藤原京一覧

第1531話 2017/11/02

古田先生との論争的対話「都城論」(1)

 ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』を読んで、わたしのことに触れられた箇所がいくつかあるのですが、中でも次の部分は学問的にも貴重で懐かしく当時のことを思い出しました。古田先生の三回忌も過ぎましたので、ご紹介したいと思います。

 「その間、藤原宮の大極殿問題を発端とする、古賀達也氏(古田史学の会)との(論争的)応答や西村秀己氏(同上)の(「七〇一」禅譲)説などが、大きな刺激となりました。」(223頁)

 ここで書かれているように、古田先生とは様々なテーマで意見交換や学問的討議、ときに激しい「論争的」応答もしてきました。わたしも先生も負けず嫌いな性格でしたので、先生のご自宅や電話で長時間論争したこともありました。ただし、わたしは終始一貫して敬語で応答しました。それは「師弟」間の礼儀ですし、31歳のとき古田史学に入門以来、何よりもわたしは古田先生を尊敬してきたからです。その気持ちは今でもまったく変わりありません(師弟間〔坂本太郎さんと井上光貞さん〕の学問論争のあり方について、古田先生から興味深いお話と関係論文をいただいたことがあるのですが、そのことは別の機会にご紹介します)。
 その「論争的」対話の一つに九州王朝や大和朝廷の都城論がありました。中でも最も長期間の応答が続いたのが、前期難波宮九州王朝副都説についてでした。大阪市中央区法円坂で発見された7世紀中頃の巨大宮殿「前期難波宮」を通説通り近畿天皇家の孝徳の宮殿とすることに疑念を抱いたわたしは、それを九州王朝の宮殿ではないかとする作業仮説(思いつき)を古田先生に話したことがありました。論文発表よりもかなり前のことでした。
 もちろん、古田先生は賛成されませんでしたが、それ以後、古田先生の反対意見に答えるべく10年間にわたり論文を発表し続けました。古田先生以外から出された反対意見に対しても、これでもかこれでもかと執念の研究と発表を続けたのです。そして2014年の八王子セミナーの席上で、ついに古田先生から「検討しなければならない」の一言を得るに至ったのです。もちろん、古田先生がわたしの説に賛成されたわけではありませんが、それまでの「反対意見表明」ではなく、検討すべき仮説の一つとして認めていただいたもので、その日の夜、わたしはうれしくてなかなか眠れませんでした。(つづく)


第1487話 2017/08/25

7世紀の王宮造営基準尺(3)

 7世紀頃の王都王宮の遺構の設計基準尺について、最も信頼性が高い数値が藤原宮の基準尺(1尺29.5cm)です。一寸刻みの目盛りを持つ物差しが出土したことと、遺構の設計数値がその物差しと一致していることにより、その信頼性が得られました。その物差しと設計基準尺について、木下正史著『藤原京 よみがえる日本最古の都城』(中公新書、2003年)には次のように紹介されています。

 「藤原宮からは一寸ごとに印をつけた一尺(復元長29.5センチ)の木製物差しが出土している。長距離の測定や割り付けには間縄(けんなわ)なども使用されたはずである。道路間の距離や大垣の柱位置の割り付けなどから復元できる物差しも、一尺の長さが29.5センチとほぼ一定しており、きわめて精度の高いものであった。」(84ページ)

 藤原宮は出土干支木簡の年代から680年頃から造営が始まったことが判明しており、当時の近畿天皇家(天武期)の公式な基準尺が1尺29.5cmであることがわかります。
 前期難波宮(652年)が1尺29.2cm、大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺(670年頃)が1尺約29.6〜29.8cmであることから、7世紀において、基準尺が少しずつ大きくなっているようです。この変化がどのような理由によって起こったのかはまだわかりませんが、九州王朝(倭国)から近畿天皇家(日本国)への王朝交代期に何らかの事情により、基準尺にも変化が生じたのではないでしょうか。(つづく)


第1484話 2017/08/20

7世紀の王宮造営基準尺(2)

 7世紀頃の王都王宮の遺構の設計基準尺について現時点でわたしが把握できたのは次の通りですが、この数値の変遷が何を意味するのかについて考えてみました。

(1)太宰府条坊(7世紀頃) 1尺約30cm。条坊道路の間隔が一定しておらず、今のところこれ以上の精密な数値は出せないようです。
(2)前期難波宮(652年) 1尺29.2cm 回廊などの長距離や遺構の設計間隔がこの尺で整数が得られます。
(3)大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺(670年頃) 1尺約29.6〜29.8cm 政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを2000尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られるとされています。
(4)藤原宮 1尺29.5cm ものさしが出土しています。
(5)後期難波宮(726年) 1尺29.8cm 律令で制定された「小尺」(天平尺)とされています。

 これら基準尺のうち、わたしが九州王朝のものと考える三つの遺構の基準尺は次のような変遷を示しています。

①太宰府条坊(7世紀頃) 1尺約30cm
②前期難波宮(652年) 1尺29.2cm
③大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺(670年頃) 1尺約29.6〜29.8cm

 7世紀初頭頃に造営されたと考えている太宰府条坊は「隋尺」(30cm弱)ではないかと思いますが、前期難波宮はそれよりも短い1尺29.2cmが採用されています。この変化が何により発生したのかは今のところ不明です。670年頃造営と思われる大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺の1尺約29.6〜29.8cmは「唐尺」と思われます。この頃は白村江戦後で唐による筑紫進駐の時期ですから、「唐尺」の採用は一応の説明ができそうです。
 ここで注目すべきは、前期難波宮の1尺29.2cmで、藤原京の1尺29.5cmとは異なります。従って、こうした両王都王宮の設計基準尺の違いは、前期難波宮天武朝造営説を否定する事実と思われます。同一王朝の同一時期の王都王宮の造営基準尺が異なることになるのですから。(つづく)


第1465話 2017/07/27

倭国王宮の屋根の変遷

 「古田史学の会」会員の山田春廣さんのプログ「sanmaoの暦歴徒然草」に学問的刺激を受けています。最近も九州王朝倭国の王宮に関する作業仮説(「瓦葺宮殿」考)を提起され、読者からコメントも寄せられています。当該仮説の是非はこれから論議検討が進められることと思いますが、コメントを寄せられた服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から重要な疑問が提示されました。それは、倭国の王宮の屋根の変遷において、寺院などは瓦葺き建設なのになぜ前期難波宮など王宮は板葺きなのかという疑問です。
 たしかに考えてみますと、寺院建築では法隆寺や四天王寺(難波天王寺)のように7世紀初頭には礎石造りの瓦葺きです。比べて、近畿天皇家の飛鳥宮(板葺宮、清御原宮)や、わたしが九州王朝副都と考える前期難波宮、そして大津宮は堀立柱造りの板葺きとされています。そして7世紀後半頃になってようやく大宰府政庁Ⅱ期の宮殿が礎石造りの瓦葺きです。7世紀末の藤原宮も近畿天皇家の宮殿として初めて礎石造りの瓦葺きとなります。
 中国風の「近代建築」である瓦葺宮殿を建築できる技術力を持ちながら、自らの王宮は九州王朝も近畿天皇家も7世紀後半から末にならなければ採用しなかった理由は何なのでしょうか。わたしは次のように今のところ推定しています。それは日本古来の宗教思想に基づき、「天神の末裔」である倭国天子には、「神殿造り」の堀立柱と板葺きの宮殿こそが権威継承者としてふさわしいと考えられていたのではないでしょうか。現在でも伊勢神宮を瓦葺きにしないのと同様の理由です。
 仏教が伝来し、寺院建築には舶来宗教として中国風の礎石造りの瓦葺きがふさわしいと考えられたため、早くから瓦葺きが採用されたものと思われます。そして、7世紀後半頃になると中国風の宮殿が倭国天子にもふさわしいとされ、礎石造りの瓦葺きが採用されるに至ったものと考えています。
 既にこうした仮説は発表されているかもしれませんが、とりあえず作業仮説として提起します。皆さんからのご意見ご批判をお待ちしています。


第1459話 2017/07/20

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(9)

 前期難波宮と藤原宮には出土土器の年代や都城様式に差があることを紹介しましたが、特に都城様式の差(北闕型と周礼型)は同時代の同一王朝のものとは考えにくいものです。このことを更に裏付ける考古学的事実が服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から指摘されています。それは竜田関の位置の問題です。
 大和国と河内国の間に置かれた竜田関は、大和朝廷の都(飛鳥宮・藤原宮)への西側からの侵入を防ぐ目的で設置されたものと、一元史観の歴史学界では考えられてきました。ところがその竜田関が置かれたとされる場所が峠を境としてその東(大和)側にあり、これは地勢的にも東側(大和)から西側(河内・摂津)への侵入を防ぐのに適した位置であると、服部さんは指摘されました。
 他の有名な古代の関も同様に守るべき場所から峠を越えた相手側に置かれていることも服部さんの指摘が正当であることを裏付けています。すなわち、敵の軍勢が狭隘な峠の登り口に殺到することを想定して、関はその登り口側に設けられているのです。そうすることにより、峠に至る坂の上から敵軍を見下ろして三方から攻撃できますから、この関の位置は軍事的に理にかなっています。
 このような位置にある竜田関は大和(近畿天皇家)を守っているのではなく、東側からの侵入に対してその西側にある前期難波宮を防衛するために置かれたとする説を服部さんは発表されました。このことは、前期難波宮の勢力と大和の飛鳥の勢力とは別であることを意味していると考えざる得ません。従って竜田関を造営したのは前期難波宮を防衛しようとする勢力であることになります。この服部説は前期難波宮九州王朝副都説を支持するものです。
 服部さんはこの説を「関から見た九州王朝」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学の会編、明石書店、2015年)で発表されましたが、未だに前期難波宮九州王朝副都説反対論者からは応答がありません。なぜでしょうか。(つづく)


第1458話 2017/07/16

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(8)

 前期難波宮と藤原宮の差は出土土器の年代だけではありません。それは一元史観の学界でも論争が続いた都城様式差という問題です。
 倭国(九州王朝)も大和朝廷も王宮や王都の設計にあたり、中国の様式を取り入れているのですが、王宮には律令官制を前提とした左右対称の朝堂院様式が前期難波宮に最初に採用されています。王都(都城)についても条坊制の街区を太宰府や前期難波宮(後期難波宮からとする説もあります)、藤原京(『日本書紀』は新益京とする)、更には平城京・平安京に採用されています。そして、条坊都市の北側に王宮を置く「北闕型」と条坊都市の中央に置く「周礼型」が採用されています。
 この王宮を条坊都市の北に置くのか中央に置くのかは、その造営者の政治思想が反映していると考えられており、古田先生は「北闕型」を北を尊しとする「北朝様式」と見なされていました。本テーマで問題としている前期難波宮は上町台地の北端に位置し、「北闕型」の王都ですが、藤原宮は中央に王宮を置く「周礼型」で、この違いは両者の政治思想の差を反映していると考えざるを得ません。
 したがって、前期難波宮「天武朝」造営説では、同時期に政治思想が異なる都城、前期難波宮と藤原宮を天武は造営したことになり、そのことの合理的な説明ができません。このように、前期難波宮(京)と藤原宮(京)の都城様式の違いを、前期難波宮「天武朝」造営説では説明できないのです。このこともわたしは指摘してきたのですが、「天武朝」造営説論者からの応答はありません。なぜでしょうか。(つづく)


第1376話 2017/04/24

『古田武彦の古代史百問百答』百考(1)

 古田武彦先生が亡くなられて一年半が過ぎました。わたし自身の気持ちの整理も少しずつついてきましたので、古田先生の学問学説やその基底をなしたフィロロギーなど学問の方法について振り返る時間が増えてきた昨今です。
 中でも晩年の古田先生の学説や学問的関心事などを要領よくまとめられた『古田武彦の古代史百問百答』(東京古田会編、ミネルヴァ書房刊。2015年4月)を集中して読み直しています。今回、あらためて気づいたことや懐かしく蘇った記憶についてご紹介していきたいと思います。

 同書223頁に次のような記述があります。わたしはここを読んで、当時の情景をはっきりと思い出しました。

 「その間、藤原宮の大極殿問題を発端とする、古賀達也氏(古田史学の会)との(論争的)応答や西村秀己氏(同上)の(「七〇一」禅譲)説などが、大きな刺激となりました。改めて、詳述の機を得たいと思います。」(223頁)

 古田先生のいう(論争的)応答とは、藤原宮の中心部を神社(鴨公神社が鎮座)と見るのか、王宮(701年以後は大極殿)と見るのかという数回にわたる応答でした。双方相譲らず、という結果だったと記憶しています。古田先生が亡くなられる10年ほど前から、わたしは様々なテーマで先生と意見交換を行いました。ときに激しい論争となったことも何回かありました。もちろん、先生に対して礼儀正しく応答したつもりですが、うるさがられたことでしょう。今となっては懐かしい思い出であり、得難い経験でした。
 古田先生は藤原宮の考古学的復元図に対して、大極殿は現代の学者による作図であり、現地にあるのは鴨公神社だと考えておられました。そのことが314頁に次のように記されています。

 「藤原京、難波京、近江京には大極殿はありません。藤原京、難波京共にあるべきであろうと思われる位置に、学者が作図して公にされています。藤原京はその位置には鴨公神社があります。大極殿の記録伝承はありません。近江京も当然無いと考えています。」(314頁)

 これに対して、藤原宮は発掘調査が行われており、その出土事実に基づいて復元図が作成されているとわたしは反論し、中公新書『藤原京』(木下正史著、2003年)を紹介しました。その後、古田先生との応答で、701年以降であれば文武天皇等が藤原宮の宮殿を「大極殿」と呼んだ可能性もあるということで、両者納得するに至りました。
 こうした古田先生との(論争的)応答の詳細については、わたしは今まで文章にすることはほとんどありませんでした。もし公にしたら、「古田と古賀が対立している」などとネットなどで反古田派による古田バッシングの材料に悪用されるのは目に見えていたからです。また、古田先生と異なる意見をわたしが発表すると、本来であれば純粋な学問論争ですので何の問題もないはずなのですが、非難される懸念もありましたので、こうしたテーマは慎重に取り扱ってきました。
 『古田武彦の古代史百問百答』でも次のように古田先生は記されています。

 「なかでも、印象に残ったのは、村岡さんの敬愛した本居宣長について、
 『本居さんは言っています。「師の説に、な、なづみそ。」と。自分の先生の説に“こだわる”な、と言うのです。それが学問なんですね。』
という言葉は、くりかえし聞きました。
 これが、わたしの村岡さんから学んだ『学問の精神』です。昨年(二〇〇五年)『新・古代学』(新泉社)の第八集(最終号)に載せた『村岡学批判』は、その表現です。
 もっとも、『師の意見』(A)と『師に反した自分の意見』(B)と、いずれが是か。それは後代の研究史が明らかにすることでしょう。
 慎重に、心をこめて、これをなすべきこと、それは当然のことです。」(344〜345頁)

 『古田武彦の古代史百問百答』百考をこれから連載するにあたり、慎重に、心をこめて、これをなしたいと思います。(つづく)


第1285話 2016/10/13

『古田史学会報』136号のご案内

 『古田史学会報』136号が発行されましたので、ご紹介します。

 本号には九州王朝都城論に関する基本的で重要な論稿が掲載されました。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の「古代の都城 -宮域に官僚約八千人-」です。7世紀における律令制度に基づく全国支配に必要な宮域(王宮・官衙)の規模を、『養老律令』に記載された中央官僚定員数や平安京や前期難波宮の宮域を図示し、八千人にも及ぶ官僚を収容できることが必要条件であると指摘されました。

 この服部さんの指摘により、今後、律令時代の九州王朝の都城候補を論ずるときは、これだけの規模の王宮・官衙遺構の考古学的出度事実の提示が不可欠となったのです。この規模の都城遺構を提示できないいかなる仮説も成立しません。ちなみに、この規模を有す7世紀における王都は太宰府と前期難波宮(難波京)、そして藤原宮(新益京)だけです。近江大津宮は王宮の規模は巨大ですが、周囲の都市化が進んでいるためか官衙遺構や条坊都市は未発見です。

 わたしからは「九州王朝説に刺さった三本の矢(中編)」と「『肥後の翁』と多利思北孤」を発表しました。九州王朝の兄弟統治の一例として、筑後の多利思北孤と鞠智城にいた「肥後の翁」を兄弟の天子とする仮説です。

 西村秀己さん(『古田史学会報』編集部)は古代官道南海道の変化が、九州王朝から大和朝廷への王朝交代に基づくことを報告されました。とても面白いテーマです。

 上田市の吉村八洲男さんは『古田史学会報』初登場です。古代信濃国の多元史観による研究です。このテーマは「多元的古代研究会」や「東京古田会」では活発に論議されています。「古田史学の会」でも関心が深まることが期待されます。

 136号に掲載された論稿・記事は次の通りです。

『古田史学会報』136号の内容
○古代の都城 -宮域に官僚約八千人- 八尾市 服部静尚
○「肥後の翁」と多利思北孤 -筑紫舞「翁」と『隋書』の新理解- 京都市 古賀達也
○「シナノ」古代と多元史観 上田市 吉村八洲男
○九州王朝説に刺さった三本の矢(中編) 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学Ⅵ 倭国通史私案②
九州王朝(銅矛国家群)と銅鐸国家群の抗争  古田史学の会・事務局長 正木裕
○〔書評〕張莉著『こわくてゆかいな漢字』 奈良市 出野正
○南海道の付け替え 高松市 西村秀己
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会のお知らせ
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第808話 2014/10/23

「老司式瓦」から

 「藤原宮式瓦」へ

 図書館で山崎信二著『古代造瓦史 -東アジアと日本-』(2011年、雄山閣)を閲覧しました。山崎さんは国立奈良文化財研究所の副所長などを歴任された瓦の専門家です。同書は瓦の製造技術なども丁寧に解説してあり、良い勉強になりました。
 同書は論述が多岐にわたり、理解するためには何度も読む必要がある本ですが、その中でわたしの目にとまった興味深い問題提起がありました。それは次の一節です。

 「このように筑前・肥後・大和の各地域において「老司式」「藤原宮式」軒瓦の出現とともに、従来の板作りから紐作りへ突然一斉に変化するのであ る。これは各地域において別々の原因で偶然に同じ変化が生じたとは考え難い。この3地域では製作技法を含む有機的な関連が相互に生じたことは間違いないと ころである。」(258頁)

 このように断言され、「そこで、まず大和から筑前に影響を及ぼしたとして(中略)老司式軒瓦の製作開始は692~700年の間となるのである。 (中略)このように、老司式軒瓦の製作開始と藤原宮大極殿瓦の製作開始とは、ほぼ同時期のものとみてよいのである。」とされたのです。ここに大和朝廷一元史観に立つ山崎さんの学問的限界を見て取ることができます。すなわち、逆に「筑前から大和に影響を及ぼした」とする可能性やその検討がスッポリと抜け落ちているのです。
 九州の考古学者からは観世音寺の「老司1式」瓦が「藤原宮式」よりも先行するという見解が従来から示されているのですが、奈良文化財研究所の考古学者には「都合の悪い指摘」であり、見えていないのかもしれません。ちなみに、山崎さんが筑前・肥後・大和の3地域の「有機的関連」と指摘されたのは軒瓦の製作 技法に関することで、次のように説明されています。

 「筑前では、「老司式」軒瓦に先行する福岡市井尻B遺跡の単弁8弁蓮華文軒丸瓦・丸瓦・平瓦では板作りであるが、観世音寺の老司式瓦では紐作りとなり、筑前国分寺創建期の軒平瓦では板作りとなる。
 肥後では、陣内廃寺出土例をみると、創建瓦である単弁8弁蓮華文軒丸瓦、重弧文軒平瓦では板作りであり、老司式瓦では紐作りとなり、その後の均整唐草文軒平瓦の段階でも紐作りが存続している。
 大和では、飛鳥寺創建以来の瓦作りにおいて板作りを行っており、藤原宮の段階において、初めて偏行唐草文軒平瓦の紐作りの瓦が多量に生産される。また、藤原宮と時期的に併行する大官大寺塔・回廊所用の軒平瓦6661Bが紐作りによっている。」(258頁)

 ここでいわれている「板作り」「紐作り」というのは瓦の製作技法のことで、紐状の粘土を木型に張り付けて成形するのが「紐作り」で、板状の粘土を木型に張り付けて成形するのが「板作り」と呼ばれています。山崎さんの指摘によれば、初期は「板作り」技法で、その後に「紐作り」技法へと変化するのですが、その現象が筑前・肥後・大和で「突然一斉に変化する」という事実に着目され、この3地域は有機的な関連を持って生じたと断定されたのです。
 この事実は九州王朝説にとっても重要であり、九州王朝説でなければ説明できない事象と思われるのです。列島の中心権力が筑紫から大和へ交代したとする九州王朝説であれば、うまく説明できますが、山崎さんらのような大和朝廷一元史観では、なぜ筑前・肥後と大和にこの現象が発生したのかが説明できませんし、 現に山崎さんも説明されていません。
 影響の方向性もおかしなもので、なぜ大和から筑前・肥後への影響なのかという説明もなされていません。わたしの研究によれば影響の方向は筑紫から大和です。なぜなら観世音寺の創建が670年(白鳳10年)であることが史料(『勝山記』他)から明らかになっていますし、これは観世音寺の創建瓦「老司1式」 が「藤原宮式」よりも古いという従来の考古学編年にも一致しています。
 したがって、筑前・肥後・大和の瓦製作技法の「有機的相互関連」を示す「突然の一斉変化」こそ、王朝交代に伴い九州王朝の瓦製作技法が大和に伝播し、藤原宮大極殿造営(遷都は694年)のさいに採用されたということになるのです。このように、山崎さんが注目された事実こそ、九州王朝説を支持する考古学的史料事実だったのです。


第692話 2014/04/11

近畿天皇家の律令

 第691話で、 藤原宮で700年以前の律令官制の官名と思われる木簡「舎人官」「陶官」が出土していることを紹介しましたが、実はこのことは重大な問題へと進展する可能性を示しています。すなわち、藤原宮の権力者は「律令」を有していたという問題です。一元史観の通説では、これを「飛鳥浄御原令」ではないかとするのですが、九州王朝説の立場からは「九州王朝律令」と考えざるを得ないのです。
 たとえば、威奈大村骨蔵器銘文には「以大宝元年、律令初定」とあり、近畿天皇家にとっての最初の律令は『大宝律令』と記されています。この金石文の記事を信用するならば、700年以前の藤原宮で採用された律令は近畿天皇家の律令ではなく、「九州王朝律令」となります。そうすると、当時の日本列島では最大規模の朝堂院様式の宮殿である藤原宮で「九州王朝」律令が採用され、全国統治する官僚組織(「舎人官」「陶官」など)が存在していたことになります。ということは、藤原宮は「九州王朝の宮殿」あるいは「九州王朝になり代わって全国統治する宮殿」ということになります。「藤原宮には九州王朝の天子がいた」と する西村秀己説の検討も必要となりそうです。
 九州王朝の実像を解明るためにも、藤原宮出土木簡の研究が重要です。わたしは「多元的木簡研究会」の創設を提起していますが、全国の古田学派研究者の参画をお待ちしています。


第691話 2014/04/08

近畿天皇家の宮殿

 このところ特許出願や講演依頼(繊維機械学会記念講演会)を受け、その準備などで時間的にも気持ち的にも多忙な日々が続いています。若い頃よりもモチベーション維持に努力が必要となっており、こんなことではいけないと自らに言い聞かせている毎日です。

 さて、701年を画期点とする九州王朝から近畿天皇家への王朝交代の実体について、多元史観・古田学派内でも諸説が出され、白熱した論議検討が続けられています。「古田史学の会」関西例会においても「禅譲・放伐」論争をはじめ、様々な討議が行われてきました。
 そこで、701年以前の近畿天皇家の実体や実勢を考える上で、その宮殿について実証的に史料事実に基づいて改めて検討してみます。もちろん『日本書紀』 の記事は、近畿天皇家の利害に基づいて編纂されており、そのまま信用してよいのかどうか、記事ごとに個別に検討が必要であること、言うまでもありません。 従って、金石文・木簡・考古学的遺構を中心にして考えてみます。
 『日本書紀』の記事との関連で、700年以前の近畿天皇家の宮殿遺構とされているものには、「伝承飛鳥板葺宮跡」(斉明紀・天武紀)、「前期難波宮遺 構」(孝徳紀)、「近江大津宮遺構(錦織遺跡)」(天智紀)、「藤原宮遺構」(持統紀)などがよく知られています。「前期難波宮」と「近江大津宮」については、九州王朝の宮殿ではないかとわたしは考えていますので、近畿天皇家の宮殿とすることについて大きな異論のない「伝承飛鳥板葺宮跡」と「藤原宮遺構」 について今回は検討してみます(西村秀己さんは、「藤原宮」には九州王朝の天子がいたとする仮説を発表されています)。
 幸いにも両宮殿遺構からは多量の木簡が出土しており、両宮殿にいた権力者の実像が比較的判明しています。たとえば「伝承飛鳥板葺宮跡」の近隣にある飛鳥池遺跡から出土した木簡には「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」などと共に、「詔」の字が記されたものも出土していることから、その地の権力者 は「天皇」を名乗り、「詔勅」を発していたことが推測されます。
 「藤原宮遺構」からは700年以前の行政単位である「評」木簡が多数出土しており、その「評」地名から、関東や東海、中国、四国の各地方から藤原宮へ荷物(租税か)が集められていたことがわかります。これらの史料事実から、700年以前の7世紀末に藤原宮にいた権力者は日本列島の大半を自らの影響下にお いていたことが想定できます。
 その藤原宮(大極殿北方の大溝下層遺構)からは700年以前であることを示す「評」木簡(「宍粟評」播磨国、「海評佐々理」隠岐国)や干支木簡(「壬午年」「癸未年」「甲申年」、682年・683年・684年)とともに、大宝律令以前の官制によると考えられる官名木簡「舎人官」「陶官」が出土しており、 これらの史料事実から藤原宮には全国的行政を司る官僚組織があったことがわかります。7世紀末頃としては国内最大級の礎石造りの朝堂院や大極殿を持つ藤原宮の規模や様式から見れば、そこに全国的行政官僚組織があったと考えるのは当然ともいえます。
 こうした考古学的事実や木簡などの史料事実を直視する限り、701年以前に近畿天皇家の宮殿(「伝承飛鳥板葺宮跡」「藤原宮遺構」)では、「詔勅」を出したり、おそらくは「律令」に基づく全国的行政組織(官僚)があったと考えざるを得ないのです。九州王朝から近畿天皇家への王朝交代について論じる際は、 こうした史料事実に基づく視点が必要です。


第597話 2013/09/19

文字史料による「評」論(2)

 今、上海の浦東国際空港でフライト待ちです。今日は中秋の名月ということで、中国は祝日で会社もお休みです。そのかわり 22日の日曜日が「振り替え平日」だそうです。おもしろい制度ですね。近年制定された祝日とのことで、家族そろって名月を見る日だそうです。ホテルの朝食にも名物の月餅(げっぺい)が出ました(追記:JALの機内食でも出ました)。そういえば、昨晩見た上海の満月はみごとでした。以前と比べると上海の空も きれいになったようです。

 今日帰国しますが、16日の日は台風のおかげで関空に行けず、中国出張が一日遅れたので、楽しみにしていた武漢行きはキャンセルとなりました。

 さて、近年もっとも衝撃を受けた「評」史料の一つが、藤原宮出土の「倭国所布評」木簡でした。「洛中洛外日記」第447話「藤原宮出土『倭国所布評』木簡」で紹介しましたが、藤原宮跡北辺地区遺跡から出土した「□妻倭国所布評大野里」(□は判読不明の文字)と書かれた木簡です。奈良文化財研究所のデータベースによれば、「倭国所布評大野里」とは大和国添下郡大野郷のことと説明されています。

 近畿天皇家の中枢遺構から出土した「評」木簡ですが、700年以前すなわち九州王朝(評制)の時代に、近畿天皇家は自らの中枢領域(現奈良県に相当か) を「倭国」と表記していたのです。「倭国」とは当然のこととして九州王朝の国名であり、その国名を近畿天皇家が自らの中枢領域の地名表記に用いることができたということは、700年以前に既に列島内ナンバーワンの「国名」使用が近畿天皇家には可能であったということを示します。

 この史料事実からどのような仮説が導き出され、その仮説の中でもっとも有力な仮説を検討する必要性を感じています。まずは古田学派内で多くの作業仮説が出され、それらの中から相対的に最も合理的で優れた論証(わたしがいうところの相対論証)と仮説の絞り込みが必要です。読者や研究者の皆さんの仮説提起をお待ちしています。(つづく)