史料批判一覧

第408話 2012/04/29

『人麿の運命』復刻

古田先生の初期三部作(『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』)は古田ファン必読の三冊ですが、今回は古田先生の万葉集論三部作をご紹介します。
それは『人麿の運命』『古代史の十字路-万葉批判』『壬申大乱』の三冊ですが、このたびミネルヴァ書房より『人麿の運命』が「古田武彦古代史コレクション」として復刻されました。
古田先生の万葉論は文献史学の方法論として、「歌」を歴史史料として取り扱う上で貴重な提言が含まれています。ともすれば、様々な「解釈」が可能な万葉集の歌に基づいて、恣意的な研究が見られる分野ですが、歴史学としての古田先生の万葉論のエッセンスを学ぶことができる重要な一冊が『人麿の運命』です。
その方法論上のキーポイントをちょっと説明します。まず第一は、一次史料としての「歌」そのものと、編纂時に付け加えられた「題」や「左注」を切り離し、一次史料の「歌」そのものを史料批判するという点です。この方法論は歴史学としての万葉集研究を確立した素晴らしいものてす。
第二は、古田学派であれば当然のこととしてご理解いただけると思いますが、万葉集の原文により近い写本を基礎史料として使用するという点です。具体的には「元暦稿本」(有栖川王府本)と呼ばれる万葉集写本を重視されたことです。
第三は、多元史観・九州王朝説の視点から史料批判するという点です。
これらの方法論は古田史学の基本的なことですから、こうしたことを学ぶためにも『人麿の運命』の復刻は喜ばしいことです。青山富士夫さん撮影によるカラー写真もふんだんに掲載されており、古田万葉論の理解を助け、真実の万葉の世界を深くイメージすることができます。
巻末にある書き下ろしの「君が代」論、「男系天皇」論、「万世一系」論などもタイムリーなテーマで、おすすめの一冊です。


第407話 2012/04/22

鹿島神は地震の神様

最近、地震研究者の都司嘉宣さん(つじよしのぶ・元東京大学地震研究所)の研究を知る機会がありました。都司さんは高名な地震学者ですが、地震の歴史を調査研究するという、歴史地震学という分野でも活躍されています。
中でもわたしが感心したのは、フィールドワークを大切にされているという研究姿勢です。「歴史は脚にて知るべきものなり。」(秋田孝季)に通じるもので す。具体的な研究テーマとしては、地震の神様の研究に注目しました。鹿島神社が地震の神様として信仰されているという指摘と、その神様の全国分布調査に は、古田史学と相通じるものを感じたのです。
その都司さんの論文『歴史地震』第八号掲載の「地震神としての鹿島信仰」(1992年)を是非読みたいと願っています。どこの図書館にあるか調査中です。
広瀬・竜田の神が風や水の神様であり、日本書紀の天武紀などによく現れるのは有名ですが、地震の神様の存在など、祭神研究以外にその神様の効能研究という分野も面白いものだと思いました。どなたか、研究されてみてはいかがでしょうか。
なお、都司さんは古田先生が立ち上げた「国際人間観察学会」に もご協力いただいており、同会会報「Phonix」No.1(2007)にも寄稿されています(Similarity of the distributions of strong seismic intensity zones of the 1854 Ansei Nankai and the 1707 Hoei Earthquakes on the Osaka plain and the ancient Kawachi Lagoon)。本会ホームページからも閲覧できますので、英語に堪能な方は是非ご覧ください。


第404話 2012/04/11

『古事記』千三百年の孤独(5)

 大和朝廷にとって『古事記』編纂の最大の目的は先住した九州王朝をなかったこ とにして、神代の時代から天皇家が日本列島の中心権力者であったとすることです。しかし、『古事記』編纂時の712年といえば九州王朝に替わって最高権力 者となってから、まだ十数年しかたっていません。ですから、列島内の多くの人々には大和朝廷が新参の権力者であることは自明のことだったのです。そのた め、自らの権力基盤を安定化するための「大義名分」(アリバイ)作りが史書編纂という形で進められました。『古事記』にはその痕跡が残されています。
 『古事記』には推古天皇まで記されていますが、各天皇の事績・伝承記事があるのは顕宗天皇までで、その後は推古まで系譜や姻戚記録等だけとなります(これにも理由があるのですが、今回はふれません)。ところが、例外のように継体記の末尾にちょっとだけ伝承記事が掲載されているのです。いわゆる「磐井の 乱」の記事です。

「この御代に、竺紫君石井、天皇の命に従わずして、多く礼無かりき。故、物部荒甲の大連、大伴の金村の連二人を遣わして、石井を殺したまひき。」

 この短い記事を挿入しているのですが、この「例外」のような短文記事挿入こそ、『古事記』編纂の眼目の一つなのです。すなわち、九州王朝の王であった石井(日本書紀では磐井)より近畿の継体天皇が格上であり、この「磐井の乱」鎮圧の結果、名実ともに九州は大和朝廷の支配下にはいったという、「大義名分」 (アリバイ)作りの文章だったのです。
 これが、継体記に例外とも言える「伝承記事」を挿入した動機で、『古事記』編纂者の苦辛の跡なのです。しかし、その苦辛は報われませんでした。
 「天皇の命に従わずして、多く礼無かりき」程度の理由や記事では、九州王朝の王・石井を殺して倭国のトップになったのは「歴史事実」だと、列島内の人々に信じさせることはできないと継体の子孫たち、8世紀初頭の大和朝廷には見えたのです。その結果、『古事記』は「ボツ」にされ、「継体の乱」を事細かに記した『日本書紀』が正史として新たに編纂されたのです。
 このように、『古事記』には隠された編纂意図があちこちに残されてるのですが、それらを説明するには「洛中洛外日記」では荷が重すぎます。また別の機会に紹介したいと思います。


第399話 2012/04/01

本居宣長の門人たち

わたしが本居宣長に興味を抱いた理由は、その学問的業績だけではなく、江戸時代には在野の研究者であった宣長やその学説 が、明治維新後には新政府の学問の主流となったという歴史事実にありました。わたしたち古田学派が将来の日本において歴史学の主流となるために、何をしな ければならないのか、何が必要なのかを考えるための参考として、本居宣長に興味を抱いたのです。
今回、本居宣長記念館を訪問し、同記念館編集の『本居宣長の不思議』という本を購入しました。本居宣長の人生や学問がわかりやすくまとめられており、初 心者にも読みやすい良本です。この本の最後の方に宣長の門人一覧と現在の県別の門人数が記されています。三重県の220人を筆頭に北は北海道から南は宮崎 県までのべ513人の分布図と氏名が記されており、宣長の名声が全国に広がっていたことがわかります。
「古田史学の会」の会員数も約500名ですから、偶然とは言え不思議な縁を感じます。もちろん、江戸時代と現代では交通手段も情報量や伝達速度も比較になりませんが、在野にある古田学派にとって励まされるものではないでしょうか。
この国で古田史学・多元史観がどのように認められ受け入れられるのかは、今のわたしにはわかりませんが、体制や世俗に迎合するのではなく、真実と学問が 持つ力を信じて、研究活動と宣伝顕彰を進めていきます。そして、百年後には「古田武彦記念館」が作られるよう頑張っていきたいと思っています。


398話 2012/03/31

本居宣長記念館・鈴屋を訪問

先週の土曜日、妻と松阪市までドライブしました。妻には松阪牛を食べにいこうと誘い、実は以前から行きたかった本居宣長記念館を訪問し、宣長の書斎「鈴屋」(すずのや)を見てきました。
古田先生がフィロロギーを学ばれた東北大学の村岡典嗣先生は本居宣長研究でも著名です。わたしも古田先生から村岡典嗣先生のことをいろいろとうかがう機会がありましたので、村岡先生が研究された本居宣長にも興味を持っていました。そうしたことから、松阪市の本居宣長の旧宅鈴屋を訪れたいと思っていたので す。
本居宣長の旧宅は当初あった魚町から松阪城跡に移築されており、記念館に隣接しています。わたしは旧宅全体が鈴屋(すずのや)と呼ばれているものと思っていたのですが、案内していただいた城山さんの説明では二階の書斎部分が鈴屋とよばれているとのこと。その書斎の中には入れないのですが、窓が開けられていたため、外から内部を見ることができました。
旧宅の土蔵には宣長の書籍や手紙などが大量に保存されていたとのことで、現在も版木が保存されているそうです。城山さんからは本居宣長のことや松阪城を 築城した蒲生氏郷のことなど多くのことを教えていただきました。記念館に展示されていた宣長の著作や手紙を拝見して、宣長の業績の一端に触れることがで き、感銘を受けました。
地元の松阪には宣長の偉業を知らない人が多いと嘆かれていた城山さんに、また訪問することをお約束し、松阪を後にしました。帰りに、樹敬寺にある宣長一族のお墓に参りました。もちろん、松阪牛もしっかりと食べてきました。


第397話 2012/03/30

『古事記』千三百年の孤独(4)

『古事記』が大和朝廷にとって不都合だったのは、序文の「壬申の乱」の記述だけではありませんでした。八世紀初頭の大和朝廷にとって、自らの権力の正統性を確立する上で、避けて通れない問題がありました。それは、継体天皇の皇位継承の正統性についてでした。
このことは古田先生が度々指摘されてきたところですが、「日本書紀」では継体の前の武烈天皇の悪口や非道ぶりをこれでもかこれでもかと書き連ねられてい ます。だから有徳な継体が武烈なきあと皇位についたと主張しているのですが、これほど武烈の悪口を言わなければならないのは、逆にそれだけ継体が皇位継承 (略奪)の正統性に欠ける悪逆な人物だった証拠なのです。
ところが、そうであるにもかかわらず、「古事記」では継体の皇位継承の正統性が強調されておらず、継体の子孫である八世紀初頭の天皇家の人々にとって、 「古事記」は不十分極まりない「欠陥史書」だったのです。すなわち、継体が行った皇位略奪の後ろめたさと武烈に対する「悪口」不足こそ、「古事記」が正史 とされず、新たに武烈の悪口を書き連ねた「日本書紀」を編纂せざるを得なかった理由の一つなのです。(つづく)


第396話 2012/03/18

史料批判の基本「大局観」

 昨日の関西例会でも活発な質疑応答がなされました。わたしもなるべく発言するよう心がけているのですが、岡下さんの発表「隅田八幡神社人物画像鏡の銘文」に関しては難しくて黙り込んでしまいました。
 隅田八幡神社人物画像鏡が国産で、「日本書紀」神功紀四六年条に見える「斯摩宿禰」が大王年に贈ったとする説を岡下さんは発表されたのですが、神功紀や鏡の編年、銘文解釈について活発な質疑が行われました。しかし、わたしにはどうしても腑に落ちない課題があり、最後まで発言できませんでした。
 それは、この鏡の大局的な位置づけがわからなかったからです。歴史学において、取り扱う史料の性格や大局的な位置づけを明らかにするという、史料批判に おける最初に取り組むべき課題・作業があります。たとえば、古事記や日本書紀は近畿天皇家が近畿天皇家のために作成した「勝者自らの史書」という史料性格 と大局的位置づけが明確なため、歴史研究に使用する場合も、天皇家にとって都合よく編纂されていという視点で読むことになります。
 これと同様に隅田八幡神社人物画像鏡でも大局的位置づけが必要なのですが、百済王から倭王(日十大王年)に贈られたとする説に対して、岡下さんが指摘されたように、国家間の贈答品にしては鏡の出来が悪いという「史料事実」から、見直しが迫られているのです。このため、岡下さんは国産説を採られ、臣下から倭王への献上品とされたのですが、この鏡の出来の悪さが、国内献上説をも否定してしまうのです。国産の献上品であれば粗悪な鏡でもかまわないとはならないからです。
 こうしたことから、わたしにはこの鏡の大局的位置づけ、すなわち「出来の悪さ」と銘文解釈の双方をうまく説明できる仮説を提起できなかったのです。たとえば、百済王から倭国王への贈答品の質の良い鏡が別に存在していて、そのレプリカがこの人物画像鏡だったのではないかなどの作業仮説も浮かびましたが、確信を持てるまでには至りませんでした。
 これからも考え続けたいと思います。なお、関西例会の発表は次の通りでした。

〔3月度関西例会の内容〕
(1) 「古田史学キーワード辞典」の作成協力者を求む(豊中市・木村賢司)
(2) 学校の先生の教育をする自由(豊中市・木村賢司)
(3) 「古代史・道楽三昧」第五号の発行(豊中市・木村賢司)
(4) 主格助詞「イ」(明石市・不二井伸平)
(5) 円仁と張保皋(木津川市・竹村順弘)
(6) 石棺と装飾古墳(木津川市・竹村順弘)
(7) 隅田八幡神社人物画像鏡の銘文(その4)(京都市・岡下英男)
(8) 「継体」年号前後(相模原市・冨川ケイ子)
(9) 守君大石の正体と小郡なる飛鳥の宮(川西市・正木裕)
(10)卑しめられた蘇我馬子(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
会員寄贈著書紹介(寺本躬久著「いのちの風景」)・古田先生近況・会誌「古代に真実を求めて」15集編集状況・会務報告・関西例会担当者交代(新担当:竹村順弘)・東野治之「百済人祢軍墓誌の『日本』」はおかしい・その他


第388話 2012/02/24

鈴鹿峠と「壬申の乱」

 先日、仕事で伊賀上野までドライブしました。京都南インターから新名神の信楽インターで降りるルートを採るつもりでしたが、カーナビの推奨ルートが京都南インターから新名神で亀山まで行き、そこから東名阪国道で伊賀上野まで戻るという、何とも遠回りを指示したものですから、そちらの方が早いのだろうと思い、結局、一日で鈴鹿山脈を2往復計4回越えることとなりました。
 これはこれで良い経験となりましたが、その時、脳裏をよぎったのが「壬申の乱」の天武の吉野からの脱出ルートでした。ご存じのように、『日本書紀』は天武紀前半の第二八巻まるまる一巻を「壬申の乱」の記述にあてています。日時や場所など他の巻とは比較にならないほどの詳細な記述がなされていることから、『日本書紀』に基づいて多くの歴史家や小説家が壬申の乱をテーマに論文や小説を書いています。
 他方、古田先生は壬申の乱については永く本に書いたり、講演で触れたりはされませんでした。ある時、古田先生にその理由をおたずねしたところ、「『日本書紀』の壬申の乱の記述は詳しすぎます。これは逆に怪しく信用できません。このような記述に基づいて論文を書いたり話したりすることは、学問的に危険です。」と答えられました。このときの先生の慎重な態度を見て、「さすがは古田先生だ。歴史研究者、とりわけ古田学派はかくあらねばならない」と、深く感銘 を受けたものでした。
 こうした古田先生の歴史家としての直感がやはり正しかったことが明らかになりました。それは、馬の研究家である三森堯司さんの論文「馬から見た壬申の乱 -騎兵の体験から『壬申紀』への疑問-」(『東アジアの古代文化』18号、1979年)によってでした。
 三森さんは『日本書紀』壬申の乱での天武らによる乗馬による踏破行程が、古代馬のみならず品種改良された強靱な現代馬でも不可能であることを、馬の専門家の視点から明らかにされたのです。すなわち、『日本書紀』に記された壬申の乱は虚構だったのです。この三森論文により、それまでのすべての壬申の乱の研究や小説は吹き飛んでしまったのでした。もちろん、大和朝廷一元史観の学者のほとんどは、この三森論文のインパクト(学問的提起)に未だ気づいていないか のようです。
 その後、古田先生が九州王朝説・多元史観に基づいて、名著『壬申大乱』(東洋書林、2001年刊)を著されたのはご存じの通りです。舗装された道路を自動車での鈴鹿越えを繰り返しながら、『日本書紀』の「壬申の乱」が虚構であることを改めて実感した一日でした。


第381話 2012/02/05

九州王朝の太子殺害事件

 今日は京都市長選挙の投票日で、京都御所の東隣にある京極小学校へ妻と二人で投票に行ってきました。京極小学校は娘が通った小学校で、湯川秀樹さんがこの小学校を卒業されたことでも有名です。京都市長選は前回より電子投票になりましたので、集計作業も早く、現職の角川さんの当選がNHK大河ドラマ終了後のニュースで早々と報道されました。
 近代民主国家は平和的に選挙で政権やリーダーの決定・交替が可能ですが、古代社会においては譲位・禅譲とは別に、放伐やクーデター、内乱、内紛など様々 な血なまぐさい交代劇が少なくありません。恐らく九州王朝内部でも近畿天皇家へ列島の代表者が替わるまで、いろんな事件があったはずです。残念ながら九州王朝史書は抹殺され遺されていませんから、その詳細はほとんどわかりませんが、其の断片が諸史料にわずかですが残っています。
 その一つに、九州年号群史料としても有名な『海東諸国紀』があります。同書は1471年に李氏朝鮮で作成された、日本と琉球の歴史・地理・風俗・言語・ 通行を克明に記した史料で、著者は朝鮮の最高の知識人でハングル制定にも寄与した申叔舟(1417~1475)です。
その中に次のような九州王朝内の驚くべき事件が記されているのです。

「(賢接)三年戊戌、六斎日を以て経論を被覧し、其の太子を殺す。」

 賢稱三年(『海東諸国紀』は「賢接」とする)は敏達七年に当たり、大和朝廷では太子が殺されたなどという物騒な事件は起こっていません。従って、九州年号の賢稱とセットで記されたこの記事も九州王朝内部の事件と見なさざるを得ないのです。
 この記事が事実だとすると、この賢稱三年(578)は九州王朝の輝ける天子多利思北孤即位のほぼ前代に当たり(即位は端政元年〔589〕)、すなわち多利思北孤は正統たる皇位継承者の太子が殺害された結果、即位できた天子となるのです。このことについては拙論「九州王朝の近江遷都 — 『海東諸国紀』の史料批判」(『「九州年号」の研究』に収録)をご参照下さい。
 現時点では、これ以上のことは不明ですが、今後、丹念に諸史料に遺されている九州王朝系記事を精査する事により、失われた九州王朝史の復原が少しずつでも進むことが期待されます。


第378話 2012/01/22

隅田八幡人物画像鏡の品質

一昨日の関西例会では新年の幕開けにふさわしい、優れた研究報告がなされました。中でもわたしが特に感心したのが、岡下さんの隅田八幡人物画像鏡に関する報告でした。
岡下さんは以前にも同画像鏡に関する報告をされていて、鏡の出来が良くないとされ、百済王からの贈答品ではないのではないかとの見解を示されていました。それに対して、わたしは隅田八幡人物画像鏡の出来は悪くないと反論していました。
ところが岡下さんはその批判に負けることなく、隅田八幡人物画像鏡と他の人物画像鏡の比較写真などを提示され、その製造方法の違いや画像や文字の稚拙さ を具体的に指摘されたのです。この実証的な再反論は見事なもので、わたしも認識を改めざるを得ませんでした。
もちろん、百済王から倭王へ送られたということに関しては、岡下さんとは見解が異なりますが、「銘文解釈は鏡の出来の悪さも説明できるものでなければな らない」という岡下さんの主張は、なるほどその通りだと思いました。この鏡について、より深く検討することをせまられた、岡下さんの発表でした。
このように、関西例会での厳しい論争のやりとりは、大変勉強になるもので、学問的にも有意義なものです。岡下さんには発表後に、お礼を述べました。なお、例会では下記の報告がなされました。

〔1月度関西例会の内容〕
1). 前倒し、先送り(豊中市・木村賢司)
2). 浅読み、深読み(豊中市・木村賢司)
3). 追従(服従)、反発(抵抗)(豊中市・木村賢司)
4). 鮮卑族に連れ去られた倭人たち(続)(相模原市・冨川ケイ子)
5). 和田家文書の邪馬台国(木津川市・竹村順弘)
6). 『書紀』継体紀、磐井の乱と近江毛野臣記事(川西市・正木裕)
7). 隅田八幡神社人物画像鏡の銘文(その3)(京都市・岡下英男)
8). 大安寺伽藍縁起の天皇名(木津川市・竹村順弘)
9). 元興寺伽藍縁起の天皇名(木津川市・竹村順弘)
10). 和田家文書と北魏(木津川市・竹村順弘)

〔代表報告〕
○会務報告・古田先生近況・賀詞交換会での古田講演の概説・唐招堤寺へ初詣・市民講座「ここまでわかった紫香楽宮」・その他


第368話 2011/12/31

平成23年の回顧

 平成23年も最後の一日となりました。我が国にとって今年は非情で沈痛で困難な年でした。東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、被災地の復興を祈念しながら、「古田史学の会」の一年を振り返りたいと思います。
 全くの個人的学問的感想となりますが、ご紹介いたします。まず第一はやはり『「九州年号」の研究』の編集作業と上梓です。刊行企画から上梓まで三年ほど かかりました。会員の皆さんにはお待たせしたことをお詫びします。それから、編集作業を進めていただいたミネルヴァ書房の田引さんにあらためて感謝いたし ます。自画自賛となりますが、九州年号の研究書は近年他に類書もなく、後世に残る一冊と自信を持っています。
 第二は、福岡市から出土した「大歳庚寅年」銘鉄刀が四寅剣だったことが解明されたことです。朝鮮半島の伝統的剣である四寅剣が九州王朝にもあったこと と、九州年号「金光」改元との関係が推測できることなど、九州王朝研究にとってもすばらしい金石文の発見でした。
 第三は、百済人祢軍墓誌拓本の出現です。七世紀末の『日本書紀』にも登場する祢軍の墓誌という第一級史料の出現は、九州王朝から大和朝廷への王朝交代を研究する上で画期的な事件でした。本格的研究の幕開けが楽しみです。
 第四は、九州年号史料に見える「始哭」や『二中歴』に記されていない「法興」「聖徳」年号についての新たな仮説が正木さんから発表されたことです。『「九州年号」の研究』の続編を出すときには収録したい研究成果の一つです。
 第五は、太宰府の観世音寺の創建年について『勝山記』に白鳳十年と記されていることの「発見」です。『二中歴』には白鳳年号の細注に「観世音寺東院造」 とありますが、具体的な年次が不明でした。とところが『勝山記』には白鳳十年(670)の項に「鎮西観音寺造」とあり、具体的な年次が判明したのでした。 太宰府政庁や条坊の編年研究にも貴重な史料となるでしょう。
 この他にも優れた論稿が会報や会誌で発表されましたが、何といっても古田先生が畢生の書とされた『卑弥呼』が刊行されたことです。古田先生の四十年にわ たる邪馬壱国研究の総決算ともいうべき一冊で、古田学派必読の書です。わたしも年始には再読します。
 それでは皆様、新年が良き年でありますように。


第367話 2011/12/30

九州王朝と筑紫王朝

 九州新幹線「さくら」で帰省中です。グリーン車並の四列座席ですから、山陽新幹線よりも絶対お得です。今、博多駅を通過したのですが、社内の停車駅の説明アナウンスが、それまでの日本語と英語の他に、韓国語と中国語でもされています。九州に帰ってきたのだなと、実感されま す。
 近年、古田説や多元史観支持者から多くの著書が発刊されていますが、学問的にも大変喜ばしいことだと思います。ただ、その中で九州王朝のことを「筑紫王朝」と表現される方も少なからず目にします。筑紫王朝という表記が必ずしも誤りというわけではありませんが、学問的厳密性から見れば、微妙だと思います。
 古田先生の『失われた九州王朝』をしっかりと読まれた方はご理解いただけると思いますが、古田先生がなぜ「筑紫王朝」ではなく九州王朝という表記にされたのかというと、九州島が「九州」と現代も呼ばれていることを、天子の直轄支配領域としての政治用語である「九州」との関係で重視されたからです。
 すなわち、筑紫という北部九州の小領域の権力者ではなく、九州島全体を直轄支配領域とした九州島の権力者という視点を重視され、その結果、筑紫王朝ではなく九州王朝という政治概念と呼称を自説に採用されたのです。ですから、古田学派の研究者の皆さんには、是非、九州王朝という表記を使っていただきたいと思っているのです。もちろん、強制すべきことではありませんが、わたしは論者の学問的厳密性への意識や認識を判断するうえでの一つの基準としています。
 ただし、天孫降臨直後であればまだ九州一円の平定以前ですから、学問的に正確に限定したいという立場で、その期間の九州王朝に限り「筑紫王朝」という表記を使用されるということであれば、それには大賛成です。
 なぜそんな細かいことを、と思われる方もおられると思いますが、学問的な深化や展開を考えたとき、たとえば九州王朝という表記であれば南九州の「隼人」 を九州王朝天子の直轄支配の「民」と見なすべきという論理性が明確になるのですが、「筑紫王朝」という表記ではこうした概念があいまいとなり、歴史研究において不正確な認識や誤った仮説の提示を促しかねないからです。
 単なる名称表記の問題ととらえるのではなく、古田先生が学問的に考え尽くされて選ばれた言葉が「九州王朝」であるとの思いに至っていただければ幸いです。
 なお、九州王朝が自らの国名を何と呼んでいたのかは、史料根拠に基づいての考察が必要です。これは「九州王朝」という学術用語の選定とはまた別の問題ですから。