史料批判一覧

第3223話 2024/02/11

考古学における先験的な都市の指標 (2)

 G・V・チャイルド(注①)が提唱した「古代都市」の指標(必要条件)とは次の10基準です(Vere Gordon Childe、The Urban Revolution. The Town Planning Review 21、1950)。

(1)大規模集落と人口集住
(2)第一次産業以外の職能者(専業の工人・運送人・商人・役人・神官など)
(3)生産余剰の物納
(4)社会余剰の集中する神殿などのモニュメント
(5)知的労働に専従する支配階級
(6)文字記録システム
(7)暦や算術・幾何学・天文学
(8)芸術的表現
(9)奢侈品や原材料の長距離交易への依存
(10)支配階級に扶養された専業工人

 この10基準は西アジアの初期「古代都市」の指標(必要条件)ですから、弥生時代や古墳時代以降の日本列島の都市の指標としてはそのまま採用しにくいため、考古学者からは新たな指標が提案されています。南秀雄さんの「上町台地の都市化と繁多湾岸の比較 ―ミヤケとの関連」(注②)には、次の例が紹介されています。

○M.E.スミス氏による初期都市・初期国家形成における根本的プロセス・最重要基準(注③)。〔番号はチャイルドの基準提示純〕
(1)規模と人口密度
(2)恒常的専業者の存在
(3)税の収奪
(5)支配階級の形成
(10)血縁より地縁に基礎をおく国家組織

○エジプト考古学者 M.ビータク氏の9項目。
(1)高密度の住居(1ha当たり5人以上、人口2000人以上)
(2)コンパクトな居住形態
(3)非農業共同体
(4)労働・職業の分化と社会的階層性
(5)住み分け
(6)行政・裁判・交易・交通の地域的中心
(7)物資・技術の集中
(8)宗教上の中心
(9)避難・防御の中心

 このように考古学分野では「世界的標準」を学問の方法に採用したり、配慮しながら研究や自説の構築を進めています(注④)。こうした姿勢を古田学派でも自説の構築・検証に取り入れるべきではないでしょうか。

 わたしが提起した〝7世紀における律令制都城の絶対5条件〟とは、九州王朝(倭国)による律令制(評制)統治に不可欠な条件を、史料(エビデンス)が豊富な8世紀の大和朝廷(日本国)における律令制統治の実態から抽出したものです。そして、それら5条件はそれぞれ独立しているが、〝系〟として互いに必要不可欠な条件として連結していることを重視しました。

【律令制王都の絶対5条件】
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら計数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

この10年、古田学派内で続いてきた、7世紀での九州王朝(倭国)の王都王宮の所在地論争を収斂させるための問題提起でもありますので、特に前期難波宮の九州王朝王宮(複都の一つ)説に反対する九州王朝説論者の真正面からの批判・批評を願っています。

(注)
①G・V・チャイルドについて、ウィキペディアの解説を転載する。
ヴィア・ゴードン・チャイルド(Vere Gordon Childe、1892年4月14日~1957年10月19日)は、オーストラリア生まれの考古学者・文献学者。ヨーロッパ先史時代の研究を専門とし、新石器革命(食料生産革命)、都市革命を提案した。また、マルクス主義の社会・経済理論と文化史的考古学の視点を結合させ、異端視されたマルクス主義考古学(英語版)の提唱者でもある。
②南秀雄「上町台地の都市化と繁多湾岸の比較 ―ミヤケとの関連」『大阪文化財研究所紀要』第19号、2018年。
③SMITH.E.Michael (2009)‘V.Gordon Childe and the Urban Revolution : a historical perspective on a revolution in urban studies’,Town Planning Review,80(1) (訳:南秀雄、「V.ゴードン・チャイルドと都市革命―都市研究の革命に対する歴史学的展望」『大阪文化財研究所紀要』第18号、2017年)
④古代都市論の諸研究について、小泉龍人「都市論再考 ―古代西アジアの都市化議論を検証する―」(『ラーフィダーン』第XXXIV巻、2013年)で簡潔に紹介されており、参考になった。


第3198話 2024/01/09

新年の読書、松本清張「古代史疑」 (3)

 卑弥呼=ヒミカ説の濫觴(らんしょう)

 『古代史疑・古代探求 松本清張全集33』は、当時(昭和四十年頃)の邪馬台国論争の状況・諸説を要領よく紹介されており、勉強になりました。同時に著者による自説の紹介もあるのですが、その中で邪馬壹国の女王、卑弥呼の訓みを「ヒミカ」としており、驚きました。卑弥呼=ヒミカ説は古田先生も発表されていますが、その濫觴(らんしょう)が松本清張氏だったことを知りました。松本氏の論旨は次のようです。

 〝そこで、私は「卑弥呼」も「台与」も、「卑弥弓呼素」(そう読むとして)も、やはり地名からきている名ではないかと思うのである。
そう考えるなら、卑弥呼は「ヒミカ」と訓んでもよさそうである。
「呼」の正確な訓みようはない。大森説では前記のように「ヲ」をあげているが、八世紀の読み方を私はあまり信用しない。通説では「コ」と訓んでいるが、あるいは「カ」という音を写した文字かも分からないのである。「ヒミカ」と訓んでも「ヒミコ」と訓んでも同じような気がする。
もし「ヒミカ」なら、すなわち「ヒムカ」(日向)になる。つまり卑弥呼は日向にいた巫女かもしれないのである。「ヒムカ」といっても八世紀に区分された日向国ではない。当時の九州のどこかにヒミカといわれる土地があったのではあるまいか。〟83頁

 このように、松本説は「ヒミカ」地名淵源説とでもいうべきものです。一つの解釈(作業仮説・思いつき)としては成立していますが、そう考えざるを得ない(他の仮説は成立しない)、あるいは他の仮説よりも有力とする〝論証の末に成立した仮説〟とまでは言い難いものです。

 この点、古田先生のヒミカ説は次のような論証と傍証により、他の説よりも優れた仮説として成立しています。松本説との違いは、学問の方法(論証の優越性とエビデンスの確かさ)に関することであり、この点重要です。

 〝俾弥呼(注①)の訓み

 では、この「俾弥呼」の“訓み”は何か。これは、通説のような「ヒミコ」では「否(ノウ)」だ。「ヒミカ」なのである。このテーマについて子細に検証してみよう。

 第一に、「コ」は“男子の敬称”である。倭人伝の中にも「ヒコ(卑狗)」という用語が現れている。「対海国」と「一大国」の長官名である。この「コ」は男子を示す用語なのである。明治以後、女性に「~子」という名前が流行したけれど、それとこれを“ゴッチャ”にしてはならない。古代においては女性を「~コ」とは呼ばないのである。

 第二に、倭人伝では、右にあげたように「コ」の音は「狗」という文字で現している。だから、もし「ヒミコ」なら「卑弥狗」となるはずである。しかし、そのような“文字使い”にはなっていないのである。

 「ヒミカ」とよむ

 では、「俾弥呼」は何と“訓む”か。――「ヒミカ」である。

 「呼」には「コ」と「カ」の両者の読み方がある。先にのべたように、「コ」の“適用漢字”が「狗」であるとすれば、こちらの「呼」はもう一方の「カ」音として使われている。その可能性が高いのである。
「呼(カ)」とは、何物か。“傷(きず)”である。「犠牲」の上に“きずつけられた”切り口の呼び名なのである。中国では、神への供え物として“生身の動物”を奉納する場合、これに多くの「切り口」をつける。鹿や熊など、“生き物”を神に捧げる場合、“神様が食べやすい”ようにするためである。それが「呼(カ)」である。古い用語である。そして古代的信仰の上に立つ、宗教的な用語なのである。「鬼道に事(つか)えた」という、俾弥呼にはピッタリの用語ではあるまいか。

 「ヒミカ」の意味

 「ヒミカ」とはどういう意味か。
「ヒ」は当然「日」、太陽である。次の「ミカ」は「甕」。“神に捧げる酒や水を入れる器”である。通例の「カメ」は、人間が煮炊きする水の入れ物である。日用品なのである。これに対して「ミカ」の場合、“神に捧げるための用途”に対して使われる。こちらの方が「ヒミカ」の「ミカ」である。

 すなわち、「太陽の神に捧げる、酒や水の器」、それが「ヒミカ」なのである。彼女の「鬼道に事(つか)える」仕事に、ピッタリだ。「鬼道」とは、あとで詳しくのべるように「祖先の霊を祭る方法」であり、それに“長じている”女性が俾弥呼だったのである。〟(注②)

 松本氏のヒミカ地名起源説よりも、古田先生のヒミカ論が際立っている。このことがご理解いただけるのではなないでしょうか。(おわり)

(注)
①『三国志』倭人伝では「卑弥呼」の字が使われ、本紀では「俾弥呼」が使われている。古田説では「俾弥呼」が本来の用字、すなわち自署名とする。
②古田武彦『俾弥呼』ミネルヴァ書房、平成二三年(二〇一一)。


第3197話 2024/01/08

新年の読書、松本清張「古代史疑」 (2)

   ―「邪馬台国」の原文改定―

 年始に古書店で購入した『古代史疑・古代探求 松本清張全集33』(注①)には、倭人伝の原文改定について次の三例が紹介されていました。

Ⅰ.「南、邪馬壱(台の誤り)国に至る。」13頁
Ⅱ.「景初三年(二三九。原文、二年)」14頁
Ⅲ.「台与(原文、壹與。『梁書』と『北史』を参照して臺與の誤りとされている)」15頁

 Ⅲについては、一応、原文改定の根拠らしきことが示されていますが、なぜか邪馬壱国についてはそれがありません。古田先生は、この「古代史疑」で紹介された邪馬壱国から邪馬台国への原文改定の事実を、松本清張氏が最後まで説明されなかったことを不審として、自らが『三国志』の「壹」と「臺」の悉皆調査を行われ、原文改定が否であることを証明されました。そのことを東京大学の『史学雑誌』(注②)に発表され、古田武彦の名前と邪馬壹国説は古代史学界で、一躍注目されるに至ったことは有名です。

 それではなぜ松本氏は邪馬台国への原文改定を、何の説明も論証も無いまま採用したのでしょうか。というのも、氏自身が同書で次のように、原文改定を誡められているだけに、不審と言うほかありません。

 「要するに、距離(里数、日数)の点では大和説が有利である。ただし、『魏志』の原文にある南を東としたのは、「自説に都合のいい、勝手な解釈」といわれても仕方がなく、大和説の欠陥である。」24頁
「私はやはり『魏志』の通りに帯方郡から邪馬台国までの方向をすべて「南」としたい。原典はなるべくその通りに読むべきだと思う。」37頁

 このように、松本氏は原文尊重を主張していながら、邪馬壹国については、何の疑いもなく原文改定された「邪馬台国」を採用しています。何とも不思議なことです。その後、1969年に古田先生の論文「邪馬壹国」が発表されると、次のように述べています。

 「この問題を、これほど科学的態度で追跡した研究は、他に例がないだろう。十分に説得力もあり、何もあやしまずにきた学会は、大きな盲点をつかれたわけで、虚心に反省すべきだと思う。ヤマタイではなくヤマイだとしたら、それはどこに、どんな形で存在したのか、非常に興味深い問題提起で、私自身、根本的に再検討を加えたい」(注③)

 残念ながら、古代史学界では今も原文改定した「邪馬台国」が、なに憚ることなく使われ続けています。そして、教科書もまた。(つづく)

(注)
①「古代史疑」の初出は『中央公論』の連載(昭和41年6月~42年3月〔1966年〕)。
②古田武彦「邪馬壹国」『史学雑誌』78-9、1969年。
③「読売新聞」昭和44年11月12日〔1969年〕。
古賀達也「洛中洛外日記」1084話(2015/10/29)〝「邪馬壹国」説、昭和44年「読売新聞」が紹介〟


第3194話 2024/01/05

和田昌美さんから

「結集(けつじゅう)」の呼びかけ

 本日、開催された新年最初のリモートによる古代史研究会(多元的古代研究会主催)で、和田昌美さん(同会事務局長)から、〝釈迦の弟子等が釈迦入滅後に行った「結集(けつじゅう)」を私達も行おう〟という提案がなされました。釈迦の直弟子等が集まり、釈迦から聞いたことを皆で出し合い、その記憶を確認し、合意形成して、阿含経を編纂したことを「第一回結集」とされています。それと同様に、古田先生没後の現在、その教えを受けた者、学んだ者が一堂に会して「結集」しようという提案で、時宜に適ったものです。

 実は、わたしも「結集」を呼びかけたことがありました。2001年10月8日、東京の朝日新聞社ホールで開催された『「邪馬台国」はなかった』発刊三十周年紀年講演会で祝賀講演を谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)とわたし(当時、古田史学の会・事務局長)が行うことになり、わたしは「古田史学の誕生と未来」というテーマで講演しました(注①)。その冒頭と締めくくりに次のように述べました。

 〝(前略)
従いまして今日、私がお話しするのは「私は、このように聞いた」ということで、有名な釈迦の「結集(けつじゅう)」というのがございますね、釈迦の没後に弟子等五百人が集まって結集し、「私は、このように聞いた」と、要するに「如是我聞」と仏教の経典では最初にそれが入って、聞いた内容を口伝で伝える、という有名な「結集」というのがございます。
この「第一回結集」は王舎城(ラージャグリハ)郊外に五百人の比丘が集まってやったと、で、長老格の迦葉(かしょう)が座長を務めて、弟子の阿難陀(アーナンダ)とか優波離(ウパーリ)というのが、それぞれ先導を切って「そのように聞いた」と。それからずっと第二回結集、第三回結集と何百年と続いて釈迦の教えが伝えられ、世界に広まったという有名な話がございます。

 そういう意味から考えますと、本日のこの場所というのは、ある意味では、「古田史学の第一回結集」であると、そのようにも思うわけでございます。

 ただ違うのは、古田先生がお元気で三十年前と変わらず、今も多元史観の先頭を切って新しい学説を次から次へと発表されておられること、これが釈迦の結集とは一番違う、そういうところではないかと思っておるわけでございます。〟

 このように、わたしは講演を始め、最後を次のように締めくくりました。

 〝私たちが今、生きている時代というのは、日本の歴史学、古代史が天皇家一元史観というイデオロギーから、古田武彦という人物により、初めて学問として成立しつつある、ある意味では、成立した同時代に生きていると言って良いかと思います。おそらく百年後、二百年後、この国の若者、新しい探求者は、「あの時代が日本の古代史、歴史学が、イデオロギーから本当の学問へ変わろうとしている、日本の歴史学の『ルネッサンス』であったんだ」と、そう言われる時代が来ることを私は、確信しております。

 西洋のフィレンツェを中心とするレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロを輩出したあの「ルネッサンス」も、あの時代は「ルネッサンス」だとは分からなかった。分かったのは、百年後、二百年後の後だ。そして、「あの時代が、ああ、ルネッサンスだったんだ」と後で分かったという風に聞いております。おそらく、今のこの時代が「日本の古代史のルネッサンスである」と百年後、二百年後の青年、若き探求者から、そう呼ばれることを私は、疑いません。

 そして、私たちの学問は、そのためにあるべきであると、当然、体制に認められようとか、私利私欲、出世のためにやる学問ではございません。真実と人間の理性にのみに依拠し、百年後、二百年後の青年のために真実を追求する。この学問をやって参りたいという風に思うわけでございます。
今回は「第一回結集」と申しましたが、是非、十年後もまた、古田先生をお招きして「第二回結集」をやりたいと思っております。それまで、また、皆さんとお会い出来ることを楽しみにいたしまして、私からのご報告といたします。ご静聴ありがとうございました。〟(注②)

 和田さんの呼びかけに応えて、古田史学の「結集」を、新時代に相応しくリモートで行うのも良いでしょう。偶然ですが、わたしも三十年前の和田家文書偽作キャンペーンに対して、古田先生と一緒に闘った日々のことを、記憶が鮮明なうちに書籍として残し伝えるべく、青森や関東の皆さんと共に、『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)の発刊に向けて「結集」を行っています。

 また、この年末年始には、「喜田貞吉と古田武彦の学問と批判精神」という、研究史に関する論文を書き上げました。これも、古田先生の業績を後世に伝えるための、わたし一人だけのささやかな「結集」かもしれません。

(注)
①谷本茂氏の演題は「史料読解法の画期」。
②『東方の史料批判 ―「正直な歴史」からの挑戦―』(『「邪馬台国」はなかった』発刊三十周年紀年講演会講演録) 新・東方史学会編、2001年11月27日。


第3171話 2023/12/04

空理空論から古代リアリズムへ (2)

 前期難波宮「九州王朝複都」説を論文発表したのは2008年ですが、口頭では古田先生への問題提起を皮切りに関西例会などでそれ以前から発表してきました。ところが古田先生から批判されたこともあってか、古田学派内から様々な批判がなされました。そのおかげで、再反論のために土器編年や関連遺構の調査、前期難波宮や難波京を発掘した考古学者たちへのヒアリングなどを実施し、わたし自身も大変勉強になりました。まさに〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟を実体験できました。

 他方、これはいかがなものかと思うような〝批判〟もありました。たとえば、前期難波宮のような大規模な遺構は出土しておらず、大阪市や大阪府の〝地域おこし〟のために造作されたもので、古賀はそれを自説の根拠にしているというものです。こうした批判は、難波宮(難波京)を数十年にわたり発掘調査してきた大阪の考古学者に対して甚だ失礼なものでした。

 また、次のような批判も最近まで繰り返されています。云わく、〝文献的裏付けは何もなく、考古学的裏付けもなく、根拠となるのは「七世紀半ば、近畿天皇家が巨大王宮を建設するのを九州王朝が許すはずがない」という古賀達也氏の思考だけ〟というものです。

 この批判を受けて、わたしがこれまで発表してきた関連論文のリストを作成し、こうした批判が事実に基づかない「空理空論」であることを明らかにし、わたしの論文を正確に引用したうえで、事実に基づいた具体的な批判をいただけるよう努力しなければならないと、反省するに至りました。そこでこれまで発表した関連論文のリストを公表することにしました(多元的古代研究会の会誌『多元』に投稿させていただきました)。

2008年に発表した同テーマ最初の論文「前期難波宮は九州王朝の副都」を筆頭に、現在まで約50編の論文をわたしは発表してきました。論文の他に「洛中洛外日記」にも、関連する小文が多数あります(論文と内容が重複するものも含め、200編以上)。抜け落ちがあるかもしれませんが、各会誌・書籍で発表したそれらの論文・発表年を以下に列挙します。

《難波宮に関する論文・講演録》
【古田史学会報】古田史学の会編
① 前期難波宮は九州王朝の副都 (八五号、二〇〇八年)
② 「白鳳以来、朱雀以前」の新理解 (八六号、二〇〇八年)
③ 「白雉改元儀式」盗用の理由 (九〇号、二〇〇九年)
④ 前期難波宮の考古学(1) ―ここに九州王朝の副都ありき― (一〇二号、二〇一一年)
⑤ 前期難波宮の考古学(2) ―ここに九州王朝の副都ありき― (一〇三号、二〇一一年)
⑥ 前期難波宮の考古学(3) ―ここに九州王朝の副都ありき― (一〇八号、二〇一二年)
⑦ 前期難波宮の学習 (一一三号、二〇一二年)
⑧ 続・前期難波宮の学習 (一一四号、二〇一三年)
⑨ 七世紀の須恵器編年 ―前期難波宮・藤原宮・大宰府政庁― (一一五号、二〇一三年)
⑩ 白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判― (一一六号、二〇一三年)
⑪ 難波と近江の出土土器の考察 (一一八号、二〇一三年)
⑫ 前期難波宮の論理 (一二二号、二〇一四年)
⑬ 条坊都市「難波京」の論理 (一二三号、二〇一四年)
⑭ 「要衝の都」前期難波宮 (一三三号、二〇一六年)
⑮ 九州王朝説に刺さった三本の矢(前編) (一三五号、二〇一六年)
⑯ 九州王朝説に刺さった三本の矢(中編) (一三六号、二〇一六年)
⑰ 九州王朝説に刺さった三本の矢(後編) (一三七号、二〇一六年)
⑱ 「倭京」の多元的考察 (一三八号、二〇一七年)
⑲ 律令制の都「前期難波宮」 (一四五号、二〇一八年)
⑳ 九州王朝の都市計画 ―前期難波宮と難波大道― (一四六号、二〇一八年)
㉑ 古田先生との論争的対話 ―「都城論」の論理構造― (一四七号、二〇一八年)
㉒ 九州王朝の高安城 (一四八号、二〇一八年)
㉓ 前期難波宮「天武朝造営」説の虚構 ―整地層出土「坏B」の真相― (一五一号、二〇一九年)
㉔『日本書紀』への挑戦《大阪歴博編》 (一五三号、二〇一九年)
㉕ 難波の都市化と九州王朝 (一五五号、二〇一九年)
㉖ 都城造営尺の論理と編年 ―二つの難波京造営尺― (一五八号、二〇二〇年)

【古代に真実を求めて】古田史学の会編、明石書店
㉗ 「白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判―」 (十七集、二〇一四年)
㉘ 九州王朝の難波天王寺建立 (十八集、二〇一五年)
㉙ 柿本人麿が謡った両京制 ―大王の遠の朝庭と難波京― (二六集、二〇二三年)

【「九州年号」の研究】古田史学の会編、ミネルヴァ書房、二〇一二年
㉚ 白雉改元の史料批判
㉛ 前期難波宮は九州王朝の副都

【多元】多元的古代研究会編
㉜ 古賀達也氏講演会報告(宮崎宇史)「太宰府と前期難波宮 ―九州年号と考古学による九州王朝史復元の研究―」 (九七号、二〇一〇年)
㉝ 古賀達也氏講演録(宮崎宇史)「王朝交替の古代史 ―七世紀の九州王朝―」 (一一五号、二〇一三年)
㉞ 白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判― (一一七号、二〇一三年)
㉟ 感想二題 ―『多元』一四二号を拝読して― (一四四号、二〇一八年)
㊱ 「評」を論ず ―評制施行時期について― (一四五号、二〇一八年)
㊲ 九州王朝の黄金時代 ―律令と評制による全国支配― (一四八号、二〇一八年)
㊳ 難波から出土した筑紫の土器 ―文献史学と考古学の整合― (一五三号、二〇一九年)
㊴ 前期難波宮出土「干支木簡」の考察 (一五七号、二〇二〇年)
㊵ 天武紀「複都詔」の考古学的批判 (一六〇号、二〇二〇年)
㊶ 七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動― (一七六号、二〇二三年)

【東京古田会ニュース】古田武彦と古代史を研究する会編
㊷ 前期難波宮九州王朝副都説の新展開 (一七一号、二〇一六年)
㊸ 前期難波宮の考古学 飛鳥編年と難波編年の比較検証 (一七五号、二〇一七年)
㊹ 前期難波宮「天武朝」造営説への問い (一七六号、二〇一七年)
㊺ 一元史観から見た前期難波宮 (一七七号、二〇一七年)
㊻ 難波の須恵器編年と前期難波宮 ―異見の歓迎は学問の原点― (一八五号、二〇一九年)
㊼ 古代山城研究の最前線 ―前期難波宮と鬼ノ城の設計尺― (二〇二号、二〇二二年)

 以上のタイトルだけでも、その内容が多岐多面にわたることを理解していただけるのではないでしょうか。考古学関連論文も少なくありません(④⑤⑥⑨⑪⑫⑬⑳㉓㉔㉕㉖㊳㊴㊵㊷㊸㊼が該当)。筑紫(糸島博多湾岸等、九州王朝中枢領域)の須恵器が難波から出土していることも論文㊳で紹介しました。
このように、わたしが書いた研究テーマとしては、九州年号研究に次ぐ論文数なのです。〝「七世紀半ば、近畿天皇家が巨大王宮を建設するのを九州王朝が許すはずがない」という古賀の思考だけ〟では、これだけの論文は書けないことをご理解いただけるものと思います。

 なお、これらの論文の多くは、古田先生に読んで頂くことを念頭に書き続けたものです。その結果、2014年(平成26年)の八王子セミナーでは、参加者からの「前期難波宮九州王朝副都説に対してどのように考えておられるのか」という質問に対して、「検討しなければならない」との返答がなされました。このときが最後の八王子セミナーとのことでしたので、わたしは初めて参加し、会場の片隅で聞いていました。先生からはいつものように批判されるものと思っていたのですが、「検討しなければならない」との言葉を聞き、その夜はうれしくてなかなか眠れませんでした。もちろん前期難波宮九州王朝副都説にただちに賛成されたわけではありませんが、はじめて古田先生から検討すべき仮説として認めていただいた瞬間でした。しかしながら、検討結果をお聞きすることはついに叶いませんでした。その翌年に先生は亡くなられたからです(2015年10月14日没、89歳)。(つづく)


第3170話 2023/12/03

空理空論から古代リアリズムへ (1)

 先の八王子セミナー(注①)では様々なご質問をいただき、自説に対してどのような批判や疑問が持たれているのかを知ることができ、とても有意義でした。わたしは〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と考えていますので、有り難いことです。

 そうした質問の一つに、律令制中央官僚が八千人(注②)とするのは『養老律令』によるもので、七世紀の王都には不適切とするものがありました。同様の批判は、前期難波宮「九州王朝複都」説に反対する論者にもよく見られたものです。既に何度も説明してきたことですが、新たな視点も含めて改めて要点をまとめます。

(1) 『養老律令』はほぼ『大宝律令』と同内容であることが復元研究により明らかとなっており、藤原宮や平城宮は『大宝律令』により全国統治した王宮である。『養老律令』が施行されたのは天平勝宝九年(757)と見られている。
(2) 七世紀は九州王朝(倭国)の時代であり、九州王朝律令により全国統治していたと考えられる。
(3) 古田氏の九州王朝説によれば、七世紀中頃には、九州王朝が全国を評制により統治したとする。
(4) 当時、評制による全国統治が可能な規模を持つ王都王宮は、前期難波宮(難波京)だけである(注③)。
(5) 前期難波宮の朝堂院は藤原宮とほぼ同規模であり、したがって中央官僚の人数も大きくは異ならないと推定できる。
(6) 文献的にも、評制が前期難波宮(難波朝廷)で全国的に施行(天下立評)したとする史料(『皇太神宮儀式帳』)があり、その他の王都で評制が施行されたとする史料は見えない(注④)。

 古代の真実に迫るためには、史料根拠に基づかずに〝ああも言えれば、こうも言える(注⑤)〟程度の解釈による「空理空論」ではなく、古代人が律令制により全国統治する行政システムにとって、何が絶対条件なのか、という「古代のリアリズム」に基づいて論じなければならないと、わたしは先の八王子セミナーで主張しました。(つづく)

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」、公益財団法人大学セミナーハウスの主催。
②服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年10月。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。
③古賀達也「律令制の都『前期難波宮』」『古田史学会報』145号、2018年。
同「九州王朝の黄金時代 ―律令と評制による全国支配―」『多元』148号、2018年。
同「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」『多元』176号、2023年。
同「律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―」古田武彦記念古代史セミナー2023にて発表。
同「洛中洛外日記」3157話(2023/11/11)〝八王子セミナー・セッションⅡの論点整理〟
④同「文字史料による「評」論 ―「評制」の施行時期について―」『古田史学会報』119号、2014年。
同「九州王朝の両京制を論ず (一) ―列島支配の拠点「難波」―」『多元』に投稿中。
⑤〝ああも言えれば、こうも言えるというものは論証ではない〟との中小路俊逸氏(故人、追手門学院大学教授)の教えを受けたことがある。
古賀達也「洛中洛外日記」360話(2011/12/11)〝会報投稿のコツ(4)〟
同「洛中洛外日記」1427話(2017/06/20)〝中小路駿逸先生の遺稿集が発刊〟


第3151話 2023/11/04

『多元』No.178の紹介

 友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.178が届きました。同号には拙稿「『宇曽利』地名とウスリー川」を掲載していただきました。

 同会の令和四年五月例会で、赤尾恭司さん(佐倉市)が「古代の蝦夷を探る 考古遺跡から見た古代の北東北(北奥)」を発表されました。東北地方の縄文遺跡の紹介をはじめ、沿海州やユーラシア大陸に及ぶ各種データや諸研究分野の解説がなされ、言語学やDNA解析による、古代人の移動や交流に関する研究は刺激的でした。

 そのとき、赤司さんが説明で使用された沿海州の地図にウスリー川があり、その中国語表記「烏蘇里江」の「烏蘇里」がウソリと読めることから、和田家文書『東日流外三郡誌』に見える地名の「宇曽利」と言語的に共通するのではないかと思い、同稿で言素論による考察を試みたものです。

 同号一面には、野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の「『自A以東』等の用法」が掲載されており、会誌冒頭にふさわしい論稿と評価されたものと思われます。『三国志』倭人伝の「自女王国以北」や『隋書』俀国伝に見える「自竹斯国以東」など、「自A以東(北)」という文型について論じたもので、この文型においては、Aは「以東(北)」には含まれないことを論証したものです。「古田史学の会」関西例会でも発表されたテーマで、中国古典の読解における重要な提起です。


第3136話 2023/10/15

九州と北海道に分布しない

        「テンノー」地名

 今日、上京区枡形商店街の古書店で『地名の語源』(注①)を購入しました。46年前に出版された本ですが、地名研究の方法や地名の発生経緯まで論じた優れものでした。早速、研究中の「天皇」地名(注②)の項を読んでみると、次のような興味深い説明がありました。

 「テンノー (1)天王信仰(牛頭天王、素盞鳴尊)にちなむ。(2)*テンジョー(高い所)と同義のものもあるか。九州と北海道以外に分布。〔天王・天王寺・天皇・天皇田・天皇原・天皇山・天王山・天野(テンノ)山〕」

 わたしが驚いたのが「九州と北海道以外に分布」という説明部分です。なぜ九州に分布しないのか、その理由はわかりませんが、古代九州王朝と関係するのでしょうか。それにしても、天王信仰(牛頭天王、素盞鳴尊)にちなむ「天王」地名もないということですから、不思議な現象です。

(注)
①鏡味完二・鏡味明克『地名の語源』角川書店、昭和52年。
②古賀達也「洛中洛外日記」3123~3127話(2023/09/25~30)〝『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える (1)~(3)〟
同「洛中洛外日記」3126話(2023/09/29)〝全国の「天皇」地名〟


第3129話 2023/10/02

藤原京「長谷田土壇」の理論考古学(一)

八王子セミナー(11月11~12日、注①)の開催日が近づいてきました。同セミナーで討議予定の藤原宮(京)研究において、特に注目されている〝もうひとつの藤原宮〟問題、「長谷田土壇」について論究することにします。

藤原宮の所在地については江戸時代ら大宮土壇(橿原市高殿)が有力視されてきましたが、喜田貞吉(注②)が長谷田土壇説(橿原市醍醐)を発表し、その根拠や論理性が優れていたため、論争へと発展しました。その後、大宮土壇の発掘が開始され、大型宮殿遺構が出土したことにより、この論争は決着がつき、今日に至っています。

しかし、わたしは喜田貞吉の指摘した論理性は今でも有力とする見解を「洛中洛外日記」(注③)で表明しました。

〝藤原宮を「長谷田土壇」とした喜田貞吉説の主たる根拠は、大宮土壇を藤原宮とした場合、その京域(条坊都市)の左京のかなりの部分が香久山丘陵にかかるという点でした。ちなみに、この指摘は現在でも「有効」な疑問です。現在の定説に基づき復元された「藤原京」は、その南東部分が香久山丘陵にかかり、いびつな京域となっています。ですから、喜田貞吉が主張したように、大宮土壇より北西に位置する長谷田土壇を藤原宮(南北の中心線)とした方が、京域がきれいな長方形となり、すっきりとした条坊都市になるのです。
こうして「長谷田土壇」説を掲げて喜田貞吉は「大宮土壇」説の学者と激しい論争を繰り広げます。しかし、この論争は1934年(昭和九年)から続けられた大宮土壇の発掘調査により、「大宮土壇」説が裏付けられ、決着を見ました。そして、現在の定説が確定したのです。しかしそれでも、大宮土壇が中心点では条坊都市がいびつな形状となるという喜田貞吉の指摘自体は「有効」だと、わたしには思われるのです。〟(つづく)

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」。公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)が参画している。
②喜田貞吉(きた・さだきち、1871~1939年)は、第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。法隆寺再建論争で、再建説を主張したことは有名。
③古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟
同「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟


第3125話 2023/09/28

『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える (2)

 九州王朝の故地、北部九州でも神功皇后や斉明天皇、天智天皇の伝承が少なからずありますが、当地の地名に「天皇」という表記が使われている例をわたしは知りません。ところが、愛媛県東部地域には「天皇」地名が少なからず遺っています。これは偶然ではなく、何らかの歴史的背景があったとわたしは推察しています。このことを多元史観・九州王朝説の視点で考察してみます。
まず「天皇」地名成立のケースとして、次の可能性が考えられます。

(A)須佐之男命を祭神とする「牛頭天王」社が、後に「天皇」と表記され、その地の地名になった。
(B)近畿天皇家の天皇が当地を訪問したことなどにより、「天皇」地名が付けられた。
(C)九州王朝の天子(天皇)が当地を訪問したことなどにより、「天皇」地名が付けられた。
(D)九州王朝の天子(倭国のナンバーワン権力者)の下の当地の有力者がナンバーツーとしての「天皇」を名乗ったことにより、「天皇」地名が付けられた。
(E)当地の権力者の意思とは関係なく、あるとき誰かが勝手に「天皇」地名を付け、周囲の人々もその地を「天皇」と呼ぶようになった。

 以上のような可能性を考えられますが、恐らくは一元史観に基づく(A)の解釈が有力視にされていると思われます。たとえば、『朝倉村誌』(注①)には、「野田・野々瀬の須賀神社 朝倉天皇(須佐之男命を牛頭天王というため)」と説明されています。〝大和朝廷の天皇以外に天皇はなし〟という一元史観では、こうした解釈を採用するしかないのでしょう。

 (B)のケースは、同じく『朝倉村誌』に見える「與陽越智郡日吉郷南光坊由来之事 (中略)車無寺と号す 開祖は天皇に供奉し玉う大現の弟子無量上人也 朝倉両足山天皇院無量寺也」(下巻、1731頁)があります。しかし、この説明は後代の大和朝廷の時代になってから造作されたものではないでしょうか。この点、後述します。

 (C)のケースとしては、久留米市の大善寺玉垂宮にあったと記録されている「天皇屋敷」があります。
「〔御船山ノ社官屋敷ノ古圖〕に開祖安泰東林坊〈大善寺等覺院座主職なり今は絶て其跡天皇屋敷といふなり〉(後略)」『太宰管内志』(注②) ※〈〉内は細注。

 この「天皇屋敷」の由来は未調査ですが、筑後地方は九州王朝の中枢領域であり、「倭の五王」時代には筑後地方に遷宮していたと思われますので(注③)、九州王朝の天子(天皇)との関係を想定してもよいかと思います。しかし、この場合でも地名が「天皇」と名付けられたわけではありませんので、朝倉村の地名としての「天皇」のケースと同じではありません。

 (D)のケースに相当するのが、朝倉村など愛媛県東部地域に散見する「天皇」地名ではないかと考えています。この点、後述します。

 (E)は検証困難な仮説ですし、一介の人物が権力称号「天皇」を地名に採用し、それを周囲も使用するということは起こりえない現象と思われますので、今回の検証作業からは除外することにします。(つづく)

(注)
①伊藤常足『太宰管内志』天保十二年(1841)〈歴史図書社、1969年(昭和44年)、中巻162頁〉
②『朝倉村誌』朝倉村誌編さん委員会、1986年(昭和61年)。
③古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。


第3119話 2023/09/21

中国史書「百済伝」に見える百済王の姓 (2)

次の中国史書(正史)に百済伝があります。『宋書』『南斉書』『梁書』『南史』『魏書(北魏)』『周書(北周)』『隋書』『北史』『旧唐書』『新唐書』(注①)。百済王の名前については次のように記されています。

○『宋書』:「百済王餘映」「映」、「百済王餘毗」「毗」、「慶」(餘毗の子)。
○『南斉書』:「百済王牟大」「大」、「牟都」(牟大の亡祖父)。
○『梁書』:「王須」、「王餘映」、「王餘毗」、「慶」(餘毗の子)、「牟都」「都」(慶の子)、「牟太」「太」(牟都の子)、「王餘隆」「隆」、「明」(餘隆の子)。
○『南史』:「百済王餘映」「映」、「百済王餘毗」「毗」、「慶」(毗の子)、「牟都」「都」(慶の子)、「牟大」「大」(牟都の子)、「王餘隆」「隆」、「明」(餘隆の子)。
○『魏書(北魏)』:「百済王餘慶」「餘慶」。
○『周書(北周)』:「王隆」、「昌」(隆の子)。
○『隋書』:「王餘昌」「昌」、「餘宣」(餘昌の子)、「餘璋」「璋」(餘宣の子)。
○『北史』:「王餘慶」「餘慶」、「隆」、「餘昌」(隆の子)、「餘璋」(餘昌の子)。
○『旧唐書』:「王扶餘璋」「璋」、「義慈」(扶餘璋の子)、「扶餘隆」「隆」(帯方郡王)、「敬」(帯方郡王、扶餘隆の孫)。
○『新唐書』:「王扶餘璋」「璋」「百済王扶餘璋」、「義慈」(扶餘璋の子)、「扶餘豊」「豊」(旧王子)、「扶餘隆」「隆」(帯方郡王)、「敬」(帯方郡王、扶餘隆の孫)。

この中で、百済王の姓について具体的に記されているのが『周書(北周)』と『北史』です(注②)。

○『周書(北周)』:「王姓は扶餘氏(注③)、於羅瑕と号し、民は鞬吉支と呼んでいる。」
○『北史』:王姓は餘氏、於羅瑕と号し、人々(百姓)は鞬吉支と呼んでいる。」

扶餘は百済の故地とされており(注④)、その国名(地名)「扶餘」、あるいはその一字「餘」を百済王は姓にしていることがわかります。例外としては『南斉書』の「牟大」「牟都」、『梁書』の「牟都」「牟太」、『南史』の「牟都」「牟大」で、何故かこの二人の百済王は「牟」を姓としているように見えます。(つづく)

(注)
①使用した版本は次の通り。『宋書』『南斉書』『梁書』『南史』『魏書(北魏)』『周書(北周)』『隋書』『北史』『新唐書』は汲古閣本、『旧唐書』は百衲本。
②訓み下し文は坂元義種『百済史の研究』(塙書房、1978年)による。
③百衲本による。汲古閣本は「大餘」とする。
④『魏書(北魏)』には「百済国其先出自扶余」とある。
『周書(北周)』は「百済者其先蓋馬韓之属国扶餘之別種」とあり、百済国を扶餘国の別種とする。
『旧唐書』は「百済国本亦扶餘之別種」とする。
『新唐書』は「百済扶餘別種也」とする。


第3113話 2023/09/14

〝興国の大津波〟は元年か二年か

 津軽を襲った〝興国の大津波〟を「東日流外三郡誌」には「興国二年」(1341年)の事件と、くり返し記されています。しかし、ごく少数ですが「興国元年」(1340年)あるいは同年を指す「暦応庚辰年」(「暦応」は北朝年号)とも記されています。管見では下記の記事です(注①)。

(1)「高楯城略史
(中略)
依て、安東氏は興国元年の大津浪以来要途を失せる飯積の領なる玄武砦を付して施領せり。(中略)
元禄十年五月  藤井伊予記」 (「東日流外三郡誌」七三巻、同①478頁) ※元禄十年は1697年。

(2)「十三湊大津浪之事
暦応庚辰年八月四日、十三湊の西海に大震超(ママ)りて、波濤二丈余の大津波一挙にして十三湊を呑み、その浪中に死したる人々十三万六千人なり。(後略)」 (「東日流外三郡誌」七五巻、同①488頁) ※「暦応」は北朝の年号。「庚辰年」は暦応三年に当たり、興国元年と同年(1340年)。

(3)「津軽安東一族之四散(原漢書)
十三湊は興国元年八月、同二年二月に起れし大津波に安東一族の没落、水軍の諸国に四散せることと相成りぬ。(中略)
寛政五年九月七日  秋田孝季」 (「東日流六郡篇」、同①514頁) ※寛政五年は1793年。本記事は興国の大津波が、元年と二年の二回発生したとする。

 この他に、「興国己卯年」「興国己卯二年」のような年号と干支がずれている表記も見えます。すなわち、「己卯」は1339年であり、年号は「延元四年(南朝)」あるいは「暦応二年(北朝)」で、興国元年の前年にあたります。次の記事です。

(4)「建武中興史と東日流
(中略)
亦、奥州東日流に於は(ママ)、興国己卯年十三湊の大津浪に依る水軍を壊滅せる安倍氏と、埋土に依れる廃湊の十三浦は(中略)
寛政庚申天  秋田之住 秋田孝季」 (「総序篇第弐巻」、同①426頁) ※「寛政庚申天」は寛政十二年(1800年)。

(5)「高楯城興亡抄
(中略)
依テ高楯城ハ興国己卯年ニ至ル(中略)
明治元年六月十六日  秋田重季 花押
右ハ外三郡誌追記ニシテ付書ス。」 (「三一巻付書」、同①426頁) ※「東日流外三郡誌」三一巻に「付書」したとされる当記事は年次的に問題があり、「東日流外三郡誌」とは別史料として扱うのが妥当と思われる。例えば、年号が明治(1868年)に改元されたのは同年九月であり、六月はまだ慶応四年であること、秋田重季氏は明治十九年の生まれであることから、これらを書写時(明治時代)の誤りと考えても、史料としての信頼性は劣ると言わざるを得ない。従って、「興国己卯年」の考察においては三~四次資料と考えられ、本論の史料根拠としては採用しないほうがよいかもしれない。

 この年号と干支がずれている表記がどのような理由で発生したのかは未詳ですが、「東日流外三郡誌」編纂時(寛政年間頃)に〝興国の大津波〟の年次を興国元年とする史料と興国二年とする史料とが併存していたと考えざるを得ません。この二説併存現象は先に紹介した「津軽系図略」(注②)や津軽家文書(注③)の史料情況と対応しているようで注目されます。
〝興国の大津波〟が元年なのか二年なのかは、これらの史料情況からは判断しづらいのですが、津軽家文書の編者らは元年説を重視し、「東日流外三郡誌」編纂者(秋田孝季、和田吉次)は二年説を妥当として採用し、元年説史料もそのまま採用したということになります。更には(3)に見えるように、秋田孝季自身の認識としては、元年と二年の二回発生説であることもうかがえそうです。このような両編纂者の認識まではたどれそうですが、どちらが史実なのかについては、史料調査と考察を続けます。

(注)
①八幡書店版『東日流外三郡誌2 中世編(一)』によった。
②下澤保躬「津軽系図略」明治10年(1877)。
③陸奥国弘前津軽家文書「津軽古系譜類聚」文化九年(1812年)。
同「前代御系譜」『津軽古記鈔 津軽系図類 信政公代書類 前代御系譜』成立年次不明(文化九年とする説がある)。