「 2016年01月 」一覧

第1131話 2016/01/31

正木さんが「誰も知らなかった古代史」開催

 古田史学の会・事務局長の正木裕さんが「誰も知らなかった古代史」というテーマで懇談と発表の会を開催されることになりました。もちろん古田史学に基づく内容で、講師(カタリスト)も「古田史学の会」会員のお名前が並んでいます。わたしもカタリストとして参加したいと考えています。
 とても楽しそうな企画です。聴講したい方や発表したい方は正木さんまでご一報ください。正木さんから送られてきた案内を下記に転載します。

 まちライブラリー@もりのみやキューズモールで「誰も知らなかった古代史」シリーズを正木裕(古田史学の会・事務局長)主催で月1回程度の頻度で開催します。
 テーマごとにカタリストを変え、「当たり前のように言われてきたけれど考えてみれば不思議だな」と思われる古代の歴史について、外国史書・遺跡遺物・化学分析など様々な観点から見直し、「知られていなかった」日本の古代の姿を探り話し合います。

 第1回は2月19日(金)18:30-20:00。テーマは「天王寺と四天王寺」。カタリストは服部静尚(古田史学の会・会員)

 第2回は3月25日(金)18:30-20:00。テーマは「現代日本の”儀礼”は中国殷・周に由来する」カタリストは正木裕(同、事務局長)

 第3回は4月22日(金)18:30-20:00。テーマは「縄文・弥生人は南米に渡った」カタリストは大下隆司(古田史学の会・会員)…

 ◆定員は20名、参加費500円(ドリンク付)当日は歴史関係・時代小説・読み物など本を1冊持参ください。冒頭で本を用いて自己紹介の時間があります。(可能であれば本をまちライブラリーに寄贈頂ればと思います)
 申し込みは正木Email:babdc106@jttk.zaq.ne.jpまで。若しくはフェイスブック(FB)をお開きの方は正木裕のFBにコメントしていただくか、「まちライブラリー」FBのイベント案内から申し込んでください。


第1130話 2016/01/30

肥沼孝治さんの「十二弁菊花紋」研究

 多元的「国分寺」研究サークルを一緒に立ち上げた肥沼孝治さん(東京都・会員)のブログ「肥さんの夢ブログ(中社)」は古田史学のことも頻繁に取り上げられていることもあって、古田ファンからも人気のサイトです。そのブログで最近面白いテーマ「十二弁の菊花紋」についての論稿が報告されていますので、ご許可をいただいて「洛中洛外日記」に転載させていただきます。
 九州王朝の家紋は「十三弁の菊」とする説を九州王朝のご子孫のMさんから以前お聞きしたことがありますが、「十二弁の菊」も江田船山古墳から出土した大刀に銀象嵌されており、十三弁と十二弁の関係なども興味深い問題です。「十三弁の菊」については「洛中洛外日記」第24話や「天の長者伝説と狂心の渠」などをご参照ください。

「肥さんの夢ブログ(中社)」から転載
 2016年1月25日 (月)
「12弁の菊花紋」無紋銀銭の出土地

 上記の無文銀銭について,先ほど今村啓爾著『富本銭と謎の銀銭〜貨幣誕生の真相』(小学館)で確認したところ,出土地が判明した。摂津国天王寺村の眞實院という字名の畑の中からである。
 摂津国天王寺村といえば,どんぴしゃり!古賀さんが「九州王朝の副都」として論証を進めているまさにその場所で,その九州王朝の発行したと思しき「12弁の菊花紋」入り無文銀銭が発見されたのだ。まさにキャッチャーの構えたミットにズバッと直球が投げ込まれたようなものである。しかもその発見場所の名前が「眞實(真実)院」というわけだから,まさに人生の不思議この上ない。
 なお,無文銀銭が最初に発見されたのも,この眞實院である。(100枚ほど。このうち1枚が現存で,2枚が拓本と図がある)無紋銀銭というと滋賀県の崇福寺が有名だが,あちらは昭和15年と新しい発見で,こちらは1761(宝暦)年10月7日というのだから,桁違いに古い発見なのだ。


第1129話 2016/01/28

多元的「国分寺」研究サークル

のホームページ開設

 多元的「国分寺」研究サークル(愛称:タブンケン)のメンバーはまだ三人しかいませんが、その内のお一人、肥沼孝治さんがホームページを開設されました。肥沼さんといえば「肥さんの夢ブログ」というご自身のホームページもお持ちで、古田ファンにも人気のブログです。
 まだアクセス件数が少ないためか、検索しにくいそうですが、「洛中洛外日記」で書いた国分寺関係の記事を転載していただいています。これからは書き下ろしの論文も掲載する予定ですので、関心のある方は是非のぞいて見てください。多元的「国分寺」研究サークルへの参加も大歓迎です。特に入会条件などありませんから、ホームページに何かコメントしていただければ勝手にメンバーとなれます。
 掲載論文やコメントが増えれば、本として出版することも考えていますので、皆さんのご参加をお待ちしています。


第1128話 2016/01/24

「多元的国分寺」研究サークルを結成

 昨日は東京新聞の小寺勝美さんとお会いし、3時間にわたり対談しました。小寺さんは古田先生の訃報を扱ったコラム記事(邪馬「壹」国の人。東京新聞12月1日付朝刊「こちら編集委員室」)を書かれた方です。とても誠実で正確な内容の記事でしたので、是非お会いしたいと思い、東京での邂逅となりました。
 小寺さんは学生時代に古田先生の著作に出会われたとのことです。佐賀市のご出身で、フクニチ新聞社に勤務された後に東京新聞に入られたとのこと。今春、「古田史学の会」編集の『邪馬壹国の歴史学』(ミネルヴァ書房)と『古田武彦は死なず』(仮称。『古代に真実を求めて』19集、明石書店)の発刊記念講演の東京開催を検討していますが、そのときに取材を受けることになりました。
 夕方からは埼玉県の肥沼孝治さんと神奈川県の宮崎宇史さんと夕食をご一緒しました。話題は昨年から急進展を見せた「多元的国分寺」論、すなわち九州王朝の多利思北孤による国分寺建立の詔勅が6世紀末頃に出され、その古い国分寺の痕跡が各地に見られるというテーマです。肥沼さんからは近年発見された上野国国分寺の伽藍跡について報告されました。宮崎さんからは橿原市にある「大和国国分寺」の現地調査報告がなされました。わたしからは『聖徳太子伝記』に見える、告貴元年(594)の年に「66国の国府寺建立」記事と、大和と摂津に国分寺が二つあることの論理性(王朝交代における権力中枢地に発生しうる現象であること)について説明しました。
 そして、わたしからの提案で「多元的国分寺」研究サークルを三人で立ち上げ、ホームページの開設と全国の国分寺研究者に「多元的国分寺」研究(略称「多分研」?)への参加を呼びかけることになりました。ホームページが開設されましたら、ご報告します。
 三人の古代史論議は3時間以上に及びました。天気予報では夜から雪になるといわれていましたが、東京は比較的暖かく雪は降りませんでした。わたしは近くのホテルに帰るだけでしたが、お二人は遠くに帰られるので、夜遅くまで引き留めることになって申し訳ないことをしてしまいました。
 これから古田先生の追悼会(文京シビックセンター)に向かいます。


第1127話 2016/01/23

百済王亡命地が南郷村の理由

 1126話で韓国南部と宮崎県に前「三角錐」後円墳が存在していることを述べましたが、これが偶然ではなく両地域の被葬者に深い関係があるのではないかと考えています。
 宮崎県の前「三角錐」後円墳が分布する西都市の近隣に百済王伝説で有名な南郷村があります。白村江戦などで滅亡した百済王族が南郷村まで漂着逃亡したという伝承ですが、なぜ亡命地に宮崎県が選ばれた理由がわたしにはわかりませんでした。唐軍による追跡から逃れるのであれば、多くの百済亡命人が逃げた摂津難波や近江などの遠隔地こそ相応しいと思われるのですが、ところが宮崎県南郷村を百済王族が亡命地に選んだ理由が不明だったのです。
 この疑問を解く鍵が両地域(韓国南部と宮崎県)に共通して存在する前「三角錐」後円墳ではないでしょうか。すなわち、韓国南部(百済)で前「三角錐」後円墳を造営した倭国の豪族と宮崎県西都市に前「三角錐」後円墳を造営した勢力は深い関係を持っていたと考えると、亡命百済王族はその勢力の庇護のもとに南郷村に亡命したとする仮説が成立すると思われるのです。


第1126話 2016/01/22

韓国と南九州の前「三角錐」後円墳

 昨日から仕事で東京に来ています。東京駅に着いてちょっと時間があったので八重洲ブックセンターに寄り、吉村靖徳著『九州の古墳』(海鳥社。2015年12月発行)を購入しました。同書の解説は典型的な大和朝廷一元史観によっており、あまり学問的に有益ではありませんが、九州の代表的な古墳約120カ所がカラー写真で紹介されていることが気に入りました。
 その中で興味深い古墳がありました。近年、韓国で発見が続いている「前方後円」墳によく似たものがあったのです。韓国の「前方後円」墳は正確に表現すると、前方部の形状が三角錐に近く、それを「前」から見ると、前方部の形が「台形」ではなく、上部が尖った「三角形」なのです。ですから立体的には「三角錐」が後円部に繋がっているような形状をしています。いわば前「三角錐」後円墳とでも言うべき形状です。これは日本列島の前方後円墳には見られない珍しい形状ですので、韓国内で独自に発展した形状かと思っていました。ところがその韓国の前「三角錐」後円墳によく似た古墳の写真が『九州の古墳』に掲載されていたのです。
 最終的には正式な調査報告書を見てからでなければ断定はできませんが、次の三つの古墳の形状が写真では前「三角錐」後円墳に似ているように見えました。一つは宮崎県西都市の松本塚古墳で墳長104mで5世紀末から6世紀初頭の頃の前方後円墳と説明されています。
 二つ目は熊本県山鹿市岩原古墳群の双子塚古墳で、墳長102mの前方後円墳で5世紀中頃の築造と説明されています。
 三つ目は写真からはやや不確かですが、宮崎県児湯郡新富町祇園原古墳群の弥吾郎塚古墳で、墳長94mの6世紀代の前方後円墳とされています。
 『祇園原古墳群1』(1998年、新富町教育委員会)掲載の測量図によれば、弥吾郎塚古墳以外にも次の古墳が前「三角錐」後円墳に似ています。

 ○百足塚古墳 墳長76.4m
 ○機織塚古墳 墳長49.6m
 ○新田原52号墳 墳長54.8m
 ○水神塚古墳 墳長49.4m
 ○新田原68号墳 墳長60.4m
 ○大久保塚古墳 墳長84.0m

 韓国独特の前「三角錐」後円墳に似た古墳が宮崎に多数あることは九州王朝(南九州)と古代韓国の関係を考えるうえで興味深い現象です。もちろん、九州以外にもこの前「三角錐」後円墳があるかもしれませんので、引き続き慎重に調査したいと思います。この他の前「三角錐」後円墳についてご存じの方がおられればご教示ください。


第1125話 2016/01/21

合田洋一さんが愛媛大学で講演

 1月20日(水)に「古田史学の会」全国世話人(古田史学の会・四国 事務局長)の合田洋一さん(松山市)が愛媛大学に招かれ、学生に対し「古代に真実を求めてー聖徳太子を事例として」と題し講演を行なわれました。
 講演では、「一元史観」と「多元史観」という視点から、神武天皇に始まる大和の天皇家が日本列島を連綿と統治していたとする「一元史観」と、古代には日本列島各地に王国・王朝があったとする「多元史観」のどちらが真実なのかについて、志賀島の「漠委奴国王」の金印や『三国志』「魏志倭人伝」の邪馬壹国と女王・卑弥呼、「日出ずる処の天子」と「聖徳太子」、『旧唐書』に別国と記される「倭国」「日本国」などを例にあげ、「古田史学」が追及してきた問題を解りやすく解説しました。工学部など理系の学生(2回生)が中心でしたが約110人が熱心に聴講されたとのことです。
 古田先生はご逝去されましたが、追悼講演会が大阪府立大学で盛大に開催され、その直後に国立愛媛大学でも古田史学に基づく講演が開催されたことは、多元史観にもとづく古代史学のうねりを感じます。今後も、各地の会員の皆さん、友好団体の方々のご協力を得て、講演活動を積極的に展開し、古田武彦先生の切り開かれた多元史観の発展に努めていきたいと思います。


第1124話 2016/01/19

盛況と感動の古田先生追悼講演会

 17日の古田先生追悼講演会は大盛況でした。ご来賓をはじめ、ご来場いただいた皆様や運営にご協力いただいたスタッフの方々、追悼文をお寄せいただいた皆様に心より御礼申し上げます。懇親会も服部静尚さんの名司会もあって、盛況でした。ご遺族を代表してご挨拶していただいたご子息の古田光河さんの涙には、わたしももらい泣きしてしまいました。
 新井宏先生のご講演は、銅鏡の鉛成分の解析という科学的手法による新発見の紹介で、とても勉強になりました。もっと充分に時間をとって説明していただく機会を作りたいと考えています。
 24日は東京でのお別れ会です。わたしも出席し、先生の業績紹介をさせていただくことになっています。無事お別れ会を終えることができましたら、次は『古代に真実を求めて』古田先生追悼号の発行です。今後とも「古田史学の会」会員の皆様や関係者の皆様のお力添えを賜りますよう、お願い申し上げます。
 最後に追悼講演会の様子を正木事務局長がご自身のfacebookに綴っておられますので、転載させていただきました。

〔正木裕さんのfacebookより〕
 日曜日古代史研究者の古田武彦先生の追悼会・講演会が大阪府大I-siteなんばで開催され、東京古田会・多元的古代史研究会や古田史学の会仙台・長野・東海・関西・四国・九州の代表ほか全国から学者・研究者・古代史ファンが多数参加し、会場が埋め尽くされました。
 各会からの弔辞に加え荻上紘一大妻大学学長、池田大作創価学会インターナショナル会長、中山千夏、桂米團治さんはじめ多彩な方々から弔意文が寄せられ、古田氏の逝去を惜しみました。
 追悼会後、金属学の研究者元韓国国立慶尚大学招聘教授の新井宏氏による「鉛同位体から視た平原鏡から三角縁神獣鏡」と題した講演会が催され、鏡に含まれる鉛の分析をもとに客観的で説得力ある「三角縁神獣鏡国産説」が語られました。
 懇談会にも80名近い参加で、I-site横のオルケスタは満席。参加者は次々に先生の思い出を語り、大いに盛り上がりました。先生が亡くなられても、各地の会員、他の友好団体の方々の熱意は衰えることなく、先生の切り拓いた多元史観の発展に努めていくことが確認でき有意義な会となりました。


第1123話 2016/01/16

倭人伝「その北岸、狗邪韓国」大激論

 新年最初の関西例会が本日開催されました。関西例会らしく、新年早々から大激論となりました。冒頭、正木事務局長から明日に迫った古田先生追悼講演会の入念な打ち合わせがあり、例会参加者の協力を要請しました。
 出野さんから『三国志』倭人伝の「その北岸、狗邪韓国に到る、七千余里」の理解として、韓国の外側を水行した船から見て北側にある「北岸」とされ、古田説の韓国内陸行に反対する説が示されました。それに対して多くの批判が参加者から出され、厳しい論争が続きました。「学問は批判を歓迎する」とわたしは考えていますから、実に関西例会らしい素晴らしい論争でした。
 わたしは出野さんの読解のうち、「郡から倭に到る」とある倭人伝の「倭」が、「倭国の都」ではなく朝鮮半島内の「倭」である狗邪韓国までとする理解に、有力な見解であると賛意を表明しました。出野さんは狗邪韓国を日本列島内の倭国とは別国の朝鮮半島内の「倭」とされているのですが、わたしは倭国は対馬海峡にまたがる海峡国家とする古田説が妥当であり、狗邪韓国がその倭国の「北岸」と考えています。しかし、その「郡から倭に到る」の「倭」とは、倭国との国境(狗邪韓国)までと理解する点については出野さんの読解も成立すると思いました。ちなみに、古田先生は『「邪馬台国」はなかった』では「郡から倭に到る」の「倭」を「倭国の都」(倭国の中心領域)とされています。
 今回の出野さんの発表により気がついたのですが、郡から倭の都まで至ることを示す記事は、行程記事の終わりの方に「郡より女王国に至る、万二千余里」とあります。ここでは倭国の都がある「女王国」に至るという表記となっており、狗邪韓国までの行程を示す「郡より倭に至る」とは目的地表記(「倭」と「女王国」)が異なっているのです。すなわち、到着点(通過点)が倭との国境(狗邪韓国、七千余里)と倭の都(女王国、万二千余里)と書き分けられているのです。この点、古田先生も後の著作で触れておられたように記憶しています。
 韓国内を陸行とするのか水行とするのか、狗邪韓国を倭国の北岸とするのか、朝鮮半島内の別国の「倭」とするのかで、出野さんとは意見が異なりますが、論争により倭人伝行程記事に対する認識が深まりました。まさに「学問は批判を歓迎する」を実感できた論争でした。
 1月例会の発表は次の通りでした。

〔1月度関西例会の内容〕
○明日の「古田先生追悼講演会」の打ち合わせ(正木事務局長)

①狗邪韓国についての再考察(奈良市・出野正)
②代始改元と九州年号(八尾市・服部静尚)
③「名太子為利」の訓みの疑問(高松市・西村秀己)
④『日本書紀』宣化紀に盗用された磐井と「磐井の乱」記事の実際(川西市・正木裕)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生追悼文(森嶋瑤子様)・堂門冬二著『楠木正成』を読む・寄手塚味方塚訪問の想い出・室伏志畔著『薬師寺の向こう側』贈呈受・その他


第1122話 2016/01/13

本年5月に講演を2件行います

 昨日は大阪市西区の大阪科学技術センターにて近畿化学協会・機能性色素部会の定例会で講演(草木染から機能性色素へ -染料と染色の化学史-)しました。講師はわたしの他に、村中厚哉さん(理化学研究所)と高坂貴浩さん(セーレン)でした。最先端研究開発に携わっている化学者が相手でしたので緊張しましたが、「染料と染色の化学史」という切り口が思いのほか好評で、近畿化学協会誌への寄稿や大阪市立工業研究所の方から講演依頼をいただきました。
 新年も年始から講演依頼が続いていますが、特に5月は既に2件の講演が決まりました。5月20日(金)に大阪でTES会西日本支部の年次大会での特別講演を行います。講演テーマは古代史と化学の二分野でとのご依頼でしたので、「理系が読む倭人伝」と「草木染から機能性色素へ」としました。(TES:繊維製品品質管理士)
 28日(土)には久留米大学で古代史の講演を行う予定です。当日は正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も講演されるとのことでしたので、正木さんと相談のうえ、昨年、東京家政学院大学で行った「九州王朝の『聖徳太子』」をテーマとすることにしました。二人で講演内容を分担し、参加者にわかりやすいように工夫したいと考えています。「多利思北孤は久留米にいた」という内容で構想を練っています。