第2353話 2021/01/17

古田武彦先生の遺訓(27)

―司馬遷の認識「歳三百六十六日」のフィロロギー

 『史記』冒頭の「五帝本紀」で、堯(ぎょう)が定めたとする暦について、司馬遷は「歳三百六十六日」と紹介しています。『史記』原文は次の通りです。

 「歳三百六十六日、以閏月正四時。」『新釈漢文大系 史記1』39頁、明治書院(注)。

 この記事から、聖帝堯の暦法は一年が三百六十六日と伝えられていると、司馬遷は認識していたことがわかります。もちろん、司馬遷の時代(前漢代)の暦法では、一年が三百六十五日と四分の一日であることは司馬遷も知っています。それにもかかわらず、「五帝本紀」には「歳三百六十六日」と書いたのですから、これは誤記誤伝の類いではなく、何らかの古い伝承や史料に基づいて、司馬遷はそのように記したと考えざるを得ません。しかしながら、通常の暦法からは一年を三百六十六日とすることを導き出すことはできません。そこで、わたしは一見不思議なこの「歳三百六十六日」の記事に、二倍年暦の暦法を推定復原するヒントがあるのではないかと考えたのです。
 このアイデアを共同研究者の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)に伝え、二人で検討協議を続けました。その結果、こうした司馬遷の認識に至る経過を次のように推定しました。

(1)二倍年暦では一年(365日)を二分割するわけだが、春分点と秋分点で日数を分割するのが観測方法からも簡単である。〔荻上紘一さんの見解〕
(2)そうすると、183日と182日に分割することになる。これを仮に「春年」「秋年」と称する。
(3)このような理解に基づいて、一年(365日)のことを「春秋」と称したのではないか。〔西村秀己説〕
(4)二倍年暦表記で「春年183日」と記された史料を司馬遷が見たとき、一年(春秋)の日数を183×2と計算し、366日と理解した。あるいは、このように計算された史料を司馬遷は見た。
(5)一年を366日とする暦を堯が制定したと理解した司馬遷は、『史記』「五帝本紀」に「歳三百六十六日」と記した。

 以上のように、司馬遷の認識経緯をフィロロギーの対象として検討し、推定しました。この推定が正しければ、後半の「以閏月正四時」についても、同様に二倍年暦の暦法にも「閏月」が存在していたとする史料を司馬遷は見たことになります。(つづく)

(注)吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記1』明治書院、1973年。

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