史料批判一覧

第298話 2010/12/29

中国風一字名称の伝統

 九州王朝倭王が中国風一字名称を持っていたことが古田先生により『失われた九州王朝』で明らかにされています。例えば邪馬壹国の女王壹與の「與」、『宋書』の倭の五王「讃・珍・済・興・武」、七支刀の「旨」、隅田八幡人物画像鏡の「年」などです。
 更にその後、『隋書』に見える太子の利歌弥多弗利についても、「利」が一字名称であり、「太子を名付けて利となす、歌弥多弗(かみたふ)の利なり」とする読みを発表されました。ただ、本当にこの読みでよいのだろうかという疑問をわたしは抱いていたのですが、最近、これで間違いないと思うようになりました。
 それは、古代日本語にはラ行の音で始まる和語は無いということを、内田賢徳氏(京都大学大学院教授)から教えていただいたからです。理由は不明ですが、古代日本においては漢語では欄(らん)・櫓(ろ)・猟師(りょうし)といったラ行で始まる言葉はありますが、和語ではないのだそうです。
 従って、ラ行の「利」で始まる利歌弥多弗利(りかみたふり)という名前は考えにくく、古田先生のように「利」を中国風一字名として理解する他ないことを知ったのです。このことにより、九州王朝倭国では少なくとも3世紀から7世紀初頭に至るまで、中国風一字名称が使用されていたこととなるのです。
 近畿天皇家は中国風一字名称を用いた痕跡が無く、死後のおくり名(漢風諡号)も二字であり、この点、九州王朝とは伝統を異にしているようです。その理由も含めて今後の研究課題でしょう。


第228話 2009/09/26

ウィキペディアの限界と可能性

 読者の皆さんはよくご存じのことと思いますが、インターネット上の読者参加で編集される「辞書」ウィキペディア(Wikipedia)は、わたしもちょっとした調査などに利用しています。ところが最近、インターネットの普及に伴い、古田史学の会会員の方が論文執筆においてこのウィキペディアを論証根拠の出典資料として利用掲載されるケースが出てきています。
 検索や調査ツールとしてウィキペディアを利用されるのはいいのですが、学術論文などに引用出典として使用されるのは、いかがなものかと思います。少なくとも、わたしの友人がそのような使用を論文でされている場合は、止めるように忠告しています。それは次のような理由からです。

1.執筆者(編集責任者)が不明。
2.書き換えが可能で、後日再確認が困難なケースが想定される。
3.文献史学で重視される1次史料ではなく、2次3次史料に相当する。
4.記載内容の学問的レベルが判断できない。

 などです。特に1〜3は「引用文献」としては致命的欠陥で、論証の根拠としては使用されないほうが賢明です。面倒でも原典(1次史料)に研究者自らがあたるべきです。しかし、そうした限界を知った上で節度を持って上手に利用できれば、大変便利なツールであることには違いありません。更に、大勢の「執筆者」により編集されることは、個人では調査しきれない資料が紹介されているケースもあり、長所も備えています。インターネットの時代ですから、上手に用心深く利用されることをお奨めします。そして、やはり自ら史料にあたるという文献史学の基本的研究姿勢を大切にしていただきたいものです。


第201話 2008/12/28

九州の式内社の少なさ

 本年最後の関西例会が12月20日に行われました。今回は竹村さんから面白いデータが発表されました。『延喜式』神名帳に記された三千社以上の神社の国別・都府県別棒グラフです。それを見ると、壱岐対馬を除く九州が明らかに神社数が少ないことがわかるのですが、この史料事実は九州王朝説でなければ説明困難ではないでしょうか。
 神名帳に記載された神社は式内社と呼ばれ、いわば近畿天皇家公認の神社であり、恐らくは経済的支援も受けていたことでしょう。その式内社が九州島(壱岐対馬を除く西海道)が他と比べて明らかに少ないというのですから、九州には近畿天皇家が公認したくなかった神社が数多くあったと考えざるを得ません。これら非公認の神社こそ、九州王朝に関連がより深い神社であったことは容易に想像できます。従って、式内社から洩れた九州の神社を丹念に調べれば、九州王朝が 祀った祭神、あるいは九州王朝の天子が祀られていた神社を発見できるかもしれませんね。
 なお、壱岐対馬は島国でありながら、比較的式内社が多く、このことも九州王朝と近畿天皇家の関係を考える上で、貴重な史料事実と思われます。すなわち、壱岐対馬など天国領域は九州王朝だけでなく近畿天皇家にとっても保護すべき共通の祖神を祀る神社が多かった証拠でしょう。
   こうした式内社分布の分析は、母集団が三千以上であることから、比較的安定した信頼しうるデータと方法と言えます。どなたか、更に分析されてはいかがでしょうか。きっと、歴史の真実が見えてくると思います。
   なお、例会の発表内容は次の通りでした。

   〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 年末近時雑感(豊中市・木村賢司)
2). 豊前王朝説と西村命題(京都市・古賀達也)
3). 吉備はどこ?(大阪市・西井健一郎)
4). 持統大化・原秀三郎説の紹介(川西市・正木裕)
5). 盗まれた「国宰」(川西市・正木裕)
6). 河内戦争(相模原市・冨川ケイ子)
7). 九州王朝と冠位・式内社(木津川市・竹村順弘)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・満鉄特急あじあ号機関車の塗色=青藍と暗緑、両方あった?・他(奈良市・水野孝夫)


第184話 2008/08/10

『日本書紀』の西村命題

 九州王朝研究において、大和朝廷との王朝交代の実態がどのようなものであったか、例えば禅譲か放伐かなど、重要なテーマとなっています。近年、諸説が出されていますが、その時に避けて通れない説明があります。それは、「何故、日本書紀が今のような内容になったか」という説明です。
 ご存じのように、『日本書紀』は九州王朝の存在を隠しており、神武の時代から列島の代表者であり、卑弥呼や壹與の事績も神功紀に取り込むなど、古くから 中国と交流していた倭国は自分達であったかのような体裁をとっています。その反面、九州年号を「使用」していたり、自らの出自が九州の天孫族であることも堂々と記しています。
   このように、『日本書紀』はかなり複雑な編纂意図を持った史書であることがわかるのです。従って、近年の論者による禅譲説、放伐説、あるいは大和遷都説にせよ、それならば「何故、日本書紀が今のような内容になったか」という問いをうまく説明できていないのです。
 わたしがこの問いを最初に聞いたのは、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)からでした。次から次へと出てくる珍説・奇説に対して、西村さんはこの問いを発し続けられたのです。大変するどい問いだと感心しました。そこでこの問いを「西村命題」と私は命名しました。
   古田学派内外で出される諸説のうち、この西村命題をクリアしたものは、まだありません。わたし自身も、大化改新研究と前期難波宮九州王朝副都説により、ようやく西村命題に挑戦できそうなレベルに近づけたかなあ、という感じです。恐るべし、西村命題、です


第165話 2008/03/16

例会発表のコツ

 昨日の関西例会から発表時間制限(30分)が設けられましたが、慣れないためか時間超過や途中省略などもありました。日本思想史学会など一般の学会では発表時間制限があるのは当然ですので、事前に何度も練習をして、本番にのぞみます。その際、時間超過は他の発表者や聴講者の迷惑になりますので、きびしく注意されます。これから徐々に発表も上手くなっていかれると思いますが、良い機会ですので、私なりの発表のコツを紹介したいと思います。

 まず、例会発表は研究成果や新発見を発表する場であり、講演会ではありません。したがって、アイデアをダラダラと述べたり、最後まで聞かないと何の発見なのかわからないようではダメです。最後になってやっとわかるのは推理小説の場合は良いのですが、研究発表では不適切です。
 ですから、最初の5分間ぐらいで、何を論証しようとするのか発表テーマの概要について、大枠をまず説明することです。その結果、聞く側もテーマを把握し、心の準備をすることができ、理解がはかどります。
 その際、従来説が何故問題なのか、どのような疑問があるのかも説明しておくと良いでしょう。それがあると、発表される新説がどのように解決するのだろうか と、ワクワク感を抱かせて、集中して聞いて貰えます。なお、研究発表に於いて、従来説や先行説の事前調査は不可欠です。
 次に、論証です。論証とは発表者が「こう思う」「こう思いたい」ということではありません。誰が考えても「そうとしか思えない」あるいは「こう考えるのが最も蓋然性が高く合理的」と、聞いている人が納得できる論理性のことです。ここを勘違いされている発表が、残念ながら少なくありません。アイデアや思いつきの羅列は、論証とは言いません。
 そして、論証する上で不可欠なものが史料根拠です。史料根拠無しの「新説」は単なる思いつきであり、学問的方法ではありませんので、よくよく注意して下さい。
 最後にレジュメの準備ですが、史料根拠に使用する文献の引用掲載はしておきましょう。それがあると、短時間での説明に便利ですから。そして、30分間の内、25分で発表を終え、少なくとも5分間は質疑応答のために残しておくべきです。制限時間一杯の発表は、質問を物理的にさせないこととなり、研究者として不誠実な態度に映ります。
 発表者にとっても、聴講者にとっても貴重な30分です。学問のため有意義に使いたいものです。なお、3月例会の内容は次の通りでした。竹内さんや正木さんの発表は特に優れたもので、会報での発表が待たれます。
 
  〔古田史学の会・3月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 小人の処世術(豊中市・木村賢司)
  2). 藤原宮造営材の調査と運搬(奈良市・飯田満麿)
  3). 記紀・万葉集・風土記を結ぶ(大阪市・前原耿之)
  4). 両面宿儺伝説についての一考察(岐阜市・竹内強)
  5). 『日本書紀』の構成(たつの市・永井正範)
  6). 聖武詔報の再検討ー「白鳳以来、朱雀以前」の新理解ー(京都市・古賀達也)
  7). 伊勢王と筑紫君薩夜麻の接点(川西市・正木裕)
  8). 纏向型古墳の解説(生駒市・伊東義彰)
  9). 『周髀算経』の史料紹介(神戸市・田次伸也)
  10).元暦稿本『万葉集』巻第一の「裏書」の史料紹介(相模原市・冨川ケイ子)
 
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・九州王朝複数宮都説・他(奈良市・水野孝夫)

第360話 2011/12/11 会報投稿のコツ(4)


第45話 2005/11/09

古層の神名「くま」

 わたしの故郷、久留米市には神代と書いてクマシロと読む地名があります。クマという音に神という字を当てられていることから、神様のことをクマと呼んでいた時代や人々のあったことがうかがえます。
 地名でも熊本や球磨・千曲・阿武隈・熊毛・熊野などその他多数のクマが見られます。これら全てが神名のクマを意味していたのかは判りませんが、球磨や熊本などは熊襲との関係から、神名のクマの可能性大です。とすれば、熊襲の場合、クマもソも古層の神名となり、これはただならぬ名称ではないでしょうか。記紀では野蛮な未服の民のような扱いを受けていますが、実はより古い由緒有る部族名のように思われます。
 『日本書紀』神功紀には千熊長彦や羽白熊鷲などクマのつく人名が見えます。これらも神名クマに由来していたのではないでしょうか。
 このように考えてみると、球磨川は神様の川となり、熊笹は神様の笹、動物の熊は神様そのもの、ということになるのかも。これも面白そうなテーマです。どなたか本格的に研究されてみてはいかがでしょうか。