第3197話 2024/01/08

新年の読書、松本清張「古代史疑」 (2)

   ―「邪馬台国」の原文改定―

 年始に古書店で購入した『古代史疑・古代探求 松本清張全集33』(注①)には、倭人伝の原文改定について次の三例が紹介されていました。

Ⅰ.「南、邪馬壱(台の誤り)国に至る。」13頁
Ⅱ.「景初三年(二三九。原文、二年)」14頁
Ⅲ.「台与(原文、壹與。『梁書』と『北史』を参照して臺與の誤りとされている)」15頁

 Ⅲについては、一応、原文改定の根拠らしきことが示されていますが、なぜか邪馬壱国についてはそれがありません。古田先生は、この「古代史疑」で紹介された邪馬壱国から邪馬台国への原文改定の事実を、松本清張氏が最後まで説明されなかったことを不審として、自らが『三国志』の「壹」と「臺」の悉皆調査を行われ、原文改定が否であることを証明されました。そのことを東京大学の『史学雑誌』(注②)に発表され、古田武彦の名前と邪馬壹国説は古代史学界で、一躍注目されるに至ったことは有名です。

 それではなぜ松本氏は邪馬台国への原文改定を、何の説明も論証も無いまま採用したのでしょうか。というのも、氏自身が同書で次のように、原文改定を誡められているだけに、不審と言うほかありません。

 「要するに、距離(里数、日数)の点では大和説が有利である。ただし、『魏志』の原文にある南を東としたのは、「自説に都合のいい、勝手な解釈」といわれても仕方がなく、大和説の欠陥である。」24頁
「私はやはり『魏志』の通りに帯方郡から邪馬台国までの方向をすべて「南」としたい。原典はなるべくその通りに読むべきだと思う。」37頁

 このように、松本氏は原文尊重を主張していながら、邪馬壹国については、何の疑いもなく原文改定された「邪馬台国」を採用しています。何とも不思議なことです。その後、1969年に古田先生の論文「邪馬壹国」が発表されると、次のように述べています。

 「この問題を、これほど科学的態度で追跡した研究は、他に例がないだろう。十分に説得力もあり、何もあやしまずにきた学会は、大きな盲点をつかれたわけで、虚心に反省すべきだと思う。ヤマタイではなくヤマイだとしたら、それはどこに、どんな形で存在したのか、非常に興味深い問題提起で、私自身、根本的に再検討を加えたい」(注③)

 残念ながら、古代史学界では今も原文改定した「邪馬台国」が、なに憚ることなく使われ続けています。そして、教科書もまた。(つづく)

(注)
①「古代史疑」の初出は『中央公論』の連載(昭和41年6月~42年3月〔1966年〕)。
②古田武彦「邪馬壹国」『史学雑誌』78-9、1969年。
③「読売新聞」昭和44年11月12日〔1969年〕。
古賀達也「洛中洛外日記」1084話(2015/10/29)〝「邪馬壹国」説、昭和44年「読売新聞」が紹介〟

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