2011年12月一覧

第356話 2011/12/03

南郷村神門神社の綾布墨書

 百済人祢軍墓誌の「僭帝」が誰なのかという考察を続けていますが、倭王筑紫君薩野馬とする見解に魅力を感じながらも断定できない理由があります。それは、百済王も年号を持ち、「帝」を自称していた痕跡があるからです。 百済王漂着伝承を持つ宮崎県南郷村の神門(みかど)神社に伝わる綾布墨書に「帝皇」という表記があり、これが7世紀末の百済王のことらしいのです。「明雲 廿六年」「白雲元年」という年号表記もあり、百済王が「帝皇」を名乗り、年号を持っていた痕跡を示しています(『古田史学会報』20号「百済年号の発見」 で紹介しました)。

 また、金石文でも「建興五年歳在丙辰」(536年あるいは569年とされる)の銘を持つ金銅釈迦如来像光背銘が知られており、百済年号が実在したことを疑えません。こうした実例もあり、百済王が「帝」を自称した可能性も高く、百済人祢軍墓誌の「僭帝」が百済王とする可能性を完全に排除できないのです。

 学問の方法として、自説に不利な史料やデータを最も重視しなければならないという原則があります。従って、百済人祢軍墓誌の「僭帝」を百済王とする可能性が有る限り、どんなに魅力的であっても「僭帝」を倭王とする仮説を、現時点では「断定」してはならないと思っています。

百済禰軍墓誌


第355話 2011/12/01

百済人祢軍墓誌の「僭帝」

 この2週間ほど、毎日のように百済人祢軍墓誌のことを考えています。幸い同墓誌の拓本コピーを水野さんから送ってい ただき(古田先生から入手されたもの)、その難解な漢文と悪戦苦闘しているのですが、中でもそこに記された「僭帝」とは百済王のことなのか倭王のことなの かが、今一番の検討課題となっています。
 この「僭帝」という言葉は墓誌の中程(全31行中の14行目)に「僭帝一旦称臣」という記事で一回だけ出現します。その6行前には「顕慶五年(660) 官軍平本藩」と官軍(唐)が本藩(百済)を征服した記事があり、同じく4行前には「「日本余(口へんに焦)、據扶桑以逋誅」という記事があります。そして 「萬騎亘野」「千艘横波」という陸戦や海戦を思わせる記事(白村江戦か)があり、「僭帝一旦称臣」に続いています。次に年次表記が現れるのは「咸亨三年 (672)」の授位記事(17行目)ですから、「僭帝一旦称臣」はその間の出来事となります。更にいえば白村江戦(663)以後でしょう。
 従って、660年に捕虜となった百済王ではないようです。しかも「日本」記事の後ですから、やはり倭王と考えるのがもっとも無理のない解釈と思われま す。そうすると、大和朝廷は天智の時代ですが、『日本書紀』には天智が唐の天子に対して臣を称したなどという記事はありませんから、この「僭帝」は大和朝 廷の天皇ではなく、九州王朝の天子、おそらく薩野馬である可能性が大きいのではないでしょうか。
 しかも『隋書』によれば、九州王朝の多利思北弧は天子を自称していますから、唐の大義名分から見て倭王は「僭帝」、すなわち「身分を越えて自称した帝」 という表現もぴったりです。また、墓誌には何の説明もなく「僭帝」という表記をしていることから、七世紀末の唐の人々にとっても、「僭帝」というだけで誰のことかわかる有名な人物と理解されます。すなわち、『隋書』に特筆大書された「日出ずる処の天子」を自称した倭王以外に、それらしい人物は東アジアには いないのです。
 以上のような理由から、墓誌の「僭帝」は九州王朝の天子、おそらく薩野馬のことと推定していますが、まだ断定は避けながら、墓誌の検討を続行中です。

百済禰軍墓誌