第3119話 2023/09/21

中国史書「百済伝」に見える百済王の姓 (2)

次の中国史書(正史)に百済伝があります。『宋書』『南斉書』『梁書』『南史』『魏書(北魏)』『周書(北周)』『隋書』『北史』『旧唐書』『新唐書』(注①)。百済王の名前については次のように記されています。

○『宋書』:「百済王餘映」「映」、「百済王餘毗」「毗」、「慶」(餘毗の子)。
○『南斉書』:「百済王牟大」「大」、「牟都」(牟大の亡祖父)。
○『梁書』:「王須」、「王餘映」、「王餘毗」、「慶」(餘毗の子)、「牟都」「都」(慶の子)、「牟太」「太」(牟都の子)、「王餘隆」「隆」、「明」(餘隆の子)。
○『南史』:「百済王餘映」「映」、「百済王餘毗」「毗」、「慶」(毗の子)、「牟都」「都」(慶の子)、「牟大」「大」(牟都の子)、「王餘隆」「隆」、「明」(餘隆の子)。
○『魏書(北魏)』:「百済王餘慶」「餘慶」。
○『周書(北周)』:「王隆」、「昌」(隆の子)。
○『隋書』:「王餘昌」「昌」、「餘宣」(餘昌の子)、「餘璋」「璋」(餘宣の子)。
○『北史』:「王餘慶」「餘慶」、「隆」、「餘昌」(隆の子)、「餘璋」(餘昌の子)。
○『旧唐書』:「王扶餘璋」「璋」、「義慈」(扶餘璋の子)、「扶餘隆」「隆」(帯方郡王)、「敬」(帯方郡王、扶餘隆の孫)。
○『新唐書』:「王扶餘璋」「璋」「百済王扶餘璋」、「義慈」(扶餘璋の子)、「扶餘豊」「豊」(旧王子)、「扶餘隆」「隆」(帯方郡王)、「敬」(帯方郡王、扶餘隆の孫)。

この中で、百済王の姓について具体的に記されているのが『周書(北周)』と『北史』です(注②)。

○『周書(北周)』:「王姓は扶餘氏(注③)、於羅瑕と号し、民は鞬吉支と呼んでいる。」
○『北史』:王姓は餘氏、於羅瑕と号し、人々(百姓)は鞬吉支と呼んでいる。」

扶餘は百済の故地とされており(注④)、その国名(地名)「扶餘」、あるいはその一字「餘」を百済王は姓にしていることがわかります。例外としては『南斉書』の「牟大」「牟都」、『梁書』の「牟都」「牟太」、『南史』の「牟都」「牟大」で、何故かこの二人の百済王は「牟」を姓としているように見えます。(つづく)

(注)
①使用した版本は次の通り。『宋書』『南斉書』『梁書』『南史』『魏書(北魏)』『周書(北周)』『隋書』『北史』『新唐書』は汲古閣本、『旧唐書』は百衲本。
②訓み下し文は坂元義種『百済史の研究』(塙書房、1978年)による。
③百衲本による。汲古閣本は「大餘」とする。
④『魏書(北魏)』には「百済国其先出自扶余」とある。
『周書(北周)』は「百済者其先蓋馬韓之属国扶餘之別種」とあり、百済国を扶餘国の別種とする。
『旧唐書』は「百済国本亦扶餘之別種」とする。
『新唐書』は「百済扶餘別種也」とする。

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