史料批判一覧

第470話 2012/09/22

坂本太郎さんと古田先生

 第469話で古田先生が皇室御物の『法華義疏』を電子顕微鏡などで調査されていたことに触れました。この「国宝以上」の超貴重文書を古田先生が調査されるに至った経緯をご紹介したいと思います。
 古田先生が『法華義疏』の研究を始められたとき、自らの仮説を証明するためにどうしても『法華義疏』を実見する必要があったのですが、同書は皇室御物本です。そこで古田先生は古代史学界の重鎮、坂本太郎さんのご自宅を訪問し自説を説明され、どうしても『法華義疏』を見たいと訴えられました(昭和61年7 月28日)。いわば、坂本太郎さんの説とは異なる新説を証明するために、『法華義疏』実見のための紹介状を書いてほしいと坂本太郎さんにお願いされたのです。
 このとき、坂本太郎さんは不治の病にかかられていたそうですが、快く紹介状を書かれました。「『法華義疏』は貴重なもので、見せ難いものではあるが、古田氏には是非とも見せていただきたい。」という趣旨の紹介状だったと古田先生からはお聞きしています。
 多元史観の古田先生に対して、近畿天皇家一元史観に立つ坂本太郎さんが、こともあろうに自らの説が誤りであることを証明する目的のための紹介状を書かれたのです。わたしは古田先生からこの坂本太郎さんとのエピソードをうかがったとき、深く感銘しました。学問的立場は異なっていても、真の歴史学者同士の魂の触れ合いをそこに見たのです。御用学者や曲学阿世 の徒が少なくない現代日本にあって、何とも感動的な話ではないでしょうか。
 紹介状を書かれた後、坂本太郎さんは古田先生に対して、「これは大変時間がかかることです。あせらずに待ってください。」と言われたそうです。その後、 宮内庁から『法華義疏』閲覧の許可がおり、古田先生は昭和薬科大学の同僚で電子顕微鏡の専門家である中村卓造先生と共に、京都御所で『法華義疏』を調査されたとのことです(昭和61年10月17日)。宮内庁が電子顕微鏡撮影までよく認めたものだと思いますが、それだけ坂本太郎さんの紹介状の力が大きかったのでしょう。
 この『法華義疏』に関する論文(「『法華義疏』の史料批判」昭和62年11月30日稿了)が完成する前に坂本太郎さんは亡くなられました。坂本太郎さんの学問的寛容と古田先生の学問的情熱を、わたしたち古田学派の研究者はこのエピソードから学ばなければなりません。
 なお、来年発行予定の『九州王朝の「聖徳太子」伝承』(仮称。ミネルヴァ書房)にこの古田先生の論文を再録させていただくことになりましたのでお知らせします。


第466話 2012/09/12

二説ある聖徳太子生没年

 服部和夫さん(古田史学の会・会員)から教えていただいた聖徳太子書写とされる『唯摩経疏』ですが、末尾の記事はいろいろと面白い問題を含んでいます。同記事の真偽は別として、その問題について検討してみました。
 『唯摩経疏』断簡末尾には次のような記事があり、「上宮厩戸」が『唯摩経疏』を定居元年辛未(611)に書写したとされています。

「経蔵法興寺
定居元年歳辛未上宮厩戸写」

 ところが聖徳太子の伝記である『補闕記』では『唯摩経疏』の作成開始を壬申(612)の年とし、完成を癸酉(613)の年としており、『唯摩経疏』断簡末尾の記事とは2年の差があるのです。この差は何が原因で発生したのでしょうか。そして、どちらが真実なのでしょうか。ちなみに『日本書紀』には聖徳太子による『唯摩経疏』作成記事はありません。
 通常、聖徳太子の生没年は歴史事典などでは574~622年とされることが多いようです。しかし学問的に見ますと、聖徳太子の生没年にはそれぞれ二つの説があります。特に没年は、『日本書紀』には621年2月5日(推古29年)のことと記されているにもかかわらず、法隆寺釈迦三尊像光背銘に見える622年2月22日没が「定説」となっています。
 皆さんは既にご存じのことと思いますが、622年に没したとされる同光背銘にある「上宮法皇」は聖徳太子とは別人で、九州王朝の天子・阿毎多利思北弧であることを古田先生が論証されています。すなわち、我が国では、聖徳太子とは別人の没年(『日本書紀』とは没年の年と日が異なっており、あっているのは「2月」だけ。母親や妻の名前も全く異なっている)を「定説」としているのです。理系が本職(化学)のわたしには、とても信じられないほどのずざんな「同定」です。日本の古代史学界ではこのレベルが「定説」として「通用」するのですね。驚きを通り越して、あきれかえります。
 没年と同様に誕生年にも、管見では二説あります。一つは『上宮法王帝説』『補闕記』などを根拠とした574年、もう一つは『聖徳太子伝記』(鎌倉時代成立。『聖徳太子全集』第二巻所収)などを根拠とした572年です。この二つの説が文献に見えるのですが、両説は2年の差をもっています。冒頭で紹介した『唯摩経疏』の成立年が『唯摩経疏』断簡末尾の「定居元年辛未」(611)と『唯摩経疏』の癸酉(613)とでは2年の差があるのですが、この差が聖徳太子誕生年の2説の差と同じです。すなわち、『唯摩経疏』の成立年の2説発生は、誕生年の2説の差が原因なのです。
 このように『補闕記』と『聖徳太子伝記』での『唯摩経疏』完成年は2年のずれがありますが、共に聖徳太子40歳のときであると記されています。誕生年が2年ずれていますから、そのまま『唯摩経疏』完成年も2年ずれたわけですが、それではどちらが真実なのでしょうか。(つづく)


第464話 2012/09/06

「倭国所布評」木簡の冨川試案

 昨晩は初めて群馬県高崎市で宿泊しました。かなり暑い街かと思っていましたが、さすがに9月ですので、それほどではありませんでした。あるいは京
都の暑さで鍛えられていますから、そう感じたのかもしれません。今朝は桐生市に寄り、今は東武特急で浅草に向かっています。この電車からは東京スカイツリーが至近距離で見えますので、いつも楽しみにしています。 ---

 この北関東地方は「両毛」とも呼ばれ、古代史上でも重要な地域で、ヤマトタケル伝承がある「アヅマ(東・吾妻)」の国です。この「吾妻」に関して
気にかかっているテーマがあります。それは神奈川県在住の冨川ケイ子さん(古田史学の会・会員)が示唆されたことなのですが、「洛中洛外日記」447話で紹介した藤原宮出土「倭国所布評」木簡について、「□妻倭国所布評大野里」の判読不明の文字は「あ」と訓む字ではないかという指摘です。たとえば、「吾妻」=あづま(東)ではないかというアイデアなのです。

 このアイデアが学問上の仮説となるためには、同木簡の精査と「東」を意味する「吾妻」という表記が他の木簡にもあるのかという手続きが必要です。わたしは、面白いけれども今一つ納得のいくアイデアではないと思い、そのような返答をしました。しかし、今回北関東(吾妻の国)の地に来てみると、この冨川試論は一考の余地があるように思えてきました。

 というのも、「倭国所布評大野里」という国名地名の直前にある二文字であり、「□妻」とあるのですから、一応「吾妻」あるいは「阿妻」のような表記も可能性の一つとしてあり得ないことはなく、少なくとも検討はしなければならないと思うに至ったのです。もし「吾妻」であれば、「アヅマ(東)倭国」となり、西の九州王朝倭国に対して、東の大和朝廷倭国との「意図的書き分け」という作業仮説も成立するからです。

 まずは学問の方法(手続き)として、同木簡を見ることから始めたいと思いますが、はたして見せてもらえるものなのでしょうか。

 --- もうすぐ浅草です。明日は大阪で仕事ですので、これから新幹線で京都に帰ります。


第463話 2012/09/04

太宰府「戸籍」木簡の「川ア里(川辺里)」

 今、新潟へ向かう特急北越7号の車中です。左には夕日に映える富山湾、右にはごつごつとした立山連峰(剣岳か)の稜線がちょっと不気味で神秘的です。 ---

 さて、久しぶりに太宰府出土「戸籍」木簡について触れます。8月の関西例会で、わたしは大宝二年の筑前国嶋郡川辺里戸籍断簡(正倉院文書)につい
て解説したのですが、そのときにわたしが勘違いしていたことについても説明しました。それは、太宰府出土「戸籍」木簡に「川ア里」(アは部の略字)とあったので、同「戸籍」木簡は全て川ア里を対象とした「籍」記事と理解していたのですが、それがどうも勘違いだったようなのです。
同「戸籍」木簡には「建ア(たけるべ)」姓や「占ア(うらべ)」姓が記されており、大宝二年の「川辺里」戸籍断簡にも多数の「建部」姓や「卜部(うらべ)」姓が見えることもあって、両者は共に川辺里の「戸籍」のことと、わたしは当初判断していたのです。しかし、同「戸籍」木簡をよく読むと、木簡上部冒頭に「嶋評」とはありますが、何という「里」を対象としたものかは記されていません。あるいは判読できていません(木簡上部に「嶋一□□」という判読不明文字があります)。

 木簡中の「川ア里」という文字は人名などの記事の途中に記されており、これは、その前あるいは後の人物が「川ア里」に関係する人物であることを「注記」しているのであり、木簡に記された人名すべてが「川ア里」の人々であることは意味していないということに気づいたのです。
もし全員が「川ア里」の人であるならば、文の途中で「川ア里」とわざわざ記す必要はありません。むしろこの木簡は「川ア里」以外の別の「里」の人々の出入り増減を記したものと理解すべきではないでしょうか(同木簡には「又附去」「又依去」という記事もあり、人物の移動を示しているようです)。その中のある人物が「川ア里」に移動したことを注記するために、「川ア里」という地名が文章の途中に記されているようなのです。

 少なくとも、そうした可能性の検証なしに、すべて「川ア里」の人物を対象とした「戸籍」木簡と見るべきではなかったのです。
同「戸籍」木簡中の「嶋評」「川ア里」という地名に目を奪われた、わたしの錯覚だったようです。史料批判は慎重な上にも慎重に行わなければならないと痛感した勘違いでした。

 --- 車窓は漆黒となりました。もうすぐ目的地の長岡に到着します。


第460話 2012/08/29

九州年号改元の手順

 先日、正木裕さん(古田史学の会・会員)が見えられ、最近の研究テーマや話題について意見交換しました。主な話題は札幌市の阿部周一さんが「発
見」された九州年号群史料『日本帝皇年代記』でした。二人ともこのような史料がまだ残されていたことに驚き、おそらくわたしたちがまだ知らない史料が各地に遺されているであろうことなどを話し合いました。古田学派の研究者の数がもっと増え、切磋琢磨して研究レベルを上げることができれば、こうした史料発掘や研究がさらに進むことでしょう。今回の阿部さんの史料発掘には感謝の気持ちでいっぱいです。

 「洛中洛外日記」第459話でご紹介した九州年号改元記事(各地からの白雉などの献上に基づいて改元されたという記事)について、わたしの見解を述べたところ、正木さんからするどい指摘がなされました。それは、改元の動機と手順についての基本的な論理性についてでした。

 正木さんが指摘されたのは、白雉や赤雀・赤雉が献上されたから、白雉・白鳳や朱雀・朱鳥に改元されたのではなく、まず改元の動機となる事件(国家的災難・吉兆や辛酉改元の慣習など)が発生し、ついで改元予定の発表があり、それに基づいて各地から献上品が届けられ、その上で新元号が定められ、最後に改元の詔勅が公布されるのではないか、という考え方です。

 細かい点はいろいろとあるにせよ、基本的に改元とはこうした行政手続きを経て行われるというのは、ある意味で当然のことと思いました。この正木さんの指摘は大変するどいものといわざるを得ません。おそらく、九州王朝内で改元の検討が始まったとき、各地でそれにふさわしい献上品が選択され、九州王朝に競って献上されたのではないでしょうか。新元号の根拠とされた品を献上した国に対しては、昇進や褒美、あるいは課役の免除が行われるからです。『日本書紀』の白雉改元記事を見ても、このことは明らかです。

 この正木さんが指摘された「改元手順の論理性」のおかけで、わたしはある疑問の解決案を思いつきました。それは芦屋市出土の「元壬子年」木簡について抱いていた疑問です。同木簡が九州年号の白雉元壬子年(652)を意味することは疑えないのですが、その記載内容や「書式」に疑問をわたしはずっと抱いていたのです。その疑問の一つは、「元壬子年(以下欠)」と書かれた面と、その裏面の「子卯丑□何(以下欠)」という文字列の書き出しがずれていることです。具体的には「元壬子年」の文字が、裏面の文字列より一字分下にずれて書かれているのです。そのため、「元壬子年」という文字列の上にはかなりの空白があり、「白雉」という年号を記すスペースは十分あるにもかかわらず、何故か空白となっていることに、わたしは疑問を感じていました。

 この疑問に対して、今回の正木指摘に基づいて考えると、この「元壬子年」木簡が記された時点では、新年号は未定だったのではないかという可能性と新理解が浮かんだのです。改元の予告と、新元号が決定されるまでの期間にこの木簡が作られた場合、未定の新年号部分を意図的に空白にしたと考えたのです。そのように考えた場合、この木簡の史料状況がうまく説明できるのですが、いかがでしょうか。

 さらにももう一つの疑問ですが、この木簡の上部は半円形に加工されており、いわゆる荷札木簡とは形状が異なっています(下部は欠損)。おそらくこの木簡は手に持っての使用を想定されたもので、改元に関わる儀礼・儀式に用いられたのではないでしょうか。意味不明の「子卯丑□何」という記載もこうした視点からの検討が必要と思われます。

 阿部さんの史料発掘や正木さんの改元手順の指摘のおかげで、新たな理解に至ることができ、さらなる展開が期待できそうです。


第459話 2012/08/26

『日本帝皇年代記』の九州王朝記事

 阿部周一さん(古田史学の会・会員)から教えていただいた『日本帝皇年代記』は様々な史料を寄せ集めて編集されていますが、その中に九州王朝系史料からの引用と思われるものが散見されます。それらの史料批判により九州王朝史の復元に寄与できそうです。それら九州王朝記事についてご紹介します。
 九州王朝系記事として注目さるのが、白雉・白鳳・朱雀・朱鳥の九州年号改元記事です。白雉は「壬子白雉」(652)の下の細注に「依長門国上白雉也」と、長門国からの白雉献上に基づいて改元したとあります。この白雉献上記事は『日本書紀』の「白雉元年」(庚戍・650)二月条に記されているのですが、 『日本帝皇年代記』には九州年号の白雉元年(652)に記されており、本来の九州年号史料に基づいていると考えられます。なお、『日本書紀』の白雉改元記事が二年ずらして盗用されていることに関しては、拙論「白雉改元の史料批判」(『「九州年号」の研究』所収)をご参照ください。
 次に白鳳改元記事ですが、「辛酉白鳳」(661)の細注に「依備後国上白雉也」とあり、備後国からの白雉献上に基づいて白鳳に改元したとされています。これは『日本書紀』にも見えない記事で、九州王朝系記事として貴重です。
 朱雀改元記事では、「甲申朱雀」(684)の細注に「依信濃国上赤雀為瑞」と、信濃国からの赤雀献上が記されています。これも『日本書紀』には見えない記事です。
 朱鳥改元でも、「丙戍朱鳥」(686)の細注に「依大和国上赤雉也」とあり、この大和国からの赤雉献上記事も『日本書紀』には見えません。これは九州王朝への赤雉献上記事ですが、近畿天皇家一元史観では「大和の朝廷」への「大和国」からの献上となり、不自然な感じがあります。
 この他にも、『日本帝皇年代記』には九州王朝系記事が見られますので、別途、『古代に真実を求めて』に小論を投稿したいと思います。


第458話 2012/08/25

『日本帝皇年代記』の九州年号

 昨日の深夜、札幌市の阿部周一さん(古田史学の会・会員)からメールが届きました。『日本帝皇年代記』(鹿児島県、入来院家所蔵未刊本)のことが紹介されており、その中に九州年号が使用されていることや、白鳳10年条(670)に「鎮西建立観音寺」という記事があることなどをお知らせいただきました。『日本帝皇年代記』という年代記はわたしも初めて聞くもので、阿部さんもインターネット検索で「発見」されたとのこと。
 さっそく、お知らせいただいた長崎大学リポジトリ(山口隼正「『日本帝皇年代記』について:入来院家所蔵未刊年代記の紹介」2004.03.26)を閲覧したところ、たしかに今まで見たことのないタイプの九州年号群史料でした。神代の時代から始まり、歴代天皇へと続く年代記ですが、九州年号の善記元年(522)からは九州年号を用いた編年体年代記となり、大化6年(700)までは九州年号を、それ以降は近畿天皇家の大宝年号へと続いています。
 多くの史料から集められた様々な和漢の記事が記されている年代記ですが、なかでもわたしが注目したのは、阿部さんも指摘された白鳳10年(670)の 「鎮西建立観音寺」という記事でした。太宰府の観世音寺創建年を記す貴重な記録ですが、同様の記事が山梨県の『勝山記』に見えることは既にご紹介してきたところです。観世音寺白鳳10年建立を記した史料が、山梨県から遠く離れた鹿児島県の入来院家所蔵本『日本帝皇年代記』にも記されているという史料状況は、観世音寺白鳳10年建立の記事が誤記誤伝の類ではなく、九州王朝系史料に確かに存在していたことを指し示すものです。同年代記の「発見」により、観世音寺白鳳10年建立説は創建瓦の編年との一致も含め、ますます確かなものになったといえます。(つづく)

参考

『日本帝皇年代記』について : 入来院家所蔵未刊年代記の紹介(上) PDF


第457話 2012/08/23

坂出市にあった讃岐国府

 昨日から仕事で香川県坂出市に来ています。同市の地図を見て知ったのですが、讃岐国の国府は坂出市にありました。恥ずかしながら、わたしは讃岐国
府はてっきり県庁所在地の高松市付近にあるものと勝手に思っていました。本当に情けない話ですが、伊予国府もずっと松山市近郊か伊予郡にあったと思っていたのですが、実は今治市にあったことを合田洋一さん(古田史学の会・四国)から教えていただいたこともありました。もっと四国のことを勉強しなければと、自らの知識不足を痛感しています。

 そういえば、四国高速道路のパーキングエリアに「府中湖」があり、何度も利用したことがあったのですが、この「府中」が国府所在地を意味することに気づかずにいたのでした。また、NHK大河「平清盛」で崇徳上皇の流刑地が坂出市だったことを知ったのですが、なぜ坂出市だったのかがようやく納得できました。坂出市の国府跡の近傍に香川県埋蔵文化財センターがあるのも、よく納得できました。

 同センターの学芸員の方にお聞きしたのですが、国府跡の遺構はまだ確定できていないそうですが、遺物の出土量が多く、「府中」という地名から考えても、この地域(府中町本村)であることはほぼ間違いないでしょうとのことでした。この地に国府が置かれたのは大化期(7世紀中頃)から鎌倉時代までとのことで、それ以前の讃岐の中心領域はどこかたずねたところ、いくつか候補地(観音寺市・善通寺市・高松市)があり、坂出市府中もその一つとのこと。
国府跡の側にある城山(きやま)は石塁や土塁がある古代山城とのことでしたので、いつ頃の遺跡かたずねたところ、発掘調査からは不明で、白村江戦以後(天智期)との通説によっておられました。遺構は岡山県の鬼ノ城によく似たものも出土しているとのことでした。また、石塁は神籠石のような一段列石ではなく、いわゆる朝鮮式山城のような積み石とのことです。

 同地域は山間の狭い地域ですので、なぜこんなところに国府がおかれたのか疑問でしたが、古代官道の南海道が近くを通っていたらしく、そういえば高速道路もJR予讃線もこの付近を通っており、交通の要所であることは確かなようです。

 なお、松山市出土の「大長」木簡が展示される「発掘へんろ」巡回展は9月18日から12月16日まで、この香川県埋蔵文化財センターで開催され、入場無料とのことでした。またそのころに訪問するつもりです。


第453話 2012/08/12

科学的事実と空気的事実

 今回は古代史から離れますが、科学的事実(古代史では多元史観・古田史学)よりも、社会の「空気」(利害関係に縛られた通念)を「正しい」とする空気的事実(古代史では近畿天皇家一元史観)という、学問・真理と現実社会に焦点を当てた鋭い一文を紹介します。

 執筆者の武田邦彦さんは中部大学教授で、原子力工学・材料工学の専門家です。テレビにもよく出ておられる著名人といってもよいでしょう。下記は氏
のホームページから転載させていただきました。これを読んで、皆さんはどのように感じられるでしょうか。わたしは、古田史学と古代史学界の関係に似ている
ようで、とても考えさせられました。

 

「理科離れ」・・・君の判断は正しい(先輩からの忠告)  武田邦彦

 「理科離れ」が進んでいる。日本は科学技術立国だから250万人ほどの技術者が必要で、少なくなると自動車もパソコンもテレビも公会堂も作れなくなるし、輸出もできずに食料や石油を輸入することもままならない貧乏国になる。

 だから、どうしたら理科離れを防ぐことができるか?と学会、文科省などが苦労している。でも、私は子供に理科をあまり勧められない。

・・・・・・・・・・

 理科が得意な子供は「アルキメデスの原理」を理解できる。そうすると「北極の氷が融けても海水面は上がらない」ということが分かる。それを学校で言うと先生から「君は温暖化が恐ろしいのが分からないのか!」と怒られる。

 理科が得意な子供は「凝縮と蒸発の原理」が理解できる。そうすると「温暖化すると南極の氷が増える」と言うことが分かる。でも、それを友人に言う
と「お前は環境はどうでも良いのか!」といじめられる。反論しても「NHKが放送しているのがウソと言うのか!」とどうにもならない。

 理科が得意な子供は「森林はCO2を吸収しない」ということを光合成と腐敗の原理から理解している。しかし、それを口にすることはできない。「森を守らないのか!」と怒鳴られる。

 物理の得意な大学生は「エントロピー増大の原理から、再生可能エネルギーとかリサイクルは特殊な場合以外は成立しない」ことを知る。でも、そんな
ことを学会で話すことはできない。エントロピー増大の原理を理解している人は少ないし、まして、そのような難解な原理と日常生活の現象を結びつけることが
できる人も少ない。

 日本は「理科を理解しない方がよい」という社会である。「それは本当はこうなんです」と説明すると「ダサい」と言われる。原発が危険な理由を説明すると「お前は日本の経済はどうでも良いのか!」とバッシングを受ける。

 理科を理解できない人が理科を理解している人をバッシングする時代、理科的に正しいことでも社会にとって不都合と思われることを口にできない時代なのだ。だから君が理科を勉強すると不幸が訪れる。「理科離れ」は正しいのだ。

 これほど自然現象を無視した社会では理科を勉強しない方がよい。NHKは科学的事実を報道しているのではなく、空気的事実を報道する。そしてそれが社会の「正」になるし、さらに受信料を取られる。それは極端に人の心を傷つけるものだ。

(平成24年8月11日)


第451話 2012/08/08

藤原宮時代の国名は「日本」?

 今日は名古屋から東京に来ています。東京も暑いですが、京都や名古屋よりはまだましなようです。その暑い最中、新日本橋からJR神田駅まで歩いたのですが、道を間違って随分遠回りしてしまいました。今は神田駅近くのスタバでアイスコーヒーブレークしています。
 第447話で、藤原宮出土「倭国所布評」木簡についてご紹介したのですが、わたしはこの木簡にかなり衝撃を受けました。この木簡に記された「倭国」につ いて、7世紀末の王朝交代時期に、近畿天皇家が九州王朝の国名「倭国」を自らの中枢の一地域名(現・奈良県)に盗用したものと推察したのですが、より深い疑問はここから発生します。
 それでは、このとき近畿天皇家は自らの国名(全支配領域)を何と称したのでしょうか。この疑問です。九州王朝の国名「倭国」は、既に自らの中心領域に使用していますから、これではないでしょう。そうすると、あと残っている歴史的国名は「日本国」だけです。
 このように考えれば、近畿天皇家は遅くとも藤原宮に宮殿をおいた7世紀末(「評」の時代)に、「日本国」を名乗っていたことになります。先の木簡の例でいえば「倭国所布評」は、「日本国倭国所布評」ということです。『旧唐書』に倭国伝と日本国伝が併記されていることから、近畿天皇家が日本国という国名で中国から認識されていたことは確かです。その自称時期については、今までは701年以後とわたしは何となく考えていたのですが、今回の論理展開が正しけれ ば、701年よりも前からということになるのです。
 このような論理展開の当否を含めて、7世紀末の王朝交代時期にどのような経緯でこうした国名自称がなされたのか、九州王朝説の立場から、よく考えてみる必要がありそうです。
 さて、ようやく身体が冷えてきましたので、これからもう一仕事(近赤外線吸収染料のプレゼン)します。今晩は東京泊で、明日はまた名古屋に向かいます。


第450話 2012/08/04

大谷大学博物館「日本古代の金石文」展

 今朝は大谷大学博物館(京都市北区)で開催されている「日本古代の金石文」展を見てきました。入場無料の展示会ですが、 国宝の「小野毛人墓誌」をはじめ、古代金石文の拓本が多数展示され、圧巻でした。古田先生も大下さん(古田史学の会・総務)と共に先日見学されたそうで す。

 今回、多くの古代金石文の拓本を見て、同時代文字史料としての木簡との対応や、『日本書紀』との関係について、改めて調査研究の必要性を感じました。

 例えば、太宰府出土「戸籍」木簡に記されていた位階「進大弐」や、那須国造碑に記された「追大壱」(永昌元年己丑、689年)、釆女氏榮域碑の「直大 弐」(己丑年、689年)などは『日本書紀』天武14年条(685年)に制定記事がある位階です。

 それよりも前の位階で『日本書紀』によれば649~685年まで存在したとされる「大乙下」「小乙下」などが「飛鳥京跡外郭域」から出土した木簡に記さ れています。今回見た小野毛人墓誌にも『日本書紀』によれば、664~685年の期間の位階「大錦上」が記されていました。同墓誌に記された紀年「丁丑 年」(677年)と位階時期が一致しており、『日本書紀』に記された位階の変遷と金石文や木簡の内容とが一致していることがわかります。

 『日本書紀』の記事がどの程度信用できるかを、こうした同時代金石文や木簡により検証できる場合がありますので、これからも丁寧に比較検討していきたいと思います。


第445話 2012/07/21

太宰府「戸籍」木簡の「政丁」

 太宰府市出土「戸籍」木簡の文字で、ずっと気にかかっていたものがありました。「政丁」という記載です。通常、木簡や大 宝二年西海道戸籍などでは、「正丁」という表記なのですが、大宰府出土の「戸籍」木簡には「政丁」とあり、意味は共に徴税の対象となる成人男子 (20~60歳)のことと思われるのですが、なぜ表記面積が紙よりも狭い木簡に、より画数の多い「政丁」が使用されるのかがわかりませんでした。

 ところが木簡の勉強を進めているうちに、同じ福岡県の福岡市西区元岡遺跡から出土していた木簡にも、「政丁」と記載されているものがあることを知ったの です。同遺跡からは、「壬辰年韓鉄」と書かれた木簡も出土しており、この「壬辰年」は692年のこととされていますので、これら元岡遺跡出土の木簡は7世紀末頃のもののようです。

 この元岡遺跡出土の木簡によれば、7世紀末の筑紫では「政丁」という文字使いがなされていたと考えられ、大宰府「戸籍」木簡の「政丁」と一致しますから、九州王朝では「政丁」という表記が正字として採用されていたと考えていいようです。

 ONライン(701年)を越えた8世紀以降は、大宝二年西海道戸籍にある「正丁」に変更されていますから、ここでも九州王朝から近畿天皇家への王朝交代の影響が見られるのです。

 なお、大宝二年御野国戸籍(美濃国。岐阜県)では、徴税対象となる「戸」を「政戸」と表記していますから、太宰府市や元岡遺跡から出土した木簡の「政丁」という表記との関係がうかがえます。通説では、大宝二年の御野国戸籍の様式は古い浄御原令によっており、西海道戸籍は新しい大宝律令によっていると見 られていますので、「政丁」「政戸」という表記は701年以前の古い様式であったとしてよいようです。

 このように木簡研究により、7世紀末の九州王朝や近畿天皇家の様子がリアルに復元できそうで、木簡研究の重要性を再認識しています。