第2450話 2021/05/06

「倭王(松野連)系図」の史料批判(12)

 ―系図を伝えた松野氏の多元的歴史観―

 本テーマの最後に、「倭王(松野連)系図」を伝えてきた松野氏の歴史認識について考察します。
 「倭王(松野連)系図」の特徴は次のような点で、こうした祖先の系譜と伝承を歴代の松野氏は「是」として伝えてきたということが、フィロロギーの視点からは重要です。

(1)呉王夫差を始祖とする一族が日本列島に渡来し、あるときから火国(肥後)に土着した。
(2)その祖先には『日本書紀』景行紀に記された人物(厚鹿文、取石鹿文、市鹿文、他)がいた。
(3)その後、『宋書』に記された「倭の五王」「倭国王、哲」らが続く。
(4)更に、7世紀中頃になると筑紫の夜須評督になり、7世紀後半には松野連姓を賜った。
(5)8世紀には、律令官僚として大和朝廷に仕えた(注)。

 概ね、以上のようです。自家の系図を造作するときは始祖を近畿天皇家や藤原鎌足などの歴史上の権威者にすることはよくあるのですが、松野氏の場合は中国の周王朝に繋がる呉王夫差を始祖とし、近畿天皇家との繋がりは全く見られません。他方、『宋書』に見える「倭の五王」やその次代の「哲」に「倭国王」と傍注を付けて、自らを倭国王の裔孫としています。これは不思議な現象で、この系図を伝えてきた歴代の松野氏は、近畿天皇家と「倭の五王」「倭国王、哲」を別の家系と認識していたことがわかります。このような歴史認識が松野氏内に連綿と続いていたわけで、これはとても珍しい多元的歴史認識ではないでしょうか。
 このような「倭王(松野連)系図」が示す歴史認識は、近畿天皇家の時代の8世紀以後、『日本書紀』成立以降に造作できるものではありませんし、そのメリットもありません。ですから、こうした〝多元史観の系図〟を伝えた松野家は、ある時代までは九州王朝の歴史的存在を記憶していたと考えざるを得ないのです。その意味でも、研究に値する貴重な系図と言えるのではないでしょうか。(おわり)

(注)同系図には、8世紀の人物「弟嗣」「楓麿」の傍注に「従七位下」「外従七位上」などの律令制官位が見えることからも大和朝廷の官人だったことがわかる。

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