2006年06月一覧

第87話 2006/06/28

九州王朝の筑後遷宮

 わたしは「九州王朝の筑後遷宮」というテーマを発表したことがあります(『新・古代学』第4集、1999年)。4世紀後半から6世紀にかけて、九州王朝は筑前から筑後へ遷宮したという仮説です。九州王朝は、高句麗や新羅の北方からの脅威に対して、より安全な筑後地方に首都を移したと思われ、それはちょうど倭の五王や筑紫の君磐井の時代にあたります。また、筑後川南岸の水縄連山に装飾古墳が多数作られる時期とも対応します。そして、輝ける天子多利思北孤の太宰府建都(倭京元年、618年頃)により再び筑前に首都を移すまで、筑後に遷宮していたと考えられるのです。この論証の詳細は「玉垂命と九州王朝の都」(『古田史学会報』24号)、「高良玉垂命と七支刀」(『古田史学会報』25号)をご参照下さい。
 しかしながら、この仮説には解決すべき問題がありました。それは九州王朝の王宮に相応しい遺跡が筑後地方になければならないという考古学的な問題でした。一応の目途としては、久留米市にある筑後国府跡(合川町、他)や大善寺玉垂宮(三瀦町)付近にあるのではないかと推定していましたが、やはり5〜6世紀の王宮に相応しい規模の遺跡は発見されていませんでした。ところが、先週、ビッグニュースが飛び込んできたのです。
 福岡市の上城誠さん(本会全国世話人)から毎日新聞(6月22日、地元版)のコピーがファックスされてきました。「筑紫国の役所か」「7世紀後半の建物跡」「九州最大規模、出土」という見出しで、久留米市合川町から、ひさし部分も含めて幅18メートル、奥行き13メートルの建物跡の 柱穴(直径30〜60センチ)40本が出土したことが報じられていました。近くで出土した須恵器から7世紀後半の遺跡とされていますが、この時期の九州北部の編年はC14測定などから、土器編年よりも百年ほど古くなりますから、6世紀後半の遺跡と考えるべきでしょう。そうすると、筑後遷宮期の九州王朝の王宮の有力候補となるのです。なによりも、この時期の九州最大規模の建物という事実は注目されます。
 新聞記事からは遺跡の正確な位置や詳しい内容がわかりませんので、これ以上の推測はやめておきますが、わたしの筑後遷宮説にとって、待ちに待ったニュースでした。


第86話 2006/06/21

事務局体制を強化

 古田史学の会は18日に大阪で定期会員総会を開催しました。総会では、会則の改訂を行い、事務局次長(若干名)ポストを新設し、横田幸男さん(全国世話人・インターネット担当)と大下隆司さん(書籍部担当)が事務局次長に選任されました。この人事により、事務局体制はわたしを含めて3名となり、かなり強化されました。本会の影響力の増大と期待に応えられるよう、頑張ります。
 総会に先だって、午前中は関西例会が、午後は記念講演会が行われました。関西例会の内容は次の通りです。

〔古田史学の会・6月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞「浄土の憧れと国風文化」
○研究発表
1.『古事記』序文と天武紀の「実」(京都市・古賀達也)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・大兵主神社とは・他(奈良市・水野孝夫)

 午後の講演会は次の通りでした。パワーポイントとプロジェクターを使用した発表で、カラフルな大画面がなかなか良かったのではないかと自賛しています。

1. 古川清久氏(本会会員・武雄市)
 馬門─阿蘇ピンク石と「石走る淡海」─
2. 古賀達也(本会事務局長)
 「三壬子年」木簡と大長年号の史料批判

 夜の懇親会も、講師の古川さん、福岡の力石さん、松山の合田さん、名古屋の林さんら遠方の全国世話人や会員を交えて、遅くまで宴が続きました。


第85話 2006/06/15

「白鳳壬申」骨蔵器の証言

 第83話に掲載した次の七世紀後半部分の九州年号を御覧になって、白鳳年間が他と比べて異常に長いことに気づかれたと思います。実はこの点も九州年号真作の論理性が現れているところです。そのことについて述べたいと思います。
常色 元(丁未)〜五 647−651
白雉 元(壬子)〜九 652−660
白鳳 元(辛酉)〜二三 661−683
朱雀 元(甲申)〜二 684−685
朱鳥 元(丙戌)〜九 686−694
大化 元(乙未)〜六 695−700

 九州年号中、最も著名で期間が長いのが白鳳です。『二中歴』などによれば、その元年は661年辛酉であり、二三年癸未(683)まで続きます。これは近畿天皇家の斉明七年から天武十一年に相当します。その間、白村江の敗戦、九州王朝の天子である筑紫の君薩夜麻の虜囚と帰国、筑紫大地震、唐軍の筑紫駐留、壬申の乱など数々の大事件が発生しています。とりわけ唐の軍隊の筑紫進駐により、九州年号の改元など許されない状況だったと思われます。
 こうした列島をおおった政治的緊張と混乱が、白鳳年号を改元できず結果として長期に続いた原因だったのです。従って、白鳳が長いのは偽作ではなく真作の根拠となるのです。たまたま白鳳年間を長期間に偽作したら、こうした列島(とりわけ九州)の政治情勢と一致したなどとは、およそ考えられません。この点も、偽作説論者はまったく説明できていません。
 この白鳳年号は『日本書紀』には記されていませんが、『続日本紀』の聖武天皇の詔報中に見える他、『類従三代格』所収天平九年三月十日(737)「太政官符謹奏」にも現れています。

 「詔し報へて曰はく、『白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一たび見名を定め、仍て公験を給へ』とのたまふ。」
  『続日本紀』神亀元年冬十月条(724)

  「請抽出元興寺摂大乗論門徒一依常例住持興福寺事
右得皇后宮織*觧稱*。始興之本。従白鳳年。迄干淡海天朝。内大臣割取家財。爲講説資。伏願。永世万代勿令断絶。(以下略)」
  『類従三代格』「太政官符謹奏」天平九年三月十日(737)

織*は、身編に織。糸編無し。
稱*は、人編に稱。禾偏無し。

 このように、近畿天皇家の公文書にも九州年号が使用されていたのです。特に聖武天皇の詔報に使用されている点など、九州年号真作説の大きな証拠と言えます。通説では、この白鳳を『日本書紀』の白雉が後に言いかえられたとしていますが、これも無茶な主張です。そして何よりも、白鳳年号の金石文が江戸時代に出土していたのです。
 江戸時代に成立した筑前の地誌『筑前国続風土記附録』の博多官内町海元寺の項に、次のような白鳳年号を記した金石文が紹介されています。

 「近年濡衣の塔の邊より石龕一箇掘出せり。白鳳壬申と云文字あり。龕中に骨あり。いかなる人を葬りしにや知れす。此石龕を當寺に蔵め置る由縁をつまびらかにせず。」
  『筑前国続風土記附録』博多官内町海元寺

 博多湾岸から出土した「白鳳壬申」(672年)と記された骨蔵器の記事です。残念ながらこの骨蔵器はその後行方不明になっています。なお、この『筑前国続風土記附録』は筑前黒田藩公認の地誌で、信頼性の高い史料です。
 これでも、大和朝廷一元史観の人々は、「九州年号はなかった。九州王朝もなかった。」と言い張るつもりでしょうか。少しは科学的で学問的な思考をしていただきたいものです。


第84話 2006/06/14

「大化五子年」土器の証言

第83話で九州年号にも大化があり、しかも『日本書紀』の大化(645〜649年)とは異なり、七世紀末(695〜700年)であることを紹介しました。そして、『日本書紀』は九州年号の大化を50年遡らせて盗用したものと結論づけました。日本古代史学界からは無視されていますが、実はこのことを裏づける金石文が既に出土しているのです。茨城県岩井市矢作の冨山家が所蔵している「大化五子年」土器がそれです。
わたしは古田先生らと共に、1993年に見せていただいたのですが、同土器は高さ約三〇センチの土師器で、その中央から下部にかけて

「大化五子年
二月十日」

と線刻されています。
この土器は江戸時代天保九年(1838)春に冨山家の近くの熱田社傍らの畑より出土したもので、大化年号が彫られていたことから出土当時から注目され、色川三中著『野中の清水』(嘉永年間<1848〜1854>の記録)や清宮秀堅著『下総旧事考』(弘化二年<1845>の自序あり、刊行は1905年)などに紹介されています。また、当時の領主も当土器を見に来たとのこと。冨山家には、その時領主のおかかえ絵師による同土器が描かれた掛軸がありました(絵師の号は南海)。
その掛軸の絵や『野中の清水』の絵にもはっきりと「大化五子年二月十日」と記されていますが、現在では「子」の字が故意による摩耗でほとんど見えなくなっていました。おそらくこれは『日本書紀』の大化五年(649)の干支「己酉」と異なるため、それを不審として削られたものと思われます。
『二中歴』では大化六年(700)が庚子で子の年となっており、この土器とは干支が一年ずれています。おそらく、この土器には干支が一年ずれた暦法が採用されたためと考えられますが、詳しくは拙論「二つの試金石−九州年号金石文の再検討−」(『古代に真実を求めて』第二集)を御覧下さい。
一方、『日本書紀』の大化年間には全く子の年はありません。従って、この土器の大化五子年は七世紀末の699年のことと考えざるを得ず、九州年号の大化を証明する貴重な同時代金石文となるのです。しかも、地元の土器専門家によって、七世紀後半から八世紀前半に属すると鑑定されており、699年はこの鑑定のど真ん中に位置しています。なお、この土器は煮炊きに使用された後、骨蔵器に転用された痕跡があるとのことで、刻された「大化五子年二月十日」とは命日か埋葬日のことと推定されます。
このように「大化五子年」土器は、九州年号の大化が存在したという真実を証言しているのです。同土器の存在は、地元の考古学者により専門誌で報告されているにもかかわらず、古代史学界は無視しています。大和朝廷一元史観の学者の、九州年号や九州王朝を認めたくないという気持ちは分からないではありませんが、何とも非学問的でアンフェアな態度と言わざるを得ません。

闘論二つの試金石ー九州年号金石文の再検討参照


第83話 2006/06/10

「元壬子年」木簡の論理

 前話に続いて、「元壬子年」木簡がテーマです。今回はこの木簡の持つ論理性について更に深く考えてみたいと思います。「元壬子年」木簡の記述が直接的に指し示すことは、この時間帯(七世紀中頃)の年号の元年干支が「壬子」であるという事実です。『日本書紀』によれば、この時期の「壬子」の年は、孝徳天皇の時代、「白雉三年」(652年)が相当します。従って、木簡解読時に担当者が「元」の字を「三」と読み誤ったのには、それなりの理由があったわけです。

 一方、『二中歴』などに掲載されている九州年号では、この時期の「壬子」の年が「白雉元年」とされているのです。『日本書紀』と同じ「白雉」という年号が二年ずれて九州年号史料には多数収録されているのですが、この史料状況は九州年号真作説に有利な論理性を有していました。すなわち、もし九州年号が後代の偽作なら、「白雉」という年号名を『日本書紀』から盗用しておきながら、年次は二年ずらしたという、何とも奇妙な偽作方法となるからです。偽作するのに、全く必要のない手法です。従って、逆にこうした史料状況は偽作ではない証拠となるのです。この点を、偽作説論者は全く説明できていません。

 従って九州年号の白雉が偽作でなく、真実であるとなると、事態は逆転し、『日本書紀』の白雉が九州年号からの年次をずらしての盗用となること、当然でしょう。そして、この論理性が正しかったことを、「元壬子年」木簡が無比の物的証拠として証言しているのです。ここに、今回の発見の画期性があります。

 そこで次に問題となるのが、なぜ『日本書紀』編者は九州年号から白雉をわざわざ二年ずらして盗用したのかということです。それには一応の推測が可能です。すなわち、「大化の改新(詔勅)」の5年間を孝徳紀にはめ込みたかった。この可能性です。次の九州年号群を見て下さい。

常色 元(丁未)〜五  647−651
白雉 元(壬子)〜九  652−660
白鳳 元(辛酉)〜二三 661−683
朱雀 元(甲申)〜二  684−685
朱鳥 元(丙戌)〜九  686−694
大化 元(乙未)〜六  695−700

 これは『二中歴』から九州年号の後期部分を抜粋し、西暦等を付記したものです。このように年号は時間軸を表す「記号」として連続していなければ意味がありません。この点からも『日本書紀』の「大化・白雉・朱鳥」の三年号の現れ方は異常だったのです。

 この九州年号に「大化」があることに着目して下さい。『日本書紀』にも「大化」(645〜649)がありますが、既に述べてきましたように、「九州年号」が正しく、『日本書紀』が誤っていた、あるいは盗用していたという事実から見ると、ここでも九州年号の「大化」が『日本書紀』に50年ずらして盗用されていると考えるほかありません。

 そして、わざわざ50年もずらして盗用した理由は、「大化」という年号だけを盗用したかったなどとは考えられず、『日本書紀』の大化年間に散りばめられている、いわゆる「大化の改新(詔勅)」を年号の「大化」と一緒に盗用したとしか考えられないのではないでしょうか。少なくともその可能性が最も大きいと思います。このことから、結論は次のようです。

 七世紀末に九州王朝が発した「大化の詔勅」を大和朝廷は自らが発したものとして歴史を造作した。

 これです。そうでなければ、九州年号の大化を50年も遡らせて、自らの史書『日本書紀』に盗用する必要など全くないのですから。従来から、古代史学会で論争となってきた「大化の改新」の史実性についても、こうした「九州王朝の詔勅からの盗用」という新たな視点により、有効な解決がなされると思われます。


第82話 2006/06/10

「元壬子年」木簡の証言

 1996年に芦屋市から出土した「三壬子年」木簡が、実は「元壬子年」であったことが私達の調査により判明したのですが(69話72話参照)、今回はこの史料事実がもたらす古代史上の画期性について強調してみたいと思います。

 学問的良心と人間としての平明な論理性を持つ読者の皆さんには、今さらながら言うまでもないことですが、この「元壬子年」木簡が直接的に指し示す肝要の一点は、『日本書紀』の「白雉元年」を庚戌(650年)の年とする記述は誤りで、『二中歴』や『海東諸国紀』等に収録された「九州年号」の「白雉元年壬子(652年)」が歴史的事実であったということです。すなわち、『日本書紀』よりも「九州年号」の方が真実を伝えていたのです。「元壬子年」木簡は、まさにこの事を証言しているのです。

 従って、この木簡の「元壬子年」という文字を認めると、今まで論証抜きで偽作扱いされてきた「九州年号」の真実性を認めなければならず、次いでこのような年号を大和朝廷よりも早く公布した王朝の存在を認めなければなりません。さらに、この古代年号群が「九州年号」と呼ばれていた事実から、その公布主体が九州に存在した王朝であることも論理的必然として認めなければならないでしょう。すなわち、古田武彦の九州王朝説は正しかった、通説の大和朝廷一元史観は間違いであった、となるのです。これが、史料事実とそれに基づく人間の平明な論理性の帰結なのですから。

 あなたの周りにおられる大和朝廷一元史観の人に、この平明な論理性を語ってみて下さい。もし、その人が「なるほど、その通りだ」と理解できる人なら、共に真実と学問を語るに足る友人とすることができるでしょう。「それでも、大和朝廷が古代から列島の唯一卓越した代表者のはずだ」「九州年号や九州王朝はなかったはずだ」という人には、静かに首を横に振るしかないでしょう。残念なことに、世の中にはそのような人も少なくないのです。理系と比較して、世界の学問や理性との競争原理がほとんど働かない日本古代史学界など、その最たるものかもしれませんね。


第81話 2006/06/04

祝・創刊『なかった−真実の歴史学−』

 古田先生渾身の一冊が創刊されました。『なかった−真実の歴史学−』(ミネルヴァ書房、2200円+税)です。この新雑誌は年二回発行される予定ですが、新東方史学会設立以来、最初の事業となります。「直接編集古田武彦」と銘打たれたとおり、この新雑誌創刊と編集にかける古田先生の情熱と労力は尋常ではありませんでした。それだけに、今回の創刊を心よりお祝いしたいと思います。そして何よりも、古田ファンや古田学派の全ての人々に読んでいただきたいと願っています。
 内容は下記のとおり、豪華絢爛。子供向けのマンガや連載小説、学界批判、古代通史、オロチ語辞典、中国語訳メッセージと、古田史学のエッセンスが満載です。定期購読のお申し込み(代金は宅配便による着払い方式)は次の通り。

ミネルヴァ書房 編集部(田引・たびき)
 電話075−581−5191
 FAX075−581−8379

【創刊号目次】
序言 古田武彦
連載 古田による古代通史 第一回 古田武彦
学界批判 九州王朝論−−白方勝氏に答える 古田武彦
研究発表 『大化改新詔の信憑性』(井上光貞)の史料批判 古田武彦
連載 敵祭−−松本清張さんへの書簡 第一回 古田武彦
中言 古田武彦
論文・エッセイ
「随筆」について 安藤哲朗
 明日を拓く「古田史学」−−新東方史学会発足に期待 北村明也
『國体の本義』批判の今日的意義 藤沢徹
 条里制の開始時期 水野孝夫
遺稿 「和田家文書」復刻版発行について 藤本光幸
読者から 三つの問い 宮崎宇史
読者へ 若き研究者への回答−−宮崎宇史さんへ 古田武彦
連載 「心」という迷宮−−漱石『心』論 前編 田遠清和
連載 ちくしの女王「ヒミカ」 第一回 酒井紀年
予告編 太陽の娘ヒミカ 古田武彦監修・深津栄美作・おおばせつお画
連載 オロチ語−−簡訳ロシア語=オロチ語辞典 松本郁子訳
末言 古田武彦
中国語訳(序・中・末言)


第80話 2006/06/03

八十神と八十さん

 洛中洛外日記も第80話を迎えることができました。それにちなんで、昨年来研究発表してきた八十神(やそがみ)についてご紹介したいと思います(論文未発表)。
 「古層の神名」(第42話、他)で触れてきましたように、「そ」の神様を捜していたのですが、『古事記』の大国主神話(因幡の白兎説話など)の中に登場する八十神が「そ」の神様ではないかと気づきました。『古事記』では大国主のたくさんのお兄さんたちとして扱われていますが、本来は「そ」の神様である八十神と「ち」の神様であるオオナムチとの出雲・因幡の争奪戦争だったのです。ちなみに、この説話では大国主とはよばれずにオオナムチの名前で八十神と争っています。すなわち金属器以前の時代に起こった「そ」の神様の文明圏と「ち」の神様の文明圏の衝突の伝承が、古事記に大国主神話として盗用されていたのでした。
 それでは八十神の本拠地はどこでしょうか。これもひょんなことから判明しました。わたしの勤務先でのこと。営業部の報告を読んでいたところ、相手先の担当者名に八十(やそ)さんという方のお名前が記されていたのです。西条八十のように名前に八十があるのは知っていましたが、苗字にも八十があったのです。そこで、太田斉二郎さん(本会副代表)にお願いして、電話帳ソフトで八十さんの分布を調べて貰いました。そうしたらなんと、姫路市に集中分布していました。出雲や因幡にはほとんどありません。
 念のため『播磨風土記』を調べたところ、印南郡益気(やけ)の里の斗形(ますがた)山の記事に「石の橋あり。伝えていへらく、上古の時、此の橋天に至り、八十人衆、上り下り往来ひき。故、八十橋といふ。」とここに八十がありました。現在もこの八十橋の伝承地があります。益気(やけ)の里の「や」も八十の「や」と関係ありそうですね。また、揖保川下流には八十大橋もあります。従って、播磨の地には八十が古代から地名などで存在していることから、苗字の八十さんが姫路市に集中分布しているのも偶然の一致とは考えられません。播磨が八十神の本拠地だったのです。
 こうした視点から、先の『古事記』の神話を見直したとき、播磨の八十神と外来勢力であるオオナムチとの出雲・因幡争奪戦という構図が明確に浮かび上がってくるのではないでしょうか。そうするとオオナムチの本拠地はどこでしょうか。それはこれからの研究課題です。