史料批判一覧

第629話 2013/12/04

「学問は実証よりも論証を重んじる」(7)

 今日、午前中は名古屋で商談を行い、今は東京九段のホテルにいます。夕方、少し時間ができましたので、久しぶりに靖国神社を訪れました。名古屋駅前の桜通りの銀杏並木と同様に、靖国神社の銀杏も黄葉がきれいでした。

 九州年号研究の結果、『二中歴』に見える「年代歴」の九州年号が最も原型に近いとする結論に達していたのですが、わたしには解決しなければならない残された問題がありました。それは『二中歴』以外の九州年号群史料にある「大長」という年号の存在でした。
 『二中歴』には「大長」はなく、最後の九州年号は「大化」(695~700)で、その後は近畿天皇家の年号「大宝」へと続きます。ところが、『二中歴』 以外の九州年号群史料では「大長」が最後の九州年号で、その後に「大宝」が続きます。そして、「大長」が700年以前に「入り込む」形となったため、その 年数分だけ、たとえば「朱鳥」(686~694)などの他の九州年号が消えたり、短縮されていたりしているのです。
 こうした九州年号史料群の状況から、『二中歴』が原型に最も近いとしながらも、「大長」が後代に偽作されたとも考えにくく、二種類の対立する九州年号群史料が後代史料に現れている状況をうまく説明できる仮説を、わたしは何年も考え続けました。その結果、「大長」は701年以後に実在した最後の九州年号とする仮説に至りました。その詳細については「最後の九州年号」「続・最後の九州年号」(『「九州年号」の研究』所収)をご覧ください。具体的には「大長」 が704~712年の9年間続いていたことを、後代成立の九州年号史料の分析から論証したのですが、この論証に成功したときは、まだ「実証(史料根拠)」 の「発見」には至ってなく、まさに「論証」のみが先行したのでした。そこで、わたしは「論証」による仮説をより決定的なものとするために、史料(実証)探索を行いました。(つづく)


第627話 2013/12/01

「学問は実証よりも論証を重んじる」(6)

 京都御所の木々も紅葉し、京都は最も美しい季節を迎えています。拙宅前の銀杏並木も見事に黄葉し枯れ葉となり舞い散り、冬の気配も感じさせてくれます。

 「元壬子年」木簡と「大化五子年」土器の研究における実証と論証の関わりについて説明してきましたが、これらとは異なり、論証のみが成立し、その後に実証が「後追い」するというケースもありました。「学問は実証よりも論証を重んじる」という言葉が最も際立つケースと言えますが、自然科学では少なからずこのような事例が見られます。たとえば、物理学の相対性理論などはアインシュタインの論理的考察から生まれた「論証」であ り、それまでのニュートン力学による実験データ(実証)からは生まれない理論でした。近年の例ではヒッグス粒子の発見が有名です。ヒッグス博士により約 50年前にその存在が「予言」されていたのですが、科学実験によりヒッグス粒子の存在が確認(実証)されたのはつい最近のことでした。このように直接証拠などの実証を伴わないまま論証が先行して成立するケースが学問にはあるのです。

 わたしもこのようなケースを経験したことがあります。最後にこの経験について紹介します。それは九州年号「大長」の研究のときのことでした。(つづく)


第626話 2013/11/30

「学問は実証よりも論証を重んじる」(5)

 観察の結果、確認した「大化五子年」という直接証拠(一次史料)に基づく「実証」結果と、『二中歴』などの後代史料(二~三次史料)を史料根拠として成立したそれまでの九州年号論の「論証」結果が一致しない今回の場合、とるべき学問的態度として、わたしは次の三つのケースを検討しました。
 第一は、これまでの九州年号論(主に史料批判や論証に基づく仮説体系)を見直し、「大化五子年」土器に基づいて九州年号原型論を再構築する。第二は、「大化五子年」土器が誤りであることを論証する。第三は、これまでの九州年号論と「大化五子年」土器の双方が矛盾なく成立する新たな仮説をたて論証する。 この三つでした。
 一緒に「大化五子年」土器を調査した安田陽介さんが主張されたのが第一の立場で、後代史料よりも同時代金石文や同時代史料に立脚して九州年号原型論を構築すべきというものでした。これは歴史学の方法論として真っ当な考えですが、わたしはこの立場をとりませんでした。何故なら、他の九州年号金石文(鬼室集 斯墓碑銘「朱鳥三年戊子」など)や『二中歴』を中心とする九州年号群史料の史料批判の結果、成立し体系化されてきた、それまでの九州年号論の優位性は簡単には崩れない、覆せないと判断していたからでした。
 第二の立場もまた取り得ませんでした。同土器が地元の考古学者により7世紀末から8世紀初頭のものと編年されており、同時代金石文であることを疑えなかったからです。また、「同時代の誤刻」(古代人が干支を一年間違って記した)とする、必要にして十分な論証も不可能と思ったからです。
 その結果、わたしがとった立場は第三のケースを史料根拠に基づいて論証することでした。そして結論として、「大化五子年」土器が出土した地域では、九州王朝中枢で使用されていた暦とは干支が一年ずれた別の暦が使用されていたとする史料根拠に基づいた仮説を提起、論証したのでした。詳しくは『「九州年号」 の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房刊)所収の拙論「二つの試金石 — 九州年号金石文の再検討」をご参照ください。
 この「大化五子年」土器のケースのように、同時代金石文という直接証拠を検証したうえでの「実証」と、それまでの「論証」がたとえ対立していたとしても、「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡先生の言葉を貫くことが、いかに大切かをご理解いただけるのではないでしょうか。「論証」を重視したからこそ、古代日本における「干支が一年ずれた暦の存在」という新たな学問的視点(成果)を得ることもできたのですから。(つづく)


第625話 2013/11/26

「学問は実証よりも論証を重んじる」(4)

 「洛中洛外日記」第624話で紹介した「元壬子年」木簡(九州年号の「白雉元年壬子」、652年)の事例は、実証(文字判読結果)そのものの不備・誤りを、学問的論証結果を重視したために実施した再調査により発見できたという、比較的わかりやすいケースでした。その意味では「足利事件」も、論理的に考えて冤罪であるとする弁護団の主張が受け入れられ、科学技術が進歩した時点でDNA再鑑定したことにより、当初の鑑定の誤りを発見できたのであり、よく似たケースといえます。
 しかし、「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡先生の言葉を理解するうえで、わたしはもっと複雑な学問的試練に遭遇したことがありました。今回はそのことについて紹介します。
 それは「大化五子年」土器の調査研究の経験です。茨城県岩井市から江戸時代(天保九年、1838年)に出土した土器に「大化五子年二月十日」という線刻文字があり、地元の研究者から専門誌に発表されていました。学界からは無視されてきた土器ですが、古田先生は九州年号「大化」が記された本物の同時代金石文ではないかと指摘されていました(『日本書紀』の大化五年(649)の干支は「己酉」で、その大化年間(645~649)に「子」の年はない)。
 ところが、九州年号史料として最も原型に近いと考えていた『二中歴』によれば、大化五年(699)の干支は「己亥」で、「子」ではありません。翌年の700年の干支が「庚子」であり、干支が1年ずれていたのです。もし、この土器が同時代金石文であり、「大化五子年」と間違いなく記されていたら、『二中歴』の九州年号を原型としてきたこれまでの九州年号研究の仮説体系や論証が誤っていたということになりかねません。そこでわたしは1993年の春、古田先生・安田陽介さんと共に茨城県岩井市矢作の冨山家を訪問し、その土器を見せていただき、手にとって観察しました。
 観察の結果、「子」の字が意図的な磨耗によりほとんど見えなくなっていることがわかりました。おそらく、『日本書紀』の大化五年の干支「己酉」とは異なるため、出土後に削られたものと思われました。しかしよく見ると、かすかではありましたが、「子」の字の横棒が残っており、やはり「子」であったことが確認できました。この土器は同地域の土器編年により、7世紀末頃のものとされていることから、まさに同時代金石文なのです。そうした第一級史料が『二中歴』 などの後代史料と異なっているため、同時代史料を優先するという歴史学の方法論からすれば、従来の九州年号研究による諸仮説や論証が間違っていたことにな るのです。すなわち、ここでも「大化五子年」土器という「実証」結果が、それまでの九州年号論という「論証」結果と対立したのです。(つづく)


第624話 2013/11/24

「学問は実証よりも論証を重んじる」(3)

 村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」の意味を深く実感できた学問的経験が、わたしにはありました。それは「元壬子年」木簡(九州年号の「白雉元年壬子」、652年)の発見のときです。
 長期間にわたる九州年号研究の成果として、『二中歴』(鎌倉時代初期成立)に見える「年代歴」の九州年号群が最も真実に近いとする原型論が史料批判や論証の結果、成立したのですが、その「白雉」年号の元年は壬子の年(652)で、『日本書紀』孝徳紀の白雉元年(650)とは二年の差がありました。従って、『日本書紀』孝徳紀の「白雉」は本来の九州年号「白雉」を2年ずらして盗用したものとする結論に至りました。
 ところが、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した木簡に「三壬子年」という紀年銘があり、奈良文化財研究所の「木簡データベース」では『日本書紀』孝徳紀の白雉三年壬子(652)の木簡とされ、『木簡研究』に掲載された「報告書」でも「白雉三年壬子(652)」とされていました。この発掘調査報告書(実証) を読んだわたしは驚きました。これまでの九州年号研究の成果(論証)を否定し、『日本書紀』孝徳紀の「白雉」が正しいとする内容だったからです。しかも、 同時代の木簡という第一級史料だけに、鎌倉時代初期成立の『二中歴』よりもはるかに有力な「実証力」を有する「直接証拠」なのです。
 永年の九州年号研究の結果、成立した仮説(論証)と、同時代史料の木簡の記述(実証)とが対立したのですから、わたしがいかに驚き悩んだかはご理解いただけることと思います。そこで、わたしが行ったのは、「論証」結果を重んじ、「実証(木簡)」の方の再検証でした。兵庫県教育委員会に同木簡の実見・調査の許可申請を行い、調査団を組織し光学顕微鏡や赤外線カメラを持ち込み、2時間にわたり調査しました。その結果、それまで「三」と判読されていた字が、実は「元」であったことを確認できたのでした。
 このときの経験により、わたしは村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」の意味を心から実感できたのでした。(つづく)


第623話 2013/11/23

「学問は実証よりも論証を重んじる」(2)

 村岡典嗣(むらおかつねつぐ)先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」の意味をわかりやすく伝えるために、どのような説明をすればよいのかを考えてきたのですが、関西例会では「足利事件」の冤罪を例に出して次のように説明しました。
 女児が誘拐殺害された「足利事件」での冤罪発生の要因や構造は複雑なものとされているようですが、「有罪」の決め手とされたのは当時としては最先端技術 だったDNA鑑定(実証)でした。他方、容疑者の供述内容や動機、目撃者証言との不一致などは、犯人と断定するには不自然で論理的ではありませんでした。 しかし、裁判所もDNA鑑定(実証)を重視し、犯人と断定するには不自然と考えざるを得ない論理的判断(論証)を退けて、有罪としました。その結果、 DNAの再鑑定がなされるまで、無実の人が長年月投獄されるという悲劇的冤罪事件が発生しました。有名な冤罪事件でしたから、ご存じの方も少なくないと思 います。
 このとき、警察や裁判所が「実証」よりも「論証」を重視しなければならないという学問の性格を理解していれば、この冤罪事件は発生しなかったでしょう し、真犯人を時効として取り逃がすこともなかったかもしれません。わたしはこの「足利事件」の例を紹介説明し、実証よりも論証が重要であることの一例とし て紹介したのです。もちろん、これは実証を軽視してもよいという意味では全くありませんので、誤解されないようにしてください。
 犯罪捜査も歴史研究も過去におきた事件の真実を明らかにするという点において、似たような性格を有しています。しかし古代史研究においては、当時の関係 者はいませんし、弁護士もつきませんし、古代人自ら反論することもできません。従って、誤った仮説を発表し、古代人を「冤罪」に陥れないという覚悟と慎重 さと、深く考え抜いた論証が必要なのです。(つづく)


第622話 2013/11/19

「学問は実証よりも論証を重んじる」(1)

 今朝は特急サンダーバード5号で福井に向かっています。JR湖西線から見える、朝日で金色に輝く琵琶湖と全山紅葉した比良山系が絶景です。連日のハードなビジネスや出張の合間に、こうした景色に出会え、心が癒されます。本当に日本は美しい国だと思います。子孫にしっかりと残したいものです。

 今月の関西例会で、水野代表から古田先生の八王子セミナーの概要について報告がなされました。ただ、水野さんはセミナーに参加されていませんから、「古田史学の会」会員の肥沼孝治さん(所沢市)のブログに掲載されていた箇条書きの発表項目を紹介されたのですが、その中に「実証よりも論証が重要」という箇所があり、これはどういう意味だろうかと疑問を呈されました。実はこのことは古田史学において大変重要なことで、以前か ら不二井伸平さん(古田史学の会・総務)らと話し合ってきたテーマでもありました。
 この言葉は古田先生の東北大学時代の恩師である村岡典嗣先生の言葉で、「学問は実証よりも論証を重んじる」からきています。わたしは若い頃、古田先生から何度もこの言葉をお聞きしました。いわば、古田史学の神髄であり、フィロロギーという学問の基本的性格を表した重要な言葉だと理解しています。
 ところが、残念ながらこの言葉の意味をわたし自身もなかなか理解できず、それこそ十年以上かけてようやく見えてきたというのが実感でした。古田学派の研究者でも、この言葉の意味を真に理解している人は少ないのではないかと、不二井さんと何度も話し合ってきたのでした。そこで、例会での水野さんの発言を受けて、ちょうど良い機会でもあり、わたしから次のように説明しました。(つづく)


第618話 2013/11/04

『赤渕神社縁起』の九州年号

 『赤渕神社縁起』に九州年号の「常色元年」「常色三年」「朱雀元年」が記されていることは既に紹介してきたところですが、実はこの史料事実が持つ重要な論理性を見落とすところでした。わたしにとって、九州年号の実在性は、あまりにも当然でわかりきったことでしたので、 うっかり大切なことに気づかずにいました。このことについて説明します。
 現存の『赤渕神社縁起』は書写が繰り返された写本ですが、その成立は「天長五年丙申三月十五日」と記されていますから、828年のことです(天長五年の干支は戊申。丙申とあるのは誤写誤伝か)。従って、『日本書紀』成立(720)以後に記された縁起です。もちろん、九州年号を含む記事の原史料の成立はおそらく7世紀にまで遡ることでしょう。そのため、『赤渕神社縁起』には『日本書紀』の影響下で編纂された痕跡が当然のこととして見られます。たとえば7世紀の出来事であっても、行政単位は「評」ではなく、「郡」で表記されています。「丹後国与佐郡」「丹波天田郡」「養父郡」「朝来郡」などです。天皇の名前も「神武天皇」「孝徳天皇」「皇極天皇」「斉明天皇」といったように、『日本書紀』成立以後につけられた漢風諡号が用いられています。
 こうしたことは、天長五年成立の文書であれば、当然ともいえる現象なのですが、それなら何故九州年号の「常色」が記されたのでしょうか。『日本書紀』にはこの常色元年(647)に当たる年は「大化三年」とされていますし、常色三年(649)は「大化五年」であり、わざわざ九州年号の常色を使用しなくても、『日本書紀』にある「大化」を使用すればよかったはずです。しかし、『赤渕神社縁起』には、年号については九州年号の常色が使用されているのです。
 この史料事実は、『赤渕神社縁起』編纂に当たり引用した元史料には九州年号の常色が既に書かれていたことを意味します。もし、元史料が干支のみの年代表記であれば、そのとおりの干支を用いるか、『日本書紀』にある「大化」を使用したはずで、わざわざ九州年号などで記す必要性はありません。ということは、 天長五年時点に九州年号「常色」による元史料があったことを意味するのです。近畿天皇家一元史観の通説では、九州年号は鎌倉・室町時代以降に僧侶により偽作されたものとしているのですが、828年に成立した『赤渕神社縁起』に記された九州年号「常色」の存在は、この通説を否定する論理性を有しているのです。この論理性を、わたしは見過ごすところでした。
 もともと、九州年号偽作説には学問的根拠がなく、論証の末に成立した仮説ではありません。いうならば、近畿天皇家一元史観というイデオロギー(戦後型皇国史観)により、論証抜きで「論断」された非学問的な「仮説(憶測)」に過ぎなかったのです。したがって、わたしが提起した「元壬子年」木簡(九州年号の白雉元年壬子、652年。芦屋市三条九ノ坪遺跡出土)についても全く反論できず、無視を続けています。こうした、九州年号偽作説(鎌倉・室町時代に僧侶が偽作したとする)を否定する論理性を『赤渕神社縁起』の九州年号「常色」は有していたのです。
 また、九州年号には「僧聴」「和僧」「金光」「仁王」「僧要」などのように仏教色が強い漢字が用いられていることから、僧侶による偽作と見なされてきたのですが、実際の史料状況は『赤渕神社縁起』のように、寺院よりも神社関連文書に多く九州年号が見られます。こうした点からも、九州年号偽作説がいかに史料事実に基づかない非学問的な「仮説」であるかは明白なのです。


第616話 2013/10/27

文字史料による「評」論(7)

 文字史料による「評」論と題して、史料事実や史料根拠を明示しながら、九州王朝の「評制」についての考察を続けてきました。その最後として、『日本書紀』の中に見える「評」について触れたいと思います。
 『日本書紀』は「評」を「郡」に書き換えた「郡制」史料ですが、例外のような「評」の記事があります。継体二四年(530)条の次の記事です。

 「毛野臣、百済の兵の来るを聞き、背の評に迎へ討つ。背の評は地名。亦、能備己富利と名づく。」『日本書紀』継体紀二四年条

 この記事について、古田先生は『古代は輝いていた3』(朝日新聞社刊、336頁)において、次のように説明されています。

 「右は『任那の久斯牟羅』における事件だ。すなわち、倭の五王の後継者、磐井が支配していた任那には、『評』という行政単位が存在し、地名化していたのである。」

 さらに、「評」の縁源について次のように指摘されています。

 「『宋書』百官志によると、秦以来、『廷尉』に『正・監・評』の官があり、軍事と刑獄を兼ねた。魏・晋以来は、『廷尉 評』ではなく、ストレートに『評』といったという。すなわち、楽浪郡や帯方郡には、この『評』があって、中国の朝鮮半島支配の原点となっていたようであ る。」

 この解説から、「評制」は中国の軍事と刑獄を兼ねた行政制度に縁源があったことがわかります。このことを九州王朝(倭 国)は当然知っていたはずですから、7世紀中頃に自らの支配領域に「評制」を施行したとき、その主たる目的は中国に倣って「軍事と刑獄を兼ねた行政制度」 確立であったと考えても大過ないのではないでしょうか。すなわち、7世紀中頃の朝鮮半島での、唐・新羅対倭国・百済の軍事的緊張関係の高まりから、「評 制」を全国に施行(天下立評)したものと思われます。さらに主戦場となる朝鮮半島や朝鮮海峡から離れた摂津難波に副都(前期難波宮)を造営したのです。まさに「難波朝廷天下立評」(『皇太神宮儀式帳』)です。
 このように、「軍事行政」としての「評」設立とその「評制」の施行拠点であり主戦場から遠く離れた摂津難波への副都(難波朝廷)造営は密接な政治的意図で繋がっていたのです。


第614話 2013/10/22

『赤渕神社縁起』の「常色の宗教改革」

 正木裕さんが『日本書紀』天武紀持統紀の記事に34年前の記事が移動挿入され ているという「34年遡上」説を関西例会などで発表されたとき、34年前の記事なのか本来その年の記事なのかの判断に恣意性が入り、論証は困難ではないかと、わたしや西村秀己さんから度々批判がなされ、論争が続きました。そうした数年にわたる学問的試練を経て、正木さんの「34年遡上」説は検証され淘汰され、今日に至っています。関西例会参加者には、よくご存じのことかと思います。
 しかしそれでもなお「34年遡上」説の中には半信半疑のテーマもありました。たとえば『古田史学会報』85号(2008年4月)で発表された「常色の宗教改革」 という仮説です。九州年号の常色元年(647)、九州王朝により全国的な神社の「修理」や役職任命、制度変更が開始されたとする説です。そしてその「常色の宗教改革」の詔勅が34年後の天武十年(681)に「神宮修理の詔勅」として『日本書紀』に記されているとされたのです。次の詔勅です。

 「天武十年(681)の春正月(略)己丑(十九日)に、畿内及び諸国に詔して、天社地社の神の宮を修理(おさめつく)らしむ。」

 この記事について、正木さんは次のように指摘されています。
 「この記事は本来三四年遡上した常色元年の『神社改革の詔勅』であり、以後順次全国的に実施されたと考えられる。」正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号(2008年4月)

 この正木説に対して、そうかもしれないが本当にそうだと断言してもよいのかと、わたしはずっと半信半疑でした。ところが、今回知った天長五年(828)成立の『赤渕神社縁起』に次の記事があることに気づき、わたしは驚愕しました。

 「常色三年六月十五日在還宮為修理祭礼」

 常色三年(649)に表米宿禰が宮に還り、「修理祭礼」を為したとあり、正木さんが指摘した通り、天武十年正月条の「宮 を修理(おさめつく)らしむ。」という詔に対応しているのです。時期(常色年間)だけではなく、「修理」という言葉も一致しています。しかも『赤渕神社縁 起』では九州年号の「常色三年」の出来事として記録されていますから、九州王朝による「神宮修理」の詔勅(常色元年の詔勅)が出されていたことの史料根拠となります。『赤渕神社縁起』により、正木さんの「34年遡上」説の一例としての「常色の宗教改革」が史料根拠を持つ有力説であることが判明したのです。 「34年遡上」説、おそるべしです。
 この他にも『赤渕神社縁起』には重要な記事が記されていますが、引き続き検討して報告したいと思います。


第613話 2013/10/20

表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の「鬼」

 天長5年(828)成立の『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(647)戦闘」に記された「鬼神」「悪魔」「悪鬼」が新羅でなければ、その正体は何だったのでしょうか。このことを検討・考察してみました。
 まず『日本書紀』を読みなおしてみました。すると常色元年に相当する孝徳紀大化三年(647)七月条に「渟足(ぬたり)柵を造りて、柵戸を置く。」とい う記事が見え、翌大化四年是歳条には「磐舟柵を造りて、蝦夷に備ふ。遂に越と信濃との民を選びて、始めて柵戸を置く。」とあります。岩波文庫『日本書紀』の注によれば、渟足(ぬたり)柵は新潟県新潟市沼垂、磐舟柵は新潟県村上市岩船のことと説明されています。これらの記事から、常色元年頃に倭国と蝦夷国は緊張関係にあったことがうかがえます。「柵」を造り「柵戸」(柵を防衛する屯田兵)を新潟に配置しているのですから、現実的な蝦夷国からの脅威にさらされていたと思われます。
 他方、同じ『日本書紀』孝徳紀大化三年(647)七月条には新羅から金春秋の来倭記事がありますし、翌年の是歳条には「新羅、使を遣して貢調(みつぎた てまつ)る。」とあり、両者の関係は親密です。こうした『日本書紀』の史料事実から考えてみますと、『赤渕神社縁起』の「常色元年戦闘」伝承で表米宿禰が戦った「鬼」とは、新羅ではなく蝦夷ではないでしょうか。斉明紀になると倭国による「蝦夷討伐」記事が現れますが、おそらく倭国からの侵略・攻撃だけではなく、蝦夷国からの倭国への攻撃・侵略もあったはずです。そうでなければ新潟に「柵」が造られたりはしないでしょう。こうした理解が正しければ、『赤渕神社縁起』に見える「常色元年戦闘」伝承こそ、蝦夷国による丹後への侵入と交戦の貴重な現地伝承だったことになります。
 以上、史料批判と分析から導き出された仮説ですが、是非とも現地を訪問し、より詳しい調査を行いたいと思います。また、丹後以外にも日本海側に蝦夷国との交戦伝承が残っている可能性もありそうです。今後の楽しみな研究テーマです。


第611話 2013/10/18

表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の真相

 天長5年(828)成立の『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(647)」に行われた「新羅」との丹後における交戦記事ですが、実は次のような表現となっています。

「(常色元年二月)十八日、丹後国与謝郡白糸浜而立向給、鬼神聞之引退海上。表米得力集数千艘船為悪魔降伏。悪鬼取返起悪風波立」「而責戦給、新羅難叶而引退。表米乗勝進給」「新羅退治」「常色元年九月三日、怱平悪鬼」(「、」「。」は古賀による付記)

 このように常色元年に丹後に攻めてきたのは、冒頭では「鬼神」「悪魔」「悪鬼」と記され、その後に「新羅」になり、最後は「悪鬼」でこの戦闘伝承は終わります。こうした史料状況から、常色元年(647)の戦闘伝承は本来「鬼」と表現されていたものが、天長五年(828)の 『赤渕神社縁起』編集時の歴史認識(720年成立の『日本書紀』の歴史観)により「新羅」が付加されたのではないでしょうか。
 なぜなら、もし常色元年の戦闘の相手が新羅であったのなら、この有名な隣国である「新羅」の表記で最初から戦闘伝承が語られたはずで、わざわざ抽象的な 「鬼神」「悪魔」「悪鬼」などと表記伝承する必然性が低いからです。むしろ、攻めてきた異賊が何者かわからない、あるいはよく知られていない異様な侵入者だったから、「鬼神」「悪魔」「悪鬼」という表現で伝承記録されたのではないでしょうか。
 それではこの常色元年に丹後半島に侵入した「鬼神」「悪魔」「悪鬼」とは何者でしょうか。検討と考察を続けてみましょう。(つづく)