史料批判一覧

第362話 2011/12/16

映画「アレクサンドリア」の衝撃

この数年、多忙のため映画鑑賞の機会がめっきり減りましたが、最近ものすごい映画に遭遇しました。2009年、スペインで制作された「アレクサンドリア」という作品です。
原題はラゴラ(広場という意味)で、舞台は紀元四世紀の古代都市アレクサンドリア(エジプト)です。美貌の女性哲学者(数学者・天文学者)ヒュパティア の半生を描いたもので、ヨーロッパ映画史上最高額の制作費といわれる壮大なスケールにまず圧倒されるのですが、よくこんな映画がヨーロッパで作られたもの だと、本当に衝撃を受けました。しかも、主人公のヒュパティアが実在の人物ということに、さらに驚きました。
当時のローマ帝国皇帝がキリスト教徒になったこともあって、アレクサンドリアでもキリスト教徒が増大し、多神教の信者やユダヤ教徒への迫害(虐殺)が荒 れ狂う中、天動説を疑い地動説を研究するヒュパティアを魔女としてキリスト教徒が迫害するという、史実に基づいた映画でした。そして、「わたしが信じるも のは真理だけです」と言い放ち、キリスト教への改宗を拒否し、学問研究を続ける主人公の言動に深く感銘を受けました。
古代エジプトにおける宗教対立や奴隷制など、さまざまな問題を内包した作品ですが、わたしがもっとも驚いたのは、キリスト教徒による集団的残虐シーンが これでもかこれでもかと続くこの映画が、国民の75%がカトリック信者というスペインで作成されたという事実です。そして、この映画が興業的にも成功した という事実に、ヨーロッパでもついにこのような映画が製作され、受け入れられる時代になったということに、感銘したのです。
別の視点から見れば、この映画は古代を題材にしながらも、極めて現代的な問題を提起しているといえます。この映画の成功は思想史的にも貴重なものではな いでしょうか。学問と真実を愛する、古田学派の皆さんに是非見ていただきたい作品でしたので、紹介させていただきました。


第361話 2011/12/13

「論証」スタイル(1)

 今日は名古屋に来ています。これから星ヶ丘にある椙山女学園大学に向かいます。同大学のJ教授とお会いし、学生の卒論研究テーマの打ち合わせを行うことになっています。大学に行くと、研究や学問に打ち込む若い学生さんがたくさんおられ、いい刺激を受けます。
 さて、「会報投稿のコツ」で「論証」に触れましたが、その具体例についてもご紹介したいと思います。最初は、西村秀己さん(「古田史学の会」全国世話人、会報編集担当、会計)です。
 西村さんの口癖は「それはおかしいやろう」ですが、研究発表への厳しい指摘や批判が、この言葉とともに続きます。ですから、わたしは研究成果を論文にする前に、できる限り関西例会で発表し、西村さんの顔色を確かめてから執筆にかかるようにしています。「それはおかしいやろう」が出たら、その部分を訂正したり、再反論を考えてから論文化するのです。これにより、わたしの勘違いや論証の弱点に気づくことができるので、西村さんの「それはおかしいやろう」を大変重宝しています。
 その西村さんの「論証」スタイルは、一言で言えば「骨太な論断」です。大局的に見てこう考えざるを得ない、という「論証」スタイルです。たとえば、七世紀末の列島最大規模の宮殿・都市は藤原宮(京)だから、701年以前には九州王朝の天子が藤原宮にいたと考えるべき、といった一刀両断の「論証」スタイル です。
 わたしは、その論理性に一定の妥当性を認めながらも、王朝交代時期の七世紀末について、それほど単純に割り切るのはいかがなものか、少なくともわたしは そこまで大胆にはなれないと、いつも「反論」しています。もっとも、西村さんはその後も傍証を固められ、自説強化に努められています。
 こうした大胆な論証を好まれる西村さんですが、わたしが舌を巻いた緻密な論証もあります。「マリアの史料批判」です。
 ある日、西村さんが「新約聖書に記されたイエスの周囲にいる女性の名前にマリアが多すぎる。これはおかしいやろう。」と言われたので、当時はマリアとい う名前はありふれたもので、たまたまではないかと生返事をしたところ、西村さんはとんでもないことをされたのです。
 その後しばらくして西村さんは書きあげたばかりの一編の論文をわたされました。そこには何と、旧約聖書に登場する全女性の名前を調べあげ、「マリア」と いう名前の女性は1名しか登場しないことを指摘し、当時、「マリア」という名前はありふれた名前ではないということを証明されたのです。
 わたしはグウの音も出ず、ただ「おそれいりました」と頭を下げました。その時の西村さんの「どや顔」を今でもよく覚えています。これは見事な論証と言うしかありません。その論文が「マリアの史料批判」だったのですが、わたしはキリスト教研究史に残る名論文だと思います。西村さんに英訳を勧めているのですが、英語に堪能などなたかご協力いただけないでしょうか。
 新約聖書に記されたマリアが、ありふれた名前かどうかを新約聖書以前の史料である旧約聖書で全数調査するという学問の方法こそ、古田学派らしい論証方法ではないでしょうか。古田先生が「邪馬壹国は邪馬臺国の誤り」としていた通説を検証するために、三国志の中の「壹」と「臺」の字の全数調査をされ、両者が間違って使われている例が無いことを証明されましたが、その方法を西村さんは踏襲されたのです。
 本ホームページにも「マリアの史料批判」が掲載されていますので、是非ご一読下さい。切れ味鋭い「論証」スタイルの一端に触れることができます。(つづく)

第360話 2011/12/11

会報投稿のコツ(4)

 続けてきました「会報投稿のコツ」も今回が最後となります。テーマは「論証」です。
 わたしが古田先生の著作に感銘を受けて、「市民の古代研究会」に入会したのが、今から25年前でした。その後、わたしも研究論文を書きたくなり、へたくそながら「市民の古代ニュース」などに投稿を始めたのですが、最初にぶつかった壁が「論証」でした。古田先生からは「論証は学問の命」と教えられました。 ですから、論証が成立していなければ学術論文として失格です。ところが論証とは何か、どうすれば論証したことになるのかという、基本的なことがなかなか理解できませんでした。
 その時、一つのヒントになったのが中小路俊逸先生(故人・追手門学院大学教授)の「ああも言えれば、こうも言えるというのは論証ではない」という言葉でした。言い換えれば、「誰が考えても、どのように考えても、このようにしか言えない」と説明することが論証するということなのです。しかし、わたしが真にこのことを理解できたのは、さらにその数年後でした。
 和田家文書偽作キャンペーンの勃発により「市民の古代研究会」は分裂し、少数派に陥ったわたしは水野さんらとともに「古田史学の会」を立ち上げたのですが、マスコミも巻き込んで執拗に続けられる偽作キャンペーンと古田バッシングに対して、わたしたちは学術論文で対抗しました。
 その時は「やるか、やられるか」という真剣勝負でした。しかも、その勝敗・優劣を決めるのは多くの読者、あるいは裁判所の裁判官でした(裁判所への陳述書も書きました)。わたしがどう思うかではなく、第三者が偽作論者の主張とわたしたちの主張とのどちらが正しいと考えるかが勝敗を分けるのです。そこにおいて、第三者を納得させることができるのは、証拠(史料根拠)の提示と「論証」だけでした。
 このときの胃の痛くなるような経験が、わたしにとって学問における「論証」の何たるかを、より深く理解できる機会となったのです。その意味では、わたしは偽作キャンペーンに「感謝」しています。あのときのあの経験がなければ、今でも「論証」の意味を深く理解できていなかったかもしれないからです。
 会報に投稿される古田学派の研究者の皆さん。どうか、学問の命である論証を何よりも大切にした論文を送ってください。たとえその結論に反対であっても、わたしや西村さんが掲載せざるを得ないようなするどい原稿を心からお待ちしています。


第359話 2011/12/09

会報投稿のコツ(3)

 今日は大阪にいます。わたしが仕事の関係で理事をさせていただいている「繊維応用技術研究会」の講演会が大阪のホテルで開催されており、その休憩時間に書いています。それでは「会報投稿のコツ」の続きです。

 会報の花形はやはり一面トップ論文です。基本的に投稿原稿の中から最も優れたタイムリーな原稿が一面に掲載されます。読者もそういう目で読まれますか ら、一面にどの原稿を採用するかは、編集部の見識や力量も問われ、西村さんが毎号悩まれることになります。一面にふさわしい投稿が無いときは、それこそ大 変で、常連投稿者に頼み込んで急遽書いてもらうということもありました。
 採用される研究論文の評価ポイントがありますが、特に留意していただきたいことは次の諸点です。

1.最初に何を論証したのかという結論を明記してください。最後まで読まないと何が言いたいのかわからない原稿では困ります。研究論文は推理小説とは違うと言うことをご理解ください。

2.論証の根拠とした史料や文献は必ず出典を明記してください。必要があれば関係部分を引用してください。そうしないと読者がその新説の当否を検証できませんから。史料根拠が示されていない論文は学術論文の体をなしていません。

3.先行説と自説をはっきりと分けて記述し、先行説の出典も明記してください。学問は学説の積み重ね、あるいは淘汰しながら発展しますから、賛成にせよ反対にせよ先行説にふれない論文もまた学術論文として不十分です。もちろん、先行説が存在しないほどの先駆的研究であれば別ですが。あるいは、説明や紹介の 必要性がないほど周知の通説は、省略してもかまわない場合があります。

4.論証と断定を意識的に区別してください。「没」になる理由の大半がこれらが区別されず、自らの断定を論証と勘違いされているケースなのです。「まわり が何と言おうがわたしはこう思う」は断定であり、「誰が考えても、どのように考えてもこうならざるを得ない」という説明が論証です。

5.自説に不利な史料や先行説を無視軽視せず紹介した上で、どういう理由や根拠で自説の方が有力・合理的であるかを、読者が理解できる平明な言葉と論理性で説明してください。

 おおよそ以上の点が審査項目ですが、現実にはかなり甘く判定しています。常連投稿者になると、厳しく審査しますが、初投稿者の場合は、エールを送る意味から甘くしています。
 それから、あれもこれも論証しようとして「大論文」にしてしまう方も見られますが、会報はスペース上の制限がありますので、なるべく1テーマに的を絞ったシャープな切れ味の論文が望まれます。どうしても「大論文」にされたい場合は、「古田史学会報」ではなく会誌「古代に真実を求めて」に投稿をお願いしま す(投稿先:水野孝夫)。(つづく)


第358話 2011/12/07

会報投稿のコツ(2)

 今日は愛知県一宮市に来ています。この町には真澄田神社というお社があり、尾張一宮の社格を持っています。尾張の一宮が熱田神宮ではなくて、なぜ真澄田神社なのかという面白いテーマがあり、以前から気になっている神社です。
 話題を戻します。「古田史学会報」の投稿原稿は研究論文が中心ですが、その他に書評や地方新聞などに掲載されたローカルでユニークな新情報の紹介なども対象となります。あるいは遺跡巡りや博物館見学の報告などもOKです。
 研究はちょっと苦手という会員の方はこうした投稿に挑戦されてはいかがでしょうか。会報の内容が研究論文中心ですから、意外と掲載されます。ただし、この場合でも字数に留意してください。会報2ページ程度を目安にされると、採用の確率がアップします。
 特に古田先生の新刊書評はかなりの確率で採用されますので、是非ご投稿ください。ただ、書評の場合は会報1ページ以内でお願いします。新刊書評は、内容にあまり差がなければ、早い者勝ちです。
 古田先生の講演録(概略や感想文でも可)に至っては、お願いしてでも掲載したい原稿ですから、大歓迎です。
 これから注目されそうなのがインターネットによる検索情報やデータの紹介です。関西例会で竹村順弘さんが得意とされている「ワザ」で、これなどもテーマ選定やデータ解析の切り口次第では結構面白い記事となります。皆さんの創意工夫をこらした投稿をお待ちしています。(つづく)


第357話 2011/12/06

会報投稿のコツ(1)

 最近、ありがたいことに「古田史学会報」への投稿が増えています。ところが、大変申し訳ないのですが、不採用になる原稿も少なからずあります。せっかく会員の方が苦労して書かれた原稿を没にするのは心苦しいのですが、会報を楽しみにされている会員読者のことを考え ると、その期待に応えられる原稿を掲載することが編集部の責任ですし、スペース上の制約もあります。
 そこで、せっかく書かれた原稿がより採用されるよう、論文執筆のコツや、原稿採否基準などについて、少し説明したいと思います。
 まず、会報採否の流れについて、ご説明します。わたしに送られてきた原稿は、最初にわたしが次の四分類にわけます。

A採用 優れた論文で、次号に掲載すべき。
B採用 採用合格だが、次号でなくてもよい。
C採用 必ずしも採用基準に達してはいないが、会報スペースが空いていれば掲載可。
D不採用 採用すべきでない。

 このように分類した原稿を、編集担当の西村さんに転送し、わたしの判断が適切かチェックしてもらい、両者合意の上で最終決定します。もし、両者の見解がどうしても不一致の場合は、水野代表に判断を求めることになりますが、今まで一度もそのようなことはありませんでした。
 また、投稿原稿とは別に、編集部からの依頼原稿や転載依頼原稿もありますが、こちらは原則としてよほどのことが無い限り掲載します。そうしないと失礼ですから。
 こうした分類により、会報には常に優れた原稿が優先的に掲載されるようにし、読者に読みごたえのある会報を提供できるよう努めています。従って、投稿時期や採用時期の順に掲載されるわけでは必ずしもありません。
 なお、投稿の際にCDやフロッピーのみ送られてくる方もごくまれにありますが、必ず印刷したものも送ってください。
 上記のように、まずABCD分類しますから、自信のある方はABを狙っていただくとして、初心者の方はC採用を狙うことをおすすめします。Cだと後回しにされて、なかなか掲載されないのですが、実は次の点がクリアされていれば掲載される可能性がCでもぐっと上がります。

1.千字以内の短文。
2.新情報が含まれており、読者の興味を引ける。

 編集作業をしていて、少し空きスペースが発生する場合があります。そこにちょうど埋まる短文原稿があれば、C原稿でも掲載されるチャンスが生まれるのです。もちろんAB採用で短い論文であれば、更に優先的に掲載されます。(つづく)


第338話 2011/09/24

公卿補任のONライン

 9月17日の関西例会で、竹村さんが公卿補任(くぎょうぶにん)の調査結果を報告されました。公卿補任は近畿天皇家の歴代の職員録で従三位以上が記されています。著者や成立年代は不明とのことですが、そこに記された739年まで年別の登録人員数の集計をされました。
その結果、701年を境に人数が増えるという現象を発見されたのです。そしてその原因として、701年以降になって近畿天皇家は自らの官僚名を正確に記し、それ以前の九州王朝の官僚は記されていないため、人数が少ないのではないかとされました。正に王朝交代の画期点である701年(ONライン)が公卿補任にも反映している可能性を指摘されたのです。大変優れた調査結果と考察だと感心しました。
 竹村さんには、公卿補任だけでなく、例えば『二中歴』の「都督歴」なども調査されるよう要請しました。このところ、竹村さんの研究発表には刺激されることが多く、毎月の例会が楽しみです。
 奈良市の原さんからも久しぶりに発表があり、当麻寺の中将姫伝説などを教えていただきました。
当日の発表は次の通りでした。
 
〔古田史学の会・9月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 『俾弥呼』を読む(向日市・西村秀己)
2). 青木さんからの手紙(豊中市・木村賢司)
3). 「論争のすすめ」(会報105号)について(豊中市・大下隆司)
4). 公卿補任の大宰帥(木津川市・竹村順弘)
5). 大宰帥の家系図(木津川市・竹村順弘)
6). 当麻寺の曼陀羅由来・他(奈良市・原幸子)
7). 久留米・太宰府地名研究会講演会の報告(川西市・正木裕)
 
○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田氏近況・会務報告・住吉神社研究・他(奈良市・水野孝夫)

第328話 2011/07/30

「ウィキペディア」の史料批判(2)

 第326話では犯罪捜査を例にして「史料批判」について説明しましたが、ウィキペディアの「九州王朝説」の説明には次のようなことが記されています。

「古田武彦やその支持者が史料批判など歴史学の基礎手続きを尊重していない。日本古代史学界の研究成果に合わない。」

 わたしはこの一文を読んで思わず吹き出してしまいました。既に説明しましたように、古田史学・多元史観は、大和朝廷が自らの為に自らが造った『古事記』 『日本書紀』を史料批判抜きで採用して造られた大和朝廷一元史観に対して、史料批判ができていないと批判しているのであり、従ってそれら日本古代史学界の 結論(研究成果)とと合わないのは当たり前のことなのです。
 ウィキペディアの解説は巧みに「中立」を装いながら、「自分達の説と異なるから間違っている」と言っているのと同じで、こうした反論や批判は非学問的で す。もし古田説が通説の研究成果と異なるというのであれば、どちらが正しい史料批判を行っているのかを解説するべきでしょう。あるいは史料批判の方法論に ついて両論併記するべきです。
 恐らく、ウィキペディアの「九州王朝説」の編集者達には学問の方法や史料批判という言葉の意味が理解できていないようです。ウィキペディア編集の匿名 性・密室性・多数決性(賛成者と反対者の編集合戦)がこのような無責任編集を結果として許しているのですが、これは利用する側の「見る目」の問題でもある と思います。学問は多数決ではないのですから。
 たとえば、コペルニクスやガリレオの時代にウィキペディアのような「事典」があったとしたら、次のような表現になるのではないでしょうか。

「コペルニクスやガリレオの地動説は、天体観測という基礎手続きを尊重していない。ローマ法王庁公認の天文学界の研究成果である天動説と合わない。」

 これと同じくらい、ウィキペディアの「九州王朝説」の解説はいかがわしいものなのです。
他にもいかがわしい表現があります。「九州王朝の歴史を記した一次史料が存在しない。」「この直接的記録がないことが、九州王朝否定論の根拠の一つ」と う部分です。これを読むと、いかにも九州王朝の存在を示す証拠は無いかのように受け取られるのですが、これも事実無根の虚偽情報です。
 わたしはこれまでに九州年号の存在を示す金石文や木簡を提示し続けてきました。芦屋市三条九ノ坪遺跡出土の「元壬子年」木簡もその一つです。『日本書紀』孝徳紀の白雉三年壬子ではなく、『二中歴』などの多くの九州年号史料に記された白雉元年壬子の方が真実であったことを、この「元壬子年」木簡は示しており、いわば九州年号木簡そのものなのです。しかし、九州王朝説否定派はこの木簡について一切口を閉ざしたままで、ダンマリを決め込んでいます。もちろん、ウィキペデイアの「九州王朝説」の解説でも取り上げられていません。たいへん卑怯な編集・情報操作の一例と言えるでしょう。
 もっとも、ウィキペディアの史料性格上、将来的には違った表記・評価に変化するかもしれませんが、恐らくそれは古田史学が世に受け入れられた時のことと 思います。その日が訪れるまで、わたしたち古田学派は一切ぶれることなく、「日本古代史」村の一元史観と戦い続けなければなりません。こうした名誉ある運命と歴史的使命を持っているのです。(つづく)


第326話 2011/07/17

「ウィキペディア」の史料批判(1)

 7月2日、松山で講演してきました(古田史学の会・四国主催)。その冒頭で「ウィキペディア」の史料批判というテーマを少しお話ししたのです が、そこでの眼目は歴史研究における「史料批判」とは何かという問題でした。古田先生も『東京古田会NEWS』No.138(2011年5月)掲載の「学問論 第26回」で『「史料批判」の史料批判』というテーマで、ウィキペディアの「九州王朝説」について取り上げられていますが、そもそも史料批判とは何かということについて、古田史学以外の古代史ファンには意外と理解されていないようです。
 松山の講演会では、犯罪捜査を例にして史料批判の説明をしたのですが、歴史研究も犯罪捜査も過去に起きた事件について、証拠や証言に基づいて真実を明らかにするという点に於いて共通する性格を持った仕事(学問研究)だからです。
 たとえば、ある家(日本列島)に大和さん(大和朝廷)が住んでいますが、九州さん(九州王朝)がその家の主は元々は私で、大和さんに家を乗っ取られたと 警察に訴えたとしましょう。当然、警察は大和さんに事情聴取するでしょう。当然のことです。そこで大和さんは大昔からこの家の主人はわたしで、九州さんなんて見たことも聞いたこともないと証言(『古事記』『日本書紀』)します。
 次に警察はご近所に聞いて廻るでしょう。これも当然の捜査手法です。隣に住んでいる隋さんや唐さんに聞いたところ、この家のもともとの主人は九州さん で、大和さんは小部屋を間借りしていたが、いつのまにか九州さんを追い出していたと唐さんは証言(『旧唐書』倭国伝・日本国伝)し、隋さんはここに住んでいた人の名前はタリシホコさんで、お互い手紙のやりとりもしていたと証言(『隋書』イ妥国伝)しました。大和さんの証言では、大和家にはタリシホコなどという名前の人物はいません。
 さて、皆さんならこの事件について誰の証言を重視しますか。信用しますか。当然、利害関係の無い第三者である隣人の目撃証言や手紙を重要証拠として採用するでしょう。まかり間違っても、訴えられている被疑者の大和さんの証言(『古事記』『日本書紀』)を無批判に信用されることはなく、まずは正しいかどうか疑ってかかられると思います。この「誰の証言・証拠が信用できるのか、より真実を証言しているのか」を判断することが、歴史研究における史料批判なのです。ここを間違えると、犯人を取り逃がしたり冤罪事件が発生しますから、警察や裁判所は慎重に科学的学問的に捜査・審議するのです。
 この事件で言えば、大和朝廷一元史観の日本古代史学界は、大和さんの証言のみを無批判に採用し、隣家の目撃証言や証拠を不採用にしているわけですが、より客観的で利害関係のない隣国史料を重視するという古田先生の史料批判の方が優れており、学問的であることは決定的なのです。


第323話 2011/06/11

空海の遺言状

 第321話「九州の語源」において、九州王朝滅亡後の天平3年(731)時点でも、九州王朝の故地である九州島は、近畿天皇家にとって 「直轄支配領域」ではなく、大宰府による「間接統治」であったと述べましたが、実はこうした認識をわたしが持ったのは今から20年も前のことでした。
 1991年、わたしは「空海は九州王朝を知っていた–多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ」(『市民の古代』第13集所収、新泉社刊)という論文を発表しました。35歳の時でした。『御遺告』とよばれる空海の遺言状には、空海の唐からの帰国年について、「大同二年、我が本国に帰る」と記されており、大同二年(807)のことと空海自らが述べているのですが、空海がその前年の大同元年(806)に九州 大宰府へ帰ってきたことは、これも空海自身の別の文書(『新請来経目録』、最澄による同時代写本が東寺に現存)から判明しています。従って、この帰国年に ついての一年の差が平安時代から問題視されてきました。
 たとえば、「大同二年」は「大同元年」の「元」の下の二点が脱落したのだろうとか、筑紫に帰ったのが「大同元年」で、京都に戻ったのが「大同二年」のことだろうとか、さまざまな解釈がなされてきました。しかし、これらに対しても、『御遺告』の全写本が「大同二年」と記されていることや、京都のことを「我が本国」とは言わないとの反論も出されてきました。
 結局この一年の差の問題は未解決のままで、挙げ句は『御遺告』偽作説が横行したほどです。
 そこで、わたしは九州王朝説の立場から、空海にとって九州は 「我が本国」とは認識されていなかった。すなわち九州島が九州王朝の故地であることを空海は知っており、空海の時代でも九州島は「本国」扱いされていなかったとの認識に達したのです。
 今回、20年前の論文を読み返してみて、若い頃の稚拙な論文ではあるものの、その論証の根幹は今でも正しいと、感慨に耽りながら確認しました。そして、 空海の超難解な漢文に苦しみながら、京都府立総合資料館で空海全集を読破したことを思い出しました。残念ながら、今ではとても体力的に困難な、若き日の研究体験の想い出です。

第321話 2011/06/05

九州の語源

九州新幹線により一つに結ばれた九州ですが、九州新幹線のシンボルカラーは九州7県を象徴した7色のレインボーカラーでした。厳密に言うと、九州新幹線は長崎県・大分県・宮崎県は走っていないので、7色で表現するのはビミョーかもしれません。
ご存じのように、その昔、九州は筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・薩摩・大隅の9国からなっており、そのため「九州」と呼ばれるようになった とするのが通説でした。しかし、中国では天子の直轄支配地を9に分けて統治する伝統があり、その影響により「九州」と言えば単なる地名ではなく、天子の直 轄支配領域を指す「政治地名用語」となりました。例えば、『旧唐書』にも「九州」という表記が頻出します。その上で、古田先生の九州王朝説によれば、古代 九州島は天子が直轄支配する政治的地域であり、倭国(九州王朝)が中国に倣って命名したものとされました。
その証拠に、意図的に9国に分けられた痕跡として、筑紫・肥・豊の3国のみが前・後に分割され、ちょうど9国となっています。薩摩を薩前・薩後、日向を 日前・日後などとは分割しなかったのです。恐らく倭国の天子にとって、直轄中の直轄領域であった筑紫・肥・豊を前後に分割したのではないでしょうか。
なお、9国への分国の時期が日出ずる処の天子・多利思北孤の時代(6世紀末)であったことを、わたしは『九州王朝の論理』(古田先生・福永晋三さんとの 共著、明石書店刊。2000年)で論証しましたので、ご参照いただければ幸いです。
こうした認識に立つと、九州王朝にとっての直轄支配領域は九州島であり、それ以外の本州や四国は支配領域ではあっても、「直轄地」ではなかったことにな ります。恐らくそれらは地方豪族により統治されており、その豪族達の上に九州王朝の天子が列島の代表者として間接統治したのではないでしょうか。そし て7世紀中頃になると、全国に評制を実施し、律令による中央集権的統治を進めたものと思われます。
701年以後になると、大和朝廷が列島の新たな代表者となりますから、大和朝廷にとって自らの直轄支配領域を「九州」と呼ぶ「大義名分」が発生します。 その史料的痕跡は『日本書紀』にはありま せんが、『続日本紀』には1回だけ見えます。天平3年(731)12月21日の聖武天皇の詔中に「朕、九州に君臨す。」とあり、この時になってようやく大 和朝廷は「九州」という政治的地名を使用したようです。九州王朝を滅ぼして間もない『日本書紀』成立時(720)では、九州王朝による九州島の九州という 地名が「現存」しており、『日本書紀』での使用はためらったのではないでしょうか。
聖武天皇による「九州」という表現ですが、ここには微妙な検討課題があります。それは、聖武天皇にとっての「九州」に、九州島は含まれていたのかという 問題です。すなわち、九州王朝の故地である九州島を聖武天皇は自らの直轄支配領域と認識していたのかというテーマです。
わたしの現時点での考えとしては、天平3年の時点では九州島は大和朝廷の直轄支配領域とはされておらず、聖武天皇の詔勅中の「九州」には九州島は含まれ ていなかったのではないかと考えています。その根拠の一つは、養老律令によれば九州島は大宰府が統括しており、大和朝廷の直轄支配というよりも、大宰府に よる間接統治だったからです。このテーマは九州王朝の滅亡過程とも密接に関 係しており、今後の研究テーマでもあります。引き続き、検討したいと思います。


第307話 2011/03/05

中国語の音韻

 昨日、中国から帰国しました。今回の出張は上海を拠点に、江蘇省張家港と宿遷、河北省石家荘、そして山東省斉南などを訪問。中国国内を車と飛行機で何時間もかけて移動するというハードな出張でした。
 中国に出張するようになって10年以上になりますが、その経済発展のスピードには目をみはるものがあります。行くたびに高速道路網は伸びていますし、何よりも食事がおいしくなり、女性は益々きれいになっています。冗談ではなく。
 同行していただいたのは有名な商社Mの王さんと金さん(女性)で、上海出身の王さんは北京語と上海語と日本語(やや関西弁)、朝鮮族出身の金さんは北京語と韓国語と日本語が堪能なエリート商社員です。そのため、商談では様々な言語が飛び交っていました。それにしても中国人の語学力にはいつも驚かされます。 地方都市のホテルマン(ただし高級ホテル)でも、英語と日本語の両方を話せる中国人は少なくありません。
 仕事の合間をぬって、王さんに北京語と上海語の違い、河北省語と北京語の差などについてしつこく質問し、いろいろと教えてもらいました。というのも、現在、『古田史学会報』上で内倉武久さん(本会会員。『太宰府は日本の首都だった』という好著の著者)と、倭人伝の地名などの音韻について論争中ですので、 現代中国語音韻の地域差についても知っておきたかったからです。
 そんなわけで、古代中国語音韻の先行研究を調べているのですが、大下さん(本会全国世話人・総務)から、松中祐二さん(本会会員)の「倭人伝の漢字音 −− 卑弥呼=姫王の証明」(『越境としての古代7』所収)が優れていると紹介していただきました。確かに、魏晋朝音韻研究の先行説など、わたしより深 く広く調査紹介されている好論文でした。松中さんともお会いして、御教示を賜りたいと願っています。
 それにしても、しばらくは中華料理は食べたくない、日本語以外の言葉も聞きたくないというほどの、ハードな出張ではありました。