第1470話 2017/08/05

白雉改元「難波長柄豊碕宮」説

 今日は京都市右京中央図書館で市大樹さんの論文「難波長柄豊碕宮の造営過程」(武田佐知子編『交錯する知』思文閣出版、2014年)を閲覧・コピーしてきました。市さんは木簡研究で優れた業績をあげられた研究者ですが、この論文では前期難波宮の造営時期についての新説を発表されました。その結論は『日本書紀』白雉元年条(650)に見える白雉改元の儀式の舞台を難波長柄豊碕宮(前期難波宮)とするものです。
 前期難波宮に関しては一元史観の学界内でもいくつかの矛盾や疑問を抱え、その解決のための緒論が発表されてきました。中でも白雉改元の大規模な儀式が行われた宮殿が難波(上町台地)のどこにあり、『日本書紀』孝徳紀に記されたどの宮殿(難波埼宮・小郡宮・大郡宮・味経宮など)とするのかが問われてきました。というのも、最も巨大な「朝庭・朝堂院」を有する前期難波宮(一元史観では長柄豊碕宮とする)の完成は孝徳紀白雉三年九月(652)であり、白雉改元の儀式が開催された孝徳紀白雉元年(650)には未完成だったからです。「洛中洛外日記」575話で白雉改元の宮殿を「小郡宮」とする説を紹介したこともあります。本稿末尾に転載します。
 このような問題に対して出されたのが市さんの「白雉改元、難波長柄豊碕宮(前期難波宮)」説です。改元の年次は『日本書紀』の通り「白雉元年(650)」とされているので、前期難波宮の造営開始をそれまで有力視されていた「大化五年(649)」(吉川真司説)ではなく、「大化二年(646)」頃からとされました。その結果、「白雉元年(650)」には前期難波宮の宮殿部分は完成していたとされました。

 「大化五年三月、左大臣阿倍内倉梯麻呂の死を弔う挙哀儀礼が豊碕宮の朱雀門で実施された。この時点までに豊碕宮の内裏前殿と朱雀門がほぼ完成していたと考えられる。豊碕宮では国家的な儀礼時に国家の威容をアピールするのに必要な建物から優先的に建設していったのである。」(297頁)
 「このように⑱は豊碕宮での儀式のありようを伝えたものとみられる。そうであれば、ここに登場する「朝庭」「紫門」「中庭」「殿前」は、順に前期難波宮の朝堂院の庭、内裏南門、内裏前殿の庭、内裏前殿の前に比定できる。白雉元年二月の段階において、豊碕宮の中枢部には、内裏前殿・朱雀門に加え、少なくとも内裏南門が建設されていたと考えられる。」(299頁)
 ※⑱は孝徳紀白雉元年二月条の白雉改元の儀式の記事。

 このように、それまで不明とされてきた白雉改元の儀式の舞台を前期難波宮とされました。すなわち、一元史観では解決できていなかった課題について一つの解決案を示されたのです。この市さんの説が成立可能かどうかは別の機会に論じますが、前期難波宮の存在や『日本書紀』に記された白雉改元儀式をどのように理解するのかは、一元史観でも多元史観でも解決しなければならない重要課題なのです。

【転載】
第575話 2013/07/28
白雉改元「小郡宮」説
(前略)
 ちなみに近畿天皇家一元史観の通説では、白雉改元の宮殿を小郡宮とされているようです。吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・渤海』(吉川弘文館、2011年)によれば、「難波宮の先進性」という章で白雉改元の宮殿について次のように紹介しています。
 「白雉元年(六五〇)、小郡宮とは明記されていないが、おそらくはそうであろう宮において白い雉が献上された(『日本書紀』白雉元年二月甲申条)。その様子は以下のようであった。(中略)白雉献上の様子や礼法の規模の大きさからすると小墾田宮より大規模であったように推測されるが、遺構などが見つかっていないため、これ以上踏み込むことはできない。」(117〜118頁)
 このように小郡宮説が記されていますが、「小郡宮とは明記されていないが」「おそらくはそうであろう」「遺構などが見つかっていない」「これ以上踏み込むことはできない」という説明では、とても学問的仮説のレベルには達していません。それほど、白雉改元「小郡宮」説は説明困難な仮説なのですが、ある意味、著者は正直にそのことを「告白」されておられるのでしょう。その「告白」が指し示すことは、白雉改元の儀式が可能な大規模な宮殿遺構は前期難波宮しか発見されていないということです。「白雉」は九州年号ですから、改元した王朝は九州王朝です。その場所の候補遺構が前期難波宮しかなければ、前期難波宮は九州王朝の宮殿と考えざるを得ません。

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