古賀達也一覧

第648話 2014/01/23

「市民の古代研究会」の拡大路線

 わたしは仕事で愛知県一宮市に行くことが多いのですが、時間待ちの際に利用するのが、真新しい一宮駅ビルの5~7階にある市立図書館です。お気に入りの図書館の一つなのですが、その理由は交通の便が良いこと、新しくきれいなこと、そして何よりもミネルヴァ書房から刊行されている古田武彦シリーズが全冊並べられていることです。そうしたこともあり、『古代に真実を求めて』16集を寄贈させていただきました。一宮市民の皆さんの目に留まれば幸いです。

 さて、1990年代に急拡大した「市民の古代研究会」でしたが、組織拡大のため、わたしはマーケティング論でいうところ の、STP戦略をフル活用しました。セグメンテーション・ターゲティング・ポジショニングというもので、活動領域は主に「日本古代史」、獲得すべきター ゲットは「古田ファン・読者」、ポジショニングは多元史観・古田説による旧来の一元史観古代史との「差別化」でした。
 こうした基本戦略は、古田先生の人間的魅力と古田史学が持つ圧倒的な論理性・説得力を背景に、極めて有効にはたらき、期待した通りの成果を達成できました。このときわたしは会員拡大のスピードをあげるために、少し危険な方法を採らざるをえませんでした。それはターゲットを「古田ファン・読者」を中心とし ながらも、「古田史学に関心のある一般の古代史ファン」にも広げたのです。そうすることにより、ターゲットが広がり、会員拡大の成果を出しやすくなりま す。
 そうしたもう一つ理由に、何年も200人程度で推移していた会員数が急速に増えたことに「目がくらんだ」一部の理事から、古田説支持・不支持とは無関係にもっと会員を増やせという声が出始め、そうした意見にわたしは苦慮し、その妥協策として「古田ファン・読者」を中心に「古田説に関心を持つ古代史ファン」というターゲット層の拡大案を出すことにより、組織の「古田離れ」をくい止めようとしたのです。今から思えば、こうした会員数急拡大が一部理事の錯覚 (思い上がり)「古田武彦なしでも会員は増える」をもたらしたのかもしれません。
 しかし、このターゲット層の拡大が「市民の古代研究会」失敗の直接の原因ではありませんでした。より決定的な原因は理事会の「変質」にありました。(つづく)


第645話 2014/01/19

「市民の古代研究会」の失敗の教訓

 「古田史学の会」を「地域の会」等とのネットワーク型の組織と運営体制にしたのは、「市民の古代研究会」の失敗の教訓からでした。1980年代、古田先生と古田史学を支持支援する団体として、関東の「古田武彦と古代史を研究する会 (東京古田会)」があり、その後、関西に「市民の古代研究会」が発足し、両団体は活発に活動していました。
 1986年にわたしは古田先生の『「邪馬台国」はなかった』を読み、古田史学に感激して「市民の古代研究会」に入会しました。ちょうど古田先生が還暦を迎えられた年でもあり、茨木市で開催された講演会で初めて先生にお会いしました。わたしが31歳のときでした。懇親会では先生の還暦のお祝いがなされ、赤いちゃんちゃんこが先生にプレゼントされたことを、今でも昨日のことのようにはっきりと覚えています。
 わたしは古代史研究だけではなく「市民の古代研究会」の活動のお手伝い(遺跡巡りの担当)も積極的に行っていました。当時、わたしは勤務先の労組委員長 や上部団体の中央委員、そして会社の経営計画作成プロジェクトなどを手がけていたこともあって、その組織運営の経験を評価していただき、「市民の古代研究会」の理事(最年少)に選ばれました。その後、事務局長の藤田友治さんが会長に就任されることになり、藤田さんから請われて後任の事務局長をお引き受けしました。
 「市民の古代研究会」事務局長の活動に専念するため、わたしは十数年続けてきた全ての労組役職を退任し、労働運動の第一線から退くことにしました。当時就任していた化学関連労組上部団体の副執行委員長を退任するにあたり、同組織の執行委員長だった前川重信さん(現・日本新薬社長)に釈明とお詫びにうかがったのですが、わたしが古代史研究の世界に入ることを快くご承諾いただき、励ましていただきました。
 それからは文字通り寝食を忘れて、「市民の古代研究会」の組織拡大に取り組みました。会員数が増えれば影響力も増し、古田史学が世に受け入れられると考え、それまで200人ほどで推移していた会員数を数年で1000人に手が届くというところまできたのです。
 これは計画通りで、「市民の古代研究会」理事会を頂点として、関西・関東・九州・東海・仙台に会員組織が発足し、広島などその他の地域にも支部結成を目指していました。しかし、この組織の急拡大に大きな失敗の原因が潜んでいました。このことを後にわたしは思い知らされることになります。(つづく)


第644話 2014/01/14

「古田史学の会」と「地域の会」

 先日の賀詞交換会の午前中に、「古田史学の会」全国世話人会を開催しました。 通常、年に一度開催し、「古田史学の会」の事業や課題などについて論議や意見交換を行い、会の運営に反映させています。その全国世話人会で毎回のように出される意見に、「古田史学の会」と「地域の会」との関係のあり方ついてというテーマがあります。今回の全国世話人会でも出されました。「古田史学の会」内部の問題ですので、「洛中洛外日記」で触れることでもないのかもしれませんが、「古田史学の会」創立者の一人として、この問題についての考えを述べてみたいと思います。
 現在、「地域の会」として組織されているのは「北海道」「仙台」「東海」「関西」「四国」ですが、発足の経緯、活動内容や運営などは独立した組織として、それぞれ異なっています。基本的に「地域の会」は独立した組織であり、「古田史学の会」の地方支部ではありません。同時に「古田史学の会」が「地域の会」の本部でもありません。財政的にも人事でも独立した組織です。
 「古田史学の会」は全国組織であり、会費を支払っていただいた会員からなっています。会創立の経緯から関西に本部機能がありますが、「古田史学の会・関西」とは財政的に独立しています。「地域の会」は「古田史学の会」の会員が地域ごとに任意で集まって例会活動などを自主的に行っている組織であり、「古田史学の会」とは別組織ですが、その組織は「古田史学の会」会員が中心となって運営され、目的と志は「古田史学の会」と同じです。いわば「古田史学の会」と 「地域の会」は同志的紐帯で結ばれた関係なのです。従って、本部・支部の関係ではありませんし、上下関係もありません。
 現在は関西の会員が主となって「古田史学の会」の本部機能を受け持っていますが、将来、関東地区や東海地区の会員数が増え、本部機能を東京や名古屋に移動することもあり得ます。現に、発足当初は本部機能の一つである『古代に真実を求めて』の編集部は「古田史学の会・北海道」が受け持っていました。現在も 『古田史学会報』編集と会計は香川県高松市在住の西村秀己さんが担当しておられます。このように、「古田史学の会」は「地域の会」等とピラミット型ではな く、ネットワーク型の運営体制をとっているのです。
 このような組織や運営体制にしたのには理由がありました。それは「市民の古代研究会」の失敗の教訓があったからです。(つづく)


第643話 2014/01/12

賀詞交換会の御報告

 昨日、I-siteなんばで「古田史学の会」賀詞交換会を開催し、古田先生に講演していただきました。講演要旨は『古田史学会報』に掲載しますが、項目と内容について一部御報告します。
 冒頭、「古田史学の会」水野代表よりあいさつがなされ、「古田史学の会・東海」の竹内会長、「古田史学の会・四国」の合田さんからもごあいさつをいただきました。わたしからは、今年の「古田史学の会」出版事業計画の報告をしました。
 古田先生の講演は次のような内容でした(文責・古賀達也)。

○靖国参拝問題について
 『祝詞』「六月の晦(つごもり)の大祓」に「安国」が見える。そこにある「天つ罪」「国つ罪」は具体的で、その「罪」を明確にしている。
 「戦争犯罪」を犯した人物も祀る靖国神社には、こうした「罪」の記述がない。「罪」を具体的に記した『祝詞』とは異なる。
 同時に、中国や朝鮮も日本人虐殺の歴史(元寇など)があるが、「記述」されていない。
 アメリカ軍も日本占領時に日本人婦女子を陵辱したが、このことも伏せられている。GHQが報道させなかった。古今未曾有の戦争犯罪は広島・長崎の原爆投下である。このような戦争犯罪は歴史上なかった。
 自国の悪いことも、相手国の悪いことも共に明らかにし、「罪」として述べることが大切である。これが『祝詞』の精神である。これが「安国」の本来の姿である。

○「言素論」について
 中国語の中にある「日本語」の研究は重要テーマである。たとえば、「崩」(ほう)の字は「葬(ほうむ)る」という日本語からきているのではないか。『礼 記』に見える「昧(まい)は東夷の楽なり」の「昧」は日本語の「舞(まい)」のことではないかとする結論に達していたが、最高人物に対する用語である 「崩」まで日本語であったとすれば、まだ断言はしないが、わたしとしては驚いている。

○『東日流外三郡誌』について
 日本国家が『東日流外三郡誌』記念館・秋田孝季記念館を作ることを提案する。「和田家文書」と言っているが、本来は「秋田家文書」であり、更に遡れば 「安倍家文書」である。この安倍家は安倍首相の先祖である。寛政原本だけでなく、安本美典氏らの偽作説の文献も全て記念館に保存し、将来の「証拠」として 残しておくべき。いずれ真実は明らかとなる。

○アメリカは何故東京に原爆を落とさなかったか
 アメリカ軍は皇居に爆弾を落とさなかった。うっかりミスではない。毎回の爆撃で一回も皇居を意図的には爆撃しなかった。勝った後に天皇家を利用するために、皇居を爆撃しなかった。だから原爆を東京に落とさなかった。
 アメリカ軍はあらかじめ広島の地形を航空写真で完全に調べてから、人体実験として広島に原爆を落としたのである。同様にアメリカは皇居の航空写真を撮っ ていたはずである。その写真に基づいて、爆撃から皇居を外したのである。アメリカにとって、「万世一系」の天皇家は戦後統治のために必要だったのである。 九州王朝はなかったとする大嘘に基づいて、現在も「万世一系」の歴史観が利用されているのである。
 権力を握ったら自分の歴史を飾り、嘘を本当の歴史であるかのように作り直している、と秋田孝季は言っている。秋田孝季の思想からみれば、人類の歴史の中 で国家は発生し、なくなっていくものである。宗教も同様で、宗教がある時代から無い時代へと変わっていく。歴史学とはいかなる権力・宗教にも迎合すること なく、真実を明らかにする学問である。

○井上章一さんの『真実に悔いなし』書評紹介
 ロシアに「ヤナ川」がある。これは日本語であるとの指摘がロシア側の学者からも出されている。方向としてはロシアから日本へ伝播した可能性が高い。
 沿海州の「オロチ族」の「おろち」は「やまたのおろち」の「おろち」と同源である。

 ※「シベリア物語」の歌(古田先生が歌われる)
 「荒れ果てて けわしきところ イルトゥーイシの不毛の岸辺に エルマルクは座して 思いにふける」

 「イルトゥーイシ」は「イルトゥー」までがロシア語で、「イシ」は日本語ではないか。「イ」は神聖なという意味、「シ」は生き死にする場所の「シ」である。「君が代」にも「イシ」がある。「さざれいし」の「いし」とは、神聖な生き死にする場所という意味ではないか。
 日本の地名に「いし」がやたらとでてくるので、石の「いし」なのか、神聖な場所の「いし」なのかを調べてみればよい。自分で調べてから発表すればよいと 言われるかもしれないが、わたしは明日死ぬかもしれないので、今のうちに言っておきます。わたしは早晩死んでいきますが、皆さんにあとをついでほしい。

(古田先生の詩)
 偶詠(ぐうえい) 古田武彦 八十七歳
竹林の道 死の迫り来る音を聞く (12/24)
天 日本を滅ぼすべし 虚偽の歴史を公とし通すとき (12/23)


第599話 2013/09/22

『伊予三島縁起』にあった「大長」年号

 本日の関西例会では、古田説に基づき『「倭」と「倭人」について』を発表された張莉さんのご夫君(出野さん)を始め初参加の方もあり、盛況でした。わたしにとっての今日の例会で最大の収穫は、多摩市から参加されている齊藤政利さんにいただいた内閣文庫本『伊予三島縁起』の写真でした。九州年号史料として有名な『伊予三島縁起』原本(写本)を以前から見たい見たいと私が言っているの を齊藤さんはご存じで、わざわざ内閣文庫に赴き、『伊予三島縁起』写本二冊を写真撮影して例会に持参されたのでした。
 まだそのすべてを丁寧に見たわけではありませんが、一番注目していた部分をまず確認しました。それは「天長九年壬子」の部分です。五来重編『修験道資料集』掲載の『伊予三島縁起』には「天武天王御宇天長九年壬子」と記されており、この部分は本来「文武天皇御宇大長九年壬子」ではないかと、わたしは考え、 701年以後の九州年号「大長」の史料根拠の一つとしていました(『「九州年号」の研究』所収「最後の九州年号」をご参照下さい)。
 齊藤さんからいただいた内閣文庫の写本を確認したところ、『伊豫三島明神縁起 鏡作大明神縁起 宇都宮明神類書』(番号 和42287)には「天武天王御宇天長九年壬子」とあり、『修験道資料集』掲載の『伊予三島縁起』と同じでした。ところが、もう一つの写本『伊予三島縁起』(番号 和34769)には 「天武天王御宇大長九年壬子」とあり、「天長」ではなく九州年号の「大長」と記されていたのです。わたしが推定していたように、やはり「天長九年」は「大長九年」を不審とした書写者による改訂表記だったのです。
 「大長九年壬子」とは最後の九州年号の最終年である712年に相当します。近畿天皇家の元明天皇和銅五年に相当します。なお、「天長九年壬子」という年号もあり、淳和天皇の時代で832年に相当します。『伊予三島縁起』書写者がなぜ「天武天王御宇」と記したのかは不明ですが、九州年号「大長」が 704~712年の9年間実在したことの史料根拠がまた一つ明確となったのです。内閣文庫写本の詳細の報告は後日行いたいと思います。齊藤さんに心より感謝申し上げます。
 9月例会の報告は次の通りでした。古田史学の会・東海の竹内会長が久しぶりに出席され、報告していただきました。

〔9月度関西例会の内容〕
1). 日名照額田毘道男伊許知邇の考察(大阪市・西井健一郎)
2). 記紀の原資料と二倍年暦の形(八尾市・服部静尚)
3). 九州年号から考えた聖徳太子の伝記の系統(京都市・岡下英男)
4). 倭王武は武烈でありヒト大王だった(木津川市・竹村順弘)
5). 倭王武の時代の版図(木津川市・竹村順弘)
6). 邪馬壱国の南進(木津川市・竹村順弘)
7). ワニ氏の北方系海人族としての歴史的考察(知多郡阿久比町・竹内強)
8). 鬯草を献じたのは「東夷の倭人」か「南越の倭人」か(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・『古代に真実を求めて』16集初校・ミネルヴァ書房からの古田書籍続刊・張莉さんと古田先生の仲介・古田先生自伝刊行記念講演会の報告・古田先生八王子セミナーの案内・浄瑠璃「妹背婦女庭訓」の説明・『大神宮諸雑事記』の紹介・その他


第580話 2013/08/15

近江遷都と王朝交代

 今年もNHKの大河ドラマ「八重の桜」を楽しみに見ていますが、前半のクライマックス「会津戦争」が終わり、今週からは京都を舞台にした「京都 編」が始まりました。同志社大学校舎が建てられた旧薩摩藩邸跡地や大久保利通邸跡地などの石碑がご近所にありますので、とても身近に感じられる大河ドラマです。娘の母校の同志社大学からも新島八重の生涯を紹介したパンフレットが送られて来るなど、並々ならぬ力の入れようです。

 近江大津宮についての考察を続けてきましたが、いよいよ最後のテーマ「王朝交代」の考察に入ります。これまでの考察をまとめますと、遷都年は『日本書紀』天智6年(667)と『海東諸国紀』の白鳳元年(661)とする二説があり、下層出土土器の編年(飛鳥編年による)から白鳳元年(661)説のほうが妥当と思われるということでした。しかし、『日本書紀』天智紀などの記事から、天智が近江大津宮にいたことは、特に否定できるような疑問点も見あたり ませんから、史実としてよいでしょう。そうすると、九州王朝により造営され「遷都」した大津宮に、天智天皇は「遷都」したことになります。すなわち、二つの王朝が同じ大津宮に異なる時期に「遷都」し、君臨したと考えてみてはどうでしょうか。
 白村江戦の敗北と九州王朝の筑紫君薩野馬の抑留などにより、大きなダメージを受けた九州王朝に代わって、天智は主人不在の大津宮で新王朝の樹立、または九州王朝からの王権の継承を宣言したのではないかという作業仮説(アイデア)が浮かんでいるのですが、そのことと関連するのではないかと思われる史料根拠があります。
 第577話で触れた『続日本紀』に見える「不改の常典」、すなわち「大津宮の天皇が定めた不改常典により、わたしは天皇位につく」という趣旨の宣命もその史料痕跡の一つなのですが、『日本書紀』天智7年(668)7月条に見える次の記事が注目されます。

 時の人の曰く、「天皇、天命将及」といふ。

 岩波『日本書紀』には、「天命将及」に「みいのちをはりなむとす」という訓みをつけ、頭注には「中国で王朝交代の意」との説明をしています。訓みは天智天皇の寿命のこととする変な解釈を行っていますが、やはり頭注で説明された「王朝交代」のこととするべきです。多元史観では何の問題もなく「王朝交代」と字義にそった解釈が可能ですが、近畿天皇家一元史観では天智天皇の寿命のこととする矮小な解釈しかできないのです。先の「不改常典」の内容についても一元史観の諸説が提案されていますが、いずれもうまく説明できていません。「天命将及」も同様に一元史観ではうまく説明できないのです。
 ちなみに、『日本書紀』天智7年(668)7月条の、「天命将及」を天智天皇が大和朝廷の創立者であったとする証拠として指摘された論者に中村幸雄さん(古田史学の会草創の同志、故人)がおれらます。このことが記された中村さんの研究論文「誤読されていた日本書紀」は当ホームページに掲載されていますので、是非ご覧ください。
 さらにもう一つ、朝鮮半島の史料『三国史紀』新羅本紀の文武王10年条(670)に見える次の記事です。

倭国、更(あらた)めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以(ゆえ)に名と為すと。

 文武王10年条(670)ですから天智9年に相当します。倭国から日本国への国名の変更記事ですが、『旧唐書』では倭国伝(九州王朝)と日本国伝 (近畿天皇家)を書き分けられていますから、同様に考えれば『三国史紀』のこの記事も倭国(九州王朝)から日本国(近畿天皇家)への「交代」を反映した記事ではないでしょうか。
 以上のように、天智が大津宮で「王朝交代」を行った史料痕跡が見えるのですが、もしこの推論が正しかったとすれば、天智は「王朝交代」に成功したので しょうか。この点は比較的はっきりしています。天智の時代の九州年号は「白鳳」で、白鳳年間(661~683)に天智の称制即位(662)から没年 (671)までが入っていますが、即位年も没年も、新王朝の創立者として「建元」もされず、九州王朝を継承者としての「改元」もされていません。ですか ら、天智は何らかの宣言(不改常典)はしたのでしょうが、「王朝交代」には成功しなかったと思われます。
 以上、近江大津宮遷都年・造営年の考察から、天智の「不改常典」「王朝交代」まで推論を試みてみました。もちろん、この推論が正解かどうかは学問的検証の対象です。一つの作業仮説(アイデア・思いつき)としてご検討していただければと思います。


第579話 2013/08/11

近江遷都と天智紀重出記事

 近江遷都年には、『日本書紀』天智6年(667)と『海東諸国紀』の白鳳元年(661)とする二説がありますが、この「6年の差」について注目すべき問題点として『日本書紀』天智紀の「重出記事」があります。
 天智紀には5~7年の差で似たような記事があり、通説ではこれらを同一の事件が「重出」したものと説明されています。もちろん「重出」なのか実際に似た ような事件が二回発生したのかは、記事毎に慎重な検討が必要です。「重出」がなぜ5~7年の差なのかは、それぞれに史料根拠や理由があるのですが、「6年 の差」については、天智紀に記されている「称制元年(662)」と「即位元年(668)」の6年の差が発生原因とされています。すなわち『日本書紀』編纂 時に、元史料にあった記事を「称制年」と「即位年」の双方に「重出」して記載したと考えられています。
 近江遷都年もこの「重出」と同様の現象が発生したのではないかと考えることができます。たとえば、天智の「称制元年」の前年(661、白鳳元年)に行わ れた九州王朝による近江遷都記事を、『日本書紀』編纂時に「天智即位年」の前年(667)の事件として記録したというケースです。この場合、「重出記事」 にならずに天智6年条のみの記載となったのは、その内容が「近江遷都」なので、さすがに『日本書紀』編者も「重出」するような不手際はなかったものと考えられます。もちろん、これは近江遷都年二説の「6年の差」を説明できる一つのアイデア(思いつき)に過ぎませんので、現時点で絶対に正しいとするものでは ありません。(つづく)


第578話 2013/08/09

近江大津宮の造営年と遷都年

 今日は大阪に来ています。わたしが理事をしている繊維応用技術研究会の講演会に出席しています。様々な分野の講演が続きましたが、中でも高輝度光科学研究センター(スプリング8)の熊坂崇さんの講演「放射光施設SPring-8における生体高分子の構造研究」は大変興味深い内容でした。最先端科学でここまで高分子構造が解明できるのかと驚きました。歴史研究に応用できれば、もっと多くの科学的知見が得られ、歴史の真実の解明が一層進むことと思われました。
 さて、第577話において、大津宮遷都年の二説の6年の差が、歴史理解において大きな問題点を含んでいることを述べました。ここでのキーポイントは、その6年の間に白村江戦の敗北という九州王朝における大事件が起こっていることです。ですから近江大津宮遷都年が661年なのか、667年なのかの検討が必要です。このテーマを考古学と文献史学の両面から迫ってみましょう。
 まず確認しておかなければならないことですが、造営年と遷都年が同時期かどうかという点です。『日本書紀』天智6年条の遷都記事を根拠に、従来は何となく大津宮造営年(完成年)も同年と考えられてきたようですが、『日本書紀』には大津宮造営に関する記事は見えません。前期難波宮は652年に完成したことが記されていますが、大津宮はいきなり遷都記事があるだけで、造営年(完成年)は記されていないのです。このことに留意する必要があります。
 というのも、第566話で紹介しましたように、白石太一郎さんの論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」『大阪府立近つ飛鳥博物館 館報 16』(2012年12月)によると、『日本書紀』天智紀には大津宮遷都は天智6年(667)とされていますが、大津宮(錦織遺跡)内裏南門の下層出土土器の編年が「飛鳥1期」(645~655頃)であり、遷都年に比べて古すぎるようなのです。
 この考古学的知見が正しければ、大津宮は白村江戦以前に完成していた可能性が高く、そうであれば第577話で指摘したように、その宮殿は九州王朝の宮殿 と考えざるを得ないという論理性により、遷都年は『海東諸国紀』に記された白鳳元年(661)とする理解へと進みます。それでは、『日本書紀』天智6年条の遷都記事は九州王朝史書からの盗用だったのでしょうか、それとも史実なのでしょうか。(つづく)


第577話 2013/08/05

近江大津宮造営年の論理性

 今朝は仕事で鯖江市に向かっています。JR湖西線を走る特急サンダーバード5号に乗っているのですが、大津京駅を通過す るとき、この付近が大津宮跡(錦織遺跡)だなあと、感慨深く車窓から眺めていました。わたしは25年ほど前に錦織遺跡を訪れたことがあり、発掘残土の中に 白鳳時代の布目瓦片が多数混ざっていることに驚いた記憶があります。
 車中で、琵琶湖と山に挟まれた狭隘なこの地に、なぜ都や宮殿が造営されたのだろうと思索しているうちに、近江大津宮造営年が重要な論理性を持つことに気づきました。『日本書紀』では近江遷都を天智6年(667)のこととされていますが、『海東諸国紀』には九州年号の白鳳元年(661)と記され、6年の差があります。この差に重要な論理的問題を含んでいるのです。
 もし『海東諸国紀』の白鳳元年(661)が正しいとすれば、おそらく造営開始は650年代後半でしょうから、前期難波宮完成年(652)の数年後のこととなります。九州王朝は列島の代表者として健在の時期ですから、その副都と同様式で同じような規模の「北闕型」王宮を近畿天皇家が作ることを九州王朝が認めるはずがないでしょう。従ってこの場合、近江大津宮は九州王朝による造営と考えざるを得ないという論理性を有します。もちろん近隣の豪族(近畿天皇家を含む)らに、九州王朝が命じて造営させたのでしょう。
 次に『日本書紀』の天智6年(667)が正しい場合、その造営は白村江敗戦(663)直後から始められたと思われますから、敗戦で疲弊した九州王朝には困難な事業と考えることもできます。そうすると九州王朝副都の前期難波宮を模倣した王宮を近畿天皇家(おそらくは天智天皇)が造営したことになりますから、近畿天皇家は没落しつつある九州王朝に代わって、列島の代表者になるという自覚と決意があったものと思われます。この見方が正しければ、『続日本紀』 に見える「不改の常典」がよく理解できます。すなわち、「大津宮の天皇が定めた不改常典により、わたしは天皇位につく」という趣旨の宣命は、九州王朝に代わって列島の代表者になったのは天智天皇の不改常典(代表王朝交代の宣言、権威継承の根拠)によると主張している。そのような理解が可能となるからです。
 このように、近江大津宮造営年二説の「6年の差」は古代史理解において、決定的な差を生じさせる論理性を有していることに、わたしは気づいたのです。(つづく)


第576話 2013/08/04

近江大津宮の朝堂院

 吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・渤海』(吉川弘文館、2011年)を読んでいて、ありがたかったのが古代宮殿の平面図が掲載されており、中でも近江大津宮の近年の発掘調査に基づいた平面図がとても印象的で参考になりました。
 同書87頁に掲載されている「近江大津宮」図によれば、内裏や内裏南門の南側に広がる朝堂の東と西に並んでいると推定されている建造物の一部が、南門の 南西側から出土しており、大津宮が前期難波宮と同様に北に内裏が位置し、その南側に朝堂院を有する「北闕型」の王宮であったことがほぼ明確となりました。 ということは、その様式は652年に完成した前期難波宮を模倣したこととなり、確かに平面図も前期難波宮とよく似ています。
 従って、大津宮は九州王朝の副都前期難波宮を先例として造営されたこととなり、九州王朝との関係を無視することはできないでしょう。『日本書紀』によれ ば、近江遷都を天智6年(667)のことと記されていますから、白村江の敗戦後のことになります。そうすると、敗戦後の疲弊した九州王朝による造営とは考 えにくくなります。他方、
『海東諸国紀』には近江遷都を九州年号の白鳳元年(661)のことと記されており、こちらが正しければ大津宮造営は白村江戦以前のこととなり、それであれ ば九州王朝による造営も可能となります。近江遷都や大津宮造営の時期は、どちらの記事が正しいのでしょうか。(つづく)


第566話 2013/06/23

近江遷都の年代と土器編年

 先日の古田史学の会・全国世話人会のおり、小林副代表から、白石太一郎さんの論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」『大阪府立近つ飛 鳥博物館 館報16』(2012年12月)のコピーをいただきました。白石さんは前期難波宮の造営年代を孝徳期よりも新しいとする考古学者の一人ですの で、その根拠を知りたいと思っていました。今回、同論文を読んで、白石さんの主張の根拠を知ることができ、有意義でした。
 白石さんは「飛鳥編年」という土器編年により、5~10年の精度で7世紀中頃の編年が可能とする立場ですが、土器の相対編年を『日本書紀』などの記事を根拠に暦年にリンクさせるという手法を採用されています。この方法の当否は別に論じたいと思いますが、同論文に大変興味深い指摘がありました。
 それは大津宮の土器編年とのミスマッチの指摘です。『日本書紀』天智紀によれば、大津宮への遷都は天智6年(667)とされていますが、大津宮(錦織遺 跡)内裏南門の下層出土土器の編年が「飛鳥1期」(645~655頃)であり、遷都年に比べて古すぎるようなのです。この指摘が正しければ、「飛鳥編年」か『日本書紀』の記事のどちらかが、あるいは両方が間違っていることになります。
 そこで改めて紹介したいのが九州年号史料として著名な『海東諸国紀』に見える白鳳元年(661)の「近江遷都」記事です。「近江遷都」が『海東諸国紀』 では『日本書紀』よりも6年早く記されているのです。すなわち、白石さんの指摘にあった大津宮下層土器編年に対しては、『海東諸国紀』の記事「白鳳元年 (661)遷都」の方がうまく整合するのです。わたしはこの『海東諸国紀』の九州年号記事を根拠に、「九州王朝の近江遷都」という仮説を発表しています が、考古学的土器編年からも支持されることになれば興味深いと考えています。大津宮調査報告書を実見したいと思います。
 なお、白石さんは前期難波宮天武朝造営説と、わたしは思っていたのですが、白石論文には「天武朝までは下らないとしても、孝徳朝までは遡らないのである。」とされており、どうやら斉明朝造営説か天智朝造営説に立っておられるようです。


第558話 2013/05/19

古代ギリシアの「従軍慰安婦」

 昨日の関西例会で、わたしは古代ギリシアの「従軍慰安婦」というテーマでクセノポン著『アナバシス』にギリシア人傭兵部隊に娼婦が多数従軍していたという記事があることを紹介しました。
 ソクラテスの弟子であるクセノポンが著した「上り」という意味の『アナバシス』は、紀元前401年にペルシアの敵中に取り残されたギリシア人傭兵1万数 千人の6000キロに及ぶ脱出の記録です。クセノポンの見事な采配によりギリシア人傭兵は故国に帰還できたのですが、その記録中に娼婦のことが記されてい ます。アルメニア山中の渡河作戦の途中に次の記事が突然現れます。

 「占者たちが河(神)に生贄を供えていると、敵は矢を射かけ、石を投じてきたが、まだこちらには届かなかった。生贄が吉 兆を示すと、全軍の将士が戦いの歌を高らかに唱して鬨の声をあげ、それに合わせて女たちもみな叫んだ−−隊中には多数の娼婦がいたのである。」岩波文庫 『アナバシス』(169頁)

 この娼婦たちはギリシア本国から連れてきたのか、遠征の途中に「合流」したのかは不明ですが、将士の勝ち鬨に唱和して叫んでいることから、前者ではないかと推定しています。
 昨今、物議を醸している橋下大阪市長による「慰安婦」発言もあったことから、いわゆる「従軍慰安婦」が紀元前400年頃の記録に現れている例として紹介 しました。この問題は他国への侵略軍・駐留軍が避けがたく持つ「性犯罪」「性問題」が人類史的にも根が深い問題であり、ある意味では橋下市長の発言を契機 に、より深く考える時ではないかと思います。「建前」だけの議論や、単なるバッシングでは沖縄の米兵による性犯罪をはじめ、世界各地の侵略軍・駐留軍により恐らくは引き起こされているであろう各種の問題を解決できないことは明白です。歴史学や思想史学が机上の学問に終わらないためにも、真剣に考えるべきテーマではないでしょうか。
 5月例会の発表は次の通りでした。なお、6月例会は「古田史学の会」会員総会・記念講演会などのため中止となりました。

 

〔5月度関西例会の内容〕
1). シキの考察−−西村説への尾鰭(大阪市・西井健一郎)
2). 古代に忌み名(諱)の習俗はあったのか(八尾市・服部静尚)
3). 歩と尺の話(八尾市・服部静尚)
4). 古田史学会インターネットホームページ運営報告(東大阪市・横田幸男)
5). 古代ギリシアの「従軍慰安婦」(京都市・古賀達也)
6). 和気(京都市・岡下秀男)
7). 「室見川の銘板」の解釈について(川西市・正木裕)
8). 「実地踏査」であることを踏まえた『倭人伝』の距離について(川西市・正木裕)
8). 味経宮のこと(八尾市・服部静尚)
9). 史蹟百選・九州篇(木津川市・竹村順弘)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・会務報告・会誌16集編集遅れ・新東方史学会寄付金会計報告の件・行基について・その他