古賀達也一覧

第155話 2007/12/16

藤原宮の冨本銭

 昨日の関西例会で、藤原宮から出土した地鎮祭用と思われる壺に納められた9枚の冨本線について、わたしの見解を述べました。飛鳥池工房跡から出土した冨本銭の発見は、古代貨幣研究に重要な一石を投じましたが、今回の藤原宮跡から出土した冨本銭も、更に貴重な問題を提起しました。

 飛鳥池の冨本銭発見は、『日本書紀』天武12年条の銅銭記事が歴史事実であったことを指し示したのですが、ならば同時に記された銀銭の存在も歴史事実と考えざるをえません。しかし、今回の地鎮祭で用いられたと思われる壺にあったのは銅銭の冨本銭でした。なぜ、より価値の高い銀銭ではなく、冨本銅銭が用いられたのでしょうか。
 それは、その銀銭が大和朝廷ではなく九州王朝の貨幣だったからと思われます。先の天武12年条の記事は銀銭の使用を禁じ、銅銭を用いるようにと命じた記事なのですが、これは九州王朝の銀銭に変わって、自らが飛鳥池で鋳造した冨本銭を流通させるという意味だったのです。このように考えることにより、『日本書紀』の記事や藤原宮出土の冨本銭の意味が明らかになるのです。
 持統らは自らの宮殿建設にあたり、九州王朝の銀銭に代えて、自ら鋳造した冨本銭を用い、王権の安泰と新たな列島の代表者たらんとする意志と願いを込めたのではないでしょうか。9枚の冨本銭と、一緒に入っていた9個の水晶玉は、九州王朝にかわり、自らが「九州」(日本列島)を統治するという政治的野心の現れと思われるのです。
   なお、関西例会の発表内容は次の通りでした。
 
  〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 淡海乃海・近江の道(豊中市・木村賢司)
  2). 岐須美々命と石窟の土蜘蛛(大阪市・西井健一郎)
  3). 「実測値」と「机上の計算値」(交野市・不二井伸平)
  4). 「明日香村発掘調査報告会2007/12/08」に参加して(木津川市・竹村順弘)
  5). 「丁亥年」刻字紡錘車の史料批判(京都市・古賀達也)
  6). トロイの木馬(相模原市・冨川ケイ子)
  7). 書紀から導かれる「斉明死去」以降の歴史の真実(川西市・正木裕)
  8). 沖ノ島5(生駒市・伊東義彰)
 
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・天草の古名「苓州」・他(奈良市・水野孝夫)


第152話 2007/11/18

『古代出雲への旅』を読む

 関和彦著『古代出雲への旅』(中公新書)を読んでいます。『出雲風土記』に基づいて江戸時代に神社巡りをした小村和四郎の旅行記の発見から、その追跡実地調査を記した読みやすく面白い本でした。特に、短里で記されている『出雲風土記』を長里で理解したため、現地の実状と一致しない様子などが、興味深く読めました。と同時に、わたしも出雲の国を巡ってみたくなりました。どなたか、短里の概念で『出雲風土記』を実地調査されてはいかがでしょうか。きっと、新発見があるはずです。
   昨日の関西例会では下記の発表がありましたが、常連の正木さん、冨川さんは快調に新発見をものにされており、頼もしい限りです。伊東さんの沖ノ島遺跡の報告も興味深い内容でした。
   インターネットを見られての初参加の方もあり、早速、本会にご入会いただきました。この日は大阪で3軒ハシゴして、今日は昼まで寝てしまいました。
 
  〔古田史学の会・11月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 太寿・極寿(豊中市・木村賢司)
  2). 藤原不比等の実像(奈良市・飯田満麿)
  3). 第4回古代史セミナー・古田武彦の報告(豊中市・大下隆司)
  4). 明日香皇子の出征と書紀・万葉の分岐点(川西市・正木裕)
  5). 「近江大津御宇天皇代」の挽歌九首を読む(相模原市・冨川ケイ子)
  6). 沖ノ島3(生駒市・伊東義彰)
  7). 東日流王朝in『真澄全集』/「東日流」の巻(奈良市・太田斉二郎)
 
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・伊勢州は西海道にあった・他(奈良市・水野孝夫)

 


第149話 2007/10/21

「水間君は倭王武」説

 昨日の10月例会の発表は次の通りでした。また、故林俊彦さんを偲んで、参加者全員による黙祷を行いました。ホームページを見て初めて参加された方も2名おられ、盛況でした。研究発表では林さんから教えていただいた滋賀県の甲良神社の伝承などから、雄略紀10年に登場する水間君は倭王武ではないかとする仮説を、わたしは発表しました。いわば林さんへの追悼研究発表となりました。

〔古田史学の会・10月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 遅ればせながら「一」の島(豊中市・木村賢司)
2). コバタケ珍道中・九州編(木津町・竹村順弘)
3).「魏晋朝短里」説とその論理(神戸市・田次伸也)
4). 『讃留霊公胤記』の紹介(向日市・西村秀己)
5). 甲良神社と水間君(京都市・古賀達也)
6). 百済の「大后」(相模原市・冨川ケイ子)
7). 薩夜麻の「冤罪」3(川西市・正木裕)
8). 磐余彦、東征する「五百箇・気吹と膽駒山(大阪市・西井健一郎)

○水野代表報告
  古田氏近況・会務報告・延喜式祝詞「出雲国造神賀詞」の解釈・他(奈良市・水野孝夫)


第147話 2007/10/09

甲良神社と林俊彦さん

 先週の土曜日は、滋賀県湖東をドライブしました。第一の目的は、甲良町にある甲良神社を訪れることでした。甲良神社は、天武天皇の時代に、天武の奥さんで高市皇子の母である尼子姫が筑後の高良神社の神を勧請したのが起源とされています。そのため御祭神は武内宿禰です。筑後の高良大社の御祭神は高良玉垂命で、この玉垂命を武内宿禰のこととするのは、本来は間違いで、後に武内宿禰と比定されるようになったケースと思われます。
 ご存じのように、尼子姫は筑前の豪族、宗像君徳善の娘ですから、勧請するのであれば筑後の高良神ではなく、宗像の三女神であるのが当然と思われるのですが、何とも不思議な現象です(相殿に三女神が祀られている)。しかし、それだからこそ逆に後世にできた作り話とは思われないのです。
 わたしは次のようなことを考えています。それは、天武が起こした壬申の乱を筑後の高良神を祀る勢力が支援したのではないかという仮説です。天武と高良山との関係については、拙論「『古事記』序文の壬申大乱」(『古代に真実を求めて』第9集)で論じましたので、御覧頂ければ幸いです。
 この甲良神社のことをわたしに教えてくれたのは、林俊彦さん(全国世話人、古田史学の会・東海代表)でしたが、その林さんが10月5日、脳溢血で亡くなられました。まだ55歳でした。古田史学の会・東海を横田さん(事務局次長、インターネット担当)と共に創立された功労者であり、先月の関西例会でも研究発表され、わたしと激しい論争をしたばかりでした。その時に、この甲良神社のことを教えていただいたのです。7日の告別式に参列しましたが、棺の中には古田先生の『「邪馬台国」はなかった』がお供えされており、それを見たとき、もう涙を止めることができませんでした。かけがえのない同志を失いました。合掌。


第144話 2007/09/23

藤樹神社を訪ねて

 昨日はヴィッツを借りて滋賀県へドライブしてきました。三連休の初日ということもあって、ラクティスやプリウスなどの希望車種は予約が満杯で借りることができませんでした。

 今回のドライブの前半では、洛北八瀬大原から途中トンネルを抜け、朽木村を通り、高島市の藤樹神社を訪ねました。言わずと知れた、近江聖人中江藤樹 (1608〜1648)を祀った神社です。神殿を参拝した後、境内にある藤樹記念館を見学。改めて偉大な人物に触れることができ、感動しました。藤樹関連書籍が販売されていましたので、『中江藤樹のことば−素読用』中江彰編を買い、読んでいます。その後、近くにある藤樹の墓所にも寄って、手を合わせまし た。
   『中江藤樹のことば−素読用』の中から、特に印象に残った言葉をご紹介しましょう。
 
    千里をかよう誠(まこと)
  思ひ出は学びし本(もと)の心より千里を通う誠忘るな。(和歌「森村叔の行を送る」)
 
 遠くから藤樹に学びに来た門人へ宛てた和歌で、学んだ中味よりも、遠い近江の僻遠の地にやってきた、そのまことの心を決して忘れてはならない、という内 容です。古田史学の会関西例会へ、相模原市から新幹線で毎月参加される冨川ケイ子さんのような熱心な門人がいたのですね。
 
    同志の交わり
  同志の交際は、恭敬を以て主と為すべし。和睦を以てこれを行ひ、一毫も自ら便利を択(えら)ぶべからず。もとって勝たんことを求むるなかれ。(「学舎坐右戒」)
 
 同志は、たがいにうやうやしい態度で接すること。なかむつまじく、いささかも自分の都合勝手なことをしてはならない。心ねじけて人に勝つなかれ、という 内容は深く考えさせられます。古田史学の会の会員は同志のようなものですから、この藤樹の言葉を私も噛みしめたいと思いました。


第122話 2007/02/23

庚午年籍の保存命令

 今日も一日、花粉症に苦しみながら仕事をしました。洛北の山の杉花粉は半端じゃありません。かなりこたえます。というわけで、今夜は中島みゆきの「サーモン・ダンス」(アルバム『転生』収録)を聴いて、元気を取り戻しながらこの日記を書いています。

 「生きて泳げ 涙は後ろへ流せ 向かい潮の彼方の国で 生まれ直せ」というフレーズが大好きな曲です。昔、古田先生から聞いた話しですが、先生も中島みゆきの曲を聴きながら原稿を書かれていたそうです。みゆきファンのわたしとしては、中島みゆきの曲を古田学派の応援歌に認定したいぐらいです。まあ、半分本気、半分冗談ですが。

 さて、このところ庚午年籍についての考察を続けてきましたが、もう少し論及したいと思います。九州王朝により670年に造籍された庚午年籍は、大和朝廷に交代した後も、大宝律令などで永久保存が命令され、その書写は九世紀段階でも全国的レベルで続けられたことについては、既に述べてきたところです。
 701年時点以降も全国的に庚午年籍が残っていたということは、この庚午年籍の永久保存を九州王朝も命じていたと考えざるを得ません。そうでなければ、神亀四年(727)になっても九州諸国の庚午年籍七七〇巻が残っていたとは考えにくいのではないでしょうか。
 このように考えると、庚午年籍は九州王朝にとっても特別に重要な戸籍であったことになります。それでは、なぜ特別に重要な戸籍だったのでしょうか。おそらくは、白村江敗戦以後の混乱した状況下で、氏族の再編成も含めて行われた造籍事業だったからではないでしょうか。これからの研究課題です。


第100話 2006/09/30

九州王朝の「官」制

 第97話「九州王朝の部民制」で紹介しました、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」について、もう少し考察してみたいと思います。
 古田先生が『古代は輝いていたIII−法隆寺の中の九州王朝−』(朝日新聞社)で指摘されていたことですが、法隆寺釈迦三尊像光背銘中の「止利仏師」の「止利」を、「しり」(尻)あるいは「とまり」(泊)と読むべきであり(通説では「とり」)、地域名あるいは官職名であるとされました。後に、同釈迦三尊像台座より「尻官」という墨書が発見され、この古田先生の指摘が正鵠を射ていたことが明らかになるのですが(『古代史をゆるがす真実への7つの鍵』原書房参照)、尻官が九州王朝の官職名であり、「尻」が井尻などの地名に関連するとすれば、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」の「見乃官」も地名に基づく官職名と考えられます。そうすると、九州王朝は6〜7世紀にかけて「○○官」という官制を有していた可能性が大です。
 このように「尻」や「見乃」部分が地名だとすると、第97話で述べましたように、久留米市の水縄連山や地名の耳納(みのう)との関係が注目されるでしょう。この「地名+官」という制度は九州王朝の「官」制、という視点で『日本書紀』や木簡・金石文を再検討してみれば、何か面白いことが判発見できるのではないでしょうか。これからの研究テーマです。
  ところで、昨年5月より始めたこの「洛中洛外日記」も、今回で100話を迎えました。これからも、マンネリ化しないよう、緊張感や臨場感、そして学的好奇心を刺激するような文章を綴っていきたいと思います。読者の皆様のご協力と叱咤激励をお願い申し上げます。


第48話 2005/11/21

2006年1月8日、東京で講演します済み

 京都も日一日と寒さを増しています。拙宅前の銀杏も黄葉していますが、どういうわけか今年は銀杏の実がつきませんでした。銀杏の実をご近所共々楽しみにしていたのですが、残念です。京都御所の周りの銀杏は実をつけていますが、ブッシュさんの警備が厳しかったためか、採る人も例年より少ないような気がします。
 さて、来年正月の8日(日)に多元的古代研究会のお招きで、東京で講演することになりました。同会ではこれまでも何回が講演させていただきましたが、高田かつ子前会長が亡くなられてからは、初めての講演となります。東京に行っても高田さんはもういないと思うと、暗い気持ちになりますが、高田さんの御意志を継ぐためにも頑張って講演しようと思います。
 テーマは先日名古屋で講演したときと同じで次の通りですが、「出雲神話の史料批判」は更に進展した内容をお話しできると思います。
(1)九州王朝の近江遷都
(2)古層の神名−出雲神話の史料批判−
(3)稲員家系図(九州王朝系系図)の紹介
 時間や会場など詳細は多元的古代研究会のホームページを御覧下さい


第44話 2005/11/08

「そ」の神様・読者からのメイル

 11月6日、名古屋市公会堂で講演をさせていただきました(古田史学の会・東海主催)。終了後の懇親会も含めて楽しい一日でした。テーマは予定していた「九州王朝の近江遷都」の他に、「稲員家系図の紹介」と「古層の神名−出雲神話の史料批判−」を急遽付け加えました。特に「古層の神名−出雲神話の史料批判−」は前々日の金曜日の夜に気づいた問題で、この時初めて発表したものです。
 そして、「そ」の神様について参加者から、「石上神社」のイソノカミも一例ではないかと、貴重な示唆をいただきました。また、帰宅すると何人かの読者の方からメイルが届いており、「そ」の神様について多くの情報が寄せられていました。ありがとうございました。その中から、第9話「明治時代の九州年号研究」で紹介しました冨川ケイ子さん(本会会員・相模原市)からのメイルを転載します。大変参考になる知見です。

古賀達也様
 「洛中洛外日記」楽しく拝読しております。
 ところで、「そ」の神は、延喜式を見ただけでも、「ひめこそ」神社のほかに、「はむこそ」神社、「あまみこそ」神社、「いそ」神社、「をこそ」神社、「そらひこ」神社など、たくさんの「そ」の神がいると思いますが・・・。
 人名では、ヤマトトトヒモモソ姫が著名ですが、そのほかにも孝昭天皇の皇后に世襲足姫(ヨソタラシ)という人がいて、瀛津世襲(オキツヨソ)の妹とあり、崇神紀に蘇那曷叱知(ソナカシチ)、景行紀に神夏礒媛(カムナツソ)、神功紀に葛城襲津彦(ソツヒコ)、推古紀に蘇因高(ソインコウ)、そしてもちろん蘇我氏。変わったところでは、筑前国嶋郡川辺里戸籍の冒頭に、卜部乃母曾(ノモソ)がいました。なお、「続日本紀」(天平11年正月ほか)に「倭武助」という人の「やまとのむそ」という読みが以前から気にかかっています。
冨川ケイ子


第37話 2005/10/17

九州王朝の近江遷都

 わたしは、「古田史学の会・まつもと」から毎年のようにお呼びいただいて、松本市で講演をしています。そのほかにも、札幌や仙台、東京、大阪、松山、福岡などの各地で講演をしてきましたが、どういうわけか比較的お近くの名古屋では講演をしたことがありませんでした。そんなおり、「古田史学の会・東海」の林俊彦さん(本会全国世話人)より講演依頼をいただきました。というわけで、11月6日(日)に名古屋で講演させていただくことになりました。
 テーマは「九州王朝の近江遷都」。このテーマは、既に論文として『古田史学会報』61号(2004年4月)に発表していますが、その史料根拠を15世紀成立の後代史料『海東諸国紀』においていたこともあり、古田先生からは面白い考えだが、考古学的痕跡などで証明できなければ成立困難と、かなり辛口の批評をいただいていました。そうしたこともあって、以後このテーマを取り扱うことに慎重になっていました。
 そして今回、いよいよこの禁断のテーマに再度挑戦することにしました。名古屋の皆さんに聞いていただき、はたして「九州王朝の近江遷都」説は成立するか否か、ご判断いただきたいと願っています。


第36話 2005/10/16

例会報告・シルクロードの旅

 10月15日、一日中雨が降る中、古田史学の会関西例会が行われました。ビデオ鑑賞の後、木村賢司さんよりシルクロードの旅の報告がありました。9月16日から11日間、田村映二さん(本会会員・交野市)とご一緒に西安からウルムチ・トルファン・敦厚などを巡る豪華な旅の報告でした。中でも西安での楊貴妃が入ったお風呂の話は初耳でしたので興味深く聞きました。
 わたしも中国へは二度ほど行ったことがあるのですが、いずれも仕事でしたので、観光など全くできませんでした。昼間はプレゼンとお得意様回り、夜はフライトで深夜にホテル着という毎日。特に二回目などはフフホトのホテルで目覚めると、ちょうど9月11日で、同時多発テロが発生。それからというもの、中国国内のフライトはホディチェックが厳しくなり閉口しました。
 例会の内容は下記の通りです。参加費は500円です。ぜひ、初めての方もご参加下さい。二次会の懇親会も、毎回盛り上がっています。

〔古田史学の会・10月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞「日本の古代・九州の地域学」
○研究発表
1 なにわ男の「旅の恥はかき捨て」(豊中市・木村賢司)
2 筑後国風土記の「山」について(向日市・西村秀己)
3「親王」と「皇子」と「王」の間(4)
 ─竹生王(たかふのおおきみ)─(相模原市・冨川ケイ子)
4 彦島物語II「顕国玉・大国主・大己貴」(大阪市・西井健一郎)
5 白雉改元の史料批判(京都市・古賀達也)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・ほうれん草の語源・他


第9話 2005/07/03

明治時代の九州年号研究

 今年、古田史学の会が発行した『古代に真実を求めて』8集には、九州年号研究史に関する重要な論文2編が収録されています。一つは自画自賛になり恥ずかしいのですが、わたしの「『九州年号』真偽論争の系譜」で、昨年10月に京都大学で開催された日本思想史学会で発表した内容を論文にしたものです。主に江戸時代における九州年号真偽論にふれたもので、新井白石は実証的な真作説(ただし、大和朝廷の年号で正史から漏れたものとする)、対して貝原益軒は皇国史観に立った偽作説(僧侶による偽作)であることなどを紹介しました。
 もう一つの論文は冨川ケイ子さんによる「九州年号・九州王朝説 — 明治25年」で、なんと明治時代において九州年号を真作とする説が、当時の大家から論文発表されていたという内容です。わたしもこの事実を関西例会で冨川さんからお聞きしたとき、大変驚きました。古田先生以前に、初歩的ではありますが、「九州王朝説」や九州年号真作説が発表されていたのですから。
 その大家の論文とは今泉定介「昔九州は独立国で年号あり」と飯田武郷「倭と日本は昔二国たり・卑弥呼は神功皇后に非ず」で、特に飯田武郷は大著『日本書紀通釈』の著者として有名です。これらの論文は明治25年発行の『日本史学新説』広池千九郎著に収録されており、国会図書館のホームページ内「近代デジタルライブラリー」で閲覧できます。詳細は『古代に真実を求めて』8集を是非お読み下さい。
 このような研究史から埋もれていた貴重な論文を発見された冨川さんの業績は、古田学派による2004年度を代表する学問的成果の一つと言えます。ちなみに、冨川さんは相模原市に住んでおられますが、毎月の関西例会に新幹線で参加されるという熱心な会員さんです。その学問への情熱には本当に頭が下がります。

古賀氏の論文の原史料は闘論★九州年号をご覧下さい