史料批判一覧

第514話 2013/01/15

「古田武彦研究自伝」

 12日に大阪で古田先生をお迎えし、新年賀詞交換会を開催しました。四国の合田洋一さんや東海の竹内強さんをはじめ、遠くは関東や山口県からも多数お集まりいただきました。ありがとうございます。
 今年で87歳になられる古田先生ですが、お元気に二時間半の講演をされました。その中で、ミネルヴァ書房より「古田武彦研究自伝」を出されることが報告
されました。これも古田史学誕生の歴史や学問の方法を知る上で、貴重な一冊となることでしょう。発刊がとても楽しみです。
 当日の朝、古田先生をご自宅までお迎えにうかがい、会場までご一緒しました。途中の阪急電車の車中で、古代史や原発問題・環境問題についていろいろと話
しました。わたしは、原発推進の問題を科学的な面からだけではなく、思想史の問題として捉える必要があることを述べました。
 原発推進の論理とは、「電気」は「今」欲しいが、その結果排出される核廃棄物質は数十万年後までの子孫たちに押しつけるという、「化け物の論理」であ
り、この「論理」は日本人の倫理観や精神を堕落させます。日本人は永い歴史の中で、美しい国土や故郷・自然を子孫のために守り伝えることを美徳としてきた
民族でした。ところが現代日本は、「化け物の論理」が国家の基本政策となっています。このような「現世利益」のために末代にまで犠牲を強いる「化け物の論
理」が日本思想史上、かつてこれほど横行した時代はなかったのではないか。これは極めて思想史学上の課題であると先生に申し上げました。
 すると先生は深く同意され、ぜひその意見を発表するようにと勧められました。賀詞交換会で古田先生が少し触れられた、わたしとの会話はこのような内容
だったのです。古代史のテーマではないこともあり、こうした見解を「洛中洛外日記」で述べることをこれまでためらってきましたが、古田先生のお勧めもあ
り、今回書いてみました。


第502話 2012/12/08

『万葉集』の中の短里

 古田先生の『よみがえる卑弥呼』(ミネルヴァ書房より復刻)には『万葉集』の中の短里についても紹介されています。

 「筑前国怡土郡深江の村子負(こふ)の原に臨める丘の上に二つの石あり。(中略)深江の駅家(うまや)を去ること二十余里にして、路の頭(ほとり)に近く在り。」(『万葉集』巻第五、八一三、序詞。天平元=七二九年~天平二年の間)

 「二つ石」(鎮懐石八幡神社)と深江の駅家との距離を二十余里とする記事なのですが、実測値は1500~2000mの距離であり、短里(77m×20~25里=1540~1925m)でぴったりです。これが八世紀の長里(535m)であれば、短里の約7倍ですから全く当てはまりません。
 八世紀の天平年間に至っても北部九州(福岡県糸島半島)では短里表記が残存していた例として、この『万葉集』巻第五、八一三番歌の序詞は貴重です。
 『三国志』倭人伝の短里の時代(二世紀)から八世紀初頭まで同じ短里が日本列島内で使用されていたわけですから、まさに九州王朝は「短里の王朝」といえるでしょう。それが、八世紀に入ると長里に変更されていくわけですから、この史料事実こそ九州王朝から大和朝廷への列島内最高権力者の交代という、古田先生の多元史観・九州王朝説の正しさをも証明している一事例(里程論、里単位の変遷)なのです。
 他方、大和朝廷一元史観の旧説論者はこれら歴史的史料事実を学問的論理的に全く説明できていません。岩波の『日本書紀』『風土記』『万葉集』の当該箇所「解説注」を読んでみれば、このことは明白なのです。


第501話 2012/12/06

『風土記』の中の短里

 昨日は曇天と雨の中、富山県魚津市に行ってきました。今日は大阪に来ています。午前中はお得意さまと新規開発案件や輸出等の商談、午後は学会(繊維応用技術研究会)に出席しています。
 この繊維応用技術研究会は「繊維」の学会なのですが、天然繊維・合成繊維のほか、毛髪・ナノファイバー・木材繊維・染色・染料・酵素・化粧品・機能性色 素など幅広い分野に関する研究発表や講演があり、異業種交流の場としても人気の高い学会です。わたしはこの学会の理事として、運営のお手伝いをさせていた だいています。

 さて、日本列島内での短里使用の時期についての正木裕さんとの意見交換ですが、最終的には七世紀末まで九州王朝では公的に短里が使用され、大和朝廷の時代となった八世紀でも短里使用の影響が残存した地域があったとする見解で一致をみました。
 具体的には、八世紀に成立した『風土記』の中に短里と考えざるを得ない記事があることが根拠です。古田先生の名著『よみがえる卑弥呼』(ミネルヴァ書房より復刻)に詳述されていますが、一つだけ紹介しますと、『肥前國風土記』に次の記事が見えます。

 「肥前国風土記に云う。松浦の県。県の東、六里。ヒレフリの岑有り。」(岩波古典文学大系『風土記』による)

 松浦の県(あがた)の東「六里」のところにヒレフリの岑があるとされているのですが、底本には「三十里」とされているの を、岩波本の編者は「六里」に原文改訂しているのです。『風土記』成立時の八世紀では1里約535mですので、これではヒレフリの岑までの実測地とはあわ ないので、底本の「三十里」を「六里」に原文改訂したのです。
 この『風土記』は行政単位が「郡(こおり)」ではなく、九州王朝の行政単位「県(あがた)」であることから、古田先生は「県(あがた)風土記」と命名さ れ、原本は九州王朝で成立したものとされました。すなわち、九州王朝では短里で『筑紫風土記』を編纂したと考えられるのです。その九州王朝『筑紫風土記』 に基づいて、大和朝廷の時代となった八世紀においても「短里」表記が転用されたのです。
 こうした史料根拠に基づき、古田先生は日本列島における短里使用の史的痕跡が「二~三世紀頃より八世紀初に及んでいる。」(『よみがえる卑弥呼』194頁)とされたのでした。(つづく)

(補記)
 『日本書紀』天武十年八月条に見える「多禰嶋に遣(まだ)したる使人等、多禰國の図を貢れり。其の國の、京を去ること、五千余里。筑紫の南の海中に居り。」の記事の「五千余里」を短里表記とする見解について、第500話で 「どなたが最初に発表されたのかは失念しました」と記したところ、正木裕さんから、中村幸雄さん(故人・「古田史学の会」元全国世話人)が発表された説で あることを教えていただきました。出典は「大和朝廷の成立と薩摩及び薩南諸島の帰属」(『南九州史談』五号、1989年)で、当ホームページ中の「中村幸雄論集」に収録されています。是非ご覧ください。


第500話 2012/12/5

『日本書紀』の中の短里

 第499話で紹介した正木裕さんとの会話で、古代貨幣以外にも『日本書紀』の中に見える「短里」についても話題に上りま
した。南嶋と九州王朝との関連記事について、下記の天武十年八月条の「五千余里」が短里表記であり、この「京」とは太宰府のことと正木さんは指摘されまし
た。

 「多禰嶋に遣(まだ)したる使人等、多禰國の図を貢れり。其の國の、京を去ること、五千余里。筑紫の南の海中に居り。」(『日本書紀』天武十年八月条)

 この記事の「五千余里」を短里表記とする見解は20年以上も前から出されていました(どなたが最初に発表されたのかは失
念しましたが)。太宰府から短里(1里約77m)であれば、五千余里は約400km弱となり、種子島までの距離としてぴったりです。これが、大和からとす
ると短里でも長里(1里約450~500m)でも種子島には着きません。すなわち、短里では種子島まで全く届きませんし、長里では行きすぎてはるか沖縄の
南方海上となってしまうからです。
 従って、この記事は「短里」存在の証明と、「京」が九州王朝の都(太宰府)であることの証拠でもあるのです。そしてこれらのことから、天武十年(681)の多禰國の記事は九州王朝史書からの盗用と考えざるを得ないのです。
 ここまでは古田学派では「常識」のことなのですが、正木さんと検討したのはこの後の問題でした。それでは日本列島ではいつ頃まで短里が使用されたのかというテーマです。(つづく)


第498話 2012/12/02

「古和同」の銅原産地

 斎藤努著『金属が語る日本史』(吉川弘文館、2012年11月刊)を読んで、最も興味深く思ったデータが二つありまし
た。一つは、これまで紹介してきましたように、アンチモンが冨本銅銭や古和同銅銭に多く含まれるということです。もう一つは、古和同銅銭に使用された銅の
原産地に関するデータでした。
 同書によれば和同開珎などの古代貨幣に用いられている銅の産地について、その多くが山口県の長登銅山・於福銅山・蔵目喜銅山産であることが、含有されている鉛同位体比により判明しています。
 ちなみに、「和銅」改元のきっかけとなった武蔵国秩父郡からの「和銅」献上記事(『続日本紀』和銅元年正月条)を根拠に、和同開珎の銅原料は秩父産とする説もありましたが、これも鉛同位体比の分析から否定されています(同書69頁)。
 他方、古和同銅銭については、「古和同のデータの一部は図12の香春岳鉱石の分布範囲と重なっている。」(同書68頁)とあり、古和同銅銭に用いられた
銅材料の原産地の一つが福岡県香春岳であることが示唆されています。すなわち、九州王朝には地元に銅鉱山を有し、伊予国・越智国からは貨幣鋳造に必要なア
ンチモンが入手できたと考えられます。あとは国家として貨幣経済制度を導入する意志を持つか否かの判断です。
 以上、九州王朝貨幣についての考察を綴ってきましたが、九州王朝貨幣鋳造説にとって避けて通れない課題があります。それは貨幣鋳造遺跡と貨幣出土分布濃
密地が北部九州に無いという問題です。このことを説明できなければこの仮説は学問的に成立しません。引き続き、検討をすすめたいと思います。


第497話 2012/11/28

大宰府とアンチモン

 冨本銅銭や古和同銅銭に多く含まれているアンチモンが、越智国や伊予国から献上されていたと見られる記事が『続日本紀』文武二年七月条(698)と『日本書紀』持統五年(691)七月条にあります。

 「伊予国が白(金へん+葛)を献ず。」(『続日本紀』文武二年七月条)

 「伊予国司の田中朝臣法麻呂等、宇和郡の御馬山の白銀三斤八両・あかがね一籠献る。」(『日本書紀』持統五年七月条)

 『続日本紀』には霊亀二年(716)五月条にも「白(金へん+葛)」が見えます。大宰府の百姓が白(金へん+葛)を私蔵しており、それが私鋳銭に使用されているので、官司に納めよという詔勅記事です。

 「勅したまはく、『大宰府の佰姓が家に白(金へん+葛)を蔵(おさ)むること有るは、先に禁断を加へたり。然れども
遒奉(しゅんぶ)せずして、隠蔵し売買す。是を以て鋳銭の悪党、多く奸詐をほしいままにし、連及の徒、罪に陥ること少なからず。厳しく禁制を加へ、更に然
(しか)らしむること無かるべし。もし白(金へん+葛)有らば、捜(さぐ)り求めて官司に納めよ』とのたまふ。」

 このように霊亀二年(716)の詔勅によれば、大宰府の人々が所蔵している白(金へん+葛)が和同開珎の私鋳に使用
されていることがうかがえます。おそらくこの時期の和同開珎であれば古和同銅銭と考えられますから、この記事の「白(金へん+葛)」もアンチモンのことと
見てよいと思われます。すなわち、越智国や伊予国産のアンチモンが九州王朝中枢の人々により収蔵されていたと考えられるのです。
 こうした理解が正しければ、銅とアンチモン合金により貨幣を鋳造する技術が九州王朝に存在したことになります。ちなみに『続日本紀』によれば、近畿天皇による和同銀銭や銅銭の発行は和銅元年(708)のことです。

 「始めて銀銭を行う。」(『続日本紀』和銅元年五月条)
 「始めて銅銭を行う」(『続日本紀』和銅元年八月条)

 そして、その二年後の和銅三年(710)には早くも大宰府から銅銭が献上されています。

 「大宰府、銅銭を献ず。」(『続日本紀』和銅三年正月条)

 この銅銭は和同開珎(おそらくは「古和同」銅銭)のことと思われますが、この素早い銅銭献上記事こそは九州王朝に貨幣発行の伝統があったことの傍証といえるのではないでしょうか。(つづく)


第496話 2012/11/23

越智国のアンチモン鉱山

 冨本銅銭や古和同銅銭に多く含有されているアンチモンですが、その産地はどこてしょうか。国内の鉱山では愛媛県西条市の
市之川鉱山が世界的に有名なアンチモン鉱山でした。現在は閉山されていますが、古代の越智国(合田洋一説)にあたる西条市に最大級のアンチモン鉱山があっ
たことは注目されます。
 文献的にも『続日本紀』文武2年条(698)に次の記事が見え、この「白(金へん+葛)」は従来はスズのことと見られていましたが、愛媛県にはスズ鉱山
がないことから、アンチモンのこととする研究が発表されています(成瀬正和「正倉院銅・青銅製品の科学的調査と青銅器研究の課題」『考古学ジャーナル』
470、2001年)。

 「伊予国が白(金へん+葛)を献ず。」(『続日本紀』文武二年七月条)

 合田洋一さん(古田史学の会・四国、全国世話人)から教えていただいたことなのですが、『日本書紀』持統5年(691)7月条にも次の記事があり、やはり愛媛県から「白銀」が献上されています。

 「伊予国司の田中朝臣法麻呂等、宇和郡の御馬山の白銀三斤八両・あかがね一籠献る。」

 「宇和郡の御馬山」とは宇和島市三間町とみられ、当地にもアンチモン鉱山跡があるそうですから、この「白銀」もまたアン
チモンのこと推察されます。これらの記事により、古代の伊予国・越智国から冨本銅銭や古和同銅銭の原料となったアンチモンが供給された可能性が大きいので
す。また、正倉院にアンチモンのインゴットがあることも知られています。
 ちなみに、愛媛県には「中央構造線」にそっていくつかのアンチモン鉱山の存在が知られており、その中でも西条市のアンチモン鉱山は世界的に見ても大規模
なものだったことが知られています。古代の越智国はアンチモンなどの金属がその繁栄の主要因だったのかもしれません。(つづく)


第495話 2012/11/22

古代貨幣とアンチモン

 昨日は経産省に行った後、横浜に立ち寄りました。仕事を終えて帰る前に横浜市在住の安藤哲朗さん(多元的古代研究会・会長)に久しぶりにお会いし、最近の研究状況について語り合いました。その後、名古屋まで戻り、今朝は一宮市にいます。関西例会のときの風邪もようやく治りました。

 古田先生らと取り組んだプロジェクト「貨幣研究」において、古田先生やわたしは冨本銭や和同開珎を九州王朝の貨幣とする 見解を報告しました。そのときの主たる根拠は文献史学から提起したもので、たとえば冨本銭と和同開珎はその他の近畿天皇家発行の古代貨幣とは異なり、『日本書紀』や『続日本紀』にその銭文が記録されていないという点や、その他の貨幣の銭文にある最後の一字の「寶」という字が使用されていないという差異を根拠に、本来は別王朝により発行されたものではないかと考えました。
 他方、九州王朝貨幣とする仮説には弱点もありました。それは考古学的出土分布の中心が近畿であり、九州ではないということでした。これは学問的には無視できない弱点でしたので、わたしは和同開珎をもともとは九州王朝が発行したものとする仮説に充分な確信を持てずにいたのでした。
 そのようなときに読んだのが斎藤努著『金属が語る日本史』(吉川弘文館、2012年11月刊)でした。同書には科学的分析手法(電子線スキャニング・バルク組成分析法)に基づいた貨幣の組成分析値が示されており、その中に「古和同」と「冨本銭」はアンチモンの含有率が非常に高いという指摘がありました。 わたしはこのアンチモンに興味を抱きました。仕事で各種金属について勉強する機会があるのですが、通常、銅銭には銅の他にスズや鉛が混ぜられていることが多く、スズや鉛よりも珍しい金属のアンチモンが古代日本で最古の貨幣に属する「古和同」と「冨本銭」に多く含まれているとは意外でした。
 なお、「古和同」とは銭貨研究家がその銭文などの差異から、和同開珎を古いタイプと新しいタイプの二種類に分類したもので、古いとされたものを「古和同」、新しいとされたものを「新和同」と呼ばれています。その「古和同」銅銭の方にアンチモンが多く含まれており、和同開珎よりも古い貨幣である「冨本」銅銭にも同様にアンチモンが多く含まれていることは、両者が共通の原料と技術で鋳造されたことがうかがわれます。
 こうした自然科学的組成分析により、冨本銭と和同開珎が九州王朝の貨幣とする仮説が補強されるように思われるのです。(つづく)


第494話 2012/11/20

斎藤努著『金属が語る日本史』を読む

 今朝は東京に向かう新幹線の車中で書いています。明朝、霞ヶ関の経済産業省に用事があるため、今日から東京に入ります。

 最近読み始めたのが斎藤努著『金属が語る日本史』(吉川弘文館、2012年11月刊)という本ですが、古代貨幣や日本刀・鉄砲の歴史を自然科学的分析から考察されており、論理的で読みやすい本です。もちろん、その自然科学的分析結果の評価は近畿天皇家一元史観に基づいていますから、多元史観・九州王朝説の視点から見ると、不十分であることは避けられません。しかしそれでも参考になる一冊でした。
 25年ほど昔、わたしが古田先生の著作に感銘を受けて、稚拙ながらも古代史研究を開始したとき、その主たるテーマは「九州年号」と「古代貨幣」でした。 その内、九州年号については昨年末に『「九州年号」の研究』をミネルヴァ書房より上梓でき、一区切りついたのですが、「古代貨幣」研究については、まだまだ研究成果をまとめられる域に達していません。
 1999年に古田先生らと「貨幣研究」プロジェクトチームを立ち上げ、飛鳥池遺跡から出土して話題となっていた冨本銭や和同開珎などを取り上げました。 その参加者各人の報告が『古代に真実を求めて』第3集に収録されていますのでご参照ください。プロジェクトでは主に文献史学の立場からの報告が多く、いわゆる「合意形成」や「結論」が出されたわけではありませんが、多元史観によって古代貨幣を含む貨幣史に迫ろうとする野心的な取り組みでした。
 メンバーは古田先生・木村由紀雄さん・浅野雄二さん・山崎仁礼男さんと古賀の五名で、各人の報告は「古田史学会報」や友好団体の会紙に掲載されました。 さらに古田先生からは報告以外にも膨大な先行論文のコピーが提供され、いまでも貴重な資料として大切に保管・利用しています。
 プロジェクト終了後もわたしは古代貨幣に強い関心を持ち続けていましたが、古代貨幣研究は文献史学にとどまらず、考古学・自然科学(材質分析・金属工学)・貨幣経済史などを網羅したテーマですので、浅学なわたしには骨の折れる課題でした。そんなときに斎藤努著『金属が語る日本史』が書店で目に留まり読み始めたのですが、おかげで古代貨幣に関する新知見を得ることができ、わたしの研究心が再び沸き起こったのです。
 著者の斎藤さんは東京大学大学院で化学を専攻され、現在は国立歴史民俗博物館研究部教授と紹介されています。わたしも化学を専攻しましたが、有機合成化学だったので無機化学や金属についてはあまり詳しくありませんから、同書の解説は大変勉強になりました。現在、同書で紹介された古代貨幣の材質分析結果を、九州王朝説の視点から読み説こうとしています。洛中洛外日記で少しずつ紹介していきたいと思います。

 今、新幹線は駿河湾付近を走行中ですが、座席がA席(海側)なので、富士山は見ることができません。せっかくの晴天なのに残念です。(つづく)


第491話 2012/11/12

ドラッカー著『非営利組織の経営』を読む

 思うところがあり、ドラッカー著『非営利組織の経営』を毎日のように読んでいます。NPOなど非営利組織に関するドラッ カーの論文は『ハーバード・ビジネス・レビュー』等で読んだことはあったのですが、著作としてまとめられたものは初めてでした。「古田史学の会」も非営利組織ですから、そのあり方や運営について、基礎から考えるうえで同書は最適の一冊でした。
 「古田史学の会」は古田先生の研究活動のサポートを始め、会報・会誌の発行、例会の運営、遺跡巡りハイキングの主催、ホームページの管理、書籍の刊行、 講演会の開催など、ミッション(使命)にもとづいて多くの活動を行っています。この他にも、地域の会との連絡や支援、友好団体とのおつきあいなども重要な 仕事です。
 これらの活動領域において、無報酬のボランティアスタッフが強い信念と責任感に基づいて会を支えています。さらに全国の会員からの会費により財政的に支 えられています。従って、「古田史学の会」はボランティアスタッフや会員に対して「成果」をあげ続けることが求められており、その「成果」が明日の「古田史学の会」の存続を可能にしてくれる、わたしはそのように考えています。
 本会のような非営利組織において最も大切なこと、それはミッション(使命)であるとドラッカーは次のように指摘します。

 「最近、リーダーシップがよく問題にされる。遅すぎたくらいである。しかし、最初に考えるべきものはリーダーシップではない。ミッションである。非営利組織はミッションのために存在する。それは社会を変え人を変えるために存在する。」

 「古田史学の会」のミッションは「古田史学を継承(学び)・発展(研究を深化)させ、世に広める(定説とする)」ことで す。このミッション(歴史的使命)のために、会員は会費を支払い、ボランティアスタッフは献身的に会に貢献してくれるのです。わたし自身もその一人です。
 今から20年ほど前のことですが、古田説支持者や古田ファンにより結成された「市民の古代研究会」が、そのミッションを見失ったため分裂・消滅しまし た。当時、わたしは「市民の古代研究会」の事務局長としてその分裂騒動の渦中にいました。そして、ミッションを見失った組織の末路をこの目で見てきまし た。このときの苦い経験が、「古田史学の会」の規約・名称・会報名・会誌名に、これでもかこれでもかと「古田史学」の四文字を入れる動機となったのです。 「そこまでしなくても」というご意見もありましたが、ミッションを疑いようのないほど明確にするため、あえてこのようにしました。(つづく)


第488話 2012/10/28

多元的木簡研究のすすめ

 第485話で紹介しました原幸子さん(古田史学の会々員)からの質問、「大化改新の宮はどこか」という問題について、昨日、正木裕さんとディスカッションしました。

 『日本書紀』大化二年条(646)に記された改新詔は九州年号の大化二年(696)に藤原宮で出されたとする説をわたしは発表していたのですが、藤原宮朝堂東側回廊の完成が大宝三年(703)以降であることが出土木簡から判明したため、696年に大極殿など主要宮殿が完成していたことが疑問視されているのです。さらに突き詰めれば、天武期(680年代)には造営が開始されていた藤原宮ですが、その回廊が703年に至っても完成していなかったということに、わたしは深い疑問を抱いたのです。

 こうした疑問もあり、正木さんと意見交換を行いました。まだ結論は出ていませんが、何か重要な視点(仮説)が抜け落ちているような気がしています。たとえば『日本書紀』で持統が694年に遷都したとされる「藤原宮」は発掘された藤原宮(鴨公村大宮土壇)と同じなのか、697年に文武が即位した宮殿はどこなのか、大宝元年(701)に文武が朝賀の儀式を行った宮はどこかといった問題を通説にとらわれず丁寧に再調査する必要を感じています。

 ちなみに、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)は文武が即位したのは(飛鳥)清原大宮とする説を発表されていますが、古田先生も同様の見解を京都で発表されました(10月21日、「森嶋学と日本古代史」京都市下京区旧・成徳中学校舎にて)。

 7~8世紀における九州王朝から近畿天皇家への権力交代を研究するうえで、同時代史料である木簡の多元史観による研究は不可欠です。このことを正木さんに提案し、「多元的木簡研究会」を立ち上げることで合意しました。具体的なことはこれから検討していきますが、将来的には研究成果を書籍として出版したいと考えています。


第487話 2012/10/25

月山の初冠雪

 昨日は月山が初冠雪するなど、山形市も肌寒くなりました。今朝はこれから山形新幹線と東海道新幹線を乗り継いで名古屋に向かいます。午後は名古屋で代理店との交渉です。

 山形に来るといつも違和感を覚えることの一つに、テレビや新聞の天気予報があります。山形では庄内・最上・村山・置賜(おきたま)の4地域にわけ
て天気予報がなされるのですが、まず自分がいる山形市がどの地域に属するのかが京都人のわたしにはわかりませんでした。そして、一つの県をなぜ4地域にも
分けて天気予報を報じなければならない理由もわかりません。京都府なんかは北部と南部の2地域なのに、なんとも不思議でした。
 そこでアテンドしていただいた山形市の代理店のKさんにその理由を聞いてみました。Kさんの説明では、日本海側の庄内地方は平野で、その他はそれぞれ盆
地になっており、微妙に天気が異なるとのこと。さらに、戦国時代や江戸時代はそれぞれ別の大名が支配していた歴史があり、今でもあまり「仲が良くない」と
冗談めかして話されていました。もちろん現在はそのようなことはないでしょううが。
 たとえば米沢市がある置賜地方は上杉家が、山形市がある村山地方は最上家が殿様で両者は戦国時代には敵対していた間柄とのこと。ちなみに上杉家はNHK大河ドラマ「天地人」で有名ですし、江戸時代には屈指の名君・上杉鷹山を出しています。
 最上家は戦国武将の最上義光(もがみよしあき)を出しています。最上義光と仙台の伊達正宗とは親戚関係だそうです。
 庄内藩は酒井家が藩主で、大地主の本間家も有名です。そういえば庄内地方の酒田市長選がテレビで報道されていましたが、候補者の一人が本間正巳さん(前副市長)でした。本間家の御子孫でしょうか。有名な「ゴルフのホンマ」もこの本間家出身とのこと。
 このような歴史的背景のうえに、現在の山形県の風土が形作られているようです。まさに「多元的山形県」ですね。青森県でも津軽と南部とでは似たような関
係があるそうですし、津軽内部でも津軽家と津軽為信に滅ぼされた側の勢力があり、現在も両者は「仲が良くない」という話しを聞いたことがあります。
 このような歴史的背景や歴史的力関係は古代も現代も日本列島に存在しています。こうした歴史理解に基づいた学問が多元史観であり、九州王朝説でもあるのです。現代日本も多元的に分析すると、新たな切り口や真の勢力関係が見えてきそうです。