2013年08月31日一覧

第589話 2013/08/31

「九州年号」の証明(3)

 いわゆる九州年号が九州王朝(倭国)の年号であることは自明のこととわたしは考えていましたが、水野代表の御指摘を受けて改めてその論拠を考えてみました。それは次のような史料根拠と論理性に基づいています。
 まず基本認識として、古田先生の九州王朝説・多元史観に基づき、古代中国史書に記された九州王朝・倭国は7世紀末まで日本列島を代表する王朝であり、 701年のONラインを境として近畿天皇家が新王朝の日本国を建国し、九州王朝から列島の代表者の地位を交代します。そして、自らの史書『続日本紀』に 701年に「大宝」年号を「改元」ではなく「建元」したと記します。従って、近畿天皇家の日本国の年号は大宝元年から始まったことがわかります。
 この701年からの日本国とそれ以前の倭国については、『旧唐書』に倭国伝と日本国伝とが、その歴史や地形などが書き分けられていることとも対応しており、歴史事実と見なすに十分な史料根拠を有しています。
 他方、『二中歴』所収「年代歴」に掲載されている古代年号群も6世紀初頭から700年まで続く「継体」から「大化」までのいわゆる九州年号と、701年 からの「大宝」から始まる近畿天皇の年号群とが書き分けられていることが、先にあげた多元的歴史認識と見事に対応しており、いわゆる「九州年号」とされている年号群が九州王朝(倭国)の年号と理解することの史料根拠となるのです。
 以上のような史料根拠と論理性が九州王朝と九州年号を結びつける「証明」なのです。なお、701年以後も「大化」「大長」という九州年号が継続していたことが判明してきましたが、この点については『「九州年号」の研究』(古田史学の会編)に詳述していますので、ご参照ください。


第588話 2013/08/31

阿部周一さんからの「鎮西」試案

 第587話「観世音寺と観音寺」に対して、札幌市の阿部周一さん(古田史学の会・会員)より興味深いメールが寄せられましたので、ご紹介します。
 太宰府の観世音寺の創建年を記した史料『日本帝皇年代記』の「鎮西建立観音寺」の読みについて、わたしは「鎮西」を九州という地名表記と見なしたのです が、阿部さんは単なる地名表記ではなく、観世音寺(観音寺)の創建主体、すなわち九州太宰府(九州王朝)のことと理解すべきではないかと提起されたので す。
 その理由として、「鎮西」が「九州の」といった地域特定のための「形容詞的」用法であるなら、「鎮西建立観音寺」ではなく、「建立鎮西観音寺」というように「観音寺」の直前になければならないというものでした。しかし、「鎮西建立観音寺」とあるので、この「鎮西」は『日本帝皇年代記』に見える他の寺院建立記事と同様に読まれるべきで、そうであれば「鎮西」が観音寺を建立したと解さざるを得ないという御指摘をされたのです。
 たしかに「文法的」には阿部さんの言われることはもっともです。そのため、わたしは「検討させていたたきます」とメールで返答しました。学問的検証方法としては、当該史料『日本帝皇年代記』の史料批判、すなわち執筆者の「和風漢文」の「文法」を調べたり、史料中の同じような用例や「鎮西」の抽出と比較解析などが必要と思われます。ただちに阿部試案の当否は判断できませんが、とても興味深く鋭い御指摘ですので、しっかりと検討させていただきたいと思います。
 阿部さんのような優れた研究者がわたしの洛中洛外日記に対して、このような試案を寄せていただくことは有り難いことです。
 なお、太宰府の観世音寺を「観音寺」と表記する史料を新たに見いだしましたのまで、ご紹介します。それは『新抄格勅符抄』という平安時代成立の文書で、 そこに収録されている大同元年(806)の太政官牒に「太宰観音寺 二百戸 丙戌年施 筑前国百戸 筑後国百戸」と記されているようです。ちなみに、この「丙戌年」は朱鳥元年(686)のことと見なされているようですが(『若宮町誌』上巻、2005年)、このことが正しければ、朱鳥元年には観世音寺が太宰府に存在していたことの証拠となります。原本未見ですので、引き続き調査します。