古賀達也一覧

第2363話 2021/01/30

『大学章句』の学齢

 「洛中洛外日記」2360話(2021/01/27)〝『小学』の学齢〟で、南宋の朱熹が著したとされる『小学』(注①)に見える学齢について紹介しました。それは次のようなものでした。

○「六年にして之(これ)に數と方(東西南北)との名を教ふ。」『新釈漢文大系 小学』「立教第一」18頁
○「七年にして男女席を同じくせず、食を共にせず。」同上
○「八年にして門戸を出入し、及び席に卽(つ)きて飲食するに、必ず長者に後(おく)れしむ。始めて之に譲を教ふ。」同上
○「九年にして之に日を數ふるを教ふ。」同上
○「十年にして出(い)でて外傅(がいふ)に就き、外に居宿し、書計を学ぶ。」同19頁
○「十有三年にして楽を学び詩を誦(しょう)し勺(しゃく)を舞ふ。成童にして象を舞ひ射御を学ぶ。」同上
○「二十にして冠し、始めて禮を学ぶ。」同上

 続いて、同じく朱熹が著した、『大学』の注釈書『大学章句』(注②)にも学齢についての記事が見えます。なお、前漢代に成立したとされる『大学』(注③)そのものには学齢に関する記述は見えないようです。
 『大学章句』の序文「大学章句序」に次の記事があります。

○「人生まれて八歳なれば、則ち王公より以下庶人に至るまでの子弟は、皆小学に入る。而して之に教ふるに灑掃(さいそう)・應對・進退の節、禮・樂・射・御・書・數の文を以てす。」『新釈漢文大系 大学 中庸』「大學章句序」108頁
○「其の十有五年に及べば、則ち天子の元子(太子のこと)、衆子より、以て公卿・大夫・元士の適子(長子のこと)に至るまでと、凡民の俊秀とは、皆大學に入る。而して之を教ふるに理を窮(きわ)めて心を正し、己を修め人を治むるの道を以てす。此れ又學校の教、大小の節の、分かるる所以(ゆえん)なり。」同109頁

 先の『小学』の記事とは微妙に異なりますが、「小学」での修学開始年齢を八歳としていますから、これは二倍年齢で十六歳となり、『論語』に見える二倍年齢表記での「十有五歳で学に志す」と対応しています。このように、一倍年齢による「小学」での修学開始年齢「八歳」からも、『論語』の「十有五歳で学に志す」が二倍年齢であることを示しているわけです。
 他方、朱熹は「十有五歳」を「大学」への入学年齢としており、『論語』の「十有五歳で学に志す」に対応するものと認識している可能性もうかがえます。

(注)
①宇野精一著『新釈漢文大系 小学』明治書院、昭和40年(1965)。
②赤塚忠著『新釈漢文大系 大学 中庸』明治書院、昭和42年(1967)。
③同②。


第2362話 2021/01/29

二倍年齢研究の実証と論証(7)

 ―菅原道真と讃岐国の二倍年齢―

 『延喜二年(902)阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』の超高齢者群の存在理由について、律令に規定された暦法(一倍年暦)とは別に、古い二倍年暦を淵源とする二倍年齢という年齢計算法が阿波地方の風習として存在していたとする仮説が理屈の上では成立しそうなため、そのことを実証できる史料痕跡を探し求めました。そうしたところ、九世紀末頃における二倍年齢の存在を示唆する史料がありました。阿波国のお隣の讃岐国での逸話です。
 それは、平安時代を代表する学者・詩人であり、政治家でもあった菅原道真の漢詩「路遇白頭翁」(路に白頭翁に遇ふ)です。道真は仁和二年(886年)から寛平二年(890年)までの四年間、讃岐国司の長官である讃岐守として讃岐で時を過ごしているのですが、それは延喜二年(902年)造籍の十年ほど前ですから、『延喜二年(902)阿波国戸籍』造籍とほぼ同時代です。
 『菅家文草』に収録されている「路遇白頭翁」は、讃岐の国司となった道真と道で出会った白髪の老人との問答を漢詩にしたもので、その老人は自らの年齢を「九十八歳」と述べたことから、道真は次のように問います。

 「その年で若々しい顔なのはどのような仙術ゆえか。すでに妻子もなく、また財産もない。姿形や精神について詳しく述べよ。」

 この問いによれば、都から讃岐に赴任した道真には、道で出会った老人がとても「九十八歳」には見えなかったことがうかがえます。わたしはこの「路遇白頭翁」の年齢記事と延喜二年『阿波国戸籍』の超長寿者を根拠に、九~十世紀の讃岐や阿波には二倍年暦(二倍年齢)が遺存していたとする研究「西洋と東洋の二倍年暦 補遺Ⅱ」を「古田史学の会」関西例会(2003年4月19日)で発表したことがありました。
 しかし、この頃の二倍年暦研究は初歩的な段階(高齢者史料の調査収集による実証)でしたので、偽籍の一手段として一倍年暦の『延喜二年阿波国戸籍』に二倍年齢が部分的に〝利用(併用)〟されているとする複雑な認識や論証には、とても思い至ってはいませんでした。すなわち、「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡典嗣先生の言葉を、二十年前のわたしには深く理解できていなかったのです。(つづく)


第2360話 2021/01/27

『小学』の学齢

 拙稿「古今東西の修学開始年齢」(注①)において、『論語』に見える「十有五にして学に志す」という孔子の述懐について、一倍年齢の十五歳では学を志すには遅すぎるので二倍年齢と考えた方が妥当であると、古典(『風姿華傳』『礼記』『国家』)に記された学齢と比較しながら論じました。先日、購入した『小学』(注②)にも学齢について詳述されていましたので紹介します。
 『小学』は南宋の朱熹が1187年に著したとされる儒教の教典ですが(注③)、周代史料の引用と解説が多く見られるので、12世紀の高名な儒者が周代史料、特にその年齢記事をどのように理解したのかを調べるために読んでみることにしました。また、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が朱熹の『周易本義』の次の記事を二倍年暦実在の証拠とされたこともあり(注④)、南宋の大儒朱熹の認識に関心が高まってもいました。

 「閏とは、月の餘日を積んで月を成す者なり。五歳の間、再び日を積んで再び月を成す。故に五歳の中、凡そ再閏有り、然して後に別に積分を起こす。」朱熹『周易本義』

 今回読んだ『小学』にはいくつかの学齢に関する記事があります。それは次のようなものです。当該部分を抜粋します。

○「六年にして之(これ)に數と方(東西南北)との名を教ふ。」『新釈漢文大系 小学』「立教第一」18頁
○「七年にして男女席を同じくせず、食を共にせず。」同上
○「八年にして門戸を出入し、及び席に卽(つ)きて飲食するに、必ず長者に後(おく)れしむ。始めて之に譲を教ふ。」同上
○「九年にして之に日を數ふるを教ふ。」同上
○「十年にして出(い)でて外傅(がいふ)に就き、外に居宿し、書計を学ぶ。」同19頁
○十有三年にして楽を学び詩を誦(しょう)し勺(しゃく)を舞ふ。成童にして象を舞ひ射御を学ぶ。」同上
○二十にして冠し、始めて禮を学ぶ。」同上

 ここでの学齢は時代的にも内容的にも当然一倍年暦によるものです。六歳から数と方角の名を教えるのですから、現在の小学校入学年齢とほぼ同様です。そうすると、二倍年暦という概念を知らなかったであろう朱熹は、『論語』の「十有五にして学に志す」という孔子の言葉をどのように受け止めたのでしょうか。このことについての言及は『小学』には見当たりません。

(注)
①『東京古田会ニュース』に投稿中。内容は次の「洛中洛外日記」記事を加筆編集したものである。
2269話(2020/10/23)『論語』と『風姿花伝』の学齢(1)
2270話(2020/10/24)『論語』と『風姿花伝』の学齢(2)
2271話(2020/10/24)『論語』と『礼記』の学齢
2272話(2020/10/25)プラトン『国家』の学齢
2273話(2020/10/25)古代ギリシア哲学者の超・長寿列伝
②宇野精一著『新釈漢文大系 小学』明治書院、昭和40年(1965)。
③宇野精一氏による同書解題によれば、朱熹の友人の劉清之の原稿に朱熹が手を加えて撰定したしたものとある。
④西村秀己「五歳再閏」(『古田史学会報』一五一号 二〇一九年四月)。


第2359話 2021/01/26

『朝倉風土記』の「天智天皇」伝承

 今朝も妻と二人で岡崎公園内の京都府立図書館まで歩きました。兵庫県立図書館から取り寄せていただいた『嘉穂郡誌』(注①)と『飛鳥宮跡出土木簡』(注②)を返却し、新たに国会図書館からの『朝倉風土記』(注③)取り寄せを依頼しました。『朝倉風土記』には「天智天皇」伝承が記されているようなので、その確認のために同書を閲覧することにしました。
 というのも、30年ほど前に古田ファンの方からいただいた同書コピーに「天智天皇御宸筆の額」に関する次の記事があったからです。

 「○附録挿絵第三五図
 赤岩宮・大神大明神の図
 ☆天智天皇御宸筆の額 中大兄皇子(後の天智天皇)、赤岩宮の神徳高く、牛馬に霊験あらたかなるを聞し召され、深く御尊崇あり。鳳駕この赤岩宮に幸し給ひ、自ら御宸筆を以て『赤岩宮』の三文字を誌し給ふたとの事である。その御額は今猶ほ神庫に納めてゐる。
然るに、天明戊申の歳、時の人その真額の雨朽虫食され、終には隕滅せんことを恐れて、之れを模造して宸額に代へた。そしてその額の背に秋月藩臣原古処が由来を記した。(後略)」

 朝倉にある赤岩宮に「天智天皇」の宸筆とされる『赤岩宮』の額があり、神社の倉庫に保管されているというものです。ここで「天智天皇」とされている人物は恐らく九州王朝の天子のことと推測していますが、当額が宸筆であれば貴重なものとなります。炭素同位体年代測定などで額の年代を測定すれば、同伝承の真偽を確かめることができるかもしれません。
 今回、この『朝倉風土記』の記事に注目した理由の一つが、当地の地名でした。webで「赤岩宮」を検索したところ、鎮座地は朝倉市下渕で、最寄りのバス停として「千手バス停」が紹介されていました。嘉麻市(旧嘉穂郡千手村)だけではなく、朝倉市にも千手という地名があることに驚きました。しかも、両地域に「天智天皇」伝承があるわけです。この事実は「千手氏」と「天智天皇」との関係の深さをうかがわせるものです。
 『朝倉風土記』が届きましたら、改めて調査して「洛中洛外日記」で報告します。

(注)
①『嘉穂郡誌』嘉穂郡役所編纂、大正十三年(1924)。昭和六十一年(1986)復刻版、臨川書店。
②『飛鳥宮跡出土木簡』橿原考古学研究所編、令和元年(2019)。吉川弘文館。
③古賀益城著『朝倉風土記』昭和59年(1984)、聚海書林。


第2358話 2021/01/25

『嘉穂郡誌』の「天智天皇」伝承

 兵庫県立図書館から取り寄せていただいた『嘉穂郡誌』(注①)を拝読しています。同書中の同郡各村の沿革や寺社紹介を一読して、同地方は神功皇后伝承と八幡宮が多いことを知りました。神武天皇が同郡を通ったという神武伝承も散見されます。他方、九州王朝の痕跡は表面的にはほとんど見当たらず、「白鳳三甲戌年三月」(注②)開基とする同郡頴田村の郷社多賀神社が見えるくらいでした。引用されている『嘉穂郡神社明細帳』によれば次のようです。

 「(由緒)當社は白鳳三甲戌年三月若木連と云、(ママ)人下舛村上ノ山に勧請し北斗宮とす、其後八百五十有餘年を経て、天文元壬辰年仲秋當地に遷す、天正六年社殿兵焚に罹り神體を裏田に遷す、天正八年迄三ヶ年大楠の空洞に鎮座せしむ、同九年再び社殿を建築して當地に遷す、秋月孫右衛門大蔵種眞、神器祭田等寄附す、明治五年十一月三日村社に定めらる、下益神社と稱し本郡下益村々社なりしを、同十五年九月八日該村を廢し大隈町に合併す。(嘉穂郡神社明細帳)」『嘉穂郡誌』780頁

 ここに秋月孫右衛門大蔵種眞という人名がみえますが、この「大蔵種眞」は、七世紀中頃(孝徳の時代)に百済から渡来した高貴王(阿多倍)の末裔で注目されます。同じく、桂川村々社老松神社の社殿再興を記した棟札に「大願主太宰大監大蔵朝臣種貞」の名前が見えます。この棟札には「暦應元年」(1338年)と年次も記されており、大蔵氏は十四世紀に太宰大監の官位を称していたことがわかります。
 大蔵氏の同族の千手(せんず)氏は、「天智天皇」の家臣という伝承を持っており(注③)、今回の『嘉穂郡誌』閲覧もその調査が目的でした。しかしながら、既に調べていた『筑前国続風土記』以上に詳しい伝承はあまり見当たりませんでした。

 「千手
 村中に千手寺あり。これに依て村の名とす。本尊千手観音也。此寺山間にありて閑寂なる境地也。其側に石塔有。里民は天智天皇の陵なり。天智天皇の御子に嘉麻郡を賜りし事あり。其人天皇の崩し玉ふ後に、是を立給ふといふ。然れども梵字なと猶(なお)さたかに見ゆ。さのみ久しき物には非ず。いかなる人の墓所にや。いふかし。(後略)」貝原益軒『筑前国続風土記』巻之十二 嘉麻郡(昭和60年版)

 今回の『嘉穂郡誌』調査では、千手寺の項の次の解説に興味を引かれました。

 「(前略)現在の本尊は千手氏の安置するものにて、天智帝より賜りたるものは、千手氏日向の國高鍋に持参せるものと傅ふ。(嘉穂郡寺院明細帳)」『嘉穂郡誌』932頁

 豊臣秀吉の九州征伐に敗れた秋月氏に随って千手氏は日向国高鍋に移封されますが、そのときに「天智天皇」から賜った仏像を持参したとあります。九州王朝説に立てば、九州王朝の天子筑紫君薩野馬からもらった仏像という可能性もあり、今も宮崎県の千手家に伝わるのであれば、是非、拝見させていただきたいものです。

(注)
①『嘉穂郡誌』嘉穂郡役所編纂、大正十三年(1924)。昭和六十一年(1986)復刻版、臨川書店。
②「白鳳三年甲戌」は天武元年(672年)を「白鳳元年」とした後代改変型の九州年号である。本来の九州年号の白鳳三年の干支は癸亥(663年)であり、甲戌(674年)は白鳳十四年である。本来の開基伝承がどちらであるのかは未詳とせざるを得ない。
③古賀達也「洛中洛外日記」2326話(2020/12/18)〝九州王朝の家臣「千手氏」調査〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2328話(2020/12/20)〝「千手氏」始祖は後漢の光武帝〟


第2357話 2021/01/24

市大樹著『飛鳥の木簡』

  の「天皇」「皇子」写真

 前話の〝『飛鳥宮跡出土木簡』で「皇子」検証〟で、〝同木簡を実見された市大樹さんら研究者の書籍や論文を根拠に、近畿天皇家の「皇子」木簡出土は疑えない〟と述べましたが、そのことについて詳しく説明します。

 市大樹(いち ひろき)さん(大阪大学教授)の名著『飛鳥の木簡』(注①)には巻頭のカラー写真に「天皇」「皇子」木簡が掲載されています。わたしはその写真などを見て、飛鳥遺跡(七世紀後半)からは「天皇」「皇子」木簡が出土しており、当時の近畿天皇家(天武・持統)が「天皇」を称していたと考えざるを得ず、その位置づけは九州王朝の天子の配下としての〝ナンバー2〟天皇であるとしました。これは古田旧説であり、先生が晩年に唱えられた〝近畿天皇家は八世紀の文武から天皇を称した。七世紀の木簡や金石文に見える「天皇」は全て九州王朝の天子の別称〟とする古田新説は成立困難としました(注②)。
『飛鳥の木簡』に掲載された写真の「天皇」「皇子」木簡(飛鳥池遺跡出土)釈文などが次のように紹介されています。

○「大伯皇子宮物 大伴□・・・□品併五十□」
〝冒頭の「大伯皇子(おおくのみこ)は、天武天皇と大田皇女との間に生まれた「大伯皇女」である。皇女だが「皇子」と記すのは、当時、天皇の子女は男女を問わず「ミコ」と呼ばれたことによる。(中略)
天武天皇の皇子の名前が書かれた木簡は、さらに二点ある。一点目は笠のある釘形の木製品で、軸部に「舎人皇子□」、その反対面に「百七十」とある。【口絵7】。(中略)もう一点が、両面に「穂積皇子(ほづみのみこ)」と記された木簡である。〟同書、121~122頁。

○「天皇聚□弘寅□」
〝(飛鳥池遺跡)北地区からは「天皇聚□弘寅□」と書かれた木簡も出土している。【口絵5】。現在、「天皇」と書かれた日本最古の木簡である。この「天皇」が君主号のそれなのか、道教的な文言にすぎないのか、何とも判断がつかない。もし君主号であれば、木簡の年代からみて、天武天皇を指す可能性が高い〟同書、146頁。

 『飛鳥の木簡』巻頭の口絵(カラー写真)を見ますと、「天皇」木簡は明晰に文字が見え、釈文の通りです。「大伯皇子」木簡は「大伯」の部分が不鮮明ですがなんとか読めます。恐らく赤外線写真ではもっとはっきりと読めるはずです。「舎人皇子」木簡は写真の文字が小さくて「舎人皇子□」は判断が困難です。その反対面の「百七十」はなんとか確認できます。

 そこで、奈良文化財研究所の木簡データベース掲載の「舎人皇子」木簡写真を拡大して見ると、「舎」「皇」は確認できました。反対面の「百七十」は明晰です。「穂積皇子」は「穂積」は確認できますが、「皇子」はそう言われればそう読めるというレベルでした。しかし、木簡調査の専門家が実物を見て、「穂積皇子」と判断していますから、赤外線写真などでも確認の上でのことと思われ、その判断を否定できる根拠(別の文字であるという痕跡)は見いだせません。

 以上のように、奈良文化財研究所や市さんによる飛鳥池出土の「天皇」「皇子」木簡の釈文は妥当なものと解さざるを得ません。九州王朝説への有利不利とは関係なく、飛鳥出土木簡は古田学派の研究者にとっても正面から取り組むべき対象です。古田史学・多元史観が正しければ、そこから新たな展開が見えてくるはずですから。

(注)
①市 大樹『飛鳥の木簡 ー古代史の新たな解明』中公新書 2012年。
②古賀達也「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」、『多元』155号、2020年1月。この拙稿で、古田旧説を支持する七世紀以前の次の史料に見える「天皇」を紹介した。その後、服部静尚氏より「法隆寺薬師仏光背銘」は後代追刻の疑いがあり、七世紀前半の銘文とはできないとする批判をいただいた。この点、留意したい。
○五九六年 元興寺塔露盤銘「天皇」(奈良市、『元興寺縁起』所載。今なし)
○六〇七年 法隆寺薬師仏光背銘「天皇」「大王天皇」(奈良県斑鳩町)
○六六六年 野中寺弥勒菩薩像台座銘「中宮天皇」(大阪府羽曳野市)
○六六八年 船王後墓誌「天皇」(大阪府柏原市出土)
○六七七年 小野毛人墓誌「天皇」(京都市出土)
○六八〇年 薬師寺東塔檫銘「天皇」(奈良市薬師寺)
○天武期 木簡「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」(奈良県明日香村飛鳥遺跡出土)
○六八六・六九八年 長谷寺千仏多宝塔銅板「天皇」(奈良県桜井市長谷寺)


第2356話 2021/01/23

『飛鳥宮跡出土木簡』で「皇子」検証

 今朝は雨のなか、岡崎公園内の京都府立図書館まで妻と二人で歩いていきました。『嘉穂郡誌』(注①)を借りるためです。同館蔵書にはなかったので兵庫県立図書館から取り寄せていただきました。「天智天皇」の家臣、千手氏調査のため嘉穂郡千手村の歴史や伝承を調べるのが目的です。この調査結果については、後日報告します。

 それともう一冊、橿原考古学研究所が発行した『飛鳥宮跡出土木簡』(注②)を探しました。幸い、こちらは同館にありましたので、お借りすることができました。同書には飛鳥宮跡から出土した未発表を含む三百点近くの木簡の釈文・写真(モノクロと赤外線写真)が掲載されており、とても史料価値が高い一冊です。飛鳥宮跡木簡は出土量が多い上に編年や出土層位がかなり明確であり、七世紀後半の近畿天皇家中枢の実態を示す第一級史料であり、古田学派研究者の皆さんには是非読んでいただきたい報告書です。

 今回、わたしは同書に掲載された「皇子」木簡を精査しました。というのも、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から、飛鳥出土の皇子木簡は文字が不鮮明で断片的であり、それらを根拠に近畿天皇家が七世紀後半に「天皇」「皇子」を称していたとするのは疑問であるとの指摘を受けていたからです。わたしも奈良文化財研究所の木簡データベースをWEB上で見て、画像が不鮮明で小さかったりする写真もあり、西村さんの懸念はもっともなものとは思いますが、同木簡を実見された市大樹さんら研究者の書籍(注③)や論文を根拠に、近畿天皇家の「皇子」木簡出土は疑えないと考えていました。しかし、西村さんの指摘に応えるために同書を見ることにしたわけです。

 わたしはこれまでも「洛中洛外日記」などで、飛鳥出土の次の天皇・皇子木簡を根拠に、近畿天皇家が七世紀において「天皇」号を称していたと主張してきました。

○「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女のこと)「大津皇」「大友」

 木簡に記された皇子の名前が、『日本書紀』に見える天武天皇の子供の名前とほぼ一致しますから、同時代木簡として動かしがたい史料根拠と考えてきました。

 今回、確認したのは飛鳥宮跡出土の木簡で、次の「皇子」木簡の写真が掲載されています。

○104-18 □大津皇
○104-19 □□□〔大津皇〕か
○104-20 大□□〔津皇〕か
○104-21 □□□〔津皇子〕か
○104-22 津皇
○104-23 皇子□
○104-24 □□〔皇〕か

 この他に、「皇子」の文字は見えませんが次の名前が見えます。

○104-17 大友 ※大友皇子
○104-25 大来 ※大来皇女
○104-26 太来 ※大来皇女

 この104という番号は「飛鳥京跡第一〇四次調査」のことで、1985年の発掘調査です。出土層位は飛鳥宮跡第Ⅲ期(斉明・天武・持統)にともなうものであることはまちがいないとされています。更に、104-6・104-7「辛巳年」(天武十年、681年)木簡も出土しており、天武期とみて全く問題ありません。この他に、『日本書紀』の記述と対応する七世紀後半の冠位が記された次の木簡も出土しており、非常に安定して編年が成立しています。

○104-40 大乙下□ ※「大乙下」は大化五年(645)二月から天武十四年(685)正月まで施行された冠位(『日本書紀』)。
○104-41 □小乙下 ※「小乙下」も同上。

 今回、わたしが特に着目したのが〝大津皇子〟木簡群です。この4文字が全てそろったものは出土していませんが、総合すれば〝大津皇子〟であると判断できる内容でした。遺っている字形や字数に差はありますが、概ね釈文の通りで問題ないと判断できました。

 以上のように木簡に記された天武の子供の名前〝大津皇子〟や冠位(大乙下、小乙下)が『日本書紀』と一致しており、これらの史料価値や実証力は大きいと言わざるを得ません。引き続き、「天皇」「皇子」木簡が出土している飛鳥池遺跡の調査報告書も精査します。

(注)
①『嘉穂郡誌』嘉穂郡役所編纂、大正十三年(1924)。昭和六十一年(1986)復刻版、臨川書店。
②『飛鳥宮跡出土木簡』橿原考古学研究所編、令和元年(2019)。吉川弘文館。
③市大樹『飛鳥の木簡』中公新書、2012年。


第2355話 2021/01/20

『卑弥呼と邪馬壹国』初校の校正

 今春発行予定の会誌『卑弥呼と邪馬壹国 ―古田武彦『「邪馬台国」はなかった』発刊五〇周年―』(『古代に真実を求めて』24集)の初校が明石書店から各執筆者に届き、わたしもようやく初校ゲラの校正をし、ついでに若干の推敲もしました。校正作業では、茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)のご協力をいただきました。ありがとうございます。
 論文の内容には満足していますが、文章が充分にはこなれておらず、やや不満足な推敲になってしまいました。わたしの文章力不足については、読者の皆さんに申し訳なく思っています。
 しかし拙稿はともかく、同書は古田武彦先生の古代史処女作『「邪馬台国」はなかった』発刊五〇周年を言祝ぐにふさわしい秀逸の論文が多数収録されます。「古田史学の会」2020年度賛助会員(年会費5,000円。『古田史学会報』隔月刊のみの一般会員は同3,000円)には発行後(四月以降になると思います)に送付しますので、お楽しみに。アマゾンや書店でのご注文も可能です。
 また、同書発行を機会に「古田史学の会」へご入会いただければ幸いです。入会方法は「古田史学の会」ホームページ「新古代学の扉」トップ画面をご参照下さい。


第2354話 2021/01/18

古田武彦先生の遺訓(28)

―二倍年暦の「以閏月正四時」―

 『史記』「五帝本紀」で、堯(ぎょう)が定めたとする暦について、司馬遷は次のように記しています。

 「歳三百六十六日、以閏月正四時。」『新釈漢文大系 史記1』39頁、明治書院(注①)。

 この前半部分の「歳三百六十六日」が二倍年暦の影響を受けた表記であることを前話で説明しました。続いて、後半の「以閏月正四時(閏月を以て四時を正す」について考察します。平凡社の『史記』(注②)では、この部分を次の通り現代語訳しています。

 「一年は三百六十六日、三年に一回閏月をおいて四時を正した。」『中国古典文学大系 史記』上巻、10頁。(注②)

太陰太陽暦では、月の満ち欠けによる一箇月と太陽周期による一年を整合させるために、閏月を定期的に設ける必要があります。そのため、原文にはない「三年に一回」という閏月の周期を平凡社版『史記』には書き加えられたものと思われます。その〝出典〟は恐らく明治書院版『史記』の解説に見える次の記事ではないでしょうか(注③)。

 「○以閏月正四時 太陰暦では三年に一度一回閏月をおいて四時の季節の調和を計った。中国の古代天文学では、周天の度は三百六十五度と四分の一。日は一日に一度ずつ進む。一年で一たび天を一周する。月は一日に十三度十九分の七進む。二十九日半強で天を一周する。故に月が日を逐うて日と会すること一年で十二回となるから、これを十二箇月とした。しかし、月の進むことが早いから、この十二月中に十一日弱の差を生ずる。故に三年に満たずして一箇月のあまりが出る。よって三年に一回の閏月を置かないと、だんだん差が大きくなって四時の季節が乱れることになる。」『新釈漢文大系 史記1』41頁。

この閏月について、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)より、二倍年暦の閏月のことと思われる『周易本義』の次の記事が紹介されています。

 「閏とは、月の餘日を積んで月を成す者なり。五歳の間、再び日を積んで再び月を成す。故に五歳の中、凡そ再閏有り、然して後に別に積分を起こす。」朱熹『周易本義』

 同書は南宋の朱熹が『周易』に注を付したもので、この五年経つごとに再び閏月が来るという暦法は、三十日を一月として、その六ヶ月を1年とする二倍年暦にのみ適合することを西村さんは論証されました(注④)。司馬遷が『史記』に記した堯の暦法記事の分析結果とこの西村説を総合すると、古代中国における二倍年暦の暦法が復原できるのではないでしょうか。以上、推論的作業仮説として提起します。(つづく)

(注)
①吉田賢抗・他著『新釈漢文大系 史記』全十五巻。明治書院、1973~2014年。
②野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。
③出版年次は平凡社版が五年ほど先だが、漢文学の泰斗とされる吉田賢抗氏(1900~1995年)の見解を野口定男氏(1917~1979年)が採用したのではあるまいか。
④西村秀己「五歳再閏」『古田史学会報』151号(2019年4月)


第2353話 2021/01/17

古田武彦先生の遺訓(27)

―司馬遷の認識「歳三百六十六日」のフィロロギー

 『史記』冒頭の「五帝本紀」で、堯(ぎょう)が定めたとする暦について、司馬遷は「歳三百六十六日」と紹介しています。『史記』原文は次の通りです。

 「歳三百六十六日、以閏月正四時。」『新釈漢文大系 史記1』39頁、明治書院(注)。

 この記事から、聖帝堯の暦法は一年が三百六十六日と伝えられていると、司馬遷は認識していたことがわかります。もちろん、司馬遷の時代(前漢代)の暦法では、一年が三百六十五日と四分の一日であることは司馬遷も知っています。それにもかかわらず、「五帝本紀」には「歳三百六十六日」と書いたのですから、これは誤記誤伝の類いではなく、何らかの古い伝承や史料に基づいて、司馬遷はそのように記したと考えざるを得ません。しかしながら、通常の暦法からは一年を三百六十六日とすることを導き出すことはできません。そこで、わたしは一見不思議なこの「歳三百六十六日」の記事に、二倍年暦の暦法を推定復原するヒントがあるのではないかと考えたのです。
 このアイデアを共同研究者の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)に伝え、二人で検討協議を続けました。その結果、こうした司馬遷の認識に至る経過を次のように推定しました。

(1)二倍年暦では一年(365日)を二分割するわけだが、春分点と秋分点で日数を分割するのが観測方法からも簡単である。〔荻上紘一さんの見解〕
(2)そうすると、183日と182日に分割することになる。これを仮に「春年」「秋年」と称する。
(3)このような理解に基づいて、一年(365日)のことを「春秋」と称したのではないか。〔西村秀己説〕
(4)二倍年暦表記で「春年183日」と記された史料を司馬遷が見たとき、一年(春秋)の日数を183×2と計算し、366日と理解した。あるいは、このように計算された史料を司馬遷は見た。
(5)一年を366日とする暦を堯が制定したと理解した司馬遷は、『史記』「五帝本紀」に「歳三百六十六日」と記した。

 以上のように、司馬遷の認識経緯をフィロロギーの対象として検討し、推定しました。この推定が正しければ、後半の「以閏月正四時」についても、同様に二倍年暦の暦法にも「閏月」が存在していたとする史料を司馬遷は見たことになります。(つづく)

(注)吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記1』明治書院、1973年。


第2350話 2021/01/15

古田武彦先生の遺訓(26)

平凡社『史記』の原文にない記事「三年に一回」

 「洛中洛外日記」2344話(2021/01/09)〝古田武彦先生の遺訓(22)―司馬遷の暦法認識は「一倍年暦」―〟において、司馬遷の暦法認識が一倍年暦であり、『史記』も基本的にはその認識で編纂されているとしました。その根拠として、『史記』冒頭の「五帝本紀」に堯(ぎょう)が定めたとする暦について、次のように記されてることを紹介しました。

 「一年は三百六十六日、三年に一回閏月をおいて四時を正した。」『中国古典文学大系 史記』上巻、10頁。(注①)

 この記事から、司馬遷が伝説の聖帝堯の時代から一年を三百六十六日とする一倍年暦であったと理解していることがわかるのですが、なぜ一年を三百六十六日としたのかが謎のままでした。「洛中洛外日記」2344話では司馬遷の暦法認識についての考察がテーマでしたので、この疑問については深入りしませんでした。
 そうしたモヤモヤした気持ちを抱いていたところ、周代暦年復原の共同研究者の山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)がご自身のブログ〝sanmaoの暦歴徒然草〟「帝堯の〝三分暦〟―昔の人だって理性はあった―」(2021/01/13)において、「洛中洛外日記」2344話を紹介され、わたしが引用した平凡社版の『史記』に原文にはない記事「三年に一回」があると指摘されました。わたしも気になっていたのですが、『史記』の原文には「三年に一回」という文はありません。これは平凡社版『史記』の編者の判断により書き加えられた「解説」であり、原文の直訳ではなかったのです。明治書院版の『史記』原文は次の通りです。

 「歳三百六十六日、以閏月正四時」『新釈漢文大系 史記1』39頁、明治書院(注②)。

 当該文について、同書には次の解説があります。

 「○以閏月正四時 太陰暦では三年に一度一回閏月をおいて四時の季節の調和を計った。中国の古代天文学では、周天の度は三百六十五度と四分の一。日は一日に一度ずつ進む。一年で一たび天を一周する。月は一日に十三度十九分の七進む。二十九日半強で天を一周する。故に月が日を逐うて日と会すること一年で十二回となるから、これを十二箇月とした。しかし、月の進むことが早いから、この十二月中に十一日弱の差を生ずる。故に三年に満たずして一箇月のあまりが出る。よって三年に一回の閏月を置かないと、だんだん差が大きくなって四時の季節が乱れることになる。」同、41頁。

 この解説によれば、太陰暦では三年に一度の閏月を置かなければならないということであり、そのため、原文にない「三年に一度」という解説を平凡社版『史記』では釈文中に入れてしまったということのようです。太陰暦の閏月の説明としては一応の理解はできますが、司馬遷が「歳三百六十五日」ではなく、「歳三百六十六日」とした理由はやはりわかりません。(つづく)

(注)
①野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。
②吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記1』明治書院、1973年。


第2349話 2021/01/14

斉明紀の「宮」と「難波朝」記事の不思議

 昨年末から『史記』を始め、中国古典を集中的に読んできたのですが、今日は久しぶりに『日本書紀』を読みました。その為か、とても新鮮な感覚で新たな発見が続きました。とりわけ、斉明紀に今まで気づかなかった面白い記事が見つかりましたので、その概要だけをいくつか紹介します。その一つは、斉明元年(655)十月条の次の記事です。

 「小墾田(おはりだ)に、宮闕(おほみや)を造り起(た)てて、瓦覆(かはらぶき)に擬將(せむ)とす。又、深山廣谷にして、宮殿に造らむと擬(す)る材、朽ち爛(ただ)れたる者多し。遂に止めて作らず。」『日本書紀』斉明元年十月条

 小墾田に宮殿を作ろうとしたが材木が朽ちていて遂に造れなかったという、どうということのない記事ですが、よく考えると通説では説明しにくい記事ではないでしょうか。というのも、この三年前の652年には巨大な前期難波宮がそれこそ大量の木材を使って造営されており、約四十年後の694年には更に巨大な瓦葺きの藤原宮を造営し、持統がそこに遷都しています。ですから、なぜか655年には材木がなかったので小墾田に宮を造れなかったなどということは、一元史観の通説や従来の古田説では説明できないのです。
 この記事を合理的に説明できる仮説は、わたしが提唱した前期難波宮九州王朝複都説だけではないでしょうか。九州王朝が前期難波宮とその関連施設造営用に各地から材木などの大量の資材を調達したため、斉明は自らの宮をすぐには新築できなかったのではないでしょうか。
 このように斉明紀の中の些細な記事ですが、よくよく考えると前期難波宮九州王朝説を指し示すものだったことに、今回、気づくことができました。
 ちなみに、この記事と同年の七月条にも前期難波宮九州王朝複都説を指示する次の記事が見えます。

 「難波朝に於いて、北〈北は越ぞ〉の蝦夷九十九人、東〈東は陸奥ぞ〉の蝦夷九十五人に饗(あへ)たまふ。併せて百済の調使一百五十人に設(あへ)たまふ。仍(なほ)、柵養(きこう)の蝦夷九人、津刈の蝦夷六人に、冠各二階授く。」『日本書紀』斉明元年七月条 ※〈〉内は細注。

 難波朝とありますから、前期難波宮で各地の蝦夷と百済からの使者を饗応したという記事です。この記事も九州王朝説に立つのであれば、九州王朝が前期難波宮で蝦夷国と百済国の使者をもてなしたと考える他ありません。従って、前期難波宮は九州王朝の宮殿と解さざるを得ないのです。
 久しぶりに『日本書紀』を読んだのですが、全集中して取り組んだ中国古典の猛勉強の成果が、思わぬところに発揮できたと、新年そうそうから喜んでいます。