2015年02月21日一覧

第879話 2015/02/21

畿内出土庄内式土器の真実

 本日の関西例会では衝撃的な報告が次々と出され、わたしの記憶している限りでは、最も充実した画期的な関西例会でした。中でも服部静尚さん(古田史学の会『古代に真実を求めて』編集責任者)による、畿内出土の庄内式土器や布留式土器についての報告は衝撃的でした。
 畿内の前期古墳の編年が「邪馬台国」畿内説を「保証」するかのように3世紀前半にまで古くされているのですが、その編年の根拠の一つとされているのが、弥生時代と古墳時代(布留式土器)の中間に位置するとされている庄内式土器です。この庄内式土器と纒向型前方後円墳が時代的に重なり、これを「邪馬台国」畿内説の根拠とされているわけです。そして、この纒向に全国の土器が集まっていることや、纒向の庄内式土器や大和の布留式土器が全国に伝播していることを根拠に、纒向(大和)が倭国の中心国「邪馬台国」と説明されています。
 こうした「邪馬台国」畿内説の「根拠」とされている庄内式土器や布留式土器について、服部さんは実際に考古学者への聞き取り調査や論文を精査され、次の驚くべき事実を報告されたのです。

1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。
2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。
3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。
4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。
5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。
6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。
7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。
8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。
9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。
10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。
 ※「庄内式土器研究XIX」1999年、米田敏幸氏の論文等による。

 以上のように、庄内式土器研究会の研究成果は「邪馬台国」畿内説の根拠とされてきた土器についての決定的反証となっています。服部さんの調査は更に進展を見せており、『古田史学会報』や『古代に真実を求めて』への掲載を要請していますので、ご期待ください。
 この他にも、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)や正木さん(古田史学の会・全国世話人)からも優れた研究が報告されました。別の機会にご紹介したいと思います。2月例会の発表は次の通りでした。

〔2月度関西例会の内容〕
①短里と景初(高松市・西村秀己)
②潤色ではなく部分削除された改新の詔(八尾市・服部静尚)
③改新詔の藤原宮発布説は成り立つか?(八尾市・服部静尚)
④邪馬台国近畿説と古田説はなぜすれ違うのか(八尾市・服部静尚)
⑤続・伊勢大神考 記紀に見る二倍年暦の痕跡(大阪市・西井健一郎)
⑥中国・朝鮮古文献に見る「倭」と「倭人」の使い分けについて(奈良市・出野正)
⑦「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」(川西市・正木裕)
⑧「グビ嶼」が証明する『隋書』の「流求」は「沖縄」(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(ギリシア旅行を断念。旅行は古田先生抜きで実施予定)・古田先生購入依頼『真宗聖教全書』昭和15年版入手、提供。同版掲載の「教行信証」には「主上」の二字が消されている・勝部遺跡収蔵庫見学・テレビ視聴(古代の土木技術-版築の来た道、尼寺を考える、漆の食器、よみがえる総天然色の列車たち)・その他