古賀達也一覧

第699話 2014/04/24

特許出願と学術論文投稿

 昨日は大阪の特許事務所に行き、新規開発品の特許出願の打ち合わせを行いました。若い頃は特許明細を自分で書いたものですが、近年は特許戦略や出願技術が高度で複雑になってきましたので、特許事務所の弁理士さんに書いてもらうことが多くなりました。仕事柄、特許出願や開発に関わることも多いのです が、企業研究(「お金」のための研究)では新発見や新発明を商品開発にまで進め、事業化により社会に貢献し、利益(お金)をいただき、事業継続を可能とします。わたしはこうしたビジネスに誇りをもっていますし、開発品が店頭に並び、みなさんに喜んで買っていただけることは、とても嬉しいものです。
 他方、特許出願とは異なって、学会などで企業研究の成果の一部を発表(無償で「公知」にする)することもあります。もちろん企業機密を守りながら、企業や商品の宣伝効果やお客様や学界への知的便宜をはかり、貢献し信頼を得ることが主たる目的です。7月にも繊維機械学会で講演を行いますが、そこでの資料やパワーポイントの画像に取り違えやミスがあるかもしれませんし、著作権や版権に問題なければコピペもします。間違いに気づけば謝り訂正しますし、それ以上聴講者から非難されたりバッシングされることもありません。企業の知見を無償で「公知」とするのですから、感謝されこそすれ、叩かれることはありません。 だから安心して発表できます。
 ところが、基本的に同じこと(自らの発見と仮説を論文発表することにより無償で「公知」にした)をした小保方さんはマスコミや評論家、御用学者から集団でバッシングされました。狂気の沙汰としか思えません。学術論文というものは、それまで誰も知らなかったことや定説とは異なる発見や仮説を発表するもので、その結論が「真理」かどうかはその時点では誰もわからないケースがあるのは当然ですし、だからこそ厳しい査読を経て、学術誌に掲載に値する仮説や発見と認められて掲載されるのです。
 従って、小保方さんの場合、STAP細胞やSTAP現象が真理かどうか、再現できるかどうかは、論文発表においては本来は問題とされません。何故なら、査読する方はそんなことまで実験して調べることはできませんから、仮説として論理的に成立しているかどうか、推論や論理展開に矛盾がないか、「公知」にするほどの内容かどうかが問題とされるのです。ですから、小保方さんがあれほど醜いバッシングを受ける理由がわたしには全く理解できません。写真の取り違えや、悪意のない画像修正(むしろ見やすくするための修正)は、訂正すればすむ問題であり、あれほどバッシングを受けるようなことではありません。
 理研の対応も理解に苦しみます。小保方さんに論文を取り下げろというのなら、その小保方さんの発見や成果に基づいて出した理研の特許も取り下げますというべきです。わたしはどちらも取り下げる必要はないと考えていますが。ちなみに、理研の特許を検索したところ、アメリカで国際特許を昨年4月24日に出願していました(PCT/US2013/037996)。同特許にはバカンティーさんや小保方さんらの名前も見え、そして恐らく開発に協力した日米の病院名も記されています。小保方さんのネイチャー誌への投稿が昨年3月10日ですから、ほぼ同時期に理研は論文と特許を出したことになります。
 通常、特許は出願してから1~2年ほどして公示されるのですが、同特許は専門的になりますが「先願権主張」のため、あえて早く公示される特許戦術を理研はとったものと推察されます。従って、理研はSTAP細胞やSTAP現象が正しいと確信していたはずです。でなければ膨大な経費(税金)を使って国際特許出願などしないでしょう。
 理研もマスコミもこの特許出願のことは全く知らぬふりをして、小保方さんの論文だけを「親の敵(かたき)」のようにバッシングしているのは、まったく理解できません。なぜ理研が出願した国際特許は叩かないのでしょうか。理研もなぜ特許の取り下げはいわないで、論文取り下げだけを問題とするのでしょうか。 特許による「お金」儲けは大切だが、発見した研究者の将来や名誉はどうでもよいと考えているのでしょうか。そうだとすれば、理研は血も涙もない非情で非常識な組織です。日本もいやな社会になったものです。若者の理科離れがこれ以上進まなければよいのですが。
 今回のSTAP論文騒動を見て、わたしは「和田家文書」偽作キャンペーンを思い出しました。マスコミや雑誌、御用学者を動員して研究者や文書所有者を執拗にバッシングするという構図がそっくりです。あの偽作キャンペーンが一つの契機となって「古田史学の会」は誕生したようなものですから、今回のSTAP論文騒動を契機として、日本の学問やマスコミ、学者や研究者のあり方が問い直されることを期待したいと思います。何よりも、国民が学問や研究のあり方、「お金」のための研究と真理追究のための研究を区別して判断する機会になればと思います。そうすれば、マスコミも日本社会ももう少し良くなるのではないで しょうか。
(本稿は4月の古田史学の会・関西例会で発表した内容を要約したものです。)


第680話 2014/03/17

織田信長の石山本願寺攻め

 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」は、織田信長の摂津石山本願寺攻めが舞台となって展開中です。ご存じの通り、摂津石山本願寺の石山とは今の大阪城がある場所で、難波宮の北側です。大阪歴史博物館の窓からは大阪城と難波宮址の両方が展望できますので、お勧め観光スポットです。
 石山本願寺と織田信長の戦いは「石山合戦」と呼ばれ、10年の長きにわたり続きましたが、この歴史事実は石山がいかに要衝の地であり難攻不落であったかを物語っています。といいますのも、前期難波宮九州王朝副都説への批判として、太宰府のように神籠石山城に囲まれているのが九州王朝の都の特徴であり、前期難波宮にはそのような防衛施設がないことをもって、九州王朝とは無関係とする意見があるのですが、そうした批判への一つの回答が「石山合戦」なのです。
 先日の関西例会においても同様の疑問が寄せられましたので、神籠石山城の存在は「十分条件」ではあるが、「必要条件」ではないとする論理性の点からの反論をわたしは行ったのですが、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から、「難波宮は難攻不落の要害の地にあり、信長でも石山本願寺攻めに何年もかかり、秀吉はその地に大阪城を築いたほど」という指摘がなされました。その意見を聞いて、わたしは「なるほど、これはわかりやすい説明だ」と感じました。わたしがなかなかうまく説明できなかったことを、見事な例で言い当てられたのです。まさに「我が意を得たり」です。
 関西の人はよくご存じのことと思いますが、当時の難波は天王寺方面から北へ伸びている「半島」となっており、三方は海に囲まれています。現在も「上町台地」としてその痕跡をとどめています。その先端付近に難波宮があり、後にその北側に石山本願寺や大阪城が造られています。
 7世紀中頃、唐や新羅の脅威にさらされた九州王朝の首都太宰府は水城と大野城などの山城で周囲を防衛しています。その点、難波であれば朝鮮半島から遠く離れており、攻める方は関門海峡を突破し、多島海の瀬戸内海を航行し、更に明石海峡も突破し、その後に上町台地に上陸しなればなりません。特に瀬戸内海は夜間航行は不可能であり、夜間は各地に停泊しながら東侵することになります。その間、各地で倭国軍から夜襲を受けるでしょうし、瀬戸内海の海流も地形も知り尽くした倭国水軍(「河野水軍」など)と不利な海戦を続けなければなりません。したがって、古代において唐や新羅の水軍が自力で難波まで侵入するのは不可能ではないでしょうか。
 同様に日本海側からの侵入も困難です。仮に敦賀や舞鶴から上陸でき、琵琶湖の東岸で陸戦を続けながら、大坂峠を越え河内湾北岸まで到達できたとしても、既に船は敦賀や舞鶴に乗り捨てていますから、上町台地に上陸するための船がありません。このように、難波宮は難攻不落という表現は決して大げさではないのです。だからこそ近畿天皇家の聖武天皇も難波を都(後期難波宮)としたのです。
 同様の視点から、愛媛県西条市で発見された字地名「紫宸殿」も防衛上の問題があります。考古学的調査はなされていませんが、もし九州王朝のある時代の「首都・王宮」であったとすれば、ここも周囲に防衛施設の痕跡はありません。北方に永納山神籠石はありますが、離れていますから王宮防衛の役割は期待できそうにありません(せいぜい「逃げ城」か)。しかし、ここでも唐・新羅の水軍は関門海峡の突破と瀬戸内海の航行を経なければ到達できません。難波に至っては、その距離は倍になりますから、更に侵入困難であることは言うまでもありません。
 難波宮が防衛上からも、評制による全国支配のための「地理的中心地」という点からも、やはり九州王朝(倭国)の副都とするにふさわしいのです。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で信長軍が石山本願寺攻めに苦慮しているシーンを見るにつけ、こうした確信が深まっています。


第675話 2014/03/09

前期難波宮の「シュリーマンの法則」

 古田先生の「学問の方法」で最も有名なものの一つに「シュリーマンの法則」と いうものがあります。古田学派の研究者や読者であればよくご存じのことと思います。文字史料や伝承などの記録と考古学的事実が一致する場合、それは歴史的事実である可能性が高いと判断するというものです。ギリシア神話の「トロイ木馬」伝承を歴史事実の反映と考えたシュリーマンがヒッサリクの丘からトロイ遺跡を発見し、その神話伝承が歴史事実であったことを証明したことに由来する 「学問の方法」です。具体的には『真実の東北王朝』(ミネルヴァ書房。20132年3月刊行、古代史コレクション10)の「第五章 東日流外三郡誌との出会い」で次のように古田先生は記されています。

 「記・紀の表記の厳密な理解と考古学的出土分布とは一致する。これを『シュリーマンの法則』と呼ぶ。」(同書、152頁)
 「人々は、従来の慣例やゆきがかり上、冷淡や無視や反発をくりかえしつつ、結局、「シュリーマンの法則」をうけ入れさるをえなくなるであろう。 ーー『神話・伝承と考古学的出土分布との一致』がこれである。」(同書、153頁)

 今回は、この「シュリーマンの法則」で前期難波宮を考察してみることにします。まず考古学的事実の要点は次のようでしょう。

1.7世紀中頃の宮殿遺構であり、当時としては日本列島内最大規模である。
2.日本列島初の朝堂院様式の大規模宮殿遺構である。
3.朝堂の数は14堂で、後の藤原宮や平城宮の12堂よりも多い。
4.その周囲(東西)に大規模な官衙遺構を持つ。
5.火災による消失跡がある。
6.その遺構の上層には聖武天皇による「難波宮」(後期難波宮)遺構がある。

 以上の考古学的事実に対応する文献史料には次のようなものがあります。

1.『日本書紀』孝徳紀白雉三年条(652年、九州年号では白雉元年に相当)に、「秋九月に、宮造ることすでに終わりぬ。その宮殿の状(かたち)ことごとくに論(い)うべからず。」(たとえようのない見事な宮殿が完成した)という記事があります。
2.『日本書紀』には上記の記事の他、天武11年九月条「勅したまはく『今より以後、跪(ひざまづく)礼・匍匐礼、並びに止(や)めよ。更に難波朝廷の立礼を用いよ。』とのたまう。」のように「難波朝廷」という記事もあり、「朝堂院様式」の宮殿を表す「朝廷」という記載が対応しています。
 『皇太神宮儀式帳』(延暦二三年・八〇四年成立)にも「難波朝廷天下立評給時」という記事があり、七世紀中頃に「難波朝廷」が天下に評制を施行したことが記されています。この「朝廷」という表記も、7世紀中頃の朝堂院様式の前期難波宮遺構に対応した表現です。
3.上記の1と2が対応します。
4.7世紀中頃に全国に「評」が創設されたとする多くの記録(先の「天下立評」など)があり、それら評制を施行し、管理するのに必要な「朝廷」の官衙群に対応します。
5.『日本書紀』天武紀朱鳥元年条(684年)に難波の宮殿が火災で焼失したという記事に対応しています。
6.『続日本紀』の聖武紀に見える「難波宮」に対応します。

 以上のようですが、こうして見ると『日本書紀』の記述と前期難波宮遺構がよく対応していることがわかります。すなわち、前期難波宮には「シュリーマンの法則」が成立しており、その結果、この大規模な宮殿を誰の宮殿とするのかが問われるのですが、九州王朝説論者の皆さん、どのようにこの問いに答えますか。わたしの「前期難波宮九州王朝副都」説以外に、九州王朝説を支持する誰もが納得できる仮説はあるでしょうか。ちなみに、近畿天皇家一元史観からの答えは簡単です。「『日本書紀』の記述通り、孝徳天皇が全国に評制を施行した宮殿である」と答えられるのです。古田学派の皆さん、 「シュリーマンの法則」が指し示す仮説を是非考えてみてください。


第665話 2014/02/21

九州王朝の「遷都」論

 わたしは前期難波宮九州王朝副都説に至るよりも以前に、九州王朝の遷都について研究を続けていました。というのも、古田先生の『失われた九州王朝』に九州王朝の遷都を示唆する記述があり(第5章にある「遷都論」)、その研究が九州王朝史研究にとって重要テーマの一つであると考えていたからです。
 その後も、古田先生は九州王朝の「遷都」についての検討を続けておられ、「天武紀」に見える「信濃遷都計画」についても言及されていました。たとえば、 『古田史学会報』(1999年6月3日No.32)掲載の「古田武彦氏講演会(四月十七日)」の次の記事です(全文は本ホームページに掲載されていますので、ご覧ください)。

 二つの確証について
  −−九州王朝の貨幣と正倉院文書−−
(前略)この銭(冨本銭のこと:古賀)が天武紀十二年に現われる銅錢にあたるという。そうすると厭勝銭とは思えない。まじない銭に詔勅を出すだろうか?。 このときの詔勅では「今後、銅銭を使え、銀銭は使うな」とある。銀銭には反感を持っていて、使用禁止。『日本書紀』は信用できないか?。いや、この点は信用できる。「法隆寺再建論争」で喜田貞吉は『書紀』の記述のみを根拠に再建説をとり、結局正しかった。「焼けもせぬものを焼けたと書くか?」という論理し か根拠はなかった。『書紀』が信用できない点は、年代や人物のあてはめなどイデオロギーに関するものであって、事物や事件は基本的に「あった」のだ。(中 略)
天武紀十三年に「三野王らを信濃に遣わす」の記事あり、このとき携行したのかとの説がある。都を移す候補地を探したというが、近畿天皇家の天武がなぜ長野に都を移そうとするのか?ウソっぽい。白村江戦後、唐の占領軍は九州へ来た。なぜ近畿へ来なかったのか?納得できる説明はない。九州王朝が都を移そうと し、『書紀』はこれを二十四年移して盗用したのではないか?。
 朝鮮半島の情勢に恐怖を感じて遷都を考えたことはありうる。なぜ長野か?。海岸から遠いから。太平洋戦争のとき松代に大本営を移すことを考えたのに似ている。(後略)

 以上のように講演で指摘されているのですが、「『書紀』はこれを二十四年移して盗用した」という部分は、正木裕さんの 「34年遡り説」と同様の視点で、興味深く思います。このような古田先生による先駆的な研究に刺激を受けて、わたしの前期難波宮九州王朝副都説への発想が生まれたのかもしれません。
 なお、古田先生の「信濃遷都計画」論の出典をわたしは失念していたのですが、この古田先生の講演録であることを正木さんから教えていただきました。持つべきものは優れた学友です。正木さん、ありがとうございます。


第661話 2014/02/11

武田邦彦さんの学問論

 中部大学教授の武田邦彦さんのブログをときおり紹介していますが、学問や学説について自然科学の分野を例にあげて、考えさせられる持論を展開されていますので、ご紹介したいと思います。
 新説が世に受け入れられるのに何故時間がかかるのかという問題を、学問や人間の本質にまで踏み込んで考察されており、古田史学を世に認めさせるという 「古田史学の会」の使命を考える上でも刺激的な見解です。賛否は別にしても、皆さんも一緒に考えていただければと思います。以下、全文を転載させていただ きます。

 学問・芸術と報道「査読委員はわかってくれない」
                  武田邦彦
              (平成26年2月10日)

 暗い話題では「現代のベートーベン」と囃した作曲家が実は作曲をしていなかったという事件があり、明るいほうでは若い女性が新しい万能細胞で画期的な業績を上げたことが伝えられていた。
 その若い女性が「論文を査読した学者が、『300年にわたる細胞の歴史を冒とくしている』と理解してくれなかった」と言っていた。これについてテレビでもコメントを求められたが、「普通にあることです」と答えました。
 学問というのは相反する2つの側面がある。一つは「これまで築き上げてきた知識と学問体系を大切にする」ということであり、もう一つの活動が「今まで築き上げてきたことが間違いであることを発見する」ということだ。
 この2つは全く違う概念で相互に矛盾しているが、それでも両方とも学問としては欠かすことができない。最近ではもう一つ「役に立つ、あるいはお金になる活動」というのが学問の中に混入してきて学会は混乱している。
 学問は一つ一つの事実や理論を慎重に積み上げてきて、人間の知恵の集積を行う。それが役に立つかどうかはやがてわかることで、学問が体系化の作業をしているときには「役に立つかどうか」を考えることはできない。
 学問が新しい分野を拓いたり、新しい進歩がもたらされても、それが社会で活用されるまでには平均的に30年、ものによっては80年ぐらいかかる。それは 当たり前のことで、発見された時にそれが社会にどのように役立つかわかるようなら、「新しい分野」とは言えないからだ。
 それはともかくとして、女性の研究者の論文に対して、実験で観測された事実を拒絶した査読委員は、第一の立場(これまで築かれてきた学問体系を大切にする)に立っているからだ。それが間違っているかというとそうでもない。
 学問の世界は「正しいこと」がわからない。これまでの学問を覆すようなことは極端に言うと日常的に起こる。たとえば「エネルギーが要らない駆動装置」という発明は膨大にあるが、これまではすべて「間違い、錯覚、サギ」の類だった。それでも、テスト方法や実験結果がきれいに整理されている論文がでる。
 でも、「間違い、錯覚、サギ」を見分ける唯一の方法は、「新しいことはまず拒絶してみる」という手法である。この手法が適切かどうかは不明だが、人間の頭脳で真偽を判別できないのだから、それしかないという感じだ。論文審査は書面だけだからである。
 もし、新しい発見が本当のことだったら、本人もあきらめないし、どこかで同じ結果が得られるので、徐々にそれが真実であることがわかる。学者はそんなことは十分に知っているので、論文をだし、罵倒されても、「それはまだ証明が不足しているな」と考えて、またアタックする。学問は新しいことを目指すがゆえにそれは宿命と言っても良い。


第654話 2014/01/31

おめでとう、小保方さん

 小保方晴子さんのSTAP細胞の研究をテレビ報道で知り、とても驚いています。ノーベル化学賞を受賞された白川先生のケミカルドーピング(ポリマーに金属の性質を発現させる技術)のとき以来の感動です。
 報道によれば、当初、小保方さんの発見は周囲から信じてもらえず、『ネーチャー』からも掲載を拒否されたとのこと。定説を覆すような発見や新たな学説が簡単には受け入れられないのは、理系も日本古代史も似たようなものかと考えさせられる反面、小保方さんの発見は5年で認められたのですから、わたしの感覚からすれば極めて早いと思うのですが、あるマスコミが「遅い」という論調で報道していることには違和感を覚えました。
 古田先生の学説は発表から40年以上もたっていますが、未だ古代史学界は無視の姿勢を貫いているのですから、このこともしっかりと報道し、「遅すぎる」と指摘するのがジャーナリズムやメディアの仕事ではないでしょうか。
 古田先生の支持者に理系の人が多いのは有名ですが、これは古田先生の学問の方法が「データ」や「再現性」「論理性」などを重視されていることにも関係すると思います。「古田史学の会」でも、水野代表とわたしは有機化学を、太田副代表は金属工学を専攻されたとうかがっています。水野さんは日本ペイントで研究開発に関わっておられたこともあり、色素の分子構造や性能についてアドバイスをいただいたこともあります。
 わたしは企業研究ですし、ノーベル賞級とも言われている小保方さんの研究とは比べものにもなりませんが、たとえばわたしが開発した近赤外線吸収染料は、 水着用途(赤外線透撮防止機能)には採用に3年、インナーウェア用途(太陽光発熱機能)には採用に7年かかりました。ですから、社会やマーケットに受け入れられるのに5年や10年かかるのは当然という感じを持っています。
 しかし、古田説が40年以上たっても学界から無視されるという現状は看過できません。もし効果的で実現可能な方法があれば「古田史学の会」としても取り組みたいと思うのですが、現実はそう簡単ではありません。そうした中で、ミネルヴァ書房から古田先生の書籍が続々と刊行されたり、大阪府立大学なんばキャンパス(I-siteなんば)に古田史学書籍コーナーができたりと、一歩一歩ではありますが、着実に前進しています。これからも皆様のご協力と効果的なアドバイスをいただければと思います。それにしても、小保方さん本当におめでとうございます。日本の若者の世界的活躍に拍手喝采です。


第653話 2014/01/29

「古田史学の会」の名称

 今日は快晴の東京に来ています。今年最初の関東出張です。車窓から見える東京タワーや東京スカイツリーが青空に映えてきれいです。

 関東には「古田史学の会」の「地域の会」はありませんが、これは「古田史学の会」設立の事情から意識的にそうしたためです。「市民の古代研究会」が分裂し、「古田史学の会」は全国におられる「市民の古代研究会」会員の受け皿として、全国組織として立ち上げたのですが、関東と九州には「多元的古代研究会」がそれぞれ発足されたので、その地域では「古田史学の会」が受け皿となる必要性がなかったのです。
 また、最古参である「東京古田会」をはじめ、「多元的古代研究会」や「古田史学の会」が互いに協力しあい、切磋琢磨することで、よりよい効果が発揮できると考えていました。ですから、関東や九州に「古田史学の会」の組織を作ることは考えていませんでした。「古田史学の会」発足当時、関東にも「古田史学の会」の組織を作りたいと申し出られた方もありましたが、丁重にお断りしたほどです。
 何よりも、わたしと水野さんには「市民の古代研究会」での経験から、無理な会員拡大を行ってもろくなことにはならないという「暗黙の合意」がありまし た。「組織論」的には正しくないのかもしれませんが、その意識は今も引き継がれています。「トラウマ」と言われても仕方がないのかもしれません。マネージメント論でいうならば、「組織の規模と形態、活動方法は目的(使命・ミッション)に従う」ということにつきますが、このことについては別の機会に触れたい と思います。
 「会」設立にあたり、人事とともに「会名」を検討したのですが、「古田史学」の4文字を入れることと、「○○研究会」という名称にはしないことを、わたしは決めていました。「会」の使命(ミッション)を明確にするために「古田史学」の4文字を冠することを古田先生に御了解いただきましたが、たとえば「古田史学研究会」という名称にはせずに、「古田史学の会」としたのには理由がありました。
 「市民の古代研究会」の理事会変質の過程で、研究会なのだから「研究者」が上で、「古田ファン」は下と、主に研究者で構成されていた理事会が古田ファンの会員を無意識のうちに見下していた可能性がありました。こうしたことが、たとえ無意識であっても二度と起こらないよう、「○○研究会」という名称にはしないことにわたしはこだわり、最終的に「古田史学の会」としたのでした。
 このように、ことあるごとに「古田史学の会」の使命(ミッション)を明確にしてきたにもかかわらず、「古田史学の会」発足の数年後には、熱心に研究発表されていたある会員から、「古田武彦も会員も研究者として平等なのだから、会誌・会報に古田さんの論文を優先的に掲載するのはやめるべき」という声が出たことがありました。わたしは、「古田史学の会」の使命(古田先生や古田史学への支持協力)を説明し、その申し入れを拒絶しました。結局その方は「古田史学の会」を離れられ、別の団体で「活躍」されておられるようです。
 使命を見失った組織の末路は哀れです。「市民の古代研究会」のようになるだけです。この「使命」に関しては、わたしはこれからも微塵も妥協するつもりはありません。もちろん、時代や環境の変化にあわせて「古田史学の会」が進化することは大切ですが、使命を絶対に見失ってはならない。このことをこれからも 繰り返し言い続けていくつもりです。(つづく)


第652話 2014/01/28

「古田史学の会」の創立と使命

 わたしが「市民の古代研究会」の事務局長を辞任し、退会せざるを得なかった経緯をのべてきましたが、一連の状況を理事会の外から見てこられた山崎仁禮男さんによる「私の選択 なぜ古田史学の会に入ったか」が『古田史学会報』創刊号 (1994.06)に掲載されていますので、是非ご一読下さい。
 「市民の古代研究会」を退会するにあたり、わたしは共に戦ってくれた少数の古田支持の理事に、電話で「市民の古代研究会」を退会することと新組織を立ち 上げる決意を伝えました。中村幸雄さん(故人)からは、「古賀さんがそう言うのを待ってたんや。あんな人ら(反古田派理事)とは一緒にやれん。古田はんと一緒やったらまた人は集まる。一からやり直したらええ」と励ましていただきました。水野さんにも行動を共にしてほしいとお願いしたところ、「古賀さんと進退を共にすると、わたしは言ったはずだ」と快諾していただきました。
 そして古田先生にも会を乗っ取られたお詫びと事情を説明しました。古田先生からは「藤田さんはどうされますか」と聞かれ、「行動を共にされます」と返答したところ、「それはよかった」と安心しておられました。何故、会が変質したのか、どうすれば変質しない会を作れるのか悩んでいることを先生に打ち明けた ところ、「7回変質したら、飛び出して8回新しい会を作ったらよいのです」と叱咤激励していただき、わたしは決意を新たにしました。
 「古田史学の会」設立に当たり、最初に決めたのが水野さんを会代表とする人事と、会の目的(使命)でした。それは次の4点です。

1.古田武彦氏の研究活動を支援協力する。
2.古田史学を継承発展させる。
3.古田武彦氏の業績を後世に伝える。
4.会員相互の親睦と研鑽を深め、楽しく活動する。

 特に4番目は古田先生からのアドバイスを受けて取り入れました。先生らしい暖かいご配慮でした。そして次に取りかかったのが「会の運営方法とかたち」を決める、会則作りでした。(つづく)


第651話 2014/01/26

「古田史学の会」誕生前夜

 「市民の古代研究会」理事会の中で少数派で孤軍奮闘していたわたしを支えていたのは、古田支持を明確にしていた関東支部と九州支部からの応援でした。しかし、状況を打開するために理事会や臨時会員総会を開催したものの、「市民の古代研究会」を古田支持の本来の姿に戻すことは絶望的と思われ、両支部は「市民の古代研究会」からの離脱の方向に進んでいました。藤田会長からは、関西と並んで多数の会員がいる関東支部の離脱だけは思いとどまらせるよう指示されていました。しかし、それはもはや不可能でした。反古田派の理事からも「事務局長として、関東と九州の離脱を止めろ」という何とも無責任で身勝手な電話もかかってきました。
 そして、関東支部からのただ一人の理事だった高田かつ子さん(故人)から一枚のファックスが届きました。それには、理事会が反古田派に牛耳られていることは明らかで、なまじ古賀さんが理事会に残ることにより、古田先生は講演に行かなければならず、「人寄せパンダ」として利用されるだけの古田先生のことを思うと胸がつぶれそうです、という高田さんの切々たる心情が吐露されていました。
 その夜、わたしは一晩中考え続けました。そして、「市民の古代研究会」を退会し、古田先生と古田史学を支持支援する新組織を創立することを決意しました。翌日、藤田会長に事務局長の辞任と退会の意志を告げ、行動を共にするよう要請し、一緒に新組織を創立することにしました。その後、関東支部と九州支部は「市民の古代研究会」を離脱し、「多元的古代研究会・関東」「多元的古代研究会・九州」として再出発されました。
 理事会を頂点とする「市民の古代研究会」という組織の中枢を反古田派に乗っ取られ、変質していく過程を内部から見てきたわたしは、責任を痛感し、自らの非力を悔やみ、何が間違っていたのか、どうすれば変質しない会にできるのかを「市民の古代研究会」退会後も考え続けました。(つづく)


第650話 2014/01/25

「市民の古代研究会」の分裂

 反古田派と古田支持派が対立を深める「市民の古代研究会」理事会の「融和」に腐心されていた藤田友治会長に、このままでは関東支部と九州支部は「市民の古代研究会」から離脱すると、わたしは反古田派と断固として戦う決意を求めてきましたが、事態は悪化の一途をたどりまし た。
 理事会では、「古田支持で会員を募集しておきながら、『古田離れ』を会員にわからないように画策するのは会と会員に対する背信行為である」と孤軍奮闘するわたしに対して、反古田派の理事からは「病院に行ってはどうか」とまで言われました。わたしは少数派に陥ったこと、もはや形勢を挽回できないことを悟りました。しかも、会の機関紙『市民の古代ニュース』の編集部は反古田派理事に握られており、こうした理事会の内情を全国の会員に知らせることもできませ ん。
 そして勢いにのった「多数派」理事から、わたしの事務局長解任動議が出されました。解任の理由は、わたしが地方支部に対して「多数派工作」をしたことでした。ある地方支部選出の理事が「反古田派」だったため、わたしからの古田支持協力要請が筒抜けになっていたのでした。事務局長解任動議に対して、「わたしは会員総会で事務局長に選ばれたのであり、理事会の決議で解任することはできない」と抵抗しました。そしてこうも付け加えました。「わたしは藤田会長に請われて事務局長を引き受けたのであり、もし藤田会長が古賀は事務局長にふさわしくないと言われるのであれば、会員総会の決議を待つまでもなく辞任する」 と述べました。この発言の真意は、古田支持のわたしと反古田の「多数派理事」のどちらをとるのかの決断を藤田会長に迫ったものでした。その結果、藤田会長は最後までわたしの解任に同意されず、わたしは事務局長のまま「会長預かり」という訳の分からない「処分」となりました。この「処分」は親しかった中間派理事から出された妥協案でした。「会長預かり」でも従来通り事務局長の仕事は続けるとわたしは宣言したものの、もはや少数派になった事務局長にできることは限られており、敗北を痛感しました。
 ちょうどそのときです。それまで沈黙を守っておられた水野さん(現「古田史学の会」代表)がすくっと立ち上がり、「わたしは古賀さんと進退を共にする」 と言われたのです。この水野さんの発言に、それまで騒然としていた理事会が静まりかえりました。わたしと水野さんとは研究分野が異なることもあって(わた しは九州年号研究、水野さんは中国古典研究)、それほど親しいおつきあいはなかったのですが、このときわたしは水野さんを深く信頼するに至り、その関係は20年たった今日まで続いています。こうして、「市民の古代研究会」は分裂に向けて決定的な瞬間を迎えることとなります。(つづく)


第649話 2014/01/24

「市民の古代研究会」の変質

 「市民の古代研究会」は「古田武彦と共に」という会の性格を表した「サブネーム」を持って創立されたことからも明らかなように、会の目的は古田先生と共に古田史学により日本古代史を研究する団体でした。少なくともわたしやほとんどの会員はそう信じて入会し、会費を支払っていました。従って、会の中枢である理事会はそうした志を持った「同志」により運営されていました。ところが、会員の増加、会組織の急拡大により、この根幹が揺らぎだしたのです。
 拡大した組織を維持運営するため、役員(世話役)を増やさざるを得ない状況が生じました。例会や勉強会に熱心に参加される会員から理事を補充することになったのですが、わたしより年輩でもある先輩理事が推薦する会員を理事に迎えました。そのときわたしは「嫌な予感」がしたことを覚えています。というのも本当にその人が古田説支持者かどうか、わたしにはよくわからなかったのです。しかし、年少のわたしに先輩理事の推薦や判断に根拠もなく異を唱えることはできませんでした。
 その後、わたしの「嫌な予感」は的中しました。理事会の「古田離れ」が急速に進んだのです。「市民の古代研究会」は市民の自立した古代史研究団体であるから、古田武彦だけを講演会に呼ぶのはおかしい、「学問の自由」を守るべきだ、というのが「古田離れ」を主張する理事の意見でした。この一見もっともらし い「学問の自由」という主張に、わたしは苦しみました。そしてそれに対して、一般会員が預かり知らぬところで理事会が「古田離れ」を画策するのは、会と会員に対する背信行為だとわたしは反論し続けたのですが、気づいてみると理事会で古田支持派は少数になっていました。反古田派理事の中心人物が、当初わたしを支持してくれていた中間派理事を一人また一人と切り崩していたのでした。
 当時の理事会は本当にひどい状態で、「反古田・非古田」の理事からは、「安本美典を講演会に呼べ」とか「会は古田説支持団体ではないが古田説支持者がいるのはかまわない」とかが公然と主張されるまでになっていました。さすがに安本氏を呼ぶことに対しては、水野さん(当時「市民の古代研究会」理事、現「古田史学の会」代表)が反対され実現することはありませんでしたが、一元史観の学者を講演会に呼ぶことは進められました。しかも、その段取りを事務局長のわたしがやれと言われました(わたしは、しませんでしたが)。
 こうした理事会変質の背景には、会の拡大のためには「非古田説」の古代史ファンを勧誘すべきという理事の意見や、おりから発生していた和田家文書偽作キャンペーンにより、古田古代史は支持するが和田家文書は偽作であり古田先生はだまされているとする中間派理事の増加がありました。後に、偽作キャンペーンの中心人物が「市民の古代研究会」中枢に電話などで様々なはたらきかけをしていたことをわたしは知りましたが、そのころは思いもよりませんでした。わた し自身もまだまだ世間知らずの未熟者で「甘ちゃん」だったのです。「市民の古代研究会」理事会は古田ファンの善意の人々ばかりであると信じていたのですから。(つづく)


第648話 2014/01/23

「市民の古代研究会」の拡大路線

 わたしは仕事で愛知県一宮市に行くことが多いのですが、時間待ちの際に利用するのが、真新しい一宮駅ビルの5~7階にある市立図書館です。お気に入りの図書館の一つなのですが、その理由は交通の便が良いこと、新しくきれいなこと、そして何よりもミネルヴァ書房から刊行されている古田武彦シリーズが全冊並べられていることです。そうしたこともあり、『古代に真実を求めて』16集を寄贈させていただきました。一宮市民の皆さんの目に留まれば幸いです。

 さて、1990年代に急拡大した「市民の古代研究会」でしたが、組織拡大のため、わたしはマーケティング論でいうところ の、STP戦略をフル活用しました。セグメンテーション・ターゲティング・ポジショニングというもので、活動領域は主に「日本古代史」、獲得すべきター ゲットは「古田ファン・読者」、ポジショニングは多元史観・古田説による旧来の一元史観古代史との「差別化」でした。
 こうした基本戦略は、古田先生の人間的魅力と古田史学が持つ圧倒的な論理性・説得力を背景に、極めて有効にはたらき、期待した通りの成果を達成できました。このときわたしは会員拡大のスピードをあげるために、少し危険な方法を採らざるをえませんでした。それはターゲットを「古田ファン・読者」を中心とし ながらも、「古田史学に関心のある一般の古代史ファン」にも広げたのです。そうすることにより、ターゲットが広がり、会員拡大の成果を出しやすくなりま す。
 そうしたもう一つ理由に、何年も200人程度で推移していた会員数が急速に増えたことに「目がくらんだ」一部の理事から、古田説支持・不支持とは無関係にもっと会員を増やせという声が出始め、そうした意見にわたしは苦慮し、その妥協策として「古田ファン・読者」を中心に「古田説に関心を持つ古代史ファン」というターゲット層の拡大案を出すことにより、組織の「古田離れ」をくい止めようとしたのです。今から思えば、こうした会員数急拡大が一部理事の錯覚 (思い上がり)「古田武彦なしでも会員は増える」をもたらしたのかもしれません。
 しかし、このターゲット層の拡大が「市民の古代研究会」失敗の直接の原因ではありませんでした。より決定的な原因は理事会の「変質」にありました。(つづく)