藤原京一覧

第547話 2013/04/03

新益京(あらましのみやこ)の意味

 今朝は名古屋市に来ています。名古屋駅前の桜通りを歩いたのですが、「桜通り」の名称ほどには桜の木は多くありません。それでも交差点の角々にある満開の桜は、おりからの強風で花びらを散らし、文字通りの桜吹雪の状態です。
 今日の午前中は名古屋で、午後からは三重県四日市市で、夜は愛知県一宮市で仕事です。世間ではアベノミクスとやらで気分だけは「好景気」のようですが、 物価上昇が先行し、国民所得は二~三年後にしか上がらないでしょうから、その間、シュリンクした国内マーケットは厳しさを増すようにも思われます。          

 さて、藤原京と呼ばれている大和朝廷の都ですが、『日本書紀』持統紀には「新益京(あらましのみやこ)」と記されており、「藤原京」という名称はありません。他方、宮殿は「藤原宮」と記されています。
 この藤原宮下層遺構からは多数の木簡や土器が出土しており、その中の紀年銘木簡「壬午年(天武十一年・六八二)」「癸未年(天武十二・六八三)」「甲申年(天武十三年・六八四)」から、藤原京の造営が天武の時代に既に始まっていたことがわかっています。この藤原宮下層から条坊道路や側溝が発見されたこと から、藤原京造営時にはここ(大宮土壇)に王宮を造ることは想定されていなかったことが推定できます。
 こうした考古学的出土事実から、わたしは喜田貞吉が提起した「長谷田土壇」説に注目し、藤原京造営時の王宮は長谷田土壇にあったのではないかとするアイデア(思いつき)に至りました。この「思いつき」を「仮説」とするためには、長谷田土壇の考古学的調査が必要です。
 この王宮の位置が変更されたとする「思いつき」が正しければ、「藤原京」のことを『日本書紀』では王宮(藤原宮)の名称とは異なる「新益京」とした理由もわかりそうです。それは、長谷田土壇から南東に位置する大宮土壇への王宮の移動(新築か)により、条坊都市もそれに伴って東側へ拡張されたこととなり、 その拡張された新たな全京域を意味する「新益京(あらましのみやこ)」という名称を採用したのではないでしょうか。このように考えれば、藤原宮(大宮土壇)を中心点として、「藤原京」がいびつな形の条坊都市になっていることも説明できます。ただし、このアイデアは先の「思いつき」を前提とした「思いつき」ですので、これから慎重に調査検討していきたいと思います。


第546話 2013/03/31

藤原宮へドライブ
       
       
         
            

 昨日は飛鳥までドライブしました。午前中は万葉文化館を見学し、館内の食堂で昼食をとりました。その後、橿原考古学研究
所附属博物館に行き、長谷田土壇の発掘調査報告書の有無について問い合わせましたが、あいにく学芸員の方が不在でしたので、後日連絡していただくことにな
りました。
               そのとき、長谷田土壇がある醍醐集落から礎石が発見されていることを教えていただきました。礎石は道路沿いの小川の淵に露出しており、見ることができるとのことなので、早速醍醐集落に向かいました。
             
 醍醐集落は藤原宮跡の北側にあり、その内裏部分に位置する醍醐池は桜の名所で、花見客で賑わっていました。醍醐池の北側にある醍醐集落まで行き、小川沿
いの礎石を見つけることができました。コンクリートの護岸壁に埋め込まれた状態の大きな礎石二つが露出していました。そこにあった説明板によると、この礎
石は藤原宮を囲む大垣の十二門の内の北西に位置する「海犬養門」の礎石とのことでした。したがって、位置的にも長谷田土壇とは異なっていました。藤原宮の
礎石は全て平城宮造営のために移動転用されたと思っていたのですが、大垣の門の礎石が残っていたことに驚きました。
             
 こうして今回のドライブでは長谷田土壇を見つけることはできませんでしたが、周囲の土地勘が少しはできて有意義でした。ただ、昨日は黄砂の飛散が多く
て、車に黄砂がびっしりと付着するほどでした。また同地を調査旅行したいと思います。それにしても、こんな狭隘な地域の王者が日本列島の代表者(大和朝
廷)となったことが何とも不思議です。古代において、それを可能とした何が起きたのでしょうか。


第545話 2013/03/29

藤原宮「長谷田土壇」説
       
       
         
            

 今日は八重洲のブリヂストン美術館内のお店で昼食をとっています。フラスコ画が展示してあり、おちついた雰囲気のお店なのでとても気に入っています。午後、もう一仕事してから京都に帰ります。

            

 藤原宮跡が発掘された大宮土壇ですが、古くは江戸時代の学者、賀茂真淵が藤原宮「大宮土壇」説を唱えました。真淵のこの説は弟子の本居宣長や孫弟子の上田秋成に受け継がれ、明治時代には飯田武郷に引き継がれ定説となりました。
             
 こうした流れの中にあって、大正時代に入ると喜田貞吉による、藤原宮「長谷田土壇」説が登場します。喜田貞吉は、法隆寺再建・非再建論争で著名な学者で
すが、『日本書紀』の記述(法隆寺全焼)を根拠に再建説を主張し、後に若草伽藍の発掘により、その正しさが証明されたことは研究史上有名です。
             
 藤原宮を「長谷田土壇」とした喜田貞吉説の主たる根拠は、大宮土壇を藤原宮とした場合、その京域(条坊都市)の左京のかなりの部分が香久山丘陵にかかる
という点でした。ちなみに、この指摘は現在でも「有効」な疑問です。現在の定説に基づき復元された「藤原京」は、その南東部分が香久山丘陵にかかり、いび
つな京域となっています。ですから、喜田貞吉が主張したように、大宮土壇より北西に位置する長谷田土壇を藤原宮(南北の中心線)とした方が、京域がきれい
な長方形となり、すっきりとした条坊都市になるのです。
            
 こうして「長谷田土壇」説を掲げて喜田貞吉は「大宮土壇」説の学者と激しい論争を繰り広げます。しかし、この論争は1934年(昭和九年)から続けられ
た大宮土壇の発掘調査により、「大宮土壇」説が裏付けられ、決着を見ました。そして、現在の定説が確定したのです。しかしそれでも、大宮土壇が中心点では
条坊都市がいびつな形状となるという喜田貞吉の指摘自体は「有効」だと、わたしには思われるのです。(つづく)


第544話 2013/03/28

二つの藤原宮
       
       
         
            

 昨晩から東京に来ています。京都御所の桜はようやく開花し始めましたが、東京の桜はもう散り始めており、日本列島内の花
模様の違いを楽しんでいます。今、赤坂のカフェで昼食を兼ねた遅い朝食をとりながら、洛中洛外日記を執筆中ですが、このところ前期難波宮や賀正礼について
の連載が続いていますので、今回は前期難波宮からちょっと離れて、藤原宮と藤原京について書くことにします。
             
 三月の関西例会でも発表したのですが、藤原宮には考古学的に大きな疑問点が残されています。それは、あの大規模な朝堂院様式を持つ藤原宮遺構の下層か
ら、藤原京の条坊道路やその側溝が出土していることです。すなわち、藤原宮は藤原京造営にあたり計画的に造られた条坊道路・側溝を埋め立てて、その上に造
られているのです。
             
 この考古学的事実は王都王宮の造営としては何ともちぐはぐで不自然なことです。「都」を造営するにあたっては当然のこととして、まず最初に王宮の位置を
決めるのが「常識」というものでしょう。そしてその場所(宮殿内)には条坊道路や側溝は不要ですから、最初から造らないはずです。ところが、現・藤原宮は
そうではなかったのです。この考古学的事実からうかがえることは、条坊都市藤原京の造営当初は、現・藤原宮(大宮土壇)とは別の場所に本来の王宮が創建さ
れていたのではないかという可能性です。
               実は藤原宮の候補地として、大宮土壇とは別にその北西にある長谷田土壇も有力候補とされ、戦前から論争が続けられてきました。(つづく)

            

 さて、次の仕事(化成品工業協会の会合)までちょっと時間がありますので、これから赤坂サカスと日枝神社でプチ花見をしてきます。


第485話 2012/10/20

大化改新詔の宮は何処?

 今日の関西例会も優れた面白い研究発表が続きました。初めての参加者も増え、初心者にも楽しんでいただけたようです。毎月の会場確保は大変です が、大下さん西井さんや正木さんらのご尽力もあり、何とか会場を確保しています。今回は初めて「エル大阪」という会場を正木さんに確保していただきまし た。関係各位には感謝にたえません。
 今回は木簡研究に関する報告が正木さんや冨川さんからなされ、理解が進みました。正木さんの発表では、藤原宮の回廊が完成するのは大宝三年(703)以 降であることが改めて指摘されたのですが、それを聞いた原幸子さん(古田史学の会々員・奈良市)から休憩時間に、「それでは大化改新詔が出された宮殿はどこなのですか」と問われ、わたしは考え込みました。
 わたしの説では大化二年の改新詔は九州年号の大化二年(696)のことであり、藤原宮で出されたと考えていたのですが、藤原宮出土木簡の研究から、大化二年(696)には藤原宮回廊が未完成であったことが判明したので、それではどこで大化改新詔が出されたのかわからなくなったのです。
 例会後の懇親会で、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)にこのことをたずねると、「回廊は未完成でも大極殿などは完成していたと考えれば問題ない」との返答が返ってきました。確かにそうかもしれませんが、まだよくわかりません。歴史研究には様々な説が「相対的」な論証力を持ち、優劣付けがたいケースがあります。結論を急がず、検討を続けたいと思います。
 こうした甲論乙駁により、自分一人で行う研究に比べ、例会などによる「論争」は自らの説の弱点や誤りにも気づかされることがあり、大変有意義です。関西例会の有り難みを噛みしめる今日この頃です。
 例会発表のテーマは次の通りでした。なかでも岡下さんの聖徳太子と九州年号の研究は刺激的でした。会報への投稿が期待されます。正木さんのプロジェクターを使用した発表は、九州王朝説への理解を助け、説得力のあるもので、ことのほか好評でした。

〔10月度関西例会の内容〕
1). 九州王朝の近畿侵入譚(木津川市・竹村順弘)
2). 人麿はジェノバラインを知っていた・2(明石市・不二井伸平)
3). 藤原京出土木簡について(川西市・正木裕)
4). 楽浪郡と平壌出土戸口簿(相模原市・冨川ケイ子)
5). 「真宗と九州年号」を読んで(京都市・岡下英男)
6). 「正法輪蔵」のなかの九州年号(京都市・岡下英男)
7). 久留米大学講演「九州王朝論の新展開 — 最近の考古学的発見と九州王朝」(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・古田先生京都講演会「森嶋学と古代史」・TV大学市民講座「幕末維新期の鳩居堂」他・日本触媒姫路の爆発事故・別府市HPに水野孝夫の名前・その他


第442話 2012/07/15

藤原宮の完成年

 市 大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』を読み、自らの不勉強を痛感する昨今です。中でも、藤原宮の完成が大宝三年(703年)以降であったことが、出土木簡から明らかとなったという指摘には驚きました。

 同書(168頁)によると、藤原宮の朝堂院東面回廊の東南隅部付近の南北溝から7940点の木簡が出土しているのですが、この南北溝は東面回廊造営時に 掘削され、回廊完成とともに埋められました。出土した大部分の木簡は八世紀初頭のもので、記されていた最も新しい年紀は「大宝三年」(703年)でした。 このことから、東面回廊が完成したのは、703年以降となり、このことはとりもなおさず藤原宮の完成が703年以降だったことを意味します。

 このようなことまで判明するのも、同時代史料としての木簡のすごさですが、このことと関係しそうな記事が『続日本紀』慶雲元年十一月条(704年)にありました。

「始めて藤原宮の地を定む。宅の宮中に入れる百姓一千五百五烟に布を賜うこと差あり。」

 694年の藤原京遷都から10年もたっているのに、「始めて藤原宮の地を定む。」というのもおかしな話だったのですが、大宝三年(703年)以降に藤原宮が完成していたとになると、この記事も歴史の真実を反映していたことになりそうです。

 『続日本紀』慶雲元年十一月条(704年)のこの記事については、古田学派内でもいろんな見解が出されてきましたが、今後はこの出土木簡7940点を精査したうえでの再検証が必要ではないでしょうか。


第155話 2007/12/16

藤原宮の冨本銭

 昨日の関西例会で、藤原宮から出土した地鎮祭用と思われる壺に納められた9枚の冨本線について、わたしの見解を述べました。飛鳥池工房跡から出土した冨本銭の発見は、古代貨幣研究に重要な一石を投じましたが、今回の藤原宮跡から出土した冨本銭も、更に貴重な問題を提起しました。

 飛鳥池の冨本銭発見は、『日本書紀』天武12年条の銅銭記事が歴史事実であったことを指し示したのですが、ならば同時に記された銀銭の存在も歴史事実と考えざるをえません。しかし、今回の地鎮祭で用いられたと思われる壺にあったのは銅銭の冨本銭でした。なぜ、より価値の高い銀銭ではなく、冨本銅銭が用いられたのでしょうか。
 それは、その銀銭が大和朝廷ではなく九州王朝の貨幣だったからと思われます。先の天武12年条の記事は銀銭の使用を禁じ、銅銭を用いるようにと命じた記事なのですが、これは九州王朝の銀銭に変わって、自らが飛鳥池で鋳造した冨本銭を流通させるという意味だったのです。このように考えることにより、『日本書紀』の記事や藤原宮出土の冨本銭の意味が明らかになるのです。
 持統らは自らの宮殿建設にあたり、九州王朝の銀銭に代えて、自ら鋳造した冨本銭を用い、王権の安泰と新たな列島の代表者たらんとする意志と願いを込めたのではないでしょうか。9枚の冨本銭と、一緒に入っていた9個の水晶玉は、九州王朝にかわり、自らが「九州」(日本列島)を統治するという政治的野心の現れと思われるのです。
   なお、関西例会の発表内容は次の通りでした。
 
  〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 淡海乃海・近江の道(豊中市・木村賢司)
  2). 岐須美々命と石窟の土蜘蛛(大阪市・西井健一郎)
  3). 「実測値」と「机上の計算値」(交野市・不二井伸平)
  4). 「明日香村発掘調査報告会2007/12/08」に参加して(木津川市・竹村順弘)
  5). 「丁亥年」刻字紡錘車の史料批判(京都市・古賀達也)
  6). トロイの木馬(相模原市・冨川ケイ子)
  7). 書紀から導かれる「斉明死去」以降の歴史の真実(川西市・正木裕)
  8). 沖ノ島5(生駒市・伊東義彰)
 
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・天草の古名「苓州」・他(奈良市・水野孝夫)