史料批判一覧

第588話 2013/08/31

阿部周一さんからの「鎮西」試案

 第587話「観世音寺と観音寺」に対して、札幌市の阿部周一さん(古田史学の会・会員)より興味深いメールが寄せられましたので、ご紹介します。
 太宰府の観世音寺の創建年を記した史料『日本帝皇年代記』の「鎮西建立観音寺」の読みについて、わたしは「鎮西」を九州という地名表記と見なしたのです が、阿部さんは単なる地名表記ではなく、観世音寺(観音寺)の創建主体、すなわち九州太宰府(九州王朝)のことと理解すべきではないかと提起されたので す。
 その理由として、「鎮西」が「九州の」といった地域特定のための「形容詞的」用法であるなら、「鎮西建立観音寺」ではなく、「建立鎮西観音寺」というように「観音寺」の直前になければならないというものでした。しかし、「鎮西建立観音寺」とあるので、この「鎮西」は『日本帝皇年代記』に見える他の寺院建立記事と同様に読まれるべきで、そうであれば「鎮西」が観音寺を建立したと解さざるを得ないという御指摘をされたのです。
 たしかに「文法的」には阿部さんの言われることはもっともです。そのため、わたしは「検討させていたたきます」とメールで返答しました。学問的検証方法としては、当該史料『日本帝皇年代記』の史料批判、すなわち執筆者の「和風漢文」の「文法」を調べたり、史料中の同じような用例や「鎮西」の抽出と比較解析などが必要と思われます。ただちに阿部試案の当否は判断できませんが、とても興味深く鋭い御指摘ですので、しっかりと検討させていただきたいと思います。
 阿部さんのような優れた研究者がわたしの洛中洛外日記に対して、このような試案を寄せていただくことは有り難いことです。
 なお、太宰府の観世音寺を「観音寺」と表記する史料を新たに見いだしましたのまで、ご紹介します。それは『新抄格勅符抄』という平安時代成立の文書で、 そこに収録されている大同元年(806)の太政官牒に「太宰観音寺 二百戸 丙戌年施 筑前国百戸 筑後国百戸」と記されているようです。ちなみに、この「丙戌年」は朱鳥元年(686)のことと見なされているようですが(『若宮町誌』上巻、2005年)、このことが正しければ、朱鳥元年には観世音寺が太宰府に存在していたことの証拠となります。原本未見ですので、引き続き調査します。


第587話 2013/08/25

観世音寺と観音寺

 太宰府の観世音寺の創建年について、『二中歴』「年代歴」記載の九州年号「白鳳」の細注(観世音寺東院造)に見える観世音寺創建記事から、白鳳年間(661~683)であることはわかっていましたが、その後、九州年号史料の『勝山記』(鎮西観音寺造)や『日本帝皇年代記』(鎮西建立観音寺)に白鳳10年(670)の創建とする記事のあることが発見され、観世音寺創建が白鳳10年(670)であることが判明しました。
 考古学的にも、創建瓦が7世紀後半頃の「老司1式」であることにも対応しており、考古学編年とも一致しています。こうした文献と考古学の一致から、観世音寺創建白鳳10年(670)説は最有力説だと思うのですが、一つだけ気になっていたことがありました。『二中歴』では「観世音寺」と正式名称が記載され ているのですが、『勝山記』や『日本帝皇年代記』では「観音寺」となっていることです。
 ところが、この疑問は思ったよりも簡単に解決してしまいました。観世音寺は古代から「観音寺」とも称されていたことがわかったからです。それは有名な次の史料です。

 「沙彌満誓、綿を詠ふ歌一首 造筑紫観音寺別當、俗姓笠朝臣麿といふ
 しらぬひ筑紫の綿は身につけていまだは著ねど暖かに見ゆ」『万葉集』巻三 336番

 『万葉集』の有名な歌ですが、その作者の沙彌満誓を「造筑紫観音寺別當」と紹介しているのです。この記事から、『万葉集』成立期には観世音寺を「観音寺」とも表記していたことがわかるのです。
 更にもう一つ見つけました。これも有名な菅原道真の漢詩「不出門」の一節です。

 「都府楼わずかに見る瓦色
  観音寺は只鐘の声を聴くのみ」

 ここでも道真は観世音寺を「観音寺」と表記しています。ただ七言律詩とするために、三文字の「観音寺」の方を採用したのかもしれません。いずれにしても「観音寺」と詠えば、聴く人にも「太宰府の観世音寺」のことと理解されることが前提(共通認識)となっていたから「観音寺」と作詩したと考えられま す。
 こうして『勝山記』『日本帝皇年代記』の「鎮西観音寺」を太宰府の観世音寺のこととする理解は妥当なものであることが、よりはっきりしました。なお、「鎮西」とありますから、この部分の成立は近畿天皇家の時代となります。恐らく、「観音寺」だけではどこのお寺か判断できないので「鎮西」(九州)という 表記を付け加えたのでしょう。この点、『二中歴』「年代歴」には「観世音寺」だけで、地名表記はありません。これは「年代歴」細注部分が北部九州で書かれ たため、地名をつける必要もなく、「観世音寺」と記すだけで太宰府の観世音寺のことだと、書いた人も読む人もそのように認識するということが前提の表記で す。
 同じ『二中歴』「年代歴」の細注でも、「難波天王寺」(倭京二年、619年)のように「難波」という地名表記があるケースとは対照的です。すなわち、北部九州の読者には「難波」と地名表記をつけなければ、どこの天王寺か特定できなかったからと思われます。したがって、この「難波」は北部九州ではなく、摂津難波の「難波」と理解することが最も穏当な理解となるのです。
 観世音寺を「観音寺」と表記するものは他の史料にもありそうですので、引き続き探索したいと思います。


第585話 2013/08/22

「九州年号」の証明

 第584話「天智天皇の年号『中元』?」に 対して、水野さん(古田史学の会・代表)より、ちょっと意表をつかれた御指摘が寄せられました。それは、「白鳳」など『二中歴』などの諸史料に見える一連の古代年号が九州王朝(倭国)の年号であるという証明が必要ではないか、という御指摘です。今まで、それらの年号が九州年号であることは自明のことと考え てきましたので、水野さんの御指摘を受けて、改めて「九州年号」の証明について考えてみることにしました。
 とりあえず、水野さんには『襲國偽潜考』に「善記」から「大長」までの諸年号は『九州年号』という古写本より引用したと、著者の鶴峯戊申が記していますので、この「九州年号」という名称は、6~7世紀において「九州」地方で公布使用されていた「年号」ということを意味しているので、「九州年号」という名称こそ、九州王朝の年号であることを指し示していると返答しました。しかしながら、『襲國偽潜考』自体は江戸時代に成立した史料ですので、もっと古代まで遡った史料根拠に基づいた証明(論証)を考えてみたいと思います。(つづく)


第581話 2013/08/16

古田先生自伝刊行記念講演会のご案内済み

 この二ヶ月ほど出張が連日のように続き、かなりバテています。円安による輸入原材料価格高騰の影響で、価格改定交渉のため全国を飛び回ってきまし た。お盆明けには鹿児島・宮崎出張や上海出張も予定されており、体力回復に努めています。早く本来業務のマーケティングや開発に戻りたいものです。
 本日、ミネルヴァ書房の神内冬人さんが拙宅までみえられ、古田先生の研究自伝『真実に悔いなし』刊行記念講演会の案内チラシをいただきました。明日の「古田史学の会」関西例会で配布します。内容は次のとおりです。是非、お越しください。

「真実の歴史を求めて -私の歩んで来た道、歩み行く道-」

 講師 古田武彦

 講演内容
 ○これまでの学究生活を振り返る
 ○最新の研究成果、発見について
 ○『真実に悔いなし』(シリーズ「自伝」my life my world)「古田武彦・歴史への探究」刊行を機に

 ※講演終了後、質疑応答、書籍販売(サイン本も有)を予定しています。

 とき 9月21日(土)13時30分~16時

 ところ 京都教育文化センター
     京都市左京区聖護院川原町4-13
        電話075-771-4221

 定員 350名(先着順に座席をご用意しております)

 参加費 1000円(当日受付でお支払い下さい)

 主催 ミネルヴァ書房

 

(お問い合わせ・お申し込み)

 電話・FAX・はがき・Eメールでお申し込み下さい。先着順にて受け付けますので、定員になり次第、締め切りとさせて頂きます。
 氏名・住所・電話番号・参加人数を連絡して下さい。
 〒607-8494 京都市山科区日ノ岡堤谷町1番地
 株式会社ミネルヴァ書房内 古田武彦講演会「真実の歴史を求めて」事務局:石原

 電話 075-581-0296
 FAX 075-581-0589
 E-mail eigyo@minervashobo.co.jp


第565話 2013/06/21

第565話 2013/06/21

「i-siteなんば」に古田先生をご案内します済み

 6月16日に「i-siteなんば」で「古田史学の会」会員総会を開催しました。総会に先立って、竹村順弘さんと正木裕さんによる記念講演が行わ れました。両氏ともプロジェクターでスクリーンに映し出された画像を駆使した、わかりやくインパクトのある講演でした。古代史の講演もIT機器を使用する 時代となったものです。講演テーマは次の通りでした。

○竹村順弘さん 古田武彦著作集で綴る史蹟百選・九州編
○正木 裕さん 周王朝から邪馬壱国、そして現代へ・・倭人伝の官職名と青銅器・・

 午前中は古田史学の会・全国世話人会を開催しました。北海道からは今井俊圀さん、四国からは合田洋一さんに遠路はるぱるお越しいただきました。 「古田史学の会・東海」は当日同会の総会が重なったため、今回は残念ながら欠席されました。昼食は「i-siteなんば」3階ライブラリーにある「古田武 彦書籍コーナー」の前でとりました。このコーナーには古田先生の著書がほとんど集蔵されており、今後の古田史学研究の拠点として有意義に活用されることで しょう。
 正木裕さんの発案で、古田先生を「i-siteなんば」にお連れして、「古田武彦書籍コーナー」をご案内することとなりました。日時は6月29日(土) の午後で、2時頃からは古田先生を囲んで、著書の思い出などを語っていただけることになりました。ご都合のつかれる方は、是非ご参加ください。


第564話 2013/06/12

『古田史学会報』116号の紹介

 今日は金沢駅前のホテルに宿泊しています。明日は名古屋に向かいます。仕事柄、出張が多いので、出張先のご当地の歴史や旧跡に触れたいのですが、なかなかそうした余裕はありません。
 『古田史学会報』116号が発行されました。今回も古田先生から原稿をいただきました。古谷さんからは中国史書に見える「短里」の発見報告がなされました。その後も周代の史書からの「短里」発見の投稿が続いています。順次、掲載したいと思います。掲載稿は次の通りです。

〔『古田史学会報』116号の内容〕
○「古田史学」の理論的考察  古田武彦
「古田史学」の論理的考察を改訂。「学問論」の理論的考察(東京古田会NEWS No.150 May2013)と『言素論』の理論的考察(TAGEN No.115 May 2013 多元的古代研究会)の二稿とワン・セットです。(2013.6.26訂正)

○「消息往来」の伝承  京都市 岡下英男
○白雉改元の宮殿 — 「賀正礼」の史料批判 京都市 古賀達也
○「放生会」は九州王朝の儀式 — それは利歌彌多弗利の創設だった 川西市 正木裕
○「元興寺」と「法隆寺」(2)「勅願寺」としての性格の同一性と「斑鳩寺」の存在と関係  札幌市 阿部周一
○『文選』王仲宜の従軍詩 『三国志』蜀志における里数値について  枚方市 古谷弘美
○会報原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○古田史学の会・会員総会と記念講演会の案内
○編集後記


第558話 2013/05/19

古代ギリシアの「従軍慰安婦」

 昨日の関西例会で、わたしは古代ギリシアの「従軍慰安婦」というテーマでクセノポン著『アナバシス』にギリシア人傭兵部隊に娼婦が多数従軍していたという記事があることを紹介しました。
 ソクラテスの弟子であるクセノポンが著した「上り」という意味の『アナバシス』は、紀元前401年にペルシアの敵中に取り残されたギリシア人傭兵1万数 千人の6000キロに及ぶ脱出の記録です。クセノポンの見事な采配によりギリシア人傭兵は故国に帰還できたのですが、その記録中に娼婦のことが記されてい ます。アルメニア山中の渡河作戦の途中に次の記事が突然現れます。

 「占者たちが河(神)に生贄を供えていると、敵は矢を射かけ、石を投じてきたが、まだこちらには届かなかった。生贄が吉 兆を示すと、全軍の将士が戦いの歌を高らかに唱して鬨の声をあげ、それに合わせて女たちもみな叫んだ−−隊中には多数の娼婦がいたのである。」岩波文庫 『アナバシス』(169頁)

 この娼婦たちはギリシア本国から連れてきたのか、遠征の途中に「合流」したのかは不明ですが、将士の勝ち鬨に唱和して叫んでいることから、前者ではないかと推定しています。
 昨今、物議を醸している橋下大阪市長による「慰安婦」発言もあったことから、いわゆる「従軍慰安婦」が紀元前400年頃の記録に現れている例として紹介 しました。この問題は他国への侵略軍・駐留軍が避けがたく持つ「性犯罪」「性問題」が人類史的にも根が深い問題であり、ある意味では橋下市長の発言を契機 に、より深く考える時ではないかと思います。「建前」だけの議論や、単なるバッシングでは沖縄の米兵による性犯罪をはじめ、世界各地の侵略軍・駐留軍により恐らくは引き起こされているであろう各種の問題を解決できないことは明白です。歴史学や思想史学が机上の学問に終わらないためにも、真剣に考えるべきテーマではないでしょうか。
 5月例会の発表は次の通りでした。なお、6月例会は「古田史学の会」会員総会・記念講演会などのため中止となりました。

 

〔5月度関西例会の内容〕
1). シキの考察−−西村説への尾鰭(大阪市・西井健一郎)
2). 古代に忌み名(諱)の習俗はあったのか(八尾市・服部静尚)
3). 歩と尺の話(八尾市・服部静尚)
4). 古田史学会インターネットホームページ運営報告(東大阪市・横田幸男)
5). 古代ギリシアの「従軍慰安婦」(京都市・古賀達也)
6). 和気(京都市・岡下秀男)
7). 「室見川の銘板」の解釈について(川西市・正木裕)
8). 「実地踏査」であることを踏まえた『倭人伝』の距離について(川西市・正木裕)
8). 味経宮のこと(八尾市・服部静尚)
9). 史蹟百選・九州篇(木津川市・竹村順弘)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・会務報告・会誌16集編集遅れ・新東方史学会寄付金会計報告の件・行基について・その他 


第554話 2013/05/02

「五十戸」から「里」へ(3)

 『日本書紀』白雉三年(652)四月是月条の造籍記事などを根拠に、わたしは「さと」の漢字表記が「五十戸」とされたの が、同年(九州年号の白雉元年)ではないかと考えました。 この問題に関連した論稿が阿部周一さん(古田史学の会々員・札幌市)より発表されています。 『「八十戸制」と「五十戸制」について』(『古田史学会報』113号。2012年12月)です。阿部さんは一村を「五十戸」とする「五十戸制」よりも前 に、一村「八十戸」とする「八十戸制」が存在し、七世紀初頭に「八十戸制」から「五十戸制」に九州王朝により改められたとされました。『隋書』国伝の 次の記事を史料根拠とする興味深い仮説です。

「八十戸置一伊尼翼、如今里長也。」

 おそらくは九州王朝の天子、多利思北弧の時代に一村の規模を八十戸から五十戸へと再編され、その「五十戸」という規模を 表す漢字が、後の「さと」の漢字表記とされる原因になったと考察されています。この「五十戸(さと)」が683年頃に「里(さと)」へと表記が変更された ことは既に紹介したとおりです。この阿部説が正しければ、「五十戸」の訓みが「さと」ですから、「八十戸」の訓みは「むら」だったのかもしれません。木簡 などで「八十戸」表記が見つかれば、より有力な仮説となることでしょう。これからの研究の進展が楽しみです。


第549話 2013/04/11

白雉改元の宮殿(9)             

 『養老律令』の「儀制令」には「賀正礼」について次のような条文があります。
 「凡そ元日には、国司皆僚属郡司等を率いて、庁に向かいて朝拝せよ。訖(おわ)りなば長官は賀を受けよ。」
 都から遠く離れた国司たちに、元日は都の大極殿(庁)に向かって拝礼し、その後に部下からの「賀」を受けよ、という規定です。おそらくは九州王朝律令も同様の規定があったと想像できますが、この規定を孝徳や天武に当てはめると、九州王朝の副都前期難波宮のご近所(難波長柄豊碕宮)に住んでいた孝徳は、元日に前期難波宮で行われる「賀正礼」に出席していたでしょうから、『日本書紀』孝徳紀には元日の「賀正礼」記事が記されることとなります。
 たとえば、孝徳紀白雉元年条(650)には次のように記されています。
「白雉元年の春正月の辛丑の朔に、車駕、味経宮に幸して、賀正礼を観る。(中略)是の日に、車駕宮に還りたまふ。」
 ここでは「賀正礼を受ける」のではなく、味経宮に行き「賀正礼を観る」とあります。すなわち、味経宮(前期難波宮か)で孝徳は「賀正礼」を受ける立場ではなく、「賀正礼」に参加して、それを「観る」立場だったのです。孝徳紀のこの記事は、孝徳がナンバーワンではなかったことを正直に表現していたのです。 ちなみに孝徳紀の他の「賀正礼」記事も、「賀正礼を受ける」という表現はなく、「賀正す」というような、何かよくわからない表現です。これも、「賀正礼を受ける」のは九州王朝の天子だったからにほかなりません。
 天武紀になると、前期難波宮から離れた飛鳥に天武らは住んでおり、九州王朝の宮殿(前期難波宮または太宰府)での天子への「賀正礼」は欠席し、飛鳥から 九州王朝の宮殿に向かって拝礼していたことでしょう。そして、天武紀では「賀正礼」は翌二日の行事となる例が多くなっていることから、元日は九州王朝の都へ向かって拝礼し、翌日の二日に自らの部下からの「賀正礼」を受けていたと推察されます。おそらくは九州王朝律令にそのような規定があったのではないでしょうか。
 そして、701年以降の『続日本紀』の時代になって、文字通り誰はばかることなく元日に「賀正礼」を受ける身分(列島内ナンバーワン)になったのです。
 以上、「白雉改元の宮殿」の考察と「賀正礼」の史料批判により、七世紀末王朝交代期の復元が少しですができたように思われるのです。(完)

2014.2.23 「職員令」は「儀制令」の間違いでした。訂正済み


第545話 2013/03/29

藤原宮「長谷田土壇」説
       
       
         
            

 今日は八重洲のブリヂストン美術館内のお店で昼食をとっています。フラスコ画が展示してあり、おちついた雰囲気のお店なのでとても気に入っています。午後、もう一仕事してから京都に帰ります。

            

 藤原宮跡が発掘された大宮土壇ですが、古くは江戸時代の学者、賀茂真淵が藤原宮「大宮土壇」説を唱えました。真淵のこの説は弟子の本居宣長や孫弟子の上田秋成に受け継がれ、明治時代には飯田武郷に引き継がれ定説となりました。
             
 こうした流れの中にあって、大正時代に入ると喜田貞吉による、藤原宮「長谷田土壇」説が登場します。喜田貞吉は、法隆寺再建・非再建論争で著名な学者で
すが、『日本書紀』の記述(法隆寺全焼)を根拠に再建説を主張し、後に若草伽藍の発掘により、その正しさが証明されたことは研究史上有名です。
             
 藤原宮を「長谷田土壇」とした喜田貞吉説の主たる根拠は、大宮土壇を藤原宮とした場合、その京域(条坊都市)の左京のかなりの部分が香久山丘陵にかかる
という点でした。ちなみに、この指摘は現在でも「有効」な疑問です。現在の定説に基づき復元された「藤原京」は、その南東部分が香久山丘陵にかかり、いび
つな京域となっています。ですから、喜田貞吉が主張したように、大宮土壇より北西に位置する長谷田土壇を藤原宮(南北の中心線)とした方が、京域がきれい
な長方形となり、すっきりとした条坊都市になるのです。
            
 こうして「長谷田土壇」説を掲げて喜田貞吉は「大宮土壇」説の学者と激しい論争を繰り広げます。しかし、この論争は1934年(昭和九年)から続けられ
た大宮土壇の発掘調査により、「大宮土壇」説が裏付けられ、決着を見ました。そして、現在の定説が確定したのです。しかしそれでも、大宮土壇が中心点では
条坊都市がいびつな形状となるという喜田貞吉の指摘自体は「有効」だと、わたしには思われるのです。(つづく)


第544話 2013/03/28

二つの藤原宮
       
       
         
            

 昨晩から東京に来ています。京都御所の桜はようやく開花し始めましたが、東京の桜はもう散り始めており、日本列島内の花
模様の違いを楽しんでいます。今、赤坂のカフェで昼食を兼ねた遅い朝食をとりながら、洛中洛外日記を執筆中ですが、このところ前期難波宮や賀正礼について
の連載が続いていますので、今回は前期難波宮からちょっと離れて、藤原宮と藤原京について書くことにします。
             
 三月の関西例会でも発表したのですが、藤原宮には考古学的に大きな疑問点が残されています。それは、あの大規模な朝堂院様式を持つ藤原宮遺構の下層か
ら、藤原京の条坊道路やその側溝が出土していることです。すなわち、藤原宮は藤原京造営にあたり計画的に造られた条坊道路・側溝を埋め立てて、その上に造
られているのです。
             
 この考古学的事実は王都王宮の造営としては何ともちぐはぐで不自然なことです。「都」を造営するにあたっては当然のこととして、まず最初に王宮の位置を
決めるのが「常識」というものでしょう。そしてその場所(宮殿内)には条坊道路や側溝は不要ですから、最初から造らないはずです。ところが、現・藤原宮は
そうではなかったのです。この考古学的事実からうかがえることは、条坊都市藤原京の造営当初は、現・藤原宮(大宮土壇)とは別の場所に本来の王宮が創建さ
れていたのではないかという可能性です。
               実は藤原宮の候補地として、大宮土壇とは別にその北西にある長谷田土壇も有力候補とされ、戦前から論争が続けられてきました。(つづく)

            

 さて、次の仕事(化成品工業協会の会合)までちょっと時間がありますので、これから赤坂サカスと日枝神社でプチ花見をしてきます。


第543話 2013/03/26

白雉改元の宮殿(8)

 『日本書紀』に記された「賀正礼」記事に九州王朝の「賀正礼」の痕跡が残されていたのですが、『続日本紀』になるとその様相は一変します。
 たとえば『続日本紀』でも、年によって「賀正礼」記事が記されていたり無かったりはするのですが、基本的に「賀正礼」記事は正月朔(一日)に現れます。 もちろん、持統天皇崩御により取りやめられたり、雨天などにより順延(二日や三日に開催)されるケースなども散見されますが、その場合でも「元日」に行わ なかったことが記され、次いで二日や三日に執り行った記事が記されるのです。この点、唐突に二日に行った記事が出現する『日本書紀』のありようとは異なっ ています。
 更に『日本書紀』孝徳紀と異なる点として、「賀正礼」が行われる場所が「大極殿」「大安殿」などと明記され、その日の内に天皇が「別の宮殿に帰る」などという記事はありません。
 このように、『日本書紀』と『続日本紀』に見える「賀正礼」には明らかな違いがあるのです。これもONライン(701)を境とした、九州王朝から大和朝廷への王朝交代の痕跡と考えざるを得ません。(つづく)