邪馬台国一覧

第237話 2009/12/06

巻向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない(1)

 巻向遺跡で発掘された弥生時代の住居跡が「邪馬台国」の女王卑弥呼の宮殿であるかのような報道がテレビや新聞でなされましたが、これは学問的に見れば全 くナンセンスなことです。古田史学をご存じの方には言うもおろかですが、「邪馬台国」(『三国志』魏志倭人伝には邪馬壹国と表記されており「邪馬台国」と するのは誤り)のことが記されている中国の史書『三国志』には、「邪馬台国」の位置を次のように表記しています。

「郡より女王国に至る、万二千余里」

 すなわち、帯方郡(今のソウル付近)から約12000里離れたところに女王卑弥呼の国はあると述べているのです。したがって、『三国志』で使用されている1里が何メートルかを調べれば、女王国の大まかな位置がわかるように記されているのです。
 従来説では漢代の1里435メートルと同じとされてきましたが、古田先生は1里約77メートルとする短里説を唱えられたのは、ご存じの通りです。
 1里約77メートルの短里説にたてば、12000里は北部九州にピッタリですが、435メートルの長里説にたちますと、九州も巻向遺跡のある大和盆地も はるかに通り越し、太平洋の彼方に「邪馬台国」はあったことになるのです。従って、学問的には短里でも長里でも絶対に大和では有り得ないのです。
 「邪馬台国」畿内説論者はこの魏志倭人伝の位置表記を百も知っていながら、この単純明快な史料事実を国民には伏せたまま、巻向遺跡の住居跡を卑弥呼の宮殿であるかのように、大騒ぎしているのです。その手口は学問的態度とはかけ離れており、「醜悪」と言うほか有りません。(つづく)

参考『吉野ヶ里の秘密』光文社
 1章「邪馬台国」にトドメを刺(さ)す 古田武彦


第125話 2007/03/15

エクアドルの甕棺墓

 エクアドルのバルディビア調査旅行から古田先生や大下さん(本会事務局次長)らが、多大な研究成果と共に無事帰国されました。そられの詳細な報告は別途報告会を企画していますが、その成果の一つに、エクアドルから出土していた甕棺(みかかん)墓があります。

 二つの甕棺の開口部どおしを繋ぎ合わせたもので、北部九州の弥生時代の甕棺墓に極めて類似した墓制です。ただ、北部九州のものは横に寝かされています が、エクアドルのものは縦に立てられています。年代も紀元前500年から紀元後500年と博物館によって説明がまちまちだったそうです。
 しかし、バルディビアの縄文式土器と共に、甕棺墓まで日本列島のものと類似していたとは、驚きでした。これらの類似は古代倭人が太平洋を渡ったとする『三国志』倭人伝の記述が正確であったことの証拠といえます。
 更に、いわゆる「邪馬台国」論争にも決定的な意味を持っていると思われます。何故なら、太平洋を渡った倭人は、甕棺墓という墓制を持った北部九州の倭人だったということになり、邪馬台国畿内説はますます成立困難となったからです。
 ご高齢をおしてのエクアドル調査旅行に、わたしは心配していましたが、こうした成果を携えて帰国された古田先生に、あらためて脱帽です。本当にすごい先生です。


第5話 2005/06/23

銅鐸と『邪馬台国』

 来る7月10日(日)、わたしは長野県松本市で講演します。「古田史学の会・まつもと」からの招請によるもので、演題は「神々の亡命地・信州─古代文明の衝突と興亡─」です。当地には松本深志高校時代の古田先生の教え子さん達が大勢おられ、いつも以上に緊張してしまう所です。「教え子」といっても、皆さん私よりも大先輩で、そんな大先輩を前に講演するのですから、恐縮至極。
 今回の講演でも、「信州についても触れて欲しい」との要請があったので、現在、信州の古代史について猛勉強中です。主には古代神話や説話と銅鐸出土分布との関連についてお話しさせていただく予定です。そこで今回改めて銅鐸について勉強したのですが、大和(奈良県)は全銅鐸文明期間において一度も銅鐸の中心分布に位置したことがないのですね。この事実は良く知られていますが、考えてみるとこれは「邪馬台国」(正しくは邪馬壹国)論争にとって決定的な考古学的事実ではないでしょうか。近畿・東海などにおける弥生時代を代表する遺物「銅鐸」の出土が多くない大和に倭国の中心国家が存在したとは、人間の平明な理性では、ちょっと言えないと思います。「邪馬台国」畿内説の人達はこれをどう説明できるのでしょうか。他人ごとながら思わず同情してしまいました。
 もちろん、「共同体の祭器銅鐸が統一国家の出現により捨てられた」等々、様々な「屁理屈」(失礼)がこねられているわけですが、だったら統一国家のシンボルとして、弥生時代の大和から、他地域を圧倒するような遺物が出土しているのか、という質問にはどう答えられるのでしょうか。わたしは、この疑問を松本での講演会で話してみようと考えています。大先輩達の胸を借りて、銅鐸分布が示す古代の真実に挑戦です。