第2689話 2022/02/26

東宮聖徳と利歌彌多弗利

 本日は東京古田会の月例会にリモート参加させていただきました。今回は、同会々員の新保高之さん(調布市)による、『日本書紀』に記された「聖徳太子」の名称についての研究発表がありました。同研究は「聖徳太子は異名王」(注①)として『東京古田会ニュース』に発表されていたもので、発表当初から注目していた論考でした。
 新保稿では、『日本書紀』に見える「聖徳太子」を指す多くの異名を抽出し、その中のキーワードから見えてきた〝「東宮聖徳」「厩戸皇子」「上宮太子」という、三つの人物像の重ね合わせ〟が「聖徳太子」記事であるとされました。簡明な方法論から導かれた穏当な仮説と思います。新保さんの発表を聴講して、「東宮聖徳」という名称とその人物像について次のような見通し(史料根拠に基づく論理展開)を抱きました。

(1) 九州年号史料に見える「聖徳」年号は利歌彌多弗利の法号とする正木裕説(注②)が有力であり、『日本書紀』に見える「東宮聖徳」は、利歌彌多弗利の呼称や伝承を転用した可能性がある。
(2) 「東宮」は皇太子を指す言葉であることから、「東宮聖徳」は皇太子時代の利歌彌多弗利の呼称だったのではあるまいか。
(3) 『二中歴』「年代歴」の「倭京」年号の細注にある「倭京二年(619) 難波天王寺を聖徳が造る」の「聖徳」も皇太子時代の利歌彌多弗利の事績と考えられる(注③)。「倭京」年間(618~622年)は多利思北孤(上宮法皇)の治世期であるため。
(4) 多利思北孤が「上宮法皇」であり、利歌彌多弗利が「東宮聖徳」であれば、「上宮」「東宮」は両者が居住した宮殿名ではあるまいか。
(5) そうであれば、「東宮」とは九州王朝の都(太宰府、倭京)に対して、その東の難波(大阪市上町台地)にあった利歌彌多弗利の宮殿名とする理解も可能。
(6) 『二中歴』「年代歴」の「白鳳」(661~683年)年号の細注「観世音寺東院造」(注④)も、太宰府の観世音寺を東院が造ったと解すれば、この「東院」も当時の皇太子が居た宮殿名に由来する呼称とできそうである。

 以上のような見通しを持っていますが、本格的な検証や論証はこれからの仕事です。

(注)
①新保高之「聖徳太子は異名王」『東京古田会ニュース』201号、2021年。
②正木裕「利歌彌多弗利の法号『聖徳』の意味と由来」古田史学の会・関西例会で発表、2014年12月。
 正木裕「盗まれた『聖徳』」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
③古賀達也「洛中洛外日記」1391話(2017/05/11)〝『二中歴』研究の思い出(4)〟
 古賀達也「『二中歴』九州年号研究の紹介 ―九州王朝史復元研究の成果―」『東京古田会ニュース』183号、2018年。
④古賀達也「九州王朝の難波天王寺建立」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
 古賀達也「洛中洛外日記」1392話(2017/05/11)〝『二中歴』研究の思い出(5)〟

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