古賀達也一覧

第2379話 2021/02/13

多賀城碑「東海東山節度使」考(4)

―田中巌さんの〝東の国界〟説―

 多賀城碑文の里程距離の齟齬、すなわち多賀城からほぼ同距離に位置する「常陸國界」と「下野國界」が、碑文では「四百十二里」「二百七十四里」と大きく異なっている問題について、古田先生はそれら里程を両国の〝西の国界〟までの距離とする理解により、距離が妥当になるとする説を『真実の東北王朝』(注①)で発表されました。この古田説に対して、わたしは違和感を抱いてきたのですが、それに代わる仮説を提起できないでいました。そのようなときに田中巌さん(東京古田会・会長、発表当時は同会々員)による新説(注②)が発表されたのです。
 わたしが理解した田中説(〝東の国界〟説)の要点と論理性は次の通りです。

(1)多賀城から「常陸國界」と「下野國界」への古代官道実距離を求めるにあたり、直線距離や新幹線・高速道路でもなく(非現実性の排除)、複数のルートがある自動車道路でもなく(ルート選択における恣意性の排除)、地方都市を経由しながら進むJR在来線の路線距離を採用した。

(2)それに基づいて、次の距離を算出した。※1里を550mとする(注③)。
○多賀城(国府多賀城駅)から常陸國界(常陸大子駅)までの距離223.6km(406里)
 ※国府多賀城駅→仙台駅→郡山駅→水郡線常陸大子駅〔勿来関より内陸で南へ入る〕
○多賀城(同上)から下野國界(須賀川駅)までの距離148.4km(269里)
 ※国府多賀城駅→仙台駅→郡山駅→在来線須賀川駅
○多賀城(同上)から京(奈良駅)までの距離862.6km(1568里)
 ※国府多賀城駅→仙台駅→東京駅→中央線塩尻駅→名古屋駅→奈良駅

(3)上記(2)の計算里数が碑文の里数と対応している。古田説(〝西の国界〟説)では、「常陸國界」「下野國界」までは1里が約1km、「京」までは約0.5kmとなり、里単位に統一性がない。

《碑文里数》     《田中説による計算里数》
「常陸國界四百十二里」   406里
「下野國界二百七十四里」  269里
「京一千五百里」     1568里

 以上のように、田中説は客観性が担保され、構成論理に矛盾がない唯一の仮説であり、現状では最有力説とわたしは考えています。従って碑文にある「西」の字は、京やこれらの国々(蝦夷國、常陸國、下野國、靺鞨國)が多賀城の「西」にあるということを示しているわけで、そうした理解が最も単純で、碑文を読む人もそのようにとらえると思われるのです。
 また、碑文後段に記された藤原朝獦の官職名が「東海東山節度使」とあることは、東海道・東山道の奥(道の奥)まで東へ東へと侵攻したことを示しているのですから、出発地の「京」を含めて途中の通過地(注④)は多賀城の西にあることを「西」の字は示しているとするのが最も平明な碑文理解ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版、1991年。後にミネルヴァ書房から復刊。
②田中巌「多賀城碑の里程等について」。『真実の東北王朝』ミネルヴァ書房版(2012年)に収録。
③奈良時代の一里は535mと復原されており、田中説で採用された550mに近い。このことは田中論稿「多賀城碑の里程等について」で紹介されている。
④この場合の「西」とは大方向としての「西」とする古田先生の理解が妥当と思われる。なお、通過地ではない「靺鞨國界三千里」が碑文に記されている理由については今後の研究課題であるが、藤原朝獦にとって何らかの必要性があったのではあるまいか。


第2378話 2021/02/12

能楽「綾鼓」の発祥地、朝倉市

 一昨日、京都府立図書館を訪れ、取り寄せていただいた『朝倉風土記』(注①)を閲覧しました。同書を見てわかったのですが、著書というよりも編著書という性格のものでした。内容は、筑前の地誌の朝倉に関係する部分の引用と著者の補注などからなっており、そのことが同書冒頭の「全巻の構成」に記されています。

 「本文は
 明治維新前に編纂された郷土資料の文献
 ▲朝倉紀聞 古賀高重編 元禄七年(西暦一六九四年) (本書は上座郡のみ記載)
 ◉筑前国続風土記 貝原益軒編 元禄十六年(西暦一七〇三年)
 ○筑前国続風土記附録 加藤一純・鷹取周成編 寛政十年(西暦一七九八年)
 ◇筑前国続風土記拾遺 青柳種信編 文政十三年(西暦一八三〇年) (夜須郡の秋月領分を欠く)
 △太宰管内志 伊藤常足編 天保十二年(西暦一八四一年)
の五書を、各固有村別、事項別に分別対比して載録した。続風・管内の二書は刊本により、紀聞・附録・拾遺の三書は写本によった。」

 このような説明があるのですが、わたしは『朝倉紀聞』以外の四書は持っていますので、その四書の引用記事は既に読んだ記憶がありました。そこで、『朝倉紀聞』からの引用部分を中心に精査しました。その結果、いくつか興味深い記事を見つけましたので、その一つ、「天智天皇の宮人源太」の伝承を紹介します。
 同書「宮野村篇 須川村」の項に次の記事がみえます。

 「源太塚 上須川にあり。里諺に曰。天智天皇の宮人と云し者、桂の池に身を沈め死す。其霊魂、暫く散せずして、此塚穴に形を現し、人に仇せり。故に号けて源太塚と云。昔、行脚の僧、入地の桂池に至て吟詠して曰。曽比鉄牛皇后心、空教源太至冥沈、声明身後異綾鼓、載在口碑古今と。古歌に、
  小山田の苗代水は絶へずとも
    心の池のいひは放たじ
此歌は源太が読むと云。此事、綾鼓と云謡にも見へたり。(紀聞)」25頁
 「○カミスガワ小塚〔穴の口四尺、入二間、中に隔あり〕村民は源太塚といふ。(附録)」25頁
 「◇源太塚 上須川に在。石窟なり。入五間、中に隔あり。此塚の事、南淋寺縁起、朝倉紀聞等に怪説あり。いたつかはしければ漏しつ。(拾遺)」25~26頁

 「大福村篇 入地村」の項にも次の記事がみえます。

 「恋木社 福成神社の東四町斗に有り。里民の俗説に曰く、天智天皇の寵妃橘媛女御、天皇と共に桂の池に御遊有り。時に御庭掃の源太と云る老人、女御を恋慕す。橘媛、聞て、官人をして老人に語しめて曰るは彼池の桂木に鼓を掛置くべし。老人来て是を撃て。其音出し時、必相見んと有しかば、老人、大に悦て、終夜打とも其音出ず。夜明て是を見るに、綾を以て製せし鼓也。故に鳴事なし。老人悲み恨て、終に此池に身を投て死す。其後、老人が霊魂散ぜずして、時々現て人を悩す。女御も又狂気し給ひ、終に桂池に沈みて失給ふ。是に社を立て、恋の木社と云。福成の本社の祭礼の日、酒饌を供て是を祭る。(紀聞)」66頁
 「◇古墓 恋の木といふ池にあり。源太といふ者の霊を祭るといふ。朝倉記に、天智帝の時、下部源太といふ者の事績を載たり。妄説にして取にたらず。(拾遺)」66頁

 以上の伝承が記されていますが、「此事、綾鼓と云謡にも見へたり。(紀聞)」とあるように、これは能楽の「綾鼓(あやのつづみ)」とほぼ同じ内容です。能楽「綾鼓」は筑前の木の丸殿が舞台とされており、恐らくは「天智天皇伝承」として伝えられたものと思われます。『朝倉風土記』で紹介された伝承では、主役の老人は天智天皇の宮人(御庭番)の「源太」、女御を「橘媛」(注②)と具体的な名前を伝えており、この伝承が能楽「綾鼓」の原型と思われます。
 他方、筑前黒田藩の地誌『筑前国続風土記拾遺』では、同伝承の紹介はするものの、「怪説」「妄説」として退けています。本来は天智天皇ではなく、九州王朝の天子とその御庭番「源太」に関わる伝承が本来の姿と思います。
 参考までに、能楽「綾鼓」に関するウィキペディアの解説を転載します。作者不明ということにも、この伝承の古さを感じます。

追記 本稿執筆直後、能楽「綾鼓」について、九州王朝の都、太宰府が舞台であったとする説を既に正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が講演会で発表されていたことを知りました。謡曲や能楽に堪能な正木さんならではの先見性です。

【以下、転載】
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『綾鼓』(あやのつづみ)は、能楽作品のひとつである。作者は不明だが、少なくとも世阿弥かそれより以前に創作された執心男物の作品である。室町時代に上演記録は無く、江戸時代の後期以降に宝生流が上演し、明治時代になると金剛流も正式に所演曲とした。

《あらすじ》
 筑前国の木の丸の皇居に仕えている臣下の者がいる。そこには桂の池と言う大きな池があり、管弦楽が催されている。そこで臣下の者が言うには、庭掃きをしている老人が女御の姿を見て心乱すほどの恋に落ちてしまったという。それを知った女御は不憫に思い、桂の木に鼓を掛けて老人に打たせ、音が皇居に届けば姿を見せようと言われたので、そのことを臣下は老人に伝えた。老人は、この鼓の音を鳴らせばそれが恋心の慰めになると思い打つが、音は鳴らない。老人はこの年で心を乱すような恋をしたはかなさを思いつつも、思っている方が忘れようとするよりも良いと思うのであった。人間はいつどうなるかなどわからないものであり誰も教えてくれはしないけれど、もしわかれば恋に迷う事などなかったであろうと思いつつも、鼓の音が出れば心の闇も晴れると思い昨日も今日も打ち続けるが音は出ない。鳴る神でさえ思う仲を裂けぬと聞くのに、それほどまでに縁がなかったのだろうかと我が身を恨み人を恨み、もう何のために生きているのかわからないと思い、憂うる身を池に投げて死んでしまった。
 それを聞いた臣下は、女御に老人が身を投げた事を告げ、このような者の執心は恐ろしいゆえ池に出てご覧下さいと言う。女御が池に出てみると池の波の打つ音が鼓の音に聞こえてきた。臣下は女御が普通ではないと思ったが、女御は、そもそも綾の鼓は音が出るはずが無く、その鳴らないものを打てと言ったときから普通ではないのですと言い、なおも鼓の音が聞こえてくるのである。そして怨霊となった老人が現れ、愚かなる怨みと嘆きであるが、この強い怒りは晴れるものではないと言い、ついに魔境の鬼となってしまったのだという。そして鳴らない鼓の音を出せとは、恋の思いを尽くさせて果てよという事だったのかと女御を責めた。この鼓が鳴るはずがない、打ってみなさいと笞をふりあげて女御に迫り、女御は悲しいと叫ぶのであった。冥途の鬼の責めもこのようなものかと、それでもこれほどの恐ろしさでは無いと思える程の恐ろしさであり、因果とはいえどのようになってしまうのでしょうと言った。怨霊は、このように因果ははっきりと現れるものだと言った。そして女御に祟り笞で打ち据えるうちに池の水は凍り、大紅蓮地獄のようになり、身の毛もよだつ悪蛇となって現れているという。そうして恨めしい、なんと恨めしい女御だと言いながら、恋の淵のように深い池に入って行った。

《登場人物》
前シテ 老人
後シテ 老人の怨霊
ツレ 女御
ワキ 臣下
アイ 従者

《作者・典拠》
 世阿弥の『三道』に「恋重荷、昔、綾の太鼓なり」とあることから、この「綾の太鼓」が『綾鼓』そのものとする説がある。一方で「綾の太鼓」という古曲を改訂して『綾鼓』になったという説もある。いずれにしても作者は不明である。なお、世阿弥が改作をしている。また、『恋重荷』は世阿弥作とされているので、少なくともそれ以前に作られた曲であるのは間違いないと言われている。

(注)
①古賀益城著『朝倉風土記』昭和59年(1984)、聚海書林。昭和39年(1964)に朝倉郡公民舘連合会から非売品として発行されている。この度、朝倉市図書館蔵書を取り寄せていただいた。
②『日本書紀』天智七年二月条に天智の妃の一人として、「阿倍倉梯麻呂大臣の女有り、橘娘と曰ふ。飛鳥皇女と新田部皇女とを生めり。」の記事がみえる。


第2377話 2021/02/11

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(6)

 本シリーズでは『史記』天官書の原文が「中宮」か「中官」かという問題を扱ってきましたが、このような場合は通常の文献研究では原本調査や原本に近い写本・刊本の調査を真っ先に行うのですが、『史記』に関してはそうした基本的な調査がかなり困難なのです。というのも、今から二千年以上前に竹簡に書かれたものですから、原本はもとより、それに近い写本・刊本の遺存など望むべくもないからです。
 そのため、はるか後世の注釈書に記された『史記』本文部分の記録によらなければなりません。しかもその注釈書は、現存最古のものでも南宋代まで時代が下がるという状況です。それならばその南宋版の現物を見たいと思い、調べたところ、なんとわが国にあることがわかりました。
 それは「南宋慶元黄善夫本」と呼ばれており、国宝に指定されていました。国宝なので現物は無理でしょうから、その影印本だけでもなんとかして見たいと思い、京都府立図書館の館員さんに調査を頼み込んだところ、何と自宅のパソコンからweb上で閲覧可能であることを突き止めていただいたのです。丁重に館員さんにお礼を述べ、急いで自宅に戻り、パソコンで検索しました。それは国立歴史民俗博物館のホームページに収録されており、全巻の閲覧が可能でした。URLは下記の通りです。

https://khirin-a.rekihaku.ac.jp/database/sohanshiki
国立歴史民俗博物館 データベース

 同サイトには「南宋慶元黄善夫本」について次の解説がありましたので転載します。なお、こうしたことは中国古典の研究者・専門家には常識のことと思います。

【以下、転載】
 南宋時代(南宋慶元年間(1195~1201)刊か) 前漢の司馬遷(前135?~)による黄帝から漢代までの歴史書。「三史」と通称される『史記』『漢書』『後漢書』の一つ。全130巻からなり、本紀(帝王の事績)・表(年表)・書(制度沿革)・世家(諸侯の系譜と事績)・列伝(人物伝)の五部に分かれる。中国だけでなく日本でも必読書として重んじられた。これらは当初、竹木などに手書きされていたが、宋時代には書道大家の書風をまね、厳密な校正を加えた印刷出版物となり(宋版)、南宋時代には黄善夫のような民間の出版家も出現した。
 袋綴冊子本 印記「興学亭印」(朱方印) 「水光邱青」(黒印 朱印 青印)
史記集解・索隠・正義の三注合刻本で、全130巻完存した現存最古本。「建安黄善夫刊/于家塾之敬室」の刊記があり、建安(現在福建省)で刊行。石清水八幡宮耀清・月舟寿桂・直江兼続・上杉藩校興譲館伝来。
【転載おわり】

 同サイトで、真っ先に『史記』天官書を閲覧し、「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」「員官」「五官」の部分を調べたところ、その通りとなっていました。よって、明治書院版の『新釈漢文大系 史記』や大正時代に出版された『国譯漢文太成 経子史部 第十四巻』が正しいことが判明しました。そこで、現存版本による実証的な調査はこの辺で一応の終わりとなります。
 しかし、論証をより重視する学問としては、ここからが真の研究領域となります。それは、なぜ「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」の総称が「五宮」ではなく、「五官」とされているのかという問題の解明です。しかも現存最古とはいえ、「南宋慶元黄善夫本」は『史記』成立の約千三百年後の版本であり、しかも「宮」と「官」という、よく似た字体の使い分けを問題とするのですから、誤写誤伝の可能性と常に隣り合わせのテーマでもあり、真実解明は容易ではありません。(つづく)


第2376話 2021/02/11

多賀城碑「東海東山節度使」考(3)

―〝西の国界〟説への違和感―

 古田先生は著書『真実の東北王朝』(注①)において、多賀城「蝦夷国内」説とともに多賀城碑が偽作ではないとする緒論を発表されました。特に重要な点は次の論証でした。

(1) 碑文の刻字や文字配列が稚拙であることを根拠とした江戸期における偽作とする説(実証)に対して、偽作であればこのような不格好な碑面ではなく、本物らしく立派なものを造るはずであり、それは逆に偽作ではない根拠であると論理的な反証(論証)をされた。

(2) 碑文の藤原朝獦の官位「從四位上」が『続日本紀』の記事「從四位下」と異なっているという偽作説(実証)に対して、後代史料よりも同時代金石文が優先するという史料批判の基本原則を明示(論理的反証)された。

(3) 多賀城からほぼ同距離に位置する「常陸國界」「下野國界」の里程について、碑文では「四百十二里」「二百七十四里」と大きく異なっていることを根拠とする偽作説に対して、碑文上部に記された「西」を根拠に〝西の国界〟という視点を提示され、それぞれの〝西の国界〟からの距離であれば碑文の里程は妥当とされた。

 いずれも偽作説に対する優れた反証であり、学問的にも貴重な論点ですが、(3)についてはわたしは違和感がありました。〝西の国界〟説に対していだいた違和感の一つは、各里程記事の冒頭にある「去」の一字でした。

【多賀城碑文の里程記事部分】
西
 多賀城
  去京一千五百里
  去蝦夷國界一百廿里
  去常陸國界四百十二里
  去下野國界二百七十四里
  去靺鞨國界三千里

 この「去」の字により、行程方向は〝京・各国界から多賀城へ(西から東へ)〟であり、たとえば「常陸國界」が〝西の国界〟であるとすると、その行程は「常陸国の西の国界」→「常陸国内」→「常陸国の東の国界」→「蝦夷国界」→「多賀城」となり、それこそ〝冗長〟です。多賀城への距離を示すのであれば「常陸国の東の国界」からでよく、既知である東海道諸国に含まれる「常陸国の西の国界」から「去る」必要はありません。「下野國界」についても同様です。
 さらに、「去靺鞨國界三千里」も同様に〝西の国界〟と理解すると、その行程は、「靺鞨国の西の国界」→「靺鞨国内」→「靺鞨国の東の国界」を含むことになり、そうなると距離はとても「三千里」に収まらないのではないでしょうか。(注②)
 こうした疑問があり、古田説中の〝西の国界〟説には違和感があったのです。しかし、距離の齟齬について解決できる代案が思いつかず、反対するまでには至りませんでした。そのようなときに知ったのが、田中巌さん(東京古田会・会長、発表当時は同会々員)の研究「多賀城碑の里程等について」(注③)でした。(つづく)

(注)
①古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版、1991年。後にミネルヴァ書房から復刊。
②古田先生は『真実の東北王朝』において、多賀城から「靺鞨国の西の国界」までの距離を三千里とすることに対して、「当たらずといえども、遠からず」とされている。
③田中巌「多賀城碑の里程等について」。『真実の東北王朝』ミネルヴァ書房版(2012年)に収録。


第2375話 2021/02/10

多賀城碑「東海東山節度使」考(2)

―「常陸國界」「下野國界」記載の理由―

 多賀城碑の「東海東山節度使」を〝東海道と東山道を重ねてひとりの節度使とする形も、古賀説の「目的地が同じだから」という論理につながる〟とする茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)のご指摘により、同碑文に対する理解が深まりました。その一つが、碑文前半にある多賀城からの各里程距離として、「常陸國界四百十二里」「下野國界二百七十四里」が記載された理由です。碑文には次の里程記事があります。

西
 多賀城
  去京一千五百里
  去蝦夷國界一百廿里
  去常陸國界四百十二里
  去下野國界二百七十四里
  去靺鞨國界三千里

 この内、「常陸國界」は東海道の終着点、「下野國界」は東山道の終着点です。わたしの理解では両官道は蝦夷国へ至る九州王朝官道の終着点であり、二つの軍事行政管轄地域の総称です。それが八世紀の大和朝廷にも引き継がれ、その二つの官道の〝総司令官〟として藤原惠美朝臣朝獦(以下、「藤原朝獦」とする)が「東海東山節度使」として多賀城に軍事侵攻したことを誇ったのが同碑建碑の真の目的だったのではないでしょうか。
 すなわち、陸軍を主体とする東山道軍と水陸両軍を主体とする東海道軍を指揮した藤原朝獦は、両終着点からそれぞれ「四百十二里」「二百七十四里」の地点(多賀城)まで侵攻し、神龜元年(724年)に大野朝臣東人が建造した多賀城を修築したと誇り、その地は「蝦夷國界」から「一百廿里」〝東〟へ入った所でもあると記したわけです(注①)。おそらく、「常陸國界」と「下野國界」にあった蝦夷国との「國界」(国境線)を多賀城の西「一百廿里」のラインまで北上させたことを誇ったのがこの里程記事だったと思われるのです。
 そうすると、「常陸國界」「下野國界」とは古田説(注②)の〝西の国界〟ではなく、蝦夷国との旧国境線である〝東の国界〟ということになります。実はこのことを実証的に証明した優れた研究があります。田中巌さん(東京古田会・会長)の「多賀城碑の里程等について」(注③)です。(つづく)

(注)
①多賀城を蝦夷国内にあると論証したのは古田武彦氏である。
 古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版、1991年。後にミネルヴァ書房から復刊。
②同①。
③田中巌「多賀城碑の里程等について」。『真実の東北王朝』ミネルヴァ書房版(2012年)に収録。


第2374話 2021/02/09

多賀城碑「東海東山節度使」考(1)

―茂山憲史さんからのメール―

 今春発行予定の会誌『卑弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)の再校を行っていますが、校閲していただいている茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)より拙稿「九州王朝官道の終着点 ―山道と海道の論理―」の誤り(多賀城碑の誤引用)を指摘するメールが届きました。下記の内容ですが、わたしはこのご指摘に含まれる重要論点に気づき、驚きました。

【茂山さんからのメール要約】
 今回は、校正というよりご相談です。
「東山道節度使」➔ 「東海(道)東山(道)節度使」
案について、厳密に考える必要はないとも思うのですが、原碑に「道」はありませんから、考えてみました。
 東海道と東山道を重ねてひとりの節度使とする形も、古賀説の「目的地が同じだから」という論理につながる気がしました。
いかがでしょうか?
 茂山憲史

 このメールにある「原碑」とは多賀城碑のことで、拙稿では碑文(注①)を紹介しておきながら、「東海東山節度使」を「東山道節度使」と誤引用していることをご指摘いただいたものです。もちろん再校で訂正させていただきますが、わたしが驚いたのはメール後半の〝東海道と東山道を重ねてひとりの節度使とする形も、古賀説の「目的地が同じだから」という論理につながる気がしました。〟という部分でした。わたしはこの多賀城碑文の「東海東山節度使」が持つ、拙稿にとって重要な意味に気づいていなかったのです。
 そもそも拙稿の主要論点は、山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の秀逸な論文「『東山道十五國』の比定 ―西村論文『五畿七道の謎』の例証―」「東山道都督は軍事機関」(注②)や肥沼孝治さん(同、所沢市)の「古代日本のハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?」(注③)で提起された九州王朝官道の全容と、それぞれの官道が九州王朝の〝方面軍〟としての軍事行政機能を有しているという仮説に基づき、その〝方面軍〟の目的地についてでした。拙稿では各官道の目的地を最終的には次のようにしました。

【九州王朝(倭国)の七道】(案)
○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「百済国」(朝鮮半島の西南領域)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)
○「大海道」(仮称)→「裸国」「黒歯国」(ペルー、エクアドル)

 今回の茂山さんの指摘は、この仮説に対応した表記として多賀城碑の「東海東山節度使」を理解され、〝東海道と東山道を重ねてひとりの節度使とする形も、古賀説の「目的地が同じだから」という論理につながる〟とされたものです。茂山さんが提示されたこの視点により、多賀城碑文そのものに対する、わたしの理解が更に深まったのです。(つづく)

(注)
①多賀城碑碑文
「西
 多賀城
  去京一千五百里
  去蝦夷國界一百廿里
  去常陸國界四百十二里
  去下野國界二百七十四里
  去靺鞨國界三千里
 此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
 軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
 也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
 節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
 將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
  天平寶字六年十二月一日」
②山田春廣「『東山道十五國』の比定 ―西村論文『五畿七道の謎』の例証―」(『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編・明石書店、2018年)
 山田春廣「東山道都督は軍事機関」(同上)
③肥沼孝治「古代日本のハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?」(同上)


第2372話 2021/02/07

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(5)

 『史記』天官書には、「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」を総称した「五官」の他に、「官」の字を使った「員官」という用語が二カ所に見えます。その一つは「南宮」の記事中にある次の文です。

 「七星は頸(くび)にして、員官と爲し、急事を主(つかさど)る。」『新釈漢文大系 史記 四』(注①)150頁

 同書の通釈では、「七星は朱鳥の頸で員官として天庭の危急事をつかさどる。」(151頁)とあります。

 『史記会注考証』(注②)には次の引用と考証があります。

 「七星、頸爲員官、主急事。〔索隠〕七星頸爲員宮主急事、案宋均云、頸、朱鳥頸也、員宮、喉也、物在喉嚨、終不久留、故主急事也、〔正義〕七星爲頸、一名天都、主衣装文繍、主急事、以明爲吉、暗爲凶、金火守之、國兵大起、〔考證〕梁玉縄曰、案宮字譌作官、索隠本作宮、漢以後志皆然、王先謙曰、辰星下云、七星爲員官、則作官者是、査愼行曰、頸*[口素]羽翮四字、多従鳥義、」『史記会注考証 四』20頁

 ここに引用された〔索隠〕〔正義〕とは、唐の司馬貞の『史記索隠』、唐の張守節による『史記正義』のことです。〔索隠〕には「員宮」とあり、「員官」ではありません。もしこの「員宮」が誤写誤伝でなければ、唐の司馬貞は「員宮」と書かれた『史記』を見たのかもしれません。このことについて〔考證〕では、清代の儒学者梁玉縄の「案宮字譌作官、索隠本作宮、漢以後志皆然、《案ずるに、宮の字を官と作るは譌(あやまり)なり、「索隠」では宮と作る、漢以後の志(ふみ)は皆然(しか)り》」という説を紹介しています。すなわち、「原文」にある「員官」は誤りであり、『史記索隠』のように「員宮」とするのが漢代以後の用語であるとする説です。他方、清代末の儒学者王先謙(注③)の「七星爲員官、則作官者是《七星爲員官、則ち官と作るは是(ぜ)なり》」とする説も紹介しています。
 このように、天官書には「五官」だけではなく、「員官」についても「官」の字を「宮」とする説がありました。そしてそれは唐代にまで遡る可能性があり、清代に至っては諸説論じられていたことがわかりました。(つづく)

(注)
①吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記 四』(明治書院、1995年)
②滝川亀太郎著『史記会注考証』東方文化学院、1932年~1934年。
③王先謙について、ウィキペディアに次の解説がある。
 王 先謙(おう せんけん、Wang Xianqian、1842年~1917年)。字は益吾。清末の儒学者・郷紳。葵園先生と呼ばれた。
 湖南省長沙出身。1865年に進士となって、翰林院庶吉士、散館編修を歴任した。古今の書物に通じ、考証学者の阮元のあとを継いで『続皇清経解』を、姚鼐のあとをついで『続古文辞類纂』を編纂した。1889年から官を辞して郷里の長沙に居を定め、嶽麓書院の院長を十年近く務めた。戊戌の変法時には康有為や梁啓超の急進思想に反対した。ただし改革自体には反対しておらず、科挙の廃止と西洋の科学知識の学習を主張した。1902年以降、鉱山の開発や鉄道事業に関わった。
 著作『漢書補注』『水経注合箋』『後漢書集解』『荀子集解』『荘子集解』『詩三家義集疏』。

*[口素]:口偏に旁は「素」の字。


第2370話 2021/02/06

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(4)

 『史記』天官書「原文」には「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」とあるのですが、それら五つを総称したものが「五官」であるとその末尾に記されています。次の文です。

 「故に紫宮・房・心・権・衡・咸池・虚・危・列宿の部星は、此れ天の五官の坐位なり。」吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記 四』(明治書院、1995年)、215頁

 天官書には、紫宮は中宮、房・心は東宮、権・衡は南宮、咸池は西宮、虚・危は北宮とありますから、これらの総称は「五官」ではなく、「五宮」とあるべきところです。そのため、明治書院版『史記』には「五官」は「五宮」の誤りとする次の注があります。

○五官 「五宮」の誤りか(考証)。張宇節は「列宿部内之是也」(正義)という。列宿部内とは、二十八宿の部内の星。(同書、216頁)

 ここに見える(考証)とは『史記会注考証』(注①)のことで、わが国における『史記』研究の基本文献の地位を占めている優れた注釈書です。そこで、同書を調べることにしました。幸いにも、閲覧できるwebサイト(注②)があり、そこには次の引用と考証が記されていました。

 「列宿部星、此天之五官坐位也。〔正義〕五官列宿部内之星也、〔考証〕猪飼彦博曰、篇中唯此字未訛、方苞云、官當作宮、首所列五宮也、不知五官爲正、五佐爲副、於文義亦不可易官爲宮也、」『史記会注考証 四』93頁

 ここで引用された〔正義〕とは、唐の張守節による注釈書『史記正義』のことで、六朝・宋の裴駰(はいいん)の『史記集解』(しきしっかい)、唐の司馬貞の『史記索隠』の注釈とを合わせて『史記』の三家注と呼ばれている有名な注釈書です。その『史記正義』を引用した後、著者滝川亀太郎氏の考証が続きます。
 その考証冒頭には、江戸時代末期の学者猪飼彦博(注③)の説として「篇中唯此字未訛」(篇の中に唯此の字を未だあやまらず)を引用し、次いで中国清代の儒学者方苞(注④)の説「官當作宮、首所列五宮也、不知五官爲正、五佐爲副、於文義亦不可易官爲宮也」を引用しています。このように滝川氏は「五官」は「五宮」の誤りとする説を考証で紹介しているわけです。
 これら一連の解説から、唐代の『史記正義』には「五官」とあり、清代の儒家方苞は「五官」を誤りとして「五宮」が正しいと認識していたことがわかります。前話で紹介した、清代の儒家孫星衍の『史記天官書補目』(注⑤)では「中官」「東官」「西官」「南官」「北官」と『史記』天官書「原文」を改訂(宮→官)していることから、末尾の「五官」の部分はそのままでよいと判断していたのではないでしょうか。このように、清代でも「官」と「宮」について諸説出されていたわけですから、西村さんやわたしの疑問には先例があったわけです。(つづく)

(注)
①滝川亀太郎著『史記会注考証』東方文化学院、1932~1934年。
②「臺湾華文電子書庫」https://taiwanebook.ncl.edu.tw/zh-tw/book/NTUL-0272410/reader
③猪飼敬所(いかい けいしょ) 宝暦11年(1761年)~ 弘化2年(1845年)は、日本の江戸時代後期の折衷学派の儒学者。名は彦博(よしひろ)、字は文卿、希文。近江国
出身。著作に「論孟考文」「管子補正」などがある。
④方苞(ほう ぼう)1668年~1749年は、中国清代の儒学者・文人・政治家。字は鳳九、号は霊皋、晩年には望渓と号する。著作に『史記注捕正』などがある。
⑤孫星衍撰『史記天官書補目』(王雲五主編『中西経星同異考及其他一編』中華民国二十八年十二月初版、1939年)。


第2369話 2021/02/05

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(3)

 『史記』天官書の「中宮」「中官」問題を調査した結果、現在の流布刊本の「原文(漢文)」はいずれも「中宮」とあるため、投稿原稿に『史記』からの引用として「中宮」と表記することは妥当で有り、そのまま掲載しても差し支えないと西村さんに報告しました。原稿採否審査としてはこれで一件落着なのですが、わたしの中ではなぜこのような史料状況が発生したのかという疑問を払拭できないため、西村さんとも意見交換し、自らの勉強にもなるので、『史記』天官書の調査と史料批判を試みることにしました。
 京都府立図書館での調査時も、同様の疑問により史料批判・版本調査の必要を感じていたところ、いつもお世話になっている図書館員の方が一冊の小冊子を書庫から探し出して、「わたしには読めませんが、何か関係はないでしょうか」と『史記天官書補目』(注)なる本を見せていただきました。
 同書は、『史記』天官書に見える用語がどの星座や星に相当するのかなどを記した説明書のような性格の本でした。そして、その説明の冒頭に「中官」と小見出しがあり、「中官」に位置する星座・星の説明(星の数や位置など)が続いています。更にその後に「東官」「西官」「南官」「北官」の小見出しと共に同様の解説が続きます。従って、同書は『史記』天官書について、平凡社版『史記』と同様の表記になっているのです。すなわち、日本の平凡社版だけではなく、中国清代の解説書にも「中官」を採用するものがあったのです。それでは『史記』の原文は本来はどちらだったのでしょうか。わたしの学問的探究心はますますかき立てられていきました。(つづく)

(注)孫星衍撰『史記天官書補目』(王雲五主編『中西経星同異考及其他一編』中華民国二十八年十二月初版、1939年)。冒頭の著者名部分には「清 陽湖孫星衍撰」とあり、同書成立は清代のようである。
 著者の孫星衍について、ウィキペディアでは次のように説明されている。

 孫 星衍(そん せいえん、1753年-1818年)は、中国清の官僚・学者。字は淵如、号は季逑。常州府陽湖県の出身。その著書『尚書今古文注疏』は『尚書』に関する清朝考証学の集大成として知られる。
《生涯》
 曾祖父に明末の礼部代理尚書の孫慎行。孫子の遠い子孫であると自称している。
 1787年に榜眼の成績で進士に及第した。1795年から山東省兗沂曹済道の道員の官についた。1799年に母の喪のために故郷に帰り、浙江巡撫であった阮元の招きにより、杭州の詁経精舎で教えた。三年の喪があけると山東に戻った。1807年に権布政使に昇任し、1811年に病気のため辞任した。
 孫星衍は詩人としても優れ、袁枚は「天下の奇才」と呼んだ。孫星衍は1771年に結婚し、妻の王采薇も詩をよくしたが、わずか24歳で病死した。王采薇の詩集である「長離閣集」は孫星衍の『平津館叢書』に収められている。
《著作》
 孫星衍の代表的な著書は『尚書今古文注疏』30巻で、1794年に作業を開始し、1815年に完成した。閻若璩以来、古文尚書と呼ばれるものが後世の偽作であることが明かになっていたので、古文の部分は『史記』をはじめとする書籍から本来のテキストを復元し、漢代以来の注を集め、さらに疏を加えたもので、現在も『尚書』研究上の重要な文献である。ほかに、『孫氏周易集解』、『孔子集語』、『寰宇訪碑録』などの著書がある。
 孫星衍は蔵書家でもあり、多くの書物を校訂・出版した。孫星衍が編集した叢書に『平津館叢書』・『岱南閣叢書』がある。


第2368話 2021/02/04

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(2)

 『史記』天官書の記述が「中宮」か「中官」かという不思議な史料状況を調査するために、京都府立図書館に行きました。顔なじみになったご年配の図書館員の方に訪問目的を告げると、蔵書やweb掲載書籍調査をしていただきました。その結果、今回の蔵書調査を含めて次のことを確認できました。

○『国譯漢文太成 経子史部 第十四巻』(國民文庫刊行會、1923年)
 「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」/「五官」

○野口定男訳『中国古典文学大系 史記 上』(平凡社、1968年)
 「中官」「東官」「西官」「南官」「北官」「五官」 ※全て「官」とする。
(注)
 官 天官書では以下、天を中官・東官・西官・南官・北官の五官に分けて星座、また恒星について記す。中官は晋書以後は紫宮、紫微垣と称する部分で、現在では大熊・小熊・竜・ケフェウス・カシオペア・きりんなどのある処である。(同書、263頁)
 五官 紫宮=中官。房・心=東官。権・衡=南官。咸池=西官。虚危=北官官。(同書、266頁)

○吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記 四』(明治書院、1995年)
 「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」/「五官」 ※「五官」は「五宮」の誤りとする注がある。
(注)
 五官 「五宮」の誤りか(考証)。張宇節は「列宿部内之是也」(正義)という。列宿部内とは、二十八宿の部内の星。(同書、216頁)

 以上のように、わたしが確認できた国内の書籍では、平凡社版は全て「官」が使われており、明治書院版は中と東西南北は「宮」としながら、その総称は「五官」としたため、注で「五官」は「五宮」の誤りとしたものと考えられます。大正十二年に刊行された『国譯漢文太成 経子史部 第十四巻』も明治書院版と同様でした。
 この現象はいったい何故なのだろうと考えていると、冒頭紹介したご年配の図書館員の方が、「わたしは読めないのですが、関係ないでしょうか」と国外の本を書庫から見つけていただきました。(つづく)


第2367話 2021/02/03

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(1)

  『古田史学会報』投稿原稿の採否審査は、採用・不採用にかかわらず、ほとんどの場合、編集部の意見は一致します。ごくまれに意見が分かれたり、悩む場合があります。この度、面白いテーマへと発展した投稿審査事案がありましたので、紹介することにします。
 ある方の投稿原稿中に司馬遷の『史記』天官書からの引用が有り、その当否について編集担当の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からお電話がありました。投稿論文自体は内容が優れていたので、採用することに編集部内で異議は出なかったのですが、論文に引用された『史記』天官書に見える「中宮」という用語について、本当に正しいのか調査してほしいとのことでした。西村さんがお持ちの『史記』には「中官」とあって、「中宮」ではないとのこと。また、天官書という書名やその文脈からも「中官」でなければならないとのことでした。中国古典に詳しい西村さんからの疑義でしたので、わたしは調査を約束しました。
 まず手持ちの平凡社版『史記 上』(注)を調べると、「中官」となっており、「中宮」ではありません。そして、同書「注」には次の説明がありました。

 「中官 天官書では以下、天を中官・東官・西官・南官・北官の五官に分けて星座、また恒星について記す。中官は晋書以後は紫宮、紫微垣と称する部分で、現在では大熊・小熊・竜・ケフェウス・カシオペア・きりんなどのある処である。」同書、263頁

 天官書の終わりの方にも、これら五つの星座・恒星群を「五官」と記しており、「官」が使われています。次の通りです。

 「紫宮・房・心・権・衡・咸池・虚・危の星座は天の五官が位置する処である。正しく並んで移動することはなく、星の大小、また相互の距離も変わらぬのである。」同書、262頁

 そして、この「五官」にも次の「注」がありました。

 「五官 紫宮=中官。房・心=東官。権・衡=南官。咸池=西官。虚危=北官。」同書、266頁

 また、題名からして「天官書」ですから、西村さんが言うように文脈や意味の上から考えても「中官」が妥当で有り、「中宮」では論理整合性(理屈)が通りません。
 他方、web上で『史記』天官書を検索すると、いずれも「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」となっており、平凡社版『史記』とは異なっていました。ただし、「五官」部分は「官」であり、「五宮」とはなっていません。こうした不思議な史料状況を知り、『史記』の版本や写本間に異同があるのではないかと考え、このことを西村さんに報告し、引き続き図書館で版本調査を行い、再度、報告することにしました。(つづく)

(注)野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。


第2364話 2021/01/31

二倍年齢研究の実証と論証(8)

 ―古代戸籍研究、実証主義の限界―

 『延喜二年(902)阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』の超高齢者群の存在を史料根拠として、当時の日本人は長生きした人が多かったとする実証が成立しないことを本シリーズで説明してきましたが、同様に当時の阿波国では二倍年暦が採用されていた史料根拠とする単純な実証に使用できないことも明らかにしました。
 こうした経験があったため、わが国における現存最古の「大宝二年籍(702年)」の研究では用心深く取り組みました。というのも、「大宝二年籍」は「延喜二年籍(902年)」のような超高齢者群は見えませんが、それでも『大宝二年御野国戸籍』には『大宝二年筑前戸籍』よりも高齢者が多く(注①)、この現象に違和感を感じていました。ですから、この史料事実をもって御野国は九州地方よりも寿命が長かったとする実証の根拠にするのは学問的に危険と感じていました。
 更に、御野国戸籍にはもう一つの違和感、戸主と嫡子の年齢差が大きいという史料事実があり、この傾向は戸主が高齢である場合はより顕著に表れています。このことは古代戸籍研究に於いて、従来から指摘されてきたところです。たとえば、南部昇『日本古代戸籍の研究』(注②)では次のような指摘がなされています。

 「『大日本古文書』に記載されている八世紀前半の戸籍を検討してゆくと、第60図(三三三頁)に例示した型の戸がかなり多いことがわかる。これらの戸は戸主の余命幾許もないのにその嫡子はいまだ幼少である、という型の戸であるが、ここに揚げた例の外に、戸主と嫡子の年齢差が三十歳以上、四十歳以上と開いている戸は非常に多い。」(同書315頁)

 南部氏が非常に多いと指摘されたこの傾向は戸主以外にも見られ、たとえば「御野国加毛郡半布里戸籍」の「縣主族比都自」戸に次の「寄人縣主族都野」家族の記載があります。

 「寄人縣主族都野」(44歳、兵士)
 「嫡子川内」(3歳)
 「都野甥守部稲麻呂」(5歳)
 「都野母若帯部母里賣」(93歳)※「大宝二年籍」中の最高齢者。
 「母里賣孫縣主族部屋賣」(16歳)

 これを親子順に並べると、次の通りです。

 (母)「若帯部母里賣」(93歳)―(子)「都野」(44歳)―(孫)「川内」(3歳)
             ―(子)「(不記載)」―(孫)「稲麻呂」(5歳)
             ―(子)「(不記載)」―(孫)「部屋賣」(16歳)

 この母と子と孫の年齢差は49歳と41歳であり、異常に離れています。特に都野は母里賣49歳のときの子供となり、女性の出産年齢としては考えにくい超高齢出産です。また、二代続けて年齢差が異常に離れていることも不可解でした。(つづく)

(注)
①『大宝二年御野国戸籍』には、93歳の「若帯部母里賣」を筆頭として次の高齢者(70歳以上)が見える。
○味蜂間群春部里
 「戸主姑和子賣」(70歳)
○本簀群栗栖太里
 「戸主姑身賣」(72歳)
○肩縣群肩〃里
 「寄人六人部身麻呂」(77歳)
 「寄人十市部古賣」(70歳)
 「寄人六人部羊」(77歳)
 「奴伊福利」(77歳)
○山方群三井田里
 「下々戸主與呂」(72歳)
○加毛群半布里
 「戸主姑麻部細目賣」(82歳)
 「戸主兄安閇」(70歳)
 「大古賣秦人阿古須賣」(73歳)
 「都野母若帯部母里賣」(93歳)
 「戸主母穂積部意閇賣」(72歳)
 「戸主母秦人由良賣」(73歳)
 「下々戸主身津」(71歳)
 「下々戸主古都」(86歳)
 「戸主兄多比」(73歳)
 「下々戸主津彌」(85歳)
 「下中戸主多麻」(80歳)
 「下々戸主母呂」(73歳)
 「寄人石部古理賣」(73歳)
 「下々戸主山」(73歳)
 「寄人秦人若賣」(70歳)
 「下々戸主身津」(77歳)
 「戸主母各牟勝田彌賣」(82歳)
②南部昇『日本古代戸籍の研究』(吉川弘文館、1992年)