第1462話 2017/07/23

『丹哥府志』の古伝承(1)

 「洛中洛外日記」1436話と1437話において、舞鶴市の朝代神社(あさしろじんじゃ)が『丹哥府志』の記録などを根拠に白鳳元年(661)創建であったことを論じました。その「洛中洛外日記」を読まれた京丹後市の森茂夫さん(古田史学の会・会員)から『丹哥府志』に記された興味深い伝承記録についての情報が寄せられましたので、ご紹介します。

 『丹哥府志』「巻之八 加佐郡第一 志楽の庄 小倉村」の項に、河良須神社の勧請が「天智天皇白鳳十年辛未の秋九月三日」とされているのですが、この「九月三日」が先の朝代神社の創建日と同じなのです。『丹哥府志』には朝代神社の創建記事が次のように記されています。

 「田辺府志曰。朝代大明神は日之若宮なり、白鳳元年九月三日淡路の国より移し祭る」

 ともに白鳳年間の創建であり「九月三日」の日次が同じなのは偶然とは考えにくく、両神社には何か関係があったのではないかと思います。『丹哥府志』の河良須神社の記事は次の通りです。

◎小倉村(市場村の次、若狭街道、古名春日部)
【河良須神社】(延喜式)
社記曰。丹波の国加佐郡春日部村柳原に鎮座ましますは豊受大神宮なり、神名帳に所謂河良須神社是なり、今正一位一宮大明神と稱す、天智天皇白鳳十年辛未の秋九月三日爰に勧請す、明年高市皇子故ありて丹波に遁る、此時柳原の神社へ詣で給ふ時に和歌一首を作る、(後略)

 ここに見える「天智天皇白鳳十年辛未」の表記ですが、九州年号の白鳳十年の干支は庚午で670年に当たります。辛未は天智十年(671)のことであり、『日本書紀』の紀年と九州年号が一年ずれて「合成」された姿を示しています。従って、本来の伝承が九州年号の「白鳳十年」であれば、「天智天皇」「辛未」は後世において『日本書紀』の影響を受けて付加されたものと考えられます。

 「明年高市皇子故ありて丹波に遁る」という伝承も興味深いものです。天智十年の明年であれば「壬申の乱」の年(672)に相当しますから、その年に高市皇子が丹波国に逃れたという伝承が真実か否かはわかりませんが、何らかの歴史事実を反映したものではないでしょうか。なお、ネット検索によると「河良須神社」ではなく「阿良須神社」とあり、森さんから送っていただいた『丹哥府志』活字本の誤植のようです。(つづく)

フォローする