第3120話 2023/09/22

中国史書「百済伝」に見える百済王の姓 (3)

 中国史書「百済伝」の百済王の名前について見てきましたが、その出身地(故地)の国名(地名)「扶餘」、あるいはその一字「餘」を百済王は姓にしていることがわかりました。少なくとも当該中国史書編纂者はそのように認識していることを疑えません。次に『宋書』の百済国伝と倭国伝を比較してみます。

 『宋書』百済国伝での百済王の名前表記は次の通りで、「餘」を姓とし、名前は「倭の五王」と同様で、いわゆる中国風一字名称です。

○『宋書』:「百済王餘映」「映」、「百済王餘毗」「毗」、「慶」(餘毗の子)。
また、百済王の臣下の名前に冠軍将軍「餘紀」とあり、百済王と同じ「餘」姓です。この他にも、征虜将軍「餘昆」「餘暈」、輔國将軍「餘都」「餘乂」、龍驤将軍「餘爵」、寧朔将軍「餘流」、建武将軍「餘婁」という「餘」姓の将軍が記されており、いずれも王家と同族なのかもしれません。

 『宋書』倭国伝に記された「倭の五王」の名前表記は次の通りです。

○『宋書』:「倭讚」「讚」「珍」「倭國王濟」「興」「倭王世子興」「武」

 倭王の臣下に「倭隋」という名前も見え、倭国王の「倭讚」と同様に「倭」姓を名乗っていると理解できます。同じ『宋書』の夷蛮伝ですから、百済国伝と同様に倭国伝の場合でも国王と臣下の姓が同じ「倭」と捉えるのが穏当ではないでしょうか。この理解によるならば、百済王が自国の故地「扶餘」あるいはその一字「餘」を姓とし、倭王が自国名「倭」を姓としたことは、当時の東夷諸国の慣行だったのかもしれません。これは高句麗王も同様で、国名から一字を採り、姓を「高」としています(注)。(つづく)

(注)『魏書』高句麗伝に「號曰高句麗,因以為氏焉」、『周書』高麗伝には「自號曰高句麗,仍以高為氏」、『隋書』高麗伝には「朱蒙建國,自號高句麗,以高為氏」とある。

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