2014年12月09日一覧

第834話 2014/12/09

鬼前太后と「キサキ」

 図書館で遠山美都男著『古代日本の女帝とキサキ』(平成17年、角川書店)が目に留まり、流し読みしたのですが、実は日本語の「キサキ」(お妃・お后)について以前から気になっていたことがありました。それは「キサキ」の語源についてでした。「キサキ」の意味について同書では「古代においては、キサキというのは天皇の正式な配偶者ただ一人を指して呼んだ」(10頁)とされており、それはよくわかるのですが、なぜ天皇の正式な配偶者「大后」(皇后とも記される)を「キサキ」と訓むのかについては説明が見あたりませんでした(わたしの見落としかもしれませんが)。
 九州王朝の天子、多利思北孤のために造られた法隆寺の釈迦三尊像の後背銘冒頭に次の記述があります。

 「法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩」

 この鬼前太后は「上宮法皇」(多利思北孤)の母親のことですが、この「鬼前」の訓みがはっきりしませんでした。とりあえず古田学派内では「きぜん」とか「おにのまえ」と訓まれてきたようなのですが、この鬼前が「キサキ」の語源ではないかとわたしはかねてから考えていました。すなわち、「鬼前」の訓みを「きさき」ではないかと考えているのです。もちろん、絶対にそうだというような根拠や自信はありません。
 このアイデア(思いつき)の良いところは、その語原がはっきりしない「キサキ」について、とりあえず九州王朝中枢で成立した古代金石文(後背銘)が根拠であるということと、王朝に関する用語の訓みを九州王朝で先行して成立したとすることは、九州王朝説論者にとっては納得しやすい点です。弱点としては、鬼は「き」と音読みし、前は「さき」と訓読みするという「重箱読み」であることです。
 これは仮説というより単なる思いつきにすぎませんので、皆さんに披露し、ご批判を待ちたいと思います。あるいは「キサキ」の語源をご存じの方があれば、ご教示ください。


第833話 2014/12/08

九州年号史料と

  九州年号付加史料

 関西例会に姫路市から参加されている熱心な会員の野田利郎さんから、最近の「洛中洛外日記」の更新頻度が増えている理由についてご質問いただきました。確かに意識的に「洛中洛外日記」の更新ペースを上げているのですが、その理由の一つに、情報の共有化により古田史学・多元史観の研究速度を加速させるという目的がありました。
 たとえ「洛中洛外日記」のようなコラム的な小文とはいえ、新知見や新仮説、あるいは論証的にも妥当な内容をできる限り記すように心がけてきました。しかし、自分一人で研究するのではなく、多くの古田学派の研究者やホームページ読者にも一緒に考えていただいたほうが、学問的にも有益ですし、より真実に近づきやすいと思い、論証が成立していなくても、あるいは単なるアイデア・思いつきレベルのテーマでも、「洛中洛外日記」で紹介することにしたのです。ですから結果的に思い違いや誤ったことを書いてしまうかもしれませんが、そのことが読者のご指摘により明確になれば、それはそれで学問的に有益で前進でもあります。
 さらには自分では公知であると思い、とりたてて解説していないことが、結構知られていなかったり、理解の深さに差があることに気づかされることも少なくなく、そうした経験をするたびに、やはり繰り返して説明することも大切だと思うようになりました。
 たとえば、今年初めて参加した八王子セミナーのとき、たまたま夜にラウンジでお会いした皆さんと懇談する機会があったのですが、九州年号についてのご質問があり、九州年号史料と九州年号付加史料の差異やそれらの優劣についての説明をさせていただいたところ、そうしたことを初めて聞かれた方もあり、自分では常識でありわざわざ説明するまでもないと思っていることでも、丁寧な説明が必要であることに気づかされました。
 具体例を上げますと、九州年号が記されている国東長安寺蔵(大分県豊後高田市)『屋山関係年代記』(『九州歴史資料館研究論集13』所収、1998年)には「善記」を始め約30の九州年号が見えます。しかし、子細に観察しますと、誤字や異伝のものが散見され、九州年号の時代に成立した年代記の写本ではなく、後世において年代記編纂時に別の九州年号史料を参考にして、それら九州年号を付加したと見られます。従って、『屋山関係年代記』は「九州年号付加史料」であり、九州年号の時代に編纂された本来の「九州年号史料」の写本とは言い難いものです。ですから、九州年号史料としての価値は『二中歴』などに比べれば、はるかに劣ります。
 初期の頃の九州年号研究においては、このような「九州年号付加史料」をも本来の「九州年号史料」と同列に扱い、その原型論研究において、史料の「多数決」の一つとして使われたこともありました。史料の優劣を「多数決」で決めるという方法は誤っており、古田史学の方法とは異なるのですが、なかなか理解していただけないこともありました。
 この「多数決」という方法は、「邪馬台国」説の方が「邪馬壹国」説よりも多いから「正しい」とすることと同次元の「方法」であり、古田史学とは全く異なるもので、学問的に間違っています。こうした古田学派にとって当然のことでも、形やテーマが変わると誤って使用されることもあります。このような問題を「洛中洛外日記」でも丁寧に説明していきたいと思います。