史料批判一覧

第656話 2014/02/02

学問に対する恐怖

 最近、中部大学教授の武田邦彦さんがご自身のブログで「学問に対する恐怖」という表現を使用して、地球温暖化説が観測事実に基づいていない、あるいは故意に温暖化説に都合の悪いデータ(この15年間、地球の平均気温は上昇していない、等)を無視しているとして、不勉強な気象予報士や御用学者の「解説」を批判されていました。
 良心的な科学者であれば、地球温暖化説に不利な観測データを無視できないはず。温暖化説など怖くて発表できないはずと述べられているのですが、武田さんはこのことを「学問に対する恐怖」という表現で表しておられました。これは「真実に対する恐怖」と言い換えてもよいかもしれません。
 この「学問に対する恐怖」という表現は、わたしにもよく理解できます。新しい発見に基づいて新説を発表するとき、本当に正しい結論だろうか、論証に欠陥や勘違いはないだろうか、史料調査は十分だろうか、既に同様の先行説があるのではないか、などと不安にかられながら発表した経験が何度もあったからです。 中でも前期難波宮九州王朝副都説の研究の時は、かなり悩みました。『日本書紀』孝徳紀に記されたとおりの宮殿が出土したのですから、その前期難波宮を遠く 離れた九州王朝の副都とする新説を発表することが、いかに「学問的恐怖」であったかはご理解いただけるのではないでしょうか。
 当初、怖くてたまらなかった前期難波宮九州王朝副都説でしたが、その後の論証や史料根拠の増加により、今では確信を持つに至っています。何よりも、未だに「なるほど」と思えるような有効な反論が提示されていないことからも、今では有力な仮説と自信を深めています。
 前期難波宮九州王朝副都説への批判や反論は歓迎しますが、その場合は次の2点について明確な回答を求めたいと思います。

 1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
 2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。

 この二つの質問に答えていただきたいと思います。近畿天皇家一元史観の論者であれば、答えは簡単です。すなわち、孝徳天皇が評制により全国支配した宮殿である、と答えられるのです。しかし、九州王朝説論者はどのように答えられるのでしょうか。わたしの知るところでは、上記二つの質問に明確に答えら れた九州王朝説論者を知りません。
 7世紀中頃としては最大規模の宮殿である前期難波宮は、後の藤原宮や平城宮の規模と遜色ありません。藤原宮や平城宮が「全国」支配のための規模と様式を持った近畿天皇家の宮殿であるなら、それとほぼ同規模で同じ朝堂院様式の前期難波宮も、同様に「全国」支配のための宮殿と考えるべきというのが、避けられない考古学的事実なのです。
 この考古学的事実に九州王朝説の立場から答えられる仮説が、わたしの前期難波宮九州王朝副都説なのです。自説に不利な考古学的事実から逃げることなく、 学問への恐怖に打ち震えながらも、学問的良心に従って、反論していただければ幸いです。真摯な論争は学問を発展させますから。


第639話 2013/12/29

「学問は実証よりも論証を重んじる」(9)

 年の瀬を迎え、京都も本格的な冬となりました。今年最後の「洛中洛外日記」となりますが、村岡先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」について最後にまとめてみたいと思います。
 わたしの九州年号研究の体験などを紹介しながら、学問における「実証」と「論証」の関係性について縷々説明してきましたが、うまく説明できているのだろうか、正確に伝わっているのだろうかと不安も感じています。古田史学やフィロロギーの本質に関わる大切なテーマだけに心配しています。何よりも、わたし自 身の理解がまだまだ浅いのではないかという不安もあり、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)や不二井伸平さん(古田史学の会・総務)にも相談してきたところです。
 繰り返しになりますが、「論証」を重んじるということは、決して「実証」を軽視してもよいという意味ではありません。歴史学ですから史料根拠の提示は不 可欠ですし、より確かな「実証」提示のために「史料批判」が重要となります。また、「論証」するということは、好き勝手な思いつきや解釈を「仮説」として提示することとも違います。新たな思いつきを「仮説」として提示するための学問的手続きとして、安定して成立している「先行説」や、考古学などの関連諸学 の「成果」との整合性を検証しなければなりません。結論が合理的で論理的でなければなりません。学問は「理屈」が通っていなければなりません。もちろん、 先行説や関連諸学の成果をも否定し、それらを乗り越えるような画期的な仮説もあり得ますが、その場合は、そのことを他者を納得させるような必要にして十分な説明や証明が要求されます。
 おそらく、「学問は実証よりも論証を重んじる」という言葉の意味をより深く理解するために、これからも研究を続け、研鑽を深め続ける人生だと思います。多くの皆さんと一緒にそうした研究生活を続けられれば幸いです。それでは皆さん、よいお年をお迎えください。新年が古田史学や「古田史学の会」、そして真 実を愛する皆さんにとって良き一年でありますように。


第638話 2013/12/25

齊藤政利さんからのクリスマスプレゼント

 以前、内閣文庫本『伊予三島縁起』の写真を送っていただいた齊藤政利さん (「古田史学の会」会員、多摩市)から素敵なクリスマスプレゼントが届きました。『通典』と「賀正礼」研究論文のコピーです。しかも、「洛中洛外日記」第 631話で「閲覧したい」と記していた宮内庁書陵部本『通典』の影印本(古典研究会編)のコピーでした。本当にありがとうございます。
 同『通典』コピーは「賀正礼」(「元正冬至受朝賀」巻七十礼三十)を含む部分で、漢・後漢・魏・晋・東晋・宋・斉・梁・陳・北斉・隋・大唐の各王朝の 「元正冬至受朝賀」の様子が記されています。これら「賀正礼」記事が歴史事実をどの程度反映しているかのはわかりませんが、少なくとも『通典』成立時 (801年)の唐の知識人や官僚たちが、「賀正礼」は漢王朝に始まって、歴代の多くの王朝が行ってきたという認識を持っていたことは疑えません。正史の 『旧唐書』成立が945年ですので、『旧唐書』も『通典』の影響を受けていると考えられます。
 これからの課題として、『通典』に記されたどの王朝の「賀正礼」が倭国の「賀正礼」に影響を与えたのかを研究したいと思いますが、まずは齊藤さんからいただいたコピーをしっかりと読んでいきます。


第637話 2013/12/22

平成25年の回顧

 平成25年ももうすぐ終わります。この一年間、古田史学や「古田史学の会」では様々な出来事がありました。個人的な感想となりますが、特に印象深かったことを並べてみます。

1.古田先生の研究自伝『真実に悔いなし』発刊
 ミネルヴァ書房より発刊された同書は古田先生自らにより研究活動やその生い立ちが記されたもので、先生や先生の学問を学ぶ上で、わたしたち古田学派の学徒にとって宝物ともいえる貴重な一冊です。

2.「I-siteなんば」に古田武彦コーナー開設
 大阪府立大学のご協力と正木裕さんのご尽力により、大阪府立大学なんばキャンパス「I-siteなんば」に古田武彦コーナーが開設されました。古田先生や会員のご協力により、古田先生の著作や古代史関連の貴重な書籍を「I-siteなんば」図書館に寄贈しました。「古田史学会報」や『古代に真実を求めて』も全冊並んでおり、古代史や古田史学を学ぶ人々にとって貴重な研究拠点となりました。また、併設された研究ルームや会場を「古田史学の会」としても利用させていただくことにしました。これにより関西例会などの会場確保も便利になりました。近くに飲食街もできましたので、関西例会後の懇親会も便利になり ました。

3.正木裕さんの研究「倭人伝官職名と青銅器」
 本年も会員による優れた研究が数多く発表されましたが、中でも衝撃的だったのが正木裕さんが発表された、倭人伝の官職名と青銅器の関連についての研究でした。倭人伝研究における新たな分野を切り開いた研究として、大変優れていました。

4.「赤渕神社縁起」の九州年号
 森茂夫さん(「古田史学の会」会員、京丹後市在住)から、『赤渕神社縁起』をはじめとする「赤渕神社文書」の釈文(当地の研究者により活字化されたも の)の写真ファイルが送られてきました。それには九州年号の「常色」「朱雀」などが見え、しかも天長五年(828)の成立という平安時代にまで遡る九州年号史料でした。今後これら赤渕神社史料(兵庫県朝来市)により九州年号・九州王朝の研究が加速されることでしょう。本当に素晴らしい史料が残っていたもの です。

5.『伊予三島縁起』の九州年号「大長」
 齊藤政利さん(「古田史学の会」会員、多摩市)が内閣文庫に赴き写真撮影していただいた『伊予三島縁起』(番号 和34769)に「大長九年壬子」とあ り、従来は「天長」と記されていた『伊予三島縁起』とは異なり、より原型を留めていることがわかりました。最後の九州年号「大長」の確かな史料根拠が発見されたことにより、滅亡期の九州王朝研究が進むことが期待されます。

6.会員・知人の訃報
 大変悲しいことに、本年は数十年来の古田説支持者だった難波収さん(オランダ・ユトレヒト市、天文学者)、鶴丈治さん(「古田史学の会・北海道」前会長)が亡くなられました。また、古田先生の松本深志高校時代の教え子だった中嶋嶺雄さん(国際教養大学学長)も亡くなられました。中嶋さんにはわたしの二倍年暦の研究論文の英訳にお力添えいただきました。心よりご冥福をお祈りいたします。

 以上、思いつくままに記しました。この他にも福岡県古賀市出土馬具など考古学的発見も印象的なニュースでした。古田史学・九州王朝説の正しさが事実でもって明らかになりつつありますが、この国の学界やマスコミは果たしていつまで「無視」が続けられるでしょうか。わたしたち古田学派の一層の努力と研究があらたな古代史の新時代を切り開くことでしょう。新年が素晴らしい一年であることを願っています。


第635話 2013/12/18

「系図」の史料批判の難しさ

 先日、久しぶりに岡崎の平安神宮そばにある京都府立図書館に行ってきました。そして『古代に真実を求めて』16集を寄贈しました。寒い日でしたが、岡崎公園は観光客や各種イベント参加者で溢れていました。
 今回、図書館に行った目的は、『兵庫県史』に掲載されている「粟鹿大神元記」と『田中卓著作集』に掲載されている評制に関する論文のコピーでした。
 今月、発行された『古田史学会報』119号に拙稿「文字史料による「評」論 — 「評制」の施行時期について」が掲載されましたが、その要旨は評制開始は7世紀中頃とするものでした。ところが、その結論に対して何人かの読者の方から、7世紀中頃よりも早い時代の「評」が記された「系図」があり、評制施行を7世紀中頃とするのは問題ではないかとするご意見が寄せられました。そのために関連論文のコピーをしに図書館に行ったのでした。拙論へのご批判や問題点の指摘はありがたいことで、学問の進歩をもたらします。
 わたしは7世紀中頃より以前の「評」が記された「系図」の存在は知っていたのですが、とても「評制」開始の時期を特定できるような史料とは考えにくく、 少なくともそれら「系図」を史料根拠に評制の時期を論じるのは学問的に危険と判断していました。「系図」はその史料性格から、後世にわたり代々書き継がれ、書写されますので、誤写・誤伝以外にも、書き継ぎにあたり、その時点の認識で書き改めたり、書き加えたりされる可能性を多分に含んでいます。そのため、「系図」を史料根拠に使う際の史料批判がとても難しいのです。各「系図」の史料批判や問題点については別途説明したいと思いますが、わかりやすい例で説明するならば、次のようにとらえていただければよいかと思います。
 『日本書紀』には700年以前から「郡」表記がありますが、それを根拠に「郡制」が7世紀以前から施行されていたという論者は現在ではいません。また、 初代の神武天皇からずっと「天皇」と表記されているからという理由で、「天皇」号は弥生時代から近畿天皇家で使用されていたという論者もまたいません。 『日本書紀』を根拠にそうした断定ができないことはご理解いただけることと思います。
 これと同様に、ある「系図」の7世紀中頃より以前の人物に「○○評督」や「××評」という注記があるという理由だけで、その時代から「評督」や行政単位 の「評」が実在したとするのは、あまりに危険なのです。少なくとも、それら「系図」のどの部分がどの程度歴史の真実を反映しているかを確認する「史料批判」が不可欠です。「史料批判」をしなかったり、不確実であれば、文献史学という学問にとってそれは致命的ともいえる「方法」と言わざるを得ません。もち ろんこれは一般的な学問の方法に関することであり、各「系図」が史料批判に耐え得るような史料であるかどうかは、個別に検証しなければなりません。それら の「系図」を史料根拠として、「評制」施行時期について新たな仮説を提起したり、論じるのは自由ですが、その場合は誰もが納得できるような「史料批判」が必要なのです。機会があれば、「系図」の史料批判の方法について述べてみたいと思います。


第634話 2013/12/15

九州王朝の「賀正礼」

 九州王朝・倭国の「賀正礼(元日朝賀儀)」について、それがどのようなものだったのかを考えています。中国の「賀正礼」を導入・模倣した可能性が高いように思いますが、おそらくは古くから続いてきた倭国の風習も踏襲したことも充分考えられます。そこで、わたしが注目したのが『隋書』「イ妥国伝」です(『隋書』では九州王朝・倭国を「イ妥*国」と表記)。
 『隋書』には九州王朝・倭国の儀礼や風俗について、次のように記しています。

 「その王、朝会には必ず儀仗を陳設し、その国の楽を奏す。」
 「楽に五弦の琴・笛あり。」
 「正月一日に至るごとに、必ず射戲・飲酒す。その余の節はほぼ華と同じ。」

 これらの記事から、倭国では正月一日に射戲・飲酒する風習があったことがわかります。現在でも古い神社では弓矢の神事やお酒でもてなす風習が残っ ているところがありますので、こうした風習は王朝内部でも行われていたのではないでしょうか。「朝会には必ず儀仗を陳設」とありますから、元日の朝賀でも 「儀仗を陳設」し、五弦の琴や笛で演奏が行われたと思われます。
 以上のように、『隋書』によって九州王朝の「賀正礼」の内容が少し見えてきました。おそらく、前期難波宮のような巨大な朝堂院で「賀正礼」を行われるようになってからは、本場の中国の儀礼が本格的に取り入れられるようになったのではないかと推測しています。引き続き、研究を続けます。

イ妥* (タイ) 国のイ妥*は、人編に妥。ユニコード番号4FCO


第631話 2013/12/08

『通典』の「賀正礼」
(元日朝賀儀)

 拙論「白雉改元の宮殿」 において、前期難波宮(九州王朝副都)での「賀正礼」について触れましたが、九州王朝における「賀正礼」について更に詳しく研究する必要を感じていまし た。近畿天皇家の『養老律令』などにも九州王朝律令の影響を受けている可能性がありますので、引き続き国内史料の調査分析を進めていますが、他方、中国からの影響についても先行論文などの勉強をしています。
 その過程で、唐代の史料『通典』(801年成立)に中国歴代王朝の「元日朝賀儀」(賀正礼)について記されていることを知りました。それによると「元日朝賀儀」は漢の高祖が最初とされているようです。
 『通典』はインターネットでも読むことができますが、学問研究に使用するには不安ですので、史料批判が可能な良い活字本か善本を探していました。メール で「古田史学の会」の役員や研究仲間に『通典』の情報提供協力を依頼したところ、すぐに数名の方から貴重な情報をいただくことができました。こうしたこと はインターネット時代の良さですね。
 中でも冨川ケイ子さん(「古田史学の会」会員、横浜市)から寄せられた情報によれば、宮内庁書陵部の『通典』が最も良い写本のようです。同写本の印影本も発刊されているとのことですから、ぜひ閲覧したいと思います。研究が進みましたら、ご報告します。


第630話 2013/12/07

「学問は実証よりも論証を重んじる」(8)

 最後の九州年号を「大化」とする『二中歴』と、「大長」とするその他の九州年号群史料の二種類の九州年号史料が存在することを説明できる唯一の仮説として、「大長」が704~712年に存在した最後の九州年号とする仮説を発見したとき、それ以外の仮説が成立し得ないことから、基本的に論証が完了したと、わたしは考えました。「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡先生の言葉通りに、九州年号史料の状況を論証できたので、次に九州年号史料を精査して、この「論証」を支持する「実証」作業へと進みました。
 その結果、『運歩色葉集』の「柿本人丸」の項に「大長四年丁未(707)」、『伊予三島縁起』に「天長九年壬子(712)」の二例を見い出したのです。 ただ、『伊予三島縁起』活字本には「大長」ではなく「天長」とあったため、「天」は「大」の誤写か活字本の誤植ではないかと考えていました。そこで何とか 原本を確認したいと思っていたところ、齊藤政利さん(「古田史学の会」会員、多摩市)が内閣文庫に赴き、『伊予三島縁起』写本二冊を写真撮影して提供していただいたのです(「洛中洛外日記」第599話で紹介)。その写本『伊予三島縁起』(番号 和34769)には「大長九年壬子」とあり、「天長」ではなく九州年号の「大長」と記されていたのです。
 「論証」が先行して成立し、それを支持する「実証」が「後追い」して明らかとなり、更に「大長」と記された新たな写本までが発見されるという、得難い学問的経験ができたのです。こうして村岡先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」を深く理解でき、学問の方法というものがようやく身についてきたのかなと感慨深く思えたのでした。(つづく)


第629話 2013/12/04

「学問は実証よりも論証を重んじる」(7)

 今日、午前中は名古屋で商談を行い、今は東京九段のホテルにいます。夕方、少し時間ができましたので、久しぶりに靖国神社を訪れました。名古屋駅前の桜通りの銀杏並木と同様に、靖国神社の銀杏も黄葉がきれいでした。

 九州年号研究の結果、『二中歴』に見える「年代歴」の九州年号が最も原型に近いとする結論に達していたのですが、わたしには解決しなければならない残された問題がありました。それは『二中歴』以外の九州年号群史料にある「大長」という年号の存在でした。
 『二中歴』には「大長」はなく、最後の九州年号は「大化」(695~700)で、その後は近畿天皇家の年号「大宝」へと続きます。ところが、『二中歴』 以外の九州年号群史料では「大長」が最後の九州年号で、その後に「大宝」が続きます。そして、「大長」が700年以前に「入り込む」形となったため、その 年数分だけ、たとえば「朱鳥」(686~694)などの他の九州年号が消えたり、短縮されていたりしているのです。
 こうした九州年号史料群の状況から、『二中歴』が原型に最も近いとしながらも、「大長」が後代に偽作されたとも考えにくく、二種類の対立する九州年号群史料が後代史料に現れている状況をうまく説明できる仮説を、わたしは何年も考え続けました。その結果、「大長」は701年以後に実在した最後の九州年号とする仮説に至りました。その詳細については「最後の九州年号」「続・最後の九州年号」(『「九州年号」の研究』所収)をご覧ください。具体的には「大長」 が704~712年の9年間続いていたことを、後代成立の九州年号史料の分析から論証したのですが、この論証に成功したときは、まだ「実証(史料根拠)」 の「発見」には至ってなく、まさに「論証」のみが先行したのでした。そこで、わたしは「論証」による仮説をより決定的なものとするために、史料(実証)探索を行いました。(つづく)


第627話 2013/12/01

「学問は実証よりも論証を重んじる」(6)

 京都御所の木々も紅葉し、京都は最も美しい季節を迎えています。拙宅前の銀杏並木も見事に黄葉し枯れ葉となり舞い散り、冬の気配も感じさせてくれます。

 「元壬子年」木簡と「大化五子年」土器の研究における実証と論証の関わりについて説明してきましたが、これらとは異なり、論証のみが成立し、その後に実証が「後追い」するというケースもありました。「学問は実証よりも論証を重んじる」という言葉が最も際立つケースと言えますが、自然科学では少なからずこのような事例が見られます。たとえば、物理学の相対性理論などはアインシュタインの論理的考察から生まれた「論証」であ り、それまでのニュートン力学による実験データ(実証)からは生まれない理論でした。近年の例ではヒッグス粒子の発見が有名です。ヒッグス博士により約 50年前にその存在が「予言」されていたのですが、科学実験によりヒッグス粒子の存在が確認(実証)されたのはつい最近のことでした。このように直接証拠などの実証を伴わないまま論証が先行して成立するケースが学問にはあるのです。

 わたしもこのようなケースを経験したことがあります。最後にこの経験について紹介します。それは九州年号「大長」の研究のときのことでした。(つづく)


第626話 2013/11/30

「学問は実証よりも論証を重んじる」(5)

 観察の結果、確認した「大化五子年」という直接証拠(一次史料)に基づく「実証」結果と、『二中歴』などの後代史料(二~三次史料)を史料根拠として成立したそれまでの九州年号論の「論証」結果が一致しない今回の場合、とるべき学問的態度として、わたしは次の三つのケースを検討しました。
 第一は、これまでの九州年号論(主に史料批判や論証に基づく仮説体系)を見直し、「大化五子年」土器に基づいて九州年号原型論を再構築する。第二は、「大化五子年」土器が誤りであることを論証する。第三は、これまでの九州年号論と「大化五子年」土器の双方が矛盾なく成立する新たな仮説をたて論証する。 この三つでした。
 一緒に「大化五子年」土器を調査した安田陽介さんが主張されたのが第一の立場で、後代史料よりも同時代金石文や同時代史料に立脚して九州年号原型論を構築すべきというものでした。これは歴史学の方法論として真っ当な考えですが、わたしはこの立場をとりませんでした。何故なら、他の九州年号金石文(鬼室集 斯墓碑銘「朱鳥三年戊子」など)や『二中歴』を中心とする九州年号群史料の史料批判の結果、成立し体系化されてきた、それまでの九州年号論の優位性は簡単には崩れない、覆せないと判断していたからでした。
 第二の立場もまた取り得ませんでした。同土器が地元の考古学者により7世紀末から8世紀初頭のものと編年されており、同時代金石文であることを疑えなかったからです。また、「同時代の誤刻」(古代人が干支を一年間違って記した)とする、必要にして十分な論証も不可能と思ったからです。
 その結果、わたしがとった立場は第三のケースを史料根拠に基づいて論証することでした。そして結論として、「大化五子年」土器が出土した地域では、九州王朝中枢で使用されていた暦とは干支が一年ずれた別の暦が使用されていたとする史料根拠に基づいた仮説を提起、論証したのでした。詳しくは『「九州年号」 の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房刊)所収の拙論「二つの試金石 — 九州年号金石文の再検討」をご参照ください。
 この「大化五子年」土器のケースのように、同時代金石文という直接証拠を検証したうえでの「実証」と、それまでの「論証」がたとえ対立していたとしても、「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡先生の言葉を貫くことが、いかに大切かをご理解いただけるのではないでしょうか。「論証」を重視したからこそ、古代日本における「干支が一年ずれた暦の存在」という新たな学問的視点(成果)を得ることもできたのですから。(つづく)


第625話 2013/11/26

「学問は実証よりも論証を重んじる」(4)

 「洛中洛外日記」第624話で紹介した「元壬子年」木簡(九州年号の「白雉元年壬子」、652年)の事例は、実証(文字判読結果)そのものの不備・誤りを、学問的論証結果を重視したために実施した再調査により発見できたという、比較的わかりやすいケースでした。その意味では「足利事件」も、論理的に考えて冤罪であるとする弁護団の主張が受け入れられ、科学技術が進歩した時点でDNA再鑑定したことにより、当初の鑑定の誤りを発見できたのであり、よく似たケースといえます。
 しかし、「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡先生の言葉を理解するうえで、わたしはもっと複雑な学問的試練に遭遇したことがありました。今回はそのことについて紹介します。
 それは「大化五子年」土器の調査研究の経験です。茨城県岩井市から江戸時代(天保九年、1838年)に出土した土器に「大化五子年二月十日」という線刻文字があり、地元の研究者から専門誌に発表されていました。学界からは無視されてきた土器ですが、古田先生は九州年号「大化」が記された本物の同時代金石文ではないかと指摘されていました(『日本書紀』の大化五年(649)の干支は「己酉」で、その大化年間(645~649)に「子」の年はない)。
 ところが、九州年号史料として最も原型に近いと考えていた『二中歴』によれば、大化五年(699)の干支は「己亥」で、「子」ではありません。翌年の700年の干支が「庚子」であり、干支が1年ずれていたのです。もし、この土器が同時代金石文であり、「大化五子年」と間違いなく記されていたら、『二中歴』の九州年号を原型としてきたこれまでの九州年号研究の仮説体系や論証が誤っていたということになりかねません。そこでわたしは1993年の春、古田先生・安田陽介さんと共に茨城県岩井市矢作の冨山家を訪問し、その土器を見せていただき、手にとって観察しました。
 観察の結果、「子」の字が意図的な磨耗によりほとんど見えなくなっていることがわかりました。おそらく、『日本書紀』の大化五年の干支「己酉」とは異なるため、出土後に削られたものと思われました。しかしよく見ると、かすかではありましたが、「子」の字の横棒が残っており、やはり「子」であったことが確認できました。この土器は同地域の土器編年により、7世紀末頃のものとされていることから、まさに同時代金石文なのです。そうした第一級史料が『二中歴』 などの後代史料と異なっているため、同時代史料を優先するという歴史学の方法論からすれば、従来の九州年号研究による諸仮説や論証が間違っていたことにな るのです。すなわち、ここでも「大化五子年」土器という「実証」結果が、それまでの九州年号論という「論証」結果と対立したのです。(つづく)