第3125話 2023/09/28

『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える (2)

 九州王朝の故地、北部九州でも神功皇后や斉明天皇、天智天皇の伝承が少なからずありますが、当地の地名に「天皇」という表記が使われている例をわたしは知りません。ところが、愛媛県東部地域には「天皇」地名が少なからず遺っています。これは偶然ではなく、何らかの歴史的背景があったとわたしは推察しています。このことを多元史観・九州王朝説の視点で考察してみます。
まず「天皇」地名成立のケースとして、次の可能性が考えられます。

(A)須佐之男命を祭神とする「牛頭天王」社が、後に「天皇」と表記され、その地の地名になった。
(B)近畿天皇家の天皇が当地を訪問したことなどにより、「天皇」地名が付けられた。
(C)九州王朝の天子(天皇)が当地を訪問したことなどにより、「天皇」地名が付けられた。
(D)九州王朝の天子(倭国のナンバーワン権力者)の下の当地の有力者がナンバーツーとしての「天皇」を名乗ったことにより、「天皇」地名が付けられた。
(E)当地の権力者の意思とは関係なく、あるとき誰かが勝手に「天皇」地名を付け、周囲の人々もその地を「天皇」と呼ぶようになった。

 以上のような可能性を考えられますが、恐らくは一元史観に基づく(A)の解釈が有力視にされていると思われます。たとえば、『朝倉村誌』(注①)には、「野田・野々瀬の須賀神社 朝倉天皇(須佐之男命を牛頭天王というため)」と説明されています。〝大和朝廷の天皇以外に天皇はなし〟という一元史観では、こうした解釈を採用するしかないのでしょう。

 (B)のケースは、同じく『朝倉村誌』に見える「與陽越智郡日吉郷南光坊由来之事 (中略)車無寺と号す 開祖は天皇に供奉し玉う大現の弟子無量上人也 朝倉両足山天皇院無量寺也」(下巻、1731頁)があります。しかし、この説明は後代の大和朝廷の時代になってから造作されたものではないでしょうか。この点、後述します。

 (C)のケースとしては、久留米市の大善寺玉垂宮にあったと記録されている「天皇屋敷」があります。
「〔御船山ノ社官屋敷ノ古圖〕に開祖安泰東林坊〈大善寺等覺院座主職なり今は絶て其跡天皇屋敷といふなり〉(後略)」『太宰管内志』(注②) ※〈〉内は細注。

 この「天皇屋敷」の由来は未調査ですが、筑後地方は九州王朝の中枢領域であり、「倭の五王」時代には筑後地方に遷宮していたと思われますので(注③)、九州王朝の天子(天皇)との関係を想定してもよいかと思います。しかし、この場合でも地名が「天皇」と名付けられたわけではありませんので、朝倉村の地名としての「天皇」のケースと同じではありません。

 (D)のケースに相当するのが、朝倉村など愛媛県東部地域に散見する「天皇」地名ではないかと考えています。この点、後述します。

 (E)は検証困難な仮説ですし、一介の人物が権力称号「天皇」を地名に採用し、それを周囲も使用するということは起こりえない現象と思われますので、今回の検証作業からは除外することにします。(つづく)

(注)
①伊藤常足『太宰管内志』天保十二年(1841)〈歴史図書社、1969年(昭和44年)、中巻162頁〉
②『朝倉村誌』朝倉村誌編さん委員会、1986年(昭和61年)。
③古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。

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