史料批判一覧

第338話 2011/09/24

公卿補任のONライン

 9月17日の関西例会で、竹村さんが公卿補任(くぎょうぶにん)の調査結果を報告されました。公卿補任は近畿天皇家の歴代の職員録で従三位以上が記されています。著者や成立年代は不明とのことですが、そこに記された739年まで年別の登録人員数の集計をされました。
その結果、701年を境に人数が増えるという現象を発見されたのです。そしてその原因として、701年以降になって近畿天皇家は自らの官僚名を正確に記し、それ以前の九州王朝の官僚は記されていないため、人数が少ないのではないかとされました。正に王朝交代の画期点である701年(ONライン)が公卿補任にも反映している可能性を指摘されたのです。大変優れた調査結果と考察だと感心しました。
 竹村さんには、公卿補任だけでなく、例えば『二中歴』の「都督歴」なども調査されるよう要請しました。このところ、竹村さんの研究発表には刺激されることが多く、毎月の例会が楽しみです。
 奈良市の原さんからも久しぶりに発表があり、当麻寺の中将姫伝説などを教えていただきました。
当日の発表は次の通りでした。
 
〔古田史学の会・9月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 『俾弥呼』を読む(向日市・西村秀己)
2). 青木さんからの手紙(豊中市・木村賢司)
3). 「論争のすすめ」(会報105号)について(豊中市・大下隆司)
4). 公卿補任の大宰帥(木津川市・竹村順弘)
5). 大宰帥の家系図(木津川市・竹村順弘)
6). 当麻寺の曼陀羅由来・他(奈良市・原幸子)
7). 久留米・太宰府地名研究会講演会の報告(川西市・正木裕)
 
○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田氏近況・会務報告・住吉神社研究・他(奈良市・水野孝夫)

第328話 2011/07/30

「ウィキペディア」の史料批判(2)

 第326話では犯罪捜査を例にして「史料批判」について説明しましたが、ウィキペディアの「九州王朝説」の説明には次のようなことが記されています。

「古田武彦やその支持者が史料批判など歴史学の基礎手続きを尊重していない。日本古代史学界の研究成果に合わない。」

 わたしはこの一文を読んで思わず吹き出してしまいました。既に説明しましたように、古田史学・多元史観は、大和朝廷が自らの為に自らが造った『古事記』 『日本書紀』を史料批判抜きで採用して造られた大和朝廷一元史観に対して、史料批判ができていないと批判しているのであり、従ってそれら日本古代史学界の 結論(研究成果)とと合わないのは当たり前のことなのです。
 ウィキペディアの解説は巧みに「中立」を装いながら、「自分達の説と異なるから間違っている」と言っているのと同じで、こうした反論や批判は非学問的で す。もし古田説が通説の研究成果と異なるというのであれば、どちらが正しい史料批判を行っているのかを解説するべきでしょう。あるいは史料批判の方法論に ついて両論併記するべきです。
 恐らく、ウィキペディアの「九州王朝説」の編集者達には学問の方法や史料批判という言葉の意味が理解できていないようです。ウィキペディア編集の匿名 性・密室性・多数決性(賛成者と反対者の編集合戦)がこのような無責任編集を結果として許しているのですが、これは利用する側の「見る目」の問題でもある と思います。学問は多数決ではないのですから。
 たとえば、コペルニクスやガリレオの時代にウィキペディアのような「事典」があったとしたら、次のような表現になるのではないでしょうか。

「コペルニクスやガリレオの地動説は、天体観測という基礎手続きを尊重していない。ローマ法王庁公認の天文学界の研究成果である天動説と合わない。」

 これと同じくらい、ウィキペディアの「九州王朝説」の解説はいかがわしいものなのです。
他にもいかがわしい表現があります。「九州王朝の歴史を記した一次史料が存在しない。」「この直接的記録がないことが、九州王朝否定論の根拠の一つ」と う部分です。これを読むと、いかにも九州王朝の存在を示す証拠は無いかのように受け取られるのですが、これも事実無根の虚偽情報です。
 わたしはこれまでに九州年号の存在を示す金石文や木簡を提示し続けてきました。芦屋市三条九ノ坪遺跡出土の「元壬子年」木簡もその一つです。『日本書紀』孝徳紀の白雉三年壬子ではなく、『二中歴』などの多くの九州年号史料に記された白雉元年壬子の方が真実であったことを、この「元壬子年」木簡は示しており、いわば九州年号木簡そのものなのです。しかし、九州王朝説否定派はこの木簡について一切口を閉ざしたままで、ダンマリを決め込んでいます。もちろん、ウィキペデイアの「九州王朝説」の解説でも取り上げられていません。たいへん卑怯な編集・情報操作の一例と言えるでしょう。
 もっとも、ウィキペディアの史料性格上、将来的には違った表記・評価に変化するかもしれませんが、恐らくそれは古田史学が世に受け入れられた時のことと 思います。その日が訪れるまで、わたしたち古田学派は一切ぶれることなく、「日本古代史」村の一元史観と戦い続けなければなりません。こうした名誉ある運命と歴史的使命を持っているのです。(つづく)


第326話 2011/07/17

「ウィキペディア」の史料批判(1)

 7月2日、松山で講演してきました(古田史学の会・四国主催)。その冒頭で「ウィキペディア」の史料批判というテーマを少しお話ししたのです が、そこでの眼目は歴史研究における「史料批判」とは何かという問題でした。古田先生も『東京古田会NEWS』No.138(2011年5月)掲載の「学問論 第26回」で『「史料批判」の史料批判』というテーマで、ウィキペディアの「九州王朝説」について取り上げられていますが、そもそも史料批判とは何かということについて、古田史学以外の古代史ファンには意外と理解されていないようです。
 松山の講演会では、犯罪捜査を例にして史料批判の説明をしたのですが、歴史研究も犯罪捜査も過去に起きた事件について、証拠や証言に基づいて真実を明らかにするという点に於いて共通する性格を持った仕事(学問研究)だからです。
 たとえば、ある家(日本列島)に大和さん(大和朝廷)が住んでいますが、九州さん(九州王朝)がその家の主は元々は私で、大和さんに家を乗っ取られたと 警察に訴えたとしましょう。当然、警察は大和さんに事情聴取するでしょう。当然のことです。そこで大和さんは大昔からこの家の主人はわたしで、九州さんなんて見たことも聞いたこともないと証言(『古事記』『日本書紀』)します。
 次に警察はご近所に聞いて廻るでしょう。これも当然の捜査手法です。隣に住んでいる隋さんや唐さんに聞いたところ、この家のもともとの主人は九州さん で、大和さんは小部屋を間借りしていたが、いつのまにか九州さんを追い出していたと唐さんは証言(『旧唐書』倭国伝・日本国伝)し、隋さんはここに住んでいた人の名前はタリシホコさんで、お互い手紙のやりとりもしていたと証言(『隋書』イ妥国伝)しました。大和さんの証言では、大和家にはタリシホコなどという名前の人物はいません。
 さて、皆さんならこの事件について誰の証言を重視しますか。信用しますか。当然、利害関係の無い第三者である隣人の目撃証言や手紙を重要証拠として採用するでしょう。まかり間違っても、訴えられている被疑者の大和さんの証言(『古事記』『日本書紀』)を無批判に信用されることはなく、まずは正しいかどうか疑ってかかられると思います。この「誰の証言・証拠が信用できるのか、より真実を証言しているのか」を判断することが、歴史研究における史料批判なのです。ここを間違えると、犯人を取り逃がしたり冤罪事件が発生しますから、警察や裁判所は慎重に科学的学問的に捜査・審議するのです。
 この事件で言えば、大和朝廷一元史観の日本古代史学界は、大和さんの証言のみを無批判に採用し、隣家の目撃証言や証拠を不採用にしているわけですが、より客観的で利害関係のない隣国史料を重視するという古田先生の史料批判の方が優れており、学問的であることは決定的なのです。


第323話 2011/06/11

空海の遺言状

 第321話「九州の語源」において、九州王朝滅亡後の天平3年(731)時点でも、九州王朝の故地である九州島は、近畿天皇家にとって 「直轄支配領域」ではなく、大宰府による「間接統治」であったと述べましたが、実はこうした認識をわたしが持ったのは今から20年も前のことでした。
 1991年、わたしは「空海は九州王朝を知っていた–多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ」(『市民の古代』第13集所収、新泉社刊)という論文を発表しました。35歳の時でした。『御遺告』とよばれる空海の遺言状には、空海の唐からの帰国年について、「大同二年、我が本国に帰る」と記されており、大同二年(807)のことと空海自らが述べているのですが、空海がその前年の大同元年(806)に九州 大宰府へ帰ってきたことは、これも空海自身の別の文書(『新請来経目録』、最澄による同時代写本が東寺に現存)から判明しています。従って、この帰国年に ついての一年の差が平安時代から問題視されてきました。
 たとえば、「大同二年」は「大同元年」の「元」の下の二点が脱落したのだろうとか、筑紫に帰ったのが「大同元年」で、京都に戻ったのが「大同二年」のことだろうとか、さまざまな解釈がなされてきました。しかし、これらに対しても、『御遺告』の全写本が「大同二年」と記されていることや、京都のことを「我が本国」とは言わないとの反論も出されてきました。
 結局この一年の差の問題は未解決のままで、挙げ句は『御遺告』偽作説が横行したほどです。
 そこで、わたしは九州王朝説の立場から、空海にとって九州は 「我が本国」とは認識されていなかった。すなわち九州島が九州王朝の故地であることを空海は知っており、空海の時代でも九州島は「本国」扱いされていなかったとの認識に達したのです。
 今回、20年前の論文を読み返してみて、若い頃の稚拙な論文ではあるものの、その論証の根幹は今でも正しいと、感慨に耽りながら確認しました。そして、 空海の超難解な漢文に苦しみながら、京都府立総合資料館で空海全集を読破したことを思い出しました。残念ながら、今ではとても体力的に困難な、若き日の研究体験の想い出です。

第321話 2011/06/05

九州の語源

九州新幹線により一つに結ばれた九州ですが、九州新幹線のシンボルカラーは九州7県を象徴した7色のレインボーカラーでした。厳密に言うと、九州新幹線は長崎県・大分県・宮崎県は走っていないので、7色で表現するのはビミョーかもしれません。
ご存じのように、その昔、九州は筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・薩摩・大隅の9国からなっており、そのため「九州」と呼ばれるようになった とするのが通説でした。しかし、中国では天子の直轄支配地を9に分けて統治する伝統があり、その影響により「九州」と言えば単なる地名ではなく、天子の直 轄支配領域を指す「政治地名用語」となりました。例えば、『旧唐書』にも「九州」という表記が頻出します。その上で、古田先生の九州王朝説によれば、古代 九州島は天子が直轄支配する政治的地域であり、倭国(九州王朝)が中国に倣って命名したものとされました。
その証拠に、意図的に9国に分けられた痕跡として、筑紫・肥・豊の3国のみが前・後に分割され、ちょうど9国となっています。薩摩を薩前・薩後、日向を 日前・日後などとは分割しなかったのです。恐らく倭国の天子にとって、直轄中の直轄領域であった筑紫・肥・豊を前後に分割したのではないでしょうか。
なお、9国への分国の時期が日出ずる処の天子・多利思北孤の時代(6世紀末)であったことを、わたしは『九州王朝の論理』(古田先生・福永晋三さんとの 共著、明石書店刊。2000年)で論証しましたので、ご参照いただければ幸いです。
こうした認識に立つと、九州王朝にとっての直轄支配領域は九州島であり、それ以外の本州や四国は支配領域ではあっても、「直轄地」ではなかったことにな ります。恐らくそれらは地方豪族により統治されており、その豪族達の上に九州王朝の天子が列島の代表者として間接統治したのではないでしょうか。そし て7世紀中頃になると、全国に評制を実施し、律令による中央集権的統治を進めたものと思われます。
701年以後になると、大和朝廷が列島の新たな代表者となりますから、大和朝廷にとって自らの直轄支配領域を「九州」と呼ぶ「大義名分」が発生します。 その史料的痕跡は『日本書紀』にはありま せんが、『続日本紀』には1回だけ見えます。天平3年(731)12月21日の聖武天皇の詔中に「朕、九州に君臨す。」とあり、この時になってようやく大 和朝廷は「九州」という政治的地名を使用したようです。九州王朝を滅ぼして間もない『日本書紀』成立時(720)では、九州王朝による九州島の九州という 地名が「現存」しており、『日本書紀』での使用はためらったのではないでしょうか。
聖武天皇による「九州」という表現ですが、ここには微妙な検討課題があります。それは、聖武天皇にとっての「九州」に、九州島は含まれていたのかという 問題です。すなわち、九州王朝の故地である九州島を聖武天皇は自らの直轄支配領域と認識していたのかというテーマです。
わたしの現時点での考えとしては、天平3年の時点では九州島は大和朝廷の直轄支配領域とはされておらず、聖武天皇の詔勅中の「九州」には九州島は含まれ ていなかったのではないかと考えています。その根拠の一つは、養老律令によれば九州島は大宰府が統括しており、大和朝廷の直轄支配というよりも、大宰府に よる間接統治だったからです。このテーマは九州王朝の滅亡過程とも密接に関 係しており、今後の研究テーマでもあります。引き続き、検討したいと思います。


第307話 2011/03/05

中国語の音韻

 昨日、中国から帰国しました。今回の出張は上海を拠点に、江蘇省張家港と宿遷、河北省石家荘、そして山東省斉南などを訪問。中国国内を車と飛行機で何時間もかけて移動するというハードな出張でした。
 中国に出張するようになって10年以上になりますが、その経済発展のスピードには目をみはるものがあります。行くたびに高速道路網は伸びていますし、何よりも食事がおいしくなり、女性は益々きれいになっています。冗談ではなく。
 同行していただいたのは有名な商社Mの王さんと金さん(女性)で、上海出身の王さんは北京語と上海語と日本語(やや関西弁)、朝鮮族出身の金さんは北京語と韓国語と日本語が堪能なエリート商社員です。そのため、商談では様々な言語が飛び交っていました。それにしても中国人の語学力にはいつも驚かされます。 地方都市のホテルマン(ただし高級ホテル)でも、英語と日本語の両方を話せる中国人は少なくありません。
 仕事の合間をぬって、王さんに北京語と上海語の違い、河北省語と北京語の差などについてしつこく質問し、いろいろと教えてもらいました。というのも、現在、『古田史学会報』上で内倉武久さん(本会会員。『太宰府は日本の首都だった』という好著の著者)と、倭人伝の地名などの音韻について論争中ですので、 現代中国語音韻の地域差についても知っておきたかったからです。
 そんなわけで、古代中国語音韻の先行研究を調べているのですが、大下さん(本会全国世話人・総務)から、松中祐二さん(本会会員)の「倭人伝の漢字音 −− 卑弥呼=姫王の証明」(『越境としての古代7』所収)が優れていると紹介していただきました。確かに、魏晋朝音韻研究の先行説など、わたしより深 く広く調査紹介されている好論文でした。松中さんともお会いして、御教示を賜りたいと願っています。
 それにしても、しばらくは中華料理は食べたくない、日本語以外の言葉も聞きたくないというほどの、ハードな出張ではありました。

 


第305話 2011/02/26

法興と聖徳

 2月19日の関西例会では、竹村さんが6件という驚異的な数の発表をされました。百済など古代朝鮮に関する研究が中心で、わたしにとっては不勉強な分野ですので初めて知ることも多く、参考になりました。竹村さんを中心として、最近の関西例会はちょっとした韓流ブームです。
 正木さんからは、『二中歴』に見えない九州年号「法興」「聖徳」についての新仮説の発表で、触発されました。この二年号を多利思北孤と利歌弥多弗利の 「法名」「法号」ではないかという仮説です。また、多利思北孤と煬帝の出家が同年ではなかったかとの指摘もあり、こちらも興味深いテーマです。会報での発表が待たれます。
 2月例会の発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・2月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 宇佐八幡妄想 (豊中市・木村賢司)
2). P.Fドラッカーと森嶋通夫 (豊中市・木村賢司)
3). 歴史を学んでどう生きる (豊中市・木村賢司)
4). 遊・学同源 (豊中市・木村賢司)
5). 平成の鎖国 (豊中市・木村賢司)
6). 応神紀弓月君と佛流百済 (木津川市・竹村順弘)
7). 南史と北史の温度差 (木津川市・竹村順弘)
8). 雄略紀の百済滅亡記事 (木津川市・竹村順弘)
9). 華北の穢貊人観と江南の倭人観 (木津川市・竹村順弘)
10).百済の馬韓制圧と神功紀 (木津川市・竹村順弘)
11).世子の倭王興 (木津川市・竹村順弘)
12).隅田八幡神社人物画像鏡の銘文  (京都市・岡下英男)

13). 法興・聖徳年号とは何か(試案) (川西市・正木裕)
 釈迦三尊の光背銘や伊予温湯碑に見える「法興」は、法王たる多利思北孤の「法号・法名」であり、彼が法号を授かった五九一年時を元年とする。 聖徳は、同様に多利思北孤の太子「利」の法号である。従って九州王朝の年号というより、多利思北孤と利の個人の「仏教上の年期」を示すものである事を、隋や倭国における法号授与の経緯、法興に「元」が付される事、法皇・菩薩天子は「法号」を持たねばならない事等を根拠として示した。

14). 「橿と檍」、そしてイザナギと神武帝(大阪市・西井健一郎)

○水野代表報告
    古田氏近況・会務報告・行基と道照と智通・他(奈良市・水野孝夫)


第304話 2011/02/20

『古事記』真福寺本の「天治弟」

 わたしの所には全国各地から古代史の論文や著書が贈られてきます。この場をお借りして御礼申し上げます。つい先日も古田史学の会会員の古谷弘美さん(枚方市在住)より、秀逸の論文が送られてきました。「古事記における「沼」と「治」について ーー岩波日本思想大系古事記と桜楓社真福寺本古事記影印との比較」という論文です。
 古谷さんは関西例会の常連参加者で、これまで例会や会報に発表をされたことはありませんが、優れた研究者として関西例会では鋭い指摘や質問をされてきま した。今回、古谷さんの研究原稿を初めていただいたのですが、『古事記』真福寺本の「天沼矛(あまのぬぼこ)」の字形についての研究です。
 『古事記』冒頭のイザナギとイザナミがオノゴロ島を造るときに使用した「天沼矛(あまのぬぼこ)」が、真福寺本では「天沼弟(あまのぬおと)」と記されていることを古田先生が指摘され、「沼弟」を銅鐸(ぬ)の音(おと)のこととする説を近年発表されました。ところが、古谷さんは真福寺本の全調査をされ、 従来説の「天沼矛(あまのぬぼこ)」でも、古田説の「天沼弟(あまのぬおと)」でもなく、「天治弟(あまのちおと)」であると発表されたのです。その際、 真福寺本の「治」と「沼」の字の全調査をされ、例えば従来は「沼河比賣」「天沼琴」とされてきた字形なども、「治河比賣」「天治琴」であると指摘されたの です。もちろん、古事記本来の表記がどうであったかは今後の研究課題です。
 このような字形の全調査という実証的な研究手法は古田史学にふさわしいものです。同論文の他に、古谷さんは周代史料に短里表記による都市の大きさが記されているという論文も書かれています。こちらは『古田史学会報』に掲載予定です。関西から新たな論客が会報デビューです。古谷さんのこれからの研究が期待 されます。


第298話 2010/12/29

中国風一字名称の伝統

 九州王朝倭王が中国風一字名称を持っていたことが古田先生により『失われた九州王朝』で明らかにされています。例えば邪馬壹国の女王壹與の「與」、『宋書』の倭の五王「讃・珍・済・興・武」、七支刀の「旨」、隅田八幡人物画像鏡の「年」などです。
 更にその後、『隋書』に見える太子の利歌弥多弗利についても、「利」が一字名称であり、「太子を名付けて利となす、歌弥多弗(かみたふ)の利なり」とする読みを発表されました。ただ、本当にこの読みでよいのだろうかという疑問をわたしは抱いていたのですが、最近、これで間違いないと思うようになりました。
 それは、古代日本語にはラ行の音で始まる和語は無いということを、内田賢徳氏(京都大学大学院教授)から教えていただいたからです。理由は不明ですが、古代日本においては漢語では欄(らん)・櫓(ろ)・猟師(りょうし)といったラ行で始まる言葉はありますが、和語ではないのだそうです。
 従って、ラ行の「利」で始まる利歌弥多弗利(りかみたふり)という名前は考えにくく、古田先生のように「利」を中国風一字名として理解する他ないことを知ったのです。このことにより、九州王朝倭国では少なくとも3世紀から7世紀初頭に至るまで、中国風一字名称が使用されていたこととなるのです。
 近畿天皇家は中国風一字名称を用いた痕跡が無く、死後のおくり名(漢風諡号)も二字であり、この点、九州王朝とは伝統を異にしているようです。その理由も含めて今後の研究課題でしょう。


第228話 2009/09/26

ウィキペディアの限界と可能性

 読者の皆さんはよくご存じのことと思いますが、インターネット上の読者参加で編集される「辞書」ウィキペディア(Wikipedia)は、わたしもちょっとした調査などに利用しています。ところが最近、インターネットの普及に伴い、古田史学の会会員の方が論文執筆においてこのウィキペディアを論証根拠の出典資料として利用掲載されるケースが出てきています。
 検索や調査ツールとしてウィキペディアを利用されるのはいいのですが、学術論文などに引用出典として使用されるのは、いかがなものかと思います。少なくとも、わたしの友人がそのような使用を論文でされている場合は、止めるように忠告しています。それは次のような理由からです。

1.執筆者(編集責任者)が不明。
2.書き換えが可能で、後日再確認が困難なケースが想定される。
3.文献史学で重視される1次史料ではなく、2次3次史料に相当する。
4.記載内容の学問的レベルが判断できない。

 などです。特に1〜3は「引用文献」としては致命的欠陥で、論証の根拠としては使用されないほうが賢明です。面倒でも原典(1次史料)に研究者自らがあたるべきです。しかし、そうした限界を知った上で節度を持って上手に利用できれば、大変便利なツールであることには違いありません。更に、大勢の「執筆者」により編集されることは、個人では調査しきれない資料が紹介されているケースもあり、長所も備えています。インターネットの時代ですから、上手に用心深く利用されることをお奨めします。そして、やはり自ら史料にあたるという文献史学の基本的研究姿勢を大切にしていただきたいものです。


第201話 2008/12/28

九州の式内社の少なさ

 本年最後の関西例会が12月20日に行われました。今回は竹村さんから面白いデータが発表されました。『延喜式』神名帳に記された三千社以上の神社の国別・都府県別棒グラフです。それを見ると、壱岐対馬を除く九州が明らかに神社数が少ないことがわかるのですが、この史料事実は九州王朝説でなければ説明困難ではないでしょうか。
 神名帳に記載された神社は式内社と呼ばれ、いわば近畿天皇家公認の神社であり、恐らくは経済的支援も受けていたことでしょう。その式内社が九州島(壱岐対馬を除く西海道)が他と比べて明らかに少ないというのですから、九州には近畿天皇家が公認したくなかった神社が数多くあったと考えざるを得ません。これら非公認の神社こそ、九州王朝に関連がより深い神社であったことは容易に想像できます。従って、式内社から洩れた九州の神社を丹念に調べれば、九州王朝が 祀った祭神、あるいは九州王朝の天子が祀られていた神社を発見できるかもしれませんね。
 なお、壱岐対馬は島国でありながら、比較的式内社が多く、このことも九州王朝と近畿天皇家の関係を考える上で、貴重な史料事実と思われます。すなわち、壱岐対馬など天国領域は九州王朝だけでなく近畿天皇家にとっても保護すべき共通の祖神を祀る神社が多かった証拠でしょう。
   こうした式内社分布の分析は、母集団が三千以上であることから、比較的安定した信頼しうるデータと方法と言えます。どなたか、更に分析されてはいかがでしょうか。きっと、歴史の真実が見えてくると思います。
   なお、例会の発表内容は次の通りでした。

   〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 年末近時雑感(豊中市・木村賢司)
2). 豊前王朝説と西村命題(京都市・古賀達也)
3). 吉備はどこ?(大阪市・西井健一郎)
4). 持統大化・原秀三郎説の紹介(川西市・正木裕)
5). 盗まれた「国宰」(川西市・正木裕)
6). 河内戦争(相模原市・冨川ケイ子)
7). 九州王朝と冠位・式内社(木津川市・竹村順弘)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・満鉄特急あじあ号機関車の塗色=青藍と暗緑、両方あった?・他(奈良市・水野孝夫)


第184話 2008/08/10

『日本書紀』の西村命題

 九州王朝研究において、大和朝廷との王朝交代の実態がどのようなものであったか、例えば禅譲か放伐かなど、重要なテーマとなっています。近年、諸説が出されていますが、その時に避けて通れない説明があります。それは、「何故、日本書紀が今のような内容になったか」という説明です。
 ご存じのように、『日本書紀』は九州王朝の存在を隠しており、神武の時代から列島の代表者であり、卑弥呼や壹與の事績も神功紀に取り込むなど、古くから 中国と交流していた倭国は自分達であったかのような体裁をとっています。その反面、九州年号を「使用」していたり、自らの出自が九州の天孫族であることも堂々と記しています。
   このように、『日本書紀』はかなり複雑な編纂意図を持った史書であることがわかるのです。従って、近年の論者による禅譲説、放伐説、あるいは大和遷都説にせよ、それならば「何故、日本書紀が今のような内容になったか」という問いをうまく説明できていないのです。
 わたしがこの問いを最初に聞いたのは、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)からでした。次から次へと出てくる珍説・奇説に対して、西村さんはこの問いを発し続けられたのです。大変するどい問いだと感心しました。そこでこの問いを「西村命題」と私は命名しました。
   古田学派内外で出される諸説のうち、この西村命題をクリアしたものは、まだありません。わたし自身も、大化改新研究と前期難波宮九州王朝副都説により、ようやく西村命題に挑戦できそうなレベルに近づけたかなあ、という感じです。恐るべし、西村命題、です