古賀達也一覧

第2431話 2021/04/11

百済人祢軍墓誌の「日夲」について (4)

 正木さんからのメール、「字体の変遷」

 石田泉城さんの「『祢軍墓誌』を読む」(注①)に触発されてスタートした本シリーズですが、それを読んだ正木裕さん(古田史学の会・事務局長)よりメールが届き、貴重な情報をご教示いただきました。

 『大辞林』の「六書と書体の変遷表」によれば、六朝・北魏・隋唐では「本」の楷書は「夲」となっており、藤原宮木簡の「夲位進第壱・・」や井眞成墓誌が「・・公姓井字眞成國號日夲」とあるのは当然とのことなのです。つまり、「夲」が「本」の「代わり」に通用していたのではなく、「六朝・北魏・隋唐時代は『夲』の字体が正しかった」のであり、当然、当時の倭国でも「夲」が用いられていたということでした。

 わたしはこうした中国での字体の変遷を知りませんでしたので、正木さんからのメールを拝見し、「ああ、そうだったのか」と腑に落ちました。というのも、北魏から隋唐時代の字体調査を行ったとき(注②)、専門書に掲載された当時の金石文や拓本を少なからず見たのですが、それらには「夲」の字体が普通に使用されており、むしろ「本」を見た記憶がなかったからです。国内の木簡調査でも同様でした。そのため、慎重な表現ではありますが、「その当時の国名表記の用字としては、『日夲』が使用されていた可能性の方が高いとするのが、日中両国の史料事実に基づく妥当な理解ではないでしょうか。」(注③)としたわけです。

 この度の正木さんからのメールにより、拙稿での結論が漢字学における字体の変遷研究結果と同じであったことを知り、わたしの推定が的外れではなかったことに自信を得ました。そうすると、「夲」が「本」に戻った時代とその理由についても知りたくなりましたが、漢字学の世界では既に研究済みのことかもしれません。この点、何かわかりましたら報告します。最後に、ご教示いただいた正木さんに感謝いたします。(おわり)

(注)
①石田泉城「『祢軍墓誌』を読む」『東海の古代』№248、2021年4月。
②古賀達也「洛中洛外日記」2090~2105話(2020/02/25~03/07)〝三十年ぶりの鬼室神社訪問(1)~(10)〟
古賀達也「洛中洛外日記」2099~2102話(2020/03/03~06)〝「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(1)~(4)〟
古賀達也「洛中洛外日記」2106(2020/03/11)〝七世紀の筆法と九州年号の論理〟
③古賀達也「洛中洛外日記」2428話(2021/04/10)〝百済人祢軍墓誌の「日夲」について (2)〟

百済人祢軍墓誌


第2429話 2021/04/10

百済人祢軍墓誌の「日夲」について (3)

 ―対句としての「日夲」と「風谷」―

 石田泉城さんの「『祢軍墓誌』を読む」(注①)では、百済人祢軍墓誌に見える「于時日夲餘噍」を「于時日、夲餘噍」(この時日、当該の餘噍は)とする新読解を発表されました。「本」と「夲」は別字であり、墓誌の「日夲」を国名の「日本」とはできないとしたため、こうした読解に至ったものと思われます。漢文の訓みとしては可能なのかもしれませんが、この訓みを否定することになる見解を東野治之さんが発表していますので紹介します。

 百済人祢軍墓誌の当該部分は次の通りです。

「于時日本餘噍據扶桑以逋誅風谷遺氓負盤桃而阻固」

 これを東野さんは次のように訓まれ、正格漢文として対句になっているとされました。(注②)

「時に日本の餘噍、扶桑に據りて以て誅を逋(のが)れ、風谷の遺氓、盤桃を負いて阻み固む。」

 この「日本の餘噍」と「風谷の遺氓」が対句になっており、「正格の漢文体で書かれた文章は、厳格な対句表現を特徴とする。」と指摘されました。ただし東野さんは、この「日本」を国名とはされず、「日本餘噍」は百済の残党とされています(注③)。

 この東野さんの訓みは優れたものと思いますが、わたしは「日本餘噍」を前期難波宮か近江朝に落ち延びた九州王朝の残党と考えており、この点が大きく異なっています。言わば、一元史観と多元史観の相違です。なお、「于時日本餘噍」を「于時日、本餘噍」と区切る訓みは、ブログ「古代史の散歩道など」(注④)の主宰者が既に発表されていますので、ご参考までに当該部分を転載します。

【以下、部分転載】
私の本棚 東野治之 百済人祢軍墓誌の「日本」 2018/07/01
掲載誌『図書』2012年2月号(岩波書店)
(前略)
東野氏は、「于時」を先触れと見て、「日本余噍、拠扶桑以逋誅」とこれに続く「風谷遣甿、負盤桃而阻固」を四字句+六字句構成の対句と捉え、まことに、妥当な構文解析と思う。
ここに、当ブログ筆者は、「于時日本余噍、拠扶桑以逋誅」と六字句+六字句と読めるではないか、そして、それぞれの六字句は、三字句+三字句で揃っているのではないか、と、あえて異説を唱え、見解が異なる。
つまり、当碑文は、「于時日 本余噍 拠扶桑 以逋誅」と読み、国号にしろ、詩的字句にしろ「日本」とは書いてないとするのが、当異説の壺であり、無謀かも知れないが旗揚げしているのである。
ちなみに、「本余噍」とは、「本藩」、すなわち「百済」余噍、つまり、「百済」残党である。
従って、当碑文は「日本」国号の初出資料ではないと見るのである。これは、東野氏の説くところに整合していると思う。(後略)
【転載おわり】

 百済人祢軍墓誌については『古代に真実を求めて』16集(2013年、明石書店)で特集しており、ご参照いただければと思います。次の論稿が掲載されています。

阿部周一 「百済祢軍墓誌」について ―「劉徳高」らの来倭との関連において―
「百済禰軍墓誌」について — 「劉徳高」らの来倭との関連において 阿部周一(古田史学会報111号)

古賀達也 百済人祢軍墓誌の考察
百済人祢軍墓誌の考察 古賀達也(古田史学会報108号)

水野孝夫 百済人祢軍墓誌についての解説ないし体験
資料大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序

(注)
①石田泉城「『祢軍墓誌』を読む」『東海の古代』№248、2021年4月
②東野治之「百済人祢軍墓誌の『日本』」岩波書店『図書』756号、2012年2月。
③東野治之「日本国号の研究動向と課題」『史料学探訪』岩波書店、2015年。初出は『東方学』125輯、2013年。
④https://toyourday.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-337c.html

百済人祢軍墓誌


第2428話 2021/04/10

百済人祢軍墓誌の「日夲」について (2)

 ―古田先生との冨本銭研究の想い出―

 「古田史学の会・東海」の会報『東海の古代』№248に掲載された石田泉城さん(名古屋市)の「『祢軍墓誌』を読む」の最大の論点と根拠は墓誌に記された「日夲」の文字で、「本」と「夲」は本来別字で、この部分は国名としての「日本(夲)」ではないとするものです。そして、次のように述べられています。

 「文字の精査は、「壹」と「臺」を明確に区別した先師古田武彦の教えの真髄です。」『東海の古代』№248

 わたしもこのことについて、全く同感です。古田ファンや古田学派の研究者であれば御異議はないことと思います。それではなぜ同墓誌の「日夲」を別字の「日本」のことと見なしたのかについて説明します。

 実はこの「本」と「夲」を別字・別義とするのか、別字だが同義として通用したものと見なすのかについて、「古田史学の会」内で検討した経緯がありました。それは飛鳥池遺跡から出土した冨本銭がわが国最古の貨幣とされたときのことです。当時、「古田史学の会」代表だった水野孝夫さん(古田史学の会・顧問)から、「フホン銭と呼ばれているが、銭文は『冨夲』(フトウ)であり、それをフホンと読んでもよいものか」という疑義が呈されました(注①)。

 その問題提起を受け、わたしも検討したのですが、通説通り「フホン」と読んで問題ないとの結論に至りました。古田先生も同見解だったと記憶しています。当時、古田先生とは信州で出土した冨本銭(注②)を一緒に見に行ったこともありましたが、先生も一貫して「フホン銭」と呼ばれていました。その後、わたしからの発議と古田先生のご協力により、「プロジェクト 貨幣研究」が立ち上がりしました。その成果の一端は『古田史学会報』や『古代に真実を求めて』などに収録されました(注③)。

 古田先生やわたしが「冨夲」を「フホン」と呼んでもよいと判断した理由は、国内の古代史料には「夲」の字を「本」の別字として使用する例が普通にあったからです。たとえば古田先生が京都御所で実物を調査された『法華義疏』(御物、法隆寺旧蔵)の巻頭部分に記された次の文です。

 「此是 大委国上宮王私
集非海彼夲」

 この文は「此れは是れ、大委国上宮王の私集にして、海の彼(かなた)の夲(ほん)に非ず」と訓まれており、「夲」は「本」の同義(異体字)と認識されています。「大委国上宮王」とあることから、多利思北孤の自筆の可能性もあり、いわば九州王朝内での使用例です。

 更にこの十年に及ぶ木簡研究においても、7~8世紀の木簡に「夲」の字は散見されるのですが、むしろ「本」の字を目にした記憶がわたしにはありません。ですから当時の木簡においては、「夲」が「本」の代わりに通用していたと考えてもよいほどでの史料状況なのです。たとえば明確に「本」の異体字として「夲」を用いた8世紀初頭の木簡に次の例があります。

 「本位進第壱 今追従八位下 山部宿祢乎夜部/冠」(藤原宮跡出土)

 これは山部乎夜部(やまべのおやべ)の昇進記事で、旧位階(本位)「進第壱」から大宝律令による新位階「従八位下」に昇進したことが記されています。この「本位」の「本」の字体が「夲」なのです。

 以上のような史料事実を知っていましたので、冨本銭の「夲」の字も「本」の別字(異体字)と、むしろ見なすべきと考えられるのです。

 『日本書紀』や中国史書における「日本」については、原本も同時代刊本も現存しないため、7~8世紀頃の字体は不明とせざるを得ませんが、後代版本では「日夲」の表記が散見され、その当時には「本」の異体字として「夲」が普通に使用されていたようです。具体的には『通典』(801年成立)の北宋版本(11世紀頃)には「倭一名日夲」とありますし、いつの時代の版本かは未調査ですが、岩波文庫『旧唐書倭国日本伝』に収録されている『新唐書』日本国伝の影印(163頁)にも「日夲国」の使用例が見えます。

 他方、中国の金石文によれば、百済人祢軍墓誌(678年没)よりも60年ほど後れますが、井真成墓誌(734年没)には明確に国号としての日本が見え(注④)、この字体も「日夲」です。

 「贈尚衣奉御井公墓誌文并序
公姓井字眞成國號日本」(後略)

 従って、百済人祢軍墓誌の「日夲」も「日本」のことと理解して問題ありません。むしろ、その当時の国名表記の用字としては、「日夲」が使用されていた可能性の方が高いとするのが、日中両国の史料事実に基づく妥当な理解ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①水野孝夫「『富本銭』の公開展示見学」『古田史学会報』31号、1999年4月。当稿においても、〝「本」字の問題(「本」の字は「木プラス横棒」ではなくて、「大プラス十」と刻字されている。ここにも意味があるかも知れない)。〟と述べている。
②長野県の高森町歴史民俗資料館に展示されている富本銭を見学した。同富本銭は高森町の武陵地1号古墳から明治時代に出土したもの。同資料館を訪問したとき、同館の方のご所望により、来訪者名簿に大きな字で、「富本銭良品 古田武彦」と先生は署名された。
③古田武彦「プロジェクト 貨幣研究 第一回」『古田史学会報』31号、1999年4月。
古田武彦「プロジェクト貨幣研究 第二回(第二信)」『古田史学会報』33号、1999年8月。
古田武彦「プロジェクト貨幣研究 第三回」『古田史学会報』34号、1999年10月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第一報 古代貨幣異聞」(下にあり)
『古田史学会報』31号、1999年4月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第二報 『秘庫器録』の史料批判(1)」
『古田史学会報』33号、1999年8月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第三報 『秘庫器録』の史料批判(2)」
『古田史学会報』34号、1999年10月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第四報 『秘庫器録』の史料批判(3)」
『古田史学会報』36号、2000年2月。
『古代に真実を求めて』第三集(2000年11月、明石書店)に「古代貨幣研究・報告集」として、次の論稿が掲載された。
古賀達也 プロジェクト貨幣研究 規約
古田武彦 プロジェクト貨幣研究 第一回、第二回、第三回
山崎仁礼男 古代貨幣研究方針
木村由紀雄 古代貨幣研究方針
浅野雄二 第一回報告
古賀達也 古代貨幣異聞
古賀達也 続日本紀と和銅開珎の謎
古賀達也 古代貨幣「無文銀銭」の謎
古賀達也 古代貨幣「賈行銀銭」の謎
古賀達也 『秘庫器録』の史料批判(1)(2)(3)
④井真成墓誌には次のように、「國號日夲」と記されている。
「贈尚衣奉御井公墓誌文并序
■公姓井字眞成國號日夲才稱天縱故能
■命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶
■朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終
■遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月
■日乃終于官弟春秋卅六皇上
■傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官
■卽以其年二月四日窆于萬年縣滻水
■原禮也嗚呼素車曉引丹旐行哀嗟遠
■兮頽暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰
■乃天常哀茲遠方形旣埋于異土魂庶
歸于故鄕」
※■は判読できない欠字。

百済人祢軍墓誌


第2424話 2021/04/06

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その2)

〝『「邪馬台国」はなかった』のすすめ〟

              を部分転載

 『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)の「巻頭言」草稿の後半部分にあたるのが〝『「邪馬台国」はなかった』のすすめ〟です。副題として「―古田武彦氏が用いた論理と系―」があったのですが、〝系〟という言葉の意味が分かりにくいのではとの懸念もあって、削除しました(本文中には使用しました)。この〝系〟という概念は、ある頃から古田先生が論証方法の説明に使用され始めたものです。わたしの本職の有機合成化学では一般的に使用される用語ですが、人文科学ではあまり見かけない言葉(概念)かもしれません。
 以下、〝『「邪馬台国」はなかった』のすすめ〟を部分転載します。

『「邪馬台国」はなかった』のすすめ
            古賀達也

 『「邪馬台国」はなかった』をまだ読まれていない方へ

 『「邪馬台国」はなかった』をこれから初めて読まれる方は、同書の結論だけではなく、その結論を導きだす実証的な学問の方法にきっと驚かれるはずだ。たとえば、『三国志』倭人伝に記された倭国の女王卑弥呼(ひみか)が都とした国が「邪馬臺(やまたい)国」ではなく、邪馬壹(やまい)国と倭人伝原文にはあること。そして、この「壹」は〝字形が似ている「臺」の字の誤り〟としてきた従来の「邪馬臺(台)国」説に対して、著者は『三国志』の「壹」と「臺」の全用例を調査され、両者が混同されたり、取り違えて使用された例が無いことを明らかにした。この『三国志』内の特定文字の全数調査という、それまで誰も行ってこなかった画期的かつ実証的な方法を駆使して、倭人伝研究を異次元の高みへと古田武彦氏は引き上げた。
 あるいは、『三国志』で使用されている距離単位「里」の全調査により、一里が約七六メートルであることを実証的につきとめ、倭国の都である邪馬壹国(女王国)の中心地が博多湾岸であることを算出した。ここでも、従来説が採用してきた一里約四三五メートルの漢代の「長里」ではなく、一里約七六メートルの「短里」で『三国志』が書かれていることを実証的な方法により明らかにした。後に、この短里の存在が中国最古の天文算術書『周髀算経』でも確認された。
 このように学問の方法を示しながら結論へと導く『「邪馬台国」はなかった』は、優れた推理小説を読むような、あるいは理知的な自然科学論文を読むような感動を読者に与えるであろう。わたし自身も、そうした感動をもって同書を読み終えた多くの読者の一人だ。あなたが古代に真実を求めるのであれば、「古田武彦の世界」(古田史学)への扉をぜひ開けていただきたい。その体験は、あなたのこれからの人生を変えることになるかもしれない。

 『「邪馬台国」はなかった』を既に読まれた方へ

 あなたの書架に『「邪馬台国」はなかった』が既にあれば、冒頭の「はじめに」を開いてみて欲しい。その末尾にある次の文に、同書における学問の方法(論理とその系)の出発点が示し尽くされている。

 「しかし、だれも本当に信じなかった。『三国志』魏志倭人伝の著者陳寿のことを。
 シュリーマンがホメロスを信じたように、無邪気に、そして徹底的に、陳寿のすべての言葉をまじめにとろうとした人は、この国の学者、知識人の中にひとりもいなかったのである。(中略)
 はじめから終わりまで陳寿を信じ切ったら、どうなるか。
 その明白な回答を、読者はこの本によって、わたしからうけとるであろう。」『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社版、四~五頁

 「陳寿を信じとおす」という学問の方法

 「陳寿を信じとおす」という学問の方法とは、著者が東北帝国大学法文学部で村岡典嗣(つねつぐ)氏(一八八四~一九四六)から学んだフィロロギーに他ならない。(中略)
 論理的に考えて、おおよそ以上のような情報の移動・交信という背景のうえに倭人伝は書かれている。従って、「陳寿を信じとおす」とは、こうした論理展開(いわゆる「系」)を前提として成立した陳寿の認識(倭人伝原文)を再認識するということであり、それは倭人伝読解において、「すなおに理性的に原文を理解」することに他ならない。

 論理の導く所へ行こうではないか

 「はじめから終わりまで陳寿を信じ切った」結果得られた邪馬壹国説、短里説、博多湾岸説、二倍年暦説、倭人の太平洋横断説などが、従来の大和中心史観(「邪馬台国」畿内説)と異なっていようが一致していようが、おそらく著者にとってはどうでもよいことであったはずだ。なぜなら、わたしには古田氏に私淑した三十年のなかで、幾度となく聞かされてきた次の言葉があったからだ。
 いわく、「論理の導く所へ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」。いわく、「学問は実証よりも論証を重んずる」。いわく、「論証は学問の命」。
 これらの言葉は古田氏の生涯を貫いた学問研究の道標だ。『「邪馬台国」はなかった』においても、巻末の「あとがき」冒頭に次の文が記されている。(中略)
 この「ここをつらぬく論証の連鎖は、わたしの生の証(あかし)である」という言葉に、先の「論証は学問の命」と通底する著者の気迫と学問精神がうかがえるのではあるまいか。であれば、「陳寿を信じとおす」という学問の方法の行き着く先がどこであっても、著者が怯(ひる)むことはありえない。著者を師と仰ぎ、本書を上梓したわたしたちもまた、同様である。(後略)


第2423話 2021/04/05

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その1)

「巻頭言 読者の運命が変わる瞬間(とき)」を転載

 先月末に刊行した『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)の読みどころをシリーズで紹介します。まずはわたしが書いた「巻頭言 読者の運命が変わる瞬間(とき)」を転載します。本書の構成や位置づけを説明した短文です。
 元々は後半部分の〝『「邪馬台国」はなかった』のすすめ〟と一体をなすものでしたが、編集部からのご意見により分割しました。特に茂山憲史さんからは、「もっと情熱的な文章に」と叱咤していただいたことが思い出されます。

〔巻頭言〕読者の運命が変わる瞬間(とき)
     古田史学の会 代表 古賀達也

 読む人の運命を劇的に変える本があります。もし、あなたが日本古代史に関心があるならば、次の本を心からお薦めします。古田武彦著『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』(朝日新聞社、一九七一年。ミネルヴァ書房より復刻)です。
 昭和四六年(一九七一)に発行され、ベストセラーとなった著者の古代史処女作である同書の発刊五十周年を記念して、わたしたちは本書『卑弥呼と邪馬壹国 ―古田武彦『「邪馬台国」はなかった』発刊五十周年―』(『古代に真実を求めて』二四集)を上梓しました。収録した特集論文は、いずれも「古田史学の会」の研究者による最新の研究成果から精選されたもので、先に出版した『邪馬壹国の歴史学』(ミネルヴァ書房、二〇一六年)の続編の性格も持っています。この機会に併せ読んでいただければ幸いです。
 本書の特集は総論・各論・コラムからなり、総論では『「邪馬台国」はなかった』発刊以来の歴史、著者の学説と学問の方法、提起された諸仮説の発展の高みを概観できます。各論では、その高みから諸仮説の深層をのぞき見ることができます。そして、コラムにより諸仮説の広がりを感じ取ることができるよう、工夫がこらされています。
 古田武彦氏は二〇一五年十月に鬼籍に入られましたが(享年八九歳)、その学問と学説は本書執筆陣に脈々と受け継がれています。本書を読まれたあなたにも、真実を愛する精神と情熱を共有できることでしょう。そのとき、あなたの運命は大きく変わるはずです。わたしたちがそうであったように。
  〔令和二年(二〇二〇)十二月一日、筆了〕


第2422話 2021/04/02

傷だらけの法隆寺釈迦三尊像(3)

 法隆寺釈迦三尊像の光背などが大きく傷んでいることを説明しましたが、この事実は法隆寺が私寺か国家的官寺かの論争にも関係しそうです。「洛中洛外日記」2265~2299話(2020/10/18~2020/11/19)〝新・法隆寺論争(1~8)〟で紹介しましたが、若井敏明さんは法隆寺は斑鳩の在地氏族による私寺とする説を発表しました(注①)。その概要と根拠は次のような点です。

〔概要〕
 法隆寺は奈良時代初期までは、国家(近畿天皇家)からなんら特別視されることのない地方の一寺院であり、その再建も斑鳩の地方氏族を主体として行われたと思われ、天平年間に至って「聖徳太子」信仰に関連する寺院として、特別待遇を受けるようになった。その「聖徳太子」信仰の担い手は宮廷の女性(光明皇后・阿部内親王・無漏王・他)であって、その背景には法華経信仰がみとめられる。

〔根拠〕
(1)『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、大化三年九月二一日に施入され、天武八年に停止されているが、いずれも当時の一般寺院に対する食封の施入とかわらない。これを見る限り、法隆寺は国家(近畿天皇家)から特別な待遇をうけてはいない。
(2)食封停止は、法隆寺の再建が国家(同上)の手で行われてなかった可能性が強いことを示している。
(3)『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、奈良時代初期までの法隆寺に対する国家(近畿天皇家)の施入には、持統七年、同八年、養老三年、同六年、天平元年が知られるが、これらは特別に法隆寺を対象としたものではなく、『日本書紀』『続日本紀』に記されている広く行われた国家的儀礼の一環に過ぎない。
(4)『日本書紀』が法隆寺から史料を採用していないことも、同書が編纂された天武朝から奈良時代初期にかけて法隆寺が国家(同上)から特別視されていなかった傍証となる。特に、「聖徳太子」の亡くなった年次について、法隆寺釈迦三尊像光背銘にみえる(推古三十年・622年)二月二二日が採られていないことは、「聖徳太子」との関係においても法隆寺は重要な位置を占めるものという認識がなされていなかったことを示唆する。

 以上のように若井さんは論じられ、法隆寺再建などを行った在地氏族として、山部氏や大原氏を挙げます。この若井説に対して、田中嗣人さんから厳しい批判がなされました。
 田中さんは、「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ(一例をあげれば、金銅潅頂幡や伝橘夫人念持仏の光背などは当時の技術の最高水準のもので、埋蔵文化財など当時のものとの比較からでも充分に理解される)から言って、とうてい山部氏や大原氏などの在地豪族のみで法隆寺の再興がなされたものとは思わない。」(注②)とされました。
 本シリーズで説明したように、釈迦三尊像の光背の飛天は失われ、その上部は折れ曲がっています。もし法隆寺が国家的な官寺であれば飛天の修復くらいはできたはずです。それがなされず、脇侍の左右入れ替えで済まされているという現状は、若井さんの私寺説に有利です。
 他方、田中さんが官寺説の根拠とした「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ」という事実は、九州王朝による官寺とその国家的文物が大和朝廷以前に存在し、それらが移築後(王朝交替後の八世紀初頭)の法隆寺に持ち込まれたとする多元史観・九州王朝説を支持するものに他なりません。今、斑鳩にある法隆寺と釈迦三尊像こそ、九州王朝の実在を証言する歴史遺産なのです。

(注)
①若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』288号、1994年。
②田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』21冊、塙書房、1997年。


第2421話 2021/04/01

傷だらけの法隆寺釈迦三尊像(2)

 法隆寺金堂の釈迦三尊像が傷んでいることを古田先生からうかがっていましたが、脇侍が左右反対に置かれていることも不思議でした。更に光背も大きく傷んでおり、本来その外縁にあった飛天(注①)が失われていたことを最近になって知りました。
 ブログ「観仏日々帖」(注②)によれば、同光背周縁に長方形(幅約8mm、縦約25mm)の枘(ほぞ)穴が左右に各々13個ずつ穿たれており、本来は飛天が装飾されていたと考えられています(注③)。その根拠として、国立東京博物館の「法隆寺献納宝物の甲寅銘光背」をみると、周縁左右に各7個の飛天が取り付けられており、中国、竜門石窟の北魏式仏像の光背も、周縁を飛天で囲まれたものが一般的であることを指摘されています。そして、光背の飛天復原が東京芸術大学で行われたことを紹介され、その写真も掲示されています。

《以下、「観仏日々帖」より転載》
【復元制作された光背周縁の飛天~東京藝術大学の「クローン文化財」制作プロジェクト】
 2017年。周縁の飛天を再現した、大光背の復元制作が行われました。東京藝術大学が取り組んでいる文化財の超精密複製、通称「クローン文化財」制作プロジェクトによって、法隆寺釈迦三尊像のクローン文化財が制作されたのです。その制作にあたって、大光背周縁の飛天も、甲寅銘光背などを参考にして、復元制作されたのでした。
 このクローン文化財・釈迦三尊像復元像は、2017年秋に東京藝術大学美術館で開催された、シルクロード特別企画展「素心伝心~クローン文化財 失われた刻の再生」(各地を巡回)などで展示されましたので、ご記憶のある方も多いのではないかと思います。
《転載おわり》

 この飛天が復原され、脇侍が本来の位置に戻された〝クローン釈迦三尊像〟の写真を見て、脇侍が左右逆に配置された理由がようやくわかりました。それは光背と三尊像の左右幅バランスの問題だったのです。すなわち、飛天が復原された光背は一回りも二回りも大きくなり、その大きな本来の光背であれば、脇侍裳裾の長い方が外側になる本来の配置により、左右の幅が大きな光背にバランス良く収まります。ところが、飛天が失われた現状の光背では、脇侍の裳裾が左右に大きくはみ出し、見るからにバランスが良くないのです。そこで、短い裳裾が外側になるよう、左右逆に脇侍を配置すれば、飛天がない現状の光背の幅に脇侍の裳裾が収まるのです。
 従来、脇侍が左右逆に置かれた理由を、九州王朝の仏像を奪い、法隆寺金堂に納めた大和朝廷側の人々が、本来の正しい脇侍の配置を知らなかったためと、わたしは理解してきました。しかし、それは誤解でした。移築された法隆寺金堂に、飛天を失った光背と釈迦三尊像を置いたとき、その美的なバランスの悪さを取り繕うために、脇侍を左右逆に配するというアイデアを採用したのではないでしょうか。これは、移築・移転に携わった技術者たちの優れた美的センスのなせる技だったのです。
 なお、この飛天が失われた光背や、二体の脇侍の金箔剥落の大きな差異は、これら仏像の保管状態がかなり劣悪だったことを推測させます。光背に至っては、上部が手前に折れ曲がっており、大きな力が加わったことを示しています。この状況は同釈迦三尊像の元々置かれていた場所が、遠く離れた九州王朝の都太宰府付近だったのか、あるいは比較的近距離にある難波複都だったのかという未解決のテーマに対し、何らかのヒントになるかもしれません。よく考えてみたいと思います。

(注)
①仏教で諸仏の周囲を飛行遊泳し、礼賛する天人で、仏像の周囲(側壁や天蓋)に描写されることが多い。〈ウィキペディアによる〉
②https://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-204.html
③平子鐸嶺「法隆寺金堂本尊釈迦佛三尊光背の周囲にはもと飛天ありしというの説」『考古界』6-9号、1907年(後に『仏教芸術の研究』所収)。


第2420話 2021/03/24

傷だらけの法隆寺釈迦三尊像(1)

 過日、水野孝夫さん(古田史学の会・顧問、前代表)のお宅にうかがい、多くの書籍をいただきました。その中に『国宝法隆寺金堂展』(朝日新聞社、平成20年)がありました。同書は平成20年6~7月に奈良国立博物館で開催された「国宝法隆寺金堂展」の図録で、多くのカラー写真を含む豪華本です。
 法隆寺金堂内の仏像などを対象とした図録ですから、釈迦三尊像や薬師如来像などのカラー写真があり、その状態が比較的よくわかります。ある意味では、法隆寺の暗い金堂内で離れた位置から見るよりも、仏像の細部がよくわかります。そこで思い起こしたのが、あるとき少人数での会話で、古田先生がこの釈迦三尊像について、「写真で見るときれいですが、実物は結構傷んでいます」と仰っていたことです。
 図録の写真には、釈迦像のお顔を左右両面から撮影したものもあり、表面の金箔が剥がれ落ちている状況などがはっきりとわかります。更に、二体の脇侍(注①)ですが、向かって左側のものは表面の金箔が全体に残っていますが、右側の方はほとんど残っていないように見えます。これも不思議な現象です。同時期に造られたのであれば、同じような経年劣化をするはずですが、表面の金箔に関しては全く異質です。また、この脇侍は左右が逆に配置されていることも知られており、これもおかしなことです。
 古田学派では法隆寺の金堂・五重塔などは、六世紀末頃に建立された別寺院が移築されたものと考えられており、釈迦三尊像は九州王朝の天子、阿毎多利思北孤のために造られたもので、これも移築時に持ち込まれたとされています。移築元寺院がどこにあったのかについては、当初、太宰府観世音寺が八世紀初頭に移築されたとする説(注②)が発表されましたが、それについて賛否両論が出され(注③)、移築元寺院がどこにあったのかは未だ特定できていません。
 脇侍が左右逆に配置されていることも、九州王朝の寺院から移築時に持ち込まれたとき、本来の配置を知らなかったた大和朝廷側が誤ったものと考えられてきました。しかし、脇侍の衣の裾は左右で長さが異なっており、長く伸びている方が釈迦像の左右の外側になるのが本来の配置であり、現状は長く伸びた裾が両脇侍とも釈迦像の台座に隠れてしまっています。
 寺院を移築できるほどの技術者集団の誰一人として、これだけ明瞭な差異を持つ脇侍の配置を間違うとは考えにくいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①釈迦の脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩とされている。
②米田良三『法隆寺は移築された ─太宰府から斑鳩へ』1991年、新泉社刊。
③大越邦生「法隆寺は観世音寺からの移築か(その一)(その二)」『多元』43・44号、2001年6月・8月。
 川端俊一郎「法隆寺のものさし─南朝尺の「材と分」による造営そして移築」『北海道学園大学論集』第108号、2001年6月。
 飯田満麿「法隆寺移築論争の考察─古代建築技術からの視点─」『古田史学会報』46号、2001年10月。
 古賀達也「法隆寺移築論の史料批判 ─観世音寺移築説の限界─」『古田史学会報』49号、2002年4月。
 古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年6月。


第2418話 2021/03/22

七世紀「天皇」「飛鳥」金石文の紹介

 一昨日の関西例会で、わたしは〝七世紀「天皇」金石文と『日本書紀』の対応〟というテーマを発表させていただきました。そのレジュメに、飛鳥・藤原木簡データとともに下記の七世紀「天皇」「飛鳥」金石文を紹介しました。これらの史料事実・状況に基づいて実証的な説明と論議を行うことが目的でした。そうしたわたしの意図を参加者の皆さんにもご理解いただき、とても有意義な学問論争と質疑応答ができました。例会に参加された皆さんに感謝いたします。

 質疑応答では、わたしの理解不足や誤解などにより、間違った返答もしてしまったようですので、改めて検討しようと思います。みなさんの研究のお役に立てば幸いです。

1. 596年 元興寺塔露盤銘「天皇」(奈良市、『元興寺縁起』所載。今なし)

2. 607年 法隆寺薬師仏光背銘(奈良県斑鳩町)
池邊大宮治天下天皇 大御身 勞賜時 歳
次丙午年。召於大王天皇與太子而誓願賜我大
御病太平欲坐故 将造寺薬師像作仕奉詔 然
當時。崩賜造不堪 小治田大宮治天下大王天
皇及東宮聖王 大命受賜而歳次丁卯年仕奉

《通説での要約》用明天皇が病気の時(用明天皇元年、586年)、平癒を念じて寺(法隆寺)と薬師像を作ることを誓われたが、果たされずに崩じた。のち推古天皇と聖徳太子が遺詔を奉じ、推古天皇15年(607年)に建立した。

3. 666年 野中寺弥勒菩薩像台座銘(大阪府羽曳野市)
丙寅 年四 月大 朔八 日癸 卯開 記柏 寺智 識之 等詣 中宮 天皇 大御 身労 坐之 時誓 願之 奉弥 勒御 像也 友等 人数 一百 十八 是依 六道 四生 人等 此教 可相 之也

4. 668年 船王後墓誌(大阪府柏原市出土、三井高遂氏蔵)
(表) 惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児 那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第
(裏) 三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也

5. 677年 小野毛人墓誌(京都市出土)
(表) 飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
(裏) 小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬

6. 689年 釆女氏榮域碑(大阪府南河内郡太子町出土。拓本が現存、実物は明治頃に紛失)
飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
己丑年十二月廿五日

7. 686または698年 長谷寺千仏多宝塔銅板(奈良県桜井市長谷寺)
惟夫霊應□□□□□□□□
立稱巳乖□□□□□□□□
真身然大聖□□□□□□□
不啚形表刹福□□□□□□
日夕畢功 慈氏□□□□□□
佛説若人起窣堵波其量下如
阿摩洛菓 以佛駄都如芥子
安置其中 樹以表刹量如大針
上安相輪如小棗葉或造佛像
下如穬麦 此福無量 粤以 奉為
天皇陛下 敬造千佛多寳佛塔
上厝舎利 仲擬全身 下儀並坐
諸佛方位 菩薩圍繞 聲聞獨覺
翼聖 金剛師子振威 伏惟 聖帝
超金輪同逸多 真俗雙流 化度
无央 廌冀永保聖蹟 欲令不朽
天地等固 法界无窮 莫若崇據
霊峯 星漢洞照 恒秘瑞巗 金石
相堅 敬銘其辞曰
遙哉上覺 至矣大仙 理歸絶
事通感縁 釋天真像 降茲豊山
鷲峯寳塔 涌此心泉 負錫来遊
調琴練行 披林晏坐 寧枕熟定
乗斯勝善 同歸實相 壹投賢劫
倶値千聖 歳次降婁漆菟上旬
道明率引捌拾許人 奉為飛鳥
清御原大宮治天下天皇敬造

《大意》文頭の欠損部分は、造仏造塔の発願の次第とその完成について述べたものと推測される。そのあと、「どんな小さな造仏造塔でも、その功徳は絶大である」「このような仏教思想を背景に、千仏多宝仏塔は天皇陛下のために造立した」と述べる。続いて、銅板に描かれた多宝塔などの彫刻内容を解説している。次に、「天皇の徳は弥勒菩薩に等しく、衆生を悟りに導く。その天皇の功績を不朽ならしめんとするために、また、仏教が絶えることのないようにするために堅牢な金石にその銘を刻み、この霊峯をよりどころとして未来まで秘蔵する」とある。
続いて本文となり、「本銅板の造立が天皇の徳に感じ、帝釈天と霊鷲山の多宝塔がここ豊山に出現した。よって、豊山に来遊して修行し、その功徳に乗じて実相に帰し、ともに現世において諸仏を拝そう」「戌年7月上旬に、僧・道明が80人ほどを率いて、飛鳥浄御原宮に天下を治めている天皇のために造立した」とある。

8. 694年 法隆寺観音像造像記銅板(奈良県斑鳩町)
(表) 甲午年三月十八日鵤大寺德聡法師片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師三僧所生父母報恩敬奉觀世音菩薩
像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覺
(裏) 族大原博士百済在王此土王姓

9. 700年 那須国造碑(栃木県大田原市)
永昌元年己丑四月飛鳥浄御原宮那須国造
追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月
二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓
仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貳
照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以
曾子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之
子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香
助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固

《通説による訓みくだし》永昌元年己丑(689)四月、飛鳥浄御原大宮に、那須国造で追大壹の那須直韋提は、評督を賜はれり。歳は庚子に次る年(700)の正月二壬子の日辰節に殄れり。故に意斯麻呂ら、碑銘を立て、偲びて尓か云ふ。仰ぎ惟るに殞公は、廣氏の尊胤にして、国家の棟梁なり。一世之中に重ねて貳照せられ一命之期に連ねて再甦せらる。砕骨挑髄するも、豈に前恩に報いん。是を以て曾子の家に嬌子有ること无く、仲尼の門に罵者有ること无し。行孝の子は其の語を改めず、銘夏尭心、澄神照乾。六月童子、意香助坤。作徒之大、合言喩字。故に、翼無くして長飛し、根无くして更に固まんと。

《古田説による訓みくだし》永昌元年己丑(689)四月、飛鳥浄御原大宮に那須国造追大壹を那須直韋提評督は賜はれり。(以下、同じ)


第2416話 2021/03/21

九州王朝官道「西海道」の終着地

 昨日の関西例会では多くの学問的収穫や気づきがありました。たとえば、九州王朝官道「西海道」の終着地(目的地)について、これまでの研究では「百済国」と考えるのが最も妥当と判断していましたが、その根拠は地理的判断とこうやの宮(福岡県みやま市)の御神像が七支刀を持っていることなどでした(注①)。
 ところが、昨日の服部静尚さんの発表レジュメ「乱れる斉明紀、普通の皇極紀」に斉明紀の概要が列挙されており、その斉明三年是歳条(657年)に「西海使が百済より還り駱駝などを献上した。」との記事がありました。『日本書紀』本文を確認すると次の通りです。

 「西海使小花下阿曇連頰垂・小山下津臣傴僂(くつま)、〔傴僂、此をば倶豆磨と云ふ。〕百済より還りて、駱駝一箇・僂驢(うさぎうま)二箇獻(たてまつ)る。」『日本書紀』斉明三年是歳条

 西海使が百済から帰還したということですから、西海使の目的地は百済国と解さざるを得ません。これは九州王朝時代の記事ですから、九州王朝官道「西海道」の終着地が百済国ということを示しています。ですから、この記事はわたしの仮説(注②)の史料根拠とできそうです。
 なお、『日本書紀』の「西海使」記事は次の通りで、前期難波宮完成後から散見され、「西海使」が唐の天子に「奉対」したという記事もあり、「西海道」終着点の延長線上に「唐国」を加えてよいかもしれません。もちろん、中国大陸上陸後は他国の中の陸路ですから、その部分は「西海道」とは言えません。

【『日本書紀』「西海使」記事】※〔 〕内は細注。
○白雉五年(654年)七月条 「西海使吉士長丹等、百済・新羅の送使と共に、筑紫に泊れり。」
○白雉五年(654年)七月是月条 「西海使等が、唐国の天子に奉對(まうむか)ひて、多(さわ)に文書・寶物得たるを褒美(ほ)めて、小山上大使吉士長丹に授くるに、小花下を以てす。封賜ふこと二百戸。姓を賜ひて呉氏とす。小乙上副使騎士駒に授くるに、小山上を以てす。」
○斉明二年(656年)是歳条 「西海使佐伯連栲繩、〔位階級を闕(もら)せり。〕小山下難波吉士國勝等、百済より還りて、鸚鵡一隻獻(たてまつ)れり。」
○斉明三年(659年)是歳条 「西海使小花下阿曇連頰垂・小山下津臣傴僂(くつま)、〔傴僂、此をば倶豆磨と云ふ。〕百済より還りて、駱駝一箇・僂驢(うさぎうま)二箇獻(たてまつ)る。」
○斉明四年(658年)是歳条 「西海使小花下阿曇連頰垂、百済より還りて言(まう)さく。『百済、新羅を伐ちて還る、時に、馬自づからに寺の金堂に行道(めぐ)る。晝夜息(や)むこと勿(な)し。唯(ただ)し草食(は)む時にのみ止(や)む。』とまうす。〔或本に云はく、庚申の年(660年)に至りて、敵の爲に滅ぼさるる應(きざし)なりといふ。〕」

(注)
①詳細は次の拙稿を参照されたい。
 古賀達也「九州王朝官道の終着点―山道と海道の論理―」『古代に真実を求めて』24集(古田史学の会編、明石書店、2021年)
 「洛中洛外日記」~2014話(2019/10/06-13)〝九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(1)~(9)〟
②上記拙論では、九州王朝官道の終着点を次のように結論づけた。
【九州王朝(倭国)の七道】(案)
○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「百済国」(朝鮮半島の西南領域)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)
○「大海道」(仮称)→「裸国」「黒歯国」(ペルー、エクアドル)


第2415話 2021/03/20

関西例会、リモート司会が定着

 本日、福島区民センターにて「古田史学の会」関西例会が開催されました。次回はドーンセンター(参加費1,000円)で開催します。
 今回もZoomシステムによるハイブリット型(会場参加+リモート参加)例会のテストを実施しました。会場ごとにWi-Fi環境が異なりますので、久冨直子さん(『古代に真実を求めて』編集部)が機材や設定の調整をされています。システム的にはほぼ完成の域に近づいてきました。
 司会担当の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)は今回もリモートで司会をされました。当人はいないのに会場には西村さんの声が響き渡るという不思議な光景ではありました。今月は冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)と別役政光さん(古田史学の会・会員、高知市)がリモートテスト参加されました。今後、更に遠隔地の会員にご協力いただく予定です。
 今回は久しぶりにわたしも発表させていただきました。近畿天皇家はいつから「天皇」を名乗ったのかというテーマで、七世紀初頭からナンバーツーとして「天皇」を称していたとする古田旧説と、文武から始めて「天皇」を称したとする古田新説に関して、古田旧説が妥当とする根拠として、金石文や木簡について説明しました。
 古田新説を支持される服部さんとの論争を中心に、30分の発表の後、40分ほどの質疑応答が続きました。合意には至りませんでしたが、服部さんの見解やその前提となる歴史認識については理解が進みました。また、七世紀の第4四半期頃(「天武」期)からは大和飛鳥がある時期まで政治的中心地であり、権力者がいたとすることについてはほぼ合意できたように思われました。その〝権力主体〟が誰(何)であったのかについては見解が分かれましたので、次の機会まで更に研究を深めたいと思います。
 正木さんからは、七世紀における九州王朝の歴代天子の系列(多利思北孤→利歌彌多弗利→伊勢王=中皇命)についての解説がなされました。よく整理された発表であり、「九州王朝通史」刊行に向けての準備とも言える内容でした。その中で紹介された、利歌彌多弗利から善光寺如来への書簡と考えられてきた「命長七年文書」について、利歌彌多弗利の妻(勝鬘)から善光寺如来への「願文」ではないかというアイデアが浮かび、ご披露しましたが、帰宅後、念のため確認したところ、このアイデアには阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)による先行説がありましたので取り下げます。失礼いたしました。
 なお、発表者はレジュメを30部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔3月度関西例会の内容〕
①刷り込まれる歴史観 ―一元論と一国文化自生論の要因― (大山崎町・大原重雄)
②『蘇我王国論』批判(2) (茨木市・満田正賢)
③「捕鳥部萬」は「穴穂部皇子」である (たつの市・日野智貴)
④関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』の紹介 (川西市・正木 裕)
⑤七世紀「天皇」金石文と『日本書紀』の対応 (京都市・古賀達也)
⑥何故「俀国」なのか (京都市・岡下英男)
⑦乱れる斉明紀、普通の皇極紀 (八尾市・服部静尚)
⑧九州王朝の天子の系列 多利思北孤・利歌彌多弗利から、唐と礼を争った王子・伊勢王へ (川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費1,000円(「三密」回避に大部屋使用の場合)
04/17(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター

《関西各講演会・研究会のご案内》
◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 「古代大和史研究会」特別講演会のご案内
◇日時 2021/04/24(土) 13:00~17:00
◇会場 奈良新聞本社西館3階
◇参加費 500円
◇テーマ 卑弥呼と邪馬壹国『「邪馬台国」はなかった』出版50周年記念講演会
◇講師・演題(予定)
 古賀達也(古田史学の会・代表) 九州王朝官道の終着点 ―筑紫の都(7世紀)から奈良の都(8世紀)へ―
 大原重雄(『古代に真実を求めて』編集部) メガーズ説と縄文土器
 満田正賢(古田史学の会・会員) 欽明紀の真実
 服部静尚(『古代に真実を求めて』編集長) 日本書紀の述作者は中国人ではなかった
 正木 裕(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師) 多賀城碑の解釈~蝦夷は間宮海峡を知っていた

 04/27(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館 交流ホールBC室
 「伊勢王」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)

◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター 参加費500円
 05/21(金) 18:30~20:00 「『神武』は鳴門海峡を渡った ―『神武東征説話』の再検討」 講師:正木 裕さん

◆「市民古代史の会・東大阪」講演会 会場:東大阪市 布施駅前市民プラザ(5F多目的ホール) 資料代500円
 04/10(土) 14:00~16:30 「九州王朝とは ―邪馬台国論争が生じた理由」 講師:服部静尚さん
 05/08(土) 14:00~16:30 「天孫降臨と神武東征 ―邪馬台国論争が生じた理由」 講師:服部静尚さん

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター(中集会室)
 04/13(火) 14:00~16:00 「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」 講師:正木 裕さん

◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都 参加費500円
 04/20(火) 18:30~20:00 「聖徳太子と仏教」 講師:服部静尚さん


第2414話 2021/03/19

王朝と官道名称の交替(4)

 『日本書紀』天武十四年(685年)九月条の次の記事は重要な問題を秘めています。

 「戊午(十五日)に、直廣肆都努朝臣牛飼を東海使者とす。直廣肆石川朝臣蟲名を東山使者とす。直廣肆佐味朝臣少麻呂を山陽使者とす。直廣肆巨勢朝臣粟持を山陰使者とす。直廣參路眞人迹見を南海使者とす。直廣肆佐伯宿禰廣足を筑紫使者とす。各判官一人・史一人、國司・郡司及び百姓の消息を巡察(み)しめたまふ。」『日本書紀』天武十四年九月条

 使者(巡察使)が派遣された「東海」「東山」「山陽」「山陰」「南海」「筑紫」が、天武の宮殿(飛鳥宮)がある大和を起点にした名称であることは、前話で説明したとおりです。ところが「筑紫」だけは官道名ではなく、もともとあった地名であり、他とは異なっています。『続日本紀』では九州島は「西海道」と命名されているのですが、『日本書紀』には「西海道」という名称は見えません。その理由は次のようなものと思います。

(1)天武十四年(685年)は九州年号の朱雀二年にあたり、九州年号が継続していることから、九州王朝(倭国)は存在している。
(2)従って、倭国の直轄支配領域ともいえる筑紫(九州島)を「西海道」などと呼ぶことは、大義名分上から憚られた。
(3)そのため古くからある「筑紫」を採用し、巡察使を派遣した。

 また、「山陽」「山陰」という方角が付かない名称を採用したのも同様の理由からです。新たに列島の実力者となった天武ら近畿天皇家にとって、九州王朝官道の「東山道」「東海道」の前半部分が、大和よりも西に位置するため、「東」を冠した名称を使用したくなかったのです。そこで、新たに「山陽」「山陰」を制定したものと推察しています。
 「山陽道」「山陰道」は大和の西側にありますから、本来なら「西山道」「西海道」などの名称を天武らは採用したかったのかもしれません。しかし、大義名分上ではまだ列島内ナンバーワンである九州王朝(倭国)に対して憚ったのではないでしょうか。その点、「山陽道」「山陰道」であれば、「都」の位置に対する方角表記ではありませんから、双方が妥協できたものと思われます。いわば両者(新旧両王朝)にとっての〝苦肉の命名〟だったわけです。このように捉えたとき、「七道」の中に「山陽道」「山陰道」という、東西南北が付かない官道名が生まれた理由を説明できるのです。
 ちなみに、「山陽」「山陰」という名称は、『日本書紀』天武十四年条のこの記事が初見で、それぞれ一回限りの登場です。巡察使の存在もこの記事が初見です。すなわち、天武ら近畿天皇家にとっては初めての国内視察団派遣だったと思われます。なお、「西海道」は『続日本紀』の大宝元年(701年)八月条の次の記事が初見です。

 「戊申(8日)、明法博士を六道〔西海道を除く。〕に遣わし、新令を講(と)かしむ。」『続日本紀』大宝元年八月条 ※〔〕内は細注。

 この年、王朝交替が実現し、大和朝廷は最初の年号「大宝」を建元していますが、これは西海道以外の六道に『大宝律令』講義のために明法博士を派遣したという記事です。なぜ、西海道(筑紫)が対象から除かれたのかは通説では説明できませんが、多元史観・九州王朝説であれば、〝誕生したばかりの新王朝にとって、旧王朝の影響力が色濃く残っていた筑紫諸国に派遣することを憚った〟と説明することが可能です。そして、この二年後には七道全てに大和朝廷は巡察使を派遣します。

 「甲子(2日)、正六位下藤原朝臣房前を東海道に遣わす。従六位上丹治比真人三宅麻呂を東山道。従七位上高向朝臣大足を北陸道。従七位下波多真人余射を山陰道。正八位上穂積朝臣老を山陽道。従七位上小野朝臣馬養を南海道。正七位上大伴宿禰大沼田を西海道。道別に録事一人。政績を巡り省(み)て、冤枉(えんおう)を申し理(ことわ)らしむ。」『続日本紀』大宝三年(703年)正月条

 大宝三年(703年)に至り、大和朝廷は前王朝の故地(筑紫)を「西海道」と公に呼んだのではないでしょうか。すなわち、これからの「筑紫」は日本国の中心ではなく、大和朝廷の地方領域「七道」の一つとして、文武天皇は「西海道」へも巡察使を派遣したのです。