壬申の乱」を知っている書写者(インテリ)であれば、古写本の「天智」を誤記・誤写と思い、「天武」に書き換えることが起こりうるからです。実際、年代記などの諸史料に「天智」と「天武」の誤記・誤写と思われる状況が散見されますから、「これは間違いであろう」とその読者が判断し、書き改めることは普通に起こりうることと思われます。『太平記』の場合も同様の現象が発生したと考えてもよいでしょう。
 しかし、古写本にあるような、「天智」と「大友皇子」がこの地で戦ったなどという伝承がなぜ発生したのでしょうか。風土記逸文には「天智」が登場していますから、『太平記』に「天智」が登場することは理解できますが、その子供の「大友皇子」も登場し、こともあろうに両者が戦うなどという伝承は、どのような歴史事実の反映なのでしょうか。とても不思議です。
 このように西村さんが〝発見〟された『太平記』の異説「壬申の乱」は、フィロロギーという学問領域での格好の研究テーマ(頭の体操)と言えそうです。


第1858話 2019/03/14

『「邪馬台国」はなかった』の「論証」と「実証」(3)

 「学問は実証よりも論証を重んずる(村岡典嗣)」という言葉は、「実証を軽視してもよい」という意味ではないと、わたしは繰り返し注意を促してきました。また古田先生が使用する「実証的」という言葉はポジティブな意味で使用されていることも指摘してきました。西洋哲学では「実証主義」は否定されており、それを乗り越えるものとして「論理実証主義(論理経験主義)」、更には「反証主義」が提唱されたことも「洛中洛外日記」で連載しています。そこで『「邪馬台国」はなかった』では「実証」がどのような意味やケースで使用されているかを、それこそ実証的に見てみることにします。
 『「邪馬台国」はなかった』に見える「実証」という言葉の、現時点での検索結果は下記の8例です。この中で、「実証的」という言葉で使用されたのは①③④⑥⑦の5例で、最もよく使用されています。いずれも「実証的」という言葉はポジティブな意味で使用されていることがわかります。この場合の「実証的」の反対語は「恣意的」「主観的」という言葉であり、学問的にはネガティブなものです。
 他方、②のケースは〝実証の刃のもろさ〟とあるように、「実証」という方法論の持つ弱点を指摘されたケースです。この例からもわかるように、古田先生は「実証」のもつ危うさを踏まえておられ、これも村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という方法論に通ずる姿勢と言えるでしょう。「実証」を用いる場合に「論証」の支えが必要とされた加藤さんや茂山さんと同じ理解なのです。
 最後に注目されるのが⑧の「叙述上、一種の実証主義(実地接触したものだけを書く)」という表現です。ここでの「実証主義」は西洋哲学における広義の「実証主義」ではなく、「叙述上、一種の」「(実地接触したものだけを書く)」という読者への説明を付記され、限定的な意味として、用心深く「実証主義」という言葉を使用されていることがわかります。
 このように『「邪馬台国」はなかった』において、「論証」が「実証」よりも遙かに頻繁に使用されているという〝多数決〟の問題に留まらず、その使用内容を見ても、古田先生が「実証」よりも「論証」を重んじておられることは明白です。その上で付け加えておきますが、そのことは「実証を軽視してもよい」という意味では全くないということです。更に言うならば、古田先生や村岡先生の「論証を重視する」という学問姿勢を支持し、受け継ぎたいと願っているわたしを批判されるのも「学問の自由」ですし、「師の説にななづみそ」ですから、全くかまいません。ただし、その場合は「古賀が支持する古田や村岡の学問の方法に反対である」と自らの立場を明確にしてからにしていただきたいと思います。

『「邪馬台国」はなかった』(角川文庫版・昭和52年)の中の「実証」の全調査一覧 ※〈〉内は古賀による注。

【実証】
①〈ヴルネル・イェガーによるアリストテレスの著述年代研究〉こういった実証的な手法を徹底的につきすすめた結果、従来の定説体系はもろくも崩壊し去った。(序章 わたしの方法 p.28)
②〈服部之総『親鸞ノート』の評価〉しかしながら、新鮮な服部の批判は、裏面に意外な〝実証の刃のもろさ〟をもっていた。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.173)
③この「一万二千余里」が、「実定里」か「誇大里」かという問題を実証的に解くために、わたしたちのなさねばならない作業は、明白にして単純である。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.183)
④なぜなら、そのような立言(陳寿の数値記述上の偏向性の指摘)を学問的にするためには、『三国志』全体の数値記述を実証的に検討しなければならないからである。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.204)
⑤だから、文献研究にとっては、〝その文献解読自体の実証性を、あくまで徹底する〟ーーそれが根本であり、考古学との対照は、次の次元に属するのである。(第四章 邪馬壹国の探求 p.283)
⑥この信念〈天皇家中心主義〉は、彼〈本居宣長〉の生涯の著述『古事記伝』の実証的成果を生んだ生ける原動力だった。(第五章 「邪馬壹国」の意味するもの p.331)
⑦しかし、ここではその同じ理念が先入観となり、九州に行路記事の帰結を見たはずの、かれ〈本居宣長〉の「実証的な目」を永くおおい去ることとなった。(第五章 「邪馬壹国」の意味するもの p.331)
⑧こうしてみると、ここはやはり、叙述上、一種の実証主義(実地接触したものだけを書く)と禁欲主義(実地接触しなかったものは書かない)が原則として厳守されていると見るほかないのである。(第六章 新しい課題 p.379)


第1857話 2019/03/13

『「邪馬台国」はなかった』の「論証」と「実証」(2)

 古田先生から教えていただいた「学問は実証よりも論証を重んずる(村岡典嗣)」という学問に対する姿勢や方法に対して、「『学問』は『実証』を積み重ねて『論証』に至るものだと、古田先生は各著書で示されている」という批判が寄せられたことがありました。論理学や哲学用語としての「実証」や「論証」の定義からみても意味不明の主張でしたが、わたしが驚いたのは、古田先生の著作のどこをどう読めば、このような理解が可能となるのだろうかという点でした。こうした疑念を抱いていましたので、安藤哲朗さんの『「邪馬台国」はなかった』の全文中から「論証」と「実証」を検索するという試みに、強い関心を抱き、わたし自身も検索を行ったわけです。
 今回の検索結果を一瞥しただけでもわかるように、同書は「論証」で埋め尽くされた一書で、古田先生がそれら論証に込められた強い思いは、最末尾の「あとがき」にも記された、「論証」という言葉を使った次の一文からも理解できるでしょう。

 「ここをつらぬく論証の連鎖は、わたしの生の証(あかし)である。」(あとがき p.400)

 こうした「論証」の〝洪水〟ともいえる『「邪馬台国」はなかった』のどこをどう読めば、「『学問』は『実証』を積み重ねて『論証』に至るものだと、古田先生は各著書で示されている」などという理解が可能になるのでしょうか。
 同書に示された古田先生の学問の方法は、代表的一例をあげれば、まず従来説を紹介し、史料根拠を明示され、それに基づく従来説への反証と自説成立の論理性を繰り返し説明され、それら各論証の連鎖により古田史学(邪馬壹国説、博多湾岸説、短里説など)の全体像を提起する、というものです。「論証は学問の命」とわたしたちに語っておられた古田先生の学問の方法と姿勢は、処女作から晩年に至るまで変わることなく貫き通されているのです。(つづく)


第1856話 2019/03/12

『「邪馬台国」はなかった』の「論証」と「実証」(1)

 「洛中洛外日記」1848話の〝「実証主義」から「論理実証主義」へ(3)〟で、『多元』No.150の安藤哲朗さん(多元的古代研究会々長)の論稿「怠惰な読書日記」を紹介しました。同稿で安藤さんは、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』から「論証」と「実証」という二つの言葉の使用例の検索結果を示され、「論証」が21例、「実証」が1例であったとされました。古田先生が古代史の処女作において、「実証」と「論証」をどのように、どのくらい使用されたのかを、それこそ実証的に検証されたものです。
 わたしも強い関心を抱き、『「邪馬台国」はなかった』(角川文庫版・昭和52年)を用いて同じ調査を行ったところ、現時点での検索結果として、「論証」が32個(+2個、文庫版のあとがき)、「実証」は8個を数えました。おそらくまだ見落としがあると思いますが、その大勢は変わらないと思います。なお、安藤さんの調査結果とは異なっていますが、それは検索基準の違いや、見落としなどによるものと思います。しかし、両者の調査結果の傾向(「論証」と「実証」の使用頻度)は一致しています。
 検索結果には、古田先生の学問の方法や姿勢が明確に現れており、この検索事実に基づいて、次回ではそのことについて論じます。(つづく)

『「邪馬台国」はなかった』(角川文庫版・昭和52年)の中の「実証」と「論証」の全調査一覧 ※〈〉内は古賀による注。

【論証】
○なぜなら、「二つの論証」を無視しているからである。(序章 わたしの方法 p.17)
○わたしは、学問の論証はその基本において単純であると思う。(序章 わたしの方法 p.27)
○論証はあくまで地についた基礎からはじめねばならない。(序章 わたしの方法 それは「邪馬台国」ではなかった p.27)
○しかし、わたしはこの一件の論証を終えてのち、つくづくと思わないわけにはいかなかった。(第一章 わたしの方法 それは「邪馬台国」ではなかった p.58)
○以上の論証で明らかになった点をまとめてみよう。(第一章 わたしの方法 それは「邪馬台国」ではなかった p.85)
○その一点を徹底的に論証しよう。(第一章 わたしの方法 それは「邪馬台国」ではなかった p.97)
○もう論証は終わった。(第二章 いわゆる「共同改定」批判 p.145)
○それが明確に論証される前に、(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.149)
○その〝未論証の、推定された地点〟をもとにして、原文面を改定するのは、非学問的な「恣意的改定」にすぎぬ。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.149)
○しかし、今までの論証によってわかるように、このような考えは、〝陳寿は倭国を「会稽東冶」の東と考えていた〟という、あやまった認識を基礎としている。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.156)
○これで「論証」になると思う人はいないであろう。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.158)
○このような論証のあやまりなきことを追証するのは、先の(二)の例である。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.187)
○ながながと論証をつづけてきた、その結論は意外にも簡単だった。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.200)
○しかるに、これらの論者は、〝陳寿の虚妄〟を説くのに急であって、この論証をみずからに怠ったのではあるまいか。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.207)
○この点、非常に重大な問題であるから、「韓国内、陸行」という事実をさらに論証し、確定しておこうと思う。(第四章 邪馬壹国の探求 p.220)
○最後に、「韓国内、陸行」を証明する、もっとも簡明な論証をのべよう。(第四章 邪馬壹国の探求 p.221)
○以上の論証に対して、ある読者は直ちにつぎのように反問するだろう。(第四章 邪馬壹国の探求 p.244)
○以上の論証をさらに堅固にするために、陳寿が、数値とその計算結果をどのように書き記しているか、その特徴を示そう。(第四章 邪馬壹国の探求 p.252)
○以上の論証を通って、わたしたちはいよいよ「邪馬壹国」の所在地を実地に測定できる地点に達した。(第四章 邪馬壹国の探求 p.256)
○それゆえ、わたしのこれまでの論証は、一切の「考古学の成果」に対する顧慮を無視して、行われたのである。(第四章 邪馬壹国の探求 p.281)
○しかし、つぎに、論証の到達点に立った今、考古学上の成果との交渉を考えることは、許されるであろう。(第四章 邪馬壹国の探求 p.284)
○なぜなら、三世紀の近畿の人口・戸数そのものが別史料により明らかにかにしえぬ以上、内藤の推論は「論証力」をもたないのである。(第四章 邪馬壹国の探求 p.305)
○さて、このように「実地踏破ーー実地記録」の上に立つ叙述という陳寿の主張がけっして架空のものではなかったことは、今までの論証において、すでに十分にのべた。(第六章 新しい課題 p.376)
○わたしは、この本において、あらかじめ女王国を博多湾岸へもってゆこうと、いわば〝目検討〟をつけておいてから、論証をはじめたのでは、けっしてなかった。(第六章 新しい課題 p.387)
○しかし、わたしとしては、わたしの論証の立場をつらぬくほかない。(第六章 新しい課題 p.383)
○逆に、「論証が、いやおうなく、わたしを博多湾岸に導いた」それだけなのである。(第六章 新しい課題 p.387)
○だから、この十八字〈又有裸国・黒歯国、復在其東南。船行一年可至。〉について、わたしが今までの論証方法に従い、(第六章 新しい課題 p.387)
○今までの論証経験を生かし切ったとき、そのとき、どんな予想外の地点にわたしが至ろうとも、それはわたしの関知するところではない。(第六章 新しい課題 p.387)
○なぜなら、それはわたし自身さえどうしようもないこと、いわば論証力の支配に属することだからである。(第六章 新しい課題 p.387)
○だから、今は論証のむかうところを簡明に箇条書きしてみよう。(第六章 新しい課題 p.388)
○日本古代史の「先像」に対して、この本の論証でとった方法論と同一の目で、見つめ直してみる、ーーこの道しかない。(第六章 新しい課題 p.398)
○もはや鳥瞰図は完成し、論証はふたたび自動的に展開している。(第六章 新しい課題 p.399)
○ここをつらぬく論証の連鎖は、わたしの生の証である。(あとがき p.400)

◎この簡単な「津軽海峡の論証」によって、近畿を倭国の都とする一切の理論は一気に崩れ去るほかない。(文庫版あとがき p.408)
◎わたしはこのような単純な論証、子供のような目に、今はじめて到達できたようである。(文庫版あとがき p.408)

【実証】
○〈ヴルネル・イェガーによるアリストテレスの著述年代研究〉こういった実証的な手法を徹底的につきすすめた結果、従来の定説体系はもろくも崩壊し去った。(序章 わたしの方法 p.28)
○〈服部之総『親鸞ノート』の評価〉しかしながら、新鮮な服部の批判は、裏面に意外な〝実証の刃のもろさ〟をもっていた。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.173)
○この「一万二千余里」が、「実定里」か「誇大里」かという問題を実証的に解くために、わたしたちのなさねばならない作業は、明白にして単純である。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.183)
○なぜなら、そのような立言(陳寿の数値記述上の偏向性の指摘)を学問的にするためには、『三国志』全体の数値記述を実証的に検討しなければならないからである。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.204)
○だから、文献研究にとっては、〝その文献解読自体の実証性を、あくまで徹底する〟ーーそれが根本であり、考古学との対照は、次の次元に属するのである。(第四章 邪馬壹国の探求 p.283)
○この信念〈天皇家中心主義〉は、彼〈本居宣長〉の生涯の著述『古事記伝』の実証的成果を生んだ生ける原動力だった。(第五章 「邪馬壹国」の意味するもの p.331)
○しかし、ここではその同じ理念が先入観となり、九州に行路記事の帰結を見たはずの、かれ〈本居宣長〉の「実証的な目」を永くおおい去ることとなった。(第五章 「邪馬壹国」の意味するもの p.331)
○こうしてみると、ここはやはり、叙述上、一種の実証主義(実地接触したものだけを書く)と禁欲主義(実地接触しなかったものは書かない)が原則として厳守されていると見るほかないのである。(第六章 新しい課題 p.379)