2008年05月一覧

第177話 2008/05/25

『古田史学会報』86号の紹介

 昨日はミネルヴァ書房の方とお会いして、古田史学の会の2008年度事業の一つとして、「九州年号の研究」(仮称)という本の発行について相談しました。九州年号研究論文と同データベースを収録した最高水準の本になります。古田史学の会々員の皆さまには無料で進呈する予定です。あわせて、全国の主要図書館へも贈呈を検討しています。この10年間、九州年号に関する本格的な書籍が出ていませんので、今回の出版企画は日本古代史界にもインパクトを与えると 思います。
 ようやく、『古田史学会報』86号の編集が終わりました。6月6日発行予定です。お楽しみに。

『古田史学会報』86号の内容
○古写本「九州年号」の証言  京都市 古賀達也
○伊倉5 ─天子宮は誰を祀るか─  武雄市 古川清久
○自我の内面世界か俗流政治の世界か
    ─漱石『心』の理解をめぐって(その三)─  豊中市 山浦 純
○伊勢王と筑紫君薩夜麻の接点  川西市 正木 裕
○「白鳳以来、朱雀以前」考
─『続日本紀』神亀元年、聖武詔報の新理解─ 京都市 古賀達也
○「トロイの木馬」メンテナンス  相模原市 冨川ケイ子
○わたしの古代史仮説  奈良市 水野孝夫
○古田史学の会 二〇〇八年度会員総会・講演会のお知らせ
○古田史学の会 関西例会のご案内
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 二〇〇八年度会費お支払いのお願い


第176話 2008/05/24

御霊神社祭

 関西例会翌日の5月18日は、ご近所の上御霊神社の例大祭の日で、町内を御神輿が練り歩きました。今年は中京区の下御霊神社と合同で行列が行われ、御神輿三基と馬に乗った武者や牛車、八乙女やお稚児さんの行列もあり、例年になく賑やかでした。

 御霊神社は無念の死を遂げた人々、例えば崇道天皇らが祀られています。こうした伝統は、「敵を祀る」という日本古来のものでしょう。思想史上からも興味深い研究テーマです。
 また、今年の行列には法被を着た女性も参加されており、時代の変化を感じさせるものでした。もっとも、御神輿は男性だけで引かれていました。いずれはここにも女性が参加する日が来るかもしれません。そうした意味では、女性天皇の出現(再現)も、時代の流れでもあるようです。
   さて、5月の関西例会の内容は次の通りでした。
 
  〔古田史学の会・5月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 優秀なホームペインターが大勢誕生(豊中市・木村賢司)
  2). 磐余彦東征する(大阪市・西井健一郎)
  3). 小川論文と九州王朝(木津川市・竹村順弘)
  4). 「裸国・黒歯国」の頃のエクアドル(豊中市・大下隆司)
  5). 難波宮の名称について(京都市・古賀達也)
  6). 大化改新の全貌─文武天皇の郡司任命─(京都市・古賀達也)
  7). 「大化の改新」と「常色の改新」の視点(川西市・正木裕)
 
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・陶(須恵)器の里に土師姓が多い・他(奈良市・水野孝夫)
  ○2007年度関西例会の会計報告(豊中市・大下隆司)


第175話 2008/05/12

再考、難波宮の名称

 163話で、 前期難波宮は「難波宮」と呼ばれていたとする考えを述べましたが、4月の関西例会で正木裕さん(本会会員、川西市)から、孝徳紀白雉元年と二年条に見える味経宮(あじふのみや)が前期難波宮ではないかとの異論が出されました。その主たる根拠は、白雉二年に味経宮で僧侶2100余人に一切経を読ませたり、2700余の燈を燃やしたりという大規模な行事が行えるのは、前期難波宮しかない。更にそこで読まれた安宅・土側経は、翌年完成する難波宮の地鎮に相応しい経典であるというものでした。
 この説明を聞いて、成る程と思いました。というのも、わたし自身も味経宮は前期難波宮ではないかと考えた時期があったからです。ただ、孝徳紀を読む限り、白雉改元の儀式が味経宮でのこととは断定できず、『続日本紀』に見える「難波宮」説を採ったのでした。
 しかし、正木さんの異論を聞いて、再考したところ、『万葉集』巻六の928番歌にある

「味経の原に もののふの 八十伴の男は 庵して 都なしたり」

が、聖武天皇の時代の後期難波宮を示していることから、後期難波宮が「味経の原」にあったこととなり、同じ場所にあった前期難波宮も味経の原にあった宮、すなわち味経宮であるという理解が可能となることに、遅まきながら気づいたのです。なお、この歌には「長柄の宮」という表現もあり、難波宮は「長柄の宮」とも呼ばれていたようです。
 そして、ここでは「長柄豊碕宮」と呼ばれていないことが注目されます。前期と後期難波宮は「長柄豊碕宮」とは別であるということは、この歌からも言えるのではないでしょうか。ちなみに、この歌を笠朝臣金村が読んだのは、『日本書紀』成立直後の頃と推定できますから、孝徳紀の「難波長柄豊碕宮」という記事を知っていた可能性、大です。それにもかかわらず、「難波長柄豊碕宮」とはしないで、「味経の原」「長柄の宮」と読んでいることは同時代史料として、重視しなければなりません。
   以上のことから、正木さんの異論、「前期難波宮の名称は味経宮」説は検討されるべき有力説と思われます。


第174話 2008/05/03

古写本「九州年号」の証言

 古田先生が『失われた九州王朝』で紹介された九州年号は、その後の九州王朝研究の重要な一テーマとなりましたが、その「九州年号」という名称については、江戸時代の学者鶴峯戊申の『襲国偽僭考』に紹介された「古写本九州年号」に拠られました。その後の九州年号研究において、この「古写本九州年号」とい うものは鶴峯による創作であり、本当は無かったのではないかという論者(丸山晋司さん)もでるほど、他の文献には見られないものでした。

   ところが、本会会員の冨川ケイ子さんが、明治期の研究書に「九州年号」という史料が引用されていることを発見され、「九州年号・九州王朝説−明治25年−」という論文で発表されました(『古代に真実を求めて』8集所収)。その研究書とは今泉定介「昔九州は独立国で年号あり」で、明治25年発行の『日本史学新説』広池千九郎著に収録されており、国会図書館のホームページ内「近代デジタルライブラリー」で閲覧できます。
 こうして、「九州年号」という古写本が江戸期から明治に存在していたことは決定的となりました。ところが、実はこの「九州年号」という名称そのものが九州王朝説を証明する論理性を有しているのです。すなわち、九州地方に近畿天皇家に先だって年号を公布してきた王朝が存在していたという意味を、この「九州年号」という名称は前提としているからです。古田先生による九州王朝説発表よりもはるか昔に「九州年号」という古写本が存在していたことは、偶然の一致で はなく、九州王朝説は真実であるという必然の帰結であり、そうした論理性を示しています。
 日本古代史学界の学者や、九州王朝説反対派はこの史料事実と論理性に対して、全く反論できていません。この30年来、じっと無視・沈黙しているのです。 裸の王様(日本古代史学界・九州王朝説反対派)は、さぞ辛いことでしょう。30年来、「王様は裸だ!」と言い続けられているのですから。本会のホームページの存在も辛いことでしょう。歴史を研究しようとする青年達は、インターネットの時代ですから、必ず本会のホームページを目にするに違いありません。その 時、真実の歴史(古田説)を知ってしまった若者を、学校の大和朝廷一元史観教育で洗脳できるのも、いつまででしょうか。
   なお、付言しますと宇佐八幡宮文書に『八幡宇佐宮繋三』という史料があります。同書は、元和三年(一六一七)五月、神祇卜部兼従が編纂した宇佐宮の縁起書ですが、その中に、次のような興味深い記事があります。

 「文武天皇元年壬辰大菩薩震旦より帰り、宇佐の地主北辰と彦山権現、當時〔筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり、〕天竺摩訶陀國より、持来り給ふ如意珠を乞ひ、衆生を済度せんと計り給ふ、」
   ※〔 〕内は細注。

 細注に記された「筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり」という文は、いわゆる九州年号の「教到」が天皇家とは別の筑紫地方の年号、あるいは筑紫の権力者が公布した年号であるという、編者の認識を示しています。これも古写本「九州年号」と同じ論理性を有しており、このように複数の史料が九州王 朝・九州年号説を支持しているのですが、この事に対しても「裸の王様」たちは沈黙しています。哀れというほかありません。


第173話 2008/05/02

「白鳳以来、朱雀以前」の新理解

 九州年号の白鳳と朱雀が聖武天皇の詔報として『続日本紀』神亀元年条(724)に、次のように記されていることは著名です。

「白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。亦、所司の記注、多く粗略有り。一たび見名を定め、よりて公験(くげん)を給へ」

 これは治部省からの問い合わせに答えたもので、養老4年(720)に近畿天皇家として初めて僧尼に公験(証明書、登録のようなもの)を発行を始めたのですが、戸籍から漏れていたり、記載されている容貌と異なっている僧尼が千百二十二人もいて、どうしたものかと天皇の裁可をあおいだことによります。
 しかし、その返答として、いきなり「白鳳以来、朱雀以前」とあることから、そもそもの問い合わせ内容に「白鳳以来、朱雀以前」が特に不明という具体的な時期の指摘があったと考えざるを得ません。というのも、年代が玄遠というだけなら、白鳳以前も朱雀以後も同様で、返答にその時期を区切る必要性はないからです。
 にもかかわらず「白鳳以来、朱雀以前」と時期を特定して返答しているのは、白鳳から朱雀の時期、すなわち661年(白鳳元年)から685年(朱雀二年)の間が特に不明の僧尼が多かったと考えざるをえませんし、治部省からの問い合わせにも「白鳳以来、朱雀以前」と時期の記載があったに違いありません。
 この点、古田先生は『古代は輝いていたIII』で、「年代玄遠」というのは只単に昔という意味だけではなく、別の王朝の治世を意味していたとされました。九州王朝説からすれば一応もっともな理解と思われるのですが、わたしは納得できずにいました。何故なら、別の王朝(九州王朝)の治世だから不明というならば、白鳳と朱雀に限定する必要は、やはりないからです。朱雀以後も九州王朝と九州年号は朱鳥・大化・大長と続いているのですから。

 このように永らく疑問としていた「白鳳以来、朱雀以前」でしたが、疑問が氷塊したのは、前期難波宮九州王朝副都説の発見がきっかけでした。既に発表してきましたように、九州王朝の副都だった前期難波宮は朱雀三年(686)に焼亡し、同年朱鳥と改元されました。もし、九州王朝による僧尼の公験資料が難波宮に保管されていたとしたら、朱雀三年の火災で失われたことになります。『日本書紀』にも難波宮が兵庫職以外は悉く焼けたとありますから、僧尼の公験資料も焼亡した可能性が極めて大です。従って、近畿天皇家は九州王朝の難波宮保管資料を引き継ぐことができなかったのです。これは推定ですが、難波宮には主に近畿や関東地方の行政文書が保管されていたのではないでしょうか。それが朱雀三年に失われたのです。
 こうした理解に立って、初めて「白鳳以来、朱雀以前」の意味と背景が見えてきたのです。九州王朝の副都難波宮は九州年号の白雉元年(652)に完成し、その後白鳳十年(670)には庚午年籍が作成されます。それと並行して九州王朝は僧尼の名籍や公験を発行したのではないでしょうか。そして、それらの資料が難波宮の火災により失われた。まさにその時期が「白鳳以来、朱雀以前」だったのです。
 以上、『続日本紀』の聖武天皇詔報は、わたしの前期難波宮九州王朝副都説によって、はじめて明快な理解を得ることが可能となったのでした。


第172話 2008/05/01

聖武詔報「白鳳以来、朱雀以前」の論理

 わたしは今日からゴールデンウィークです。先週の土曜日に明日香村の万葉文化館までドライブしてきましたので、今回は自宅でのんびりする予定です。

 さて、3月の関西例会で「聖武詔報の再検討−『白鳳以来、朱雀以前』の新理解−」という研究を発表したのですが、九州年号である白鳳と朱雀が近畿天皇家の詔報として『続日本紀』神亀元年条(724)に記されていることは、九州年号実在説の直接証拠ともいうべきものです。このことを古田先生は30年来指摘されているのですが、大和朝廷一元史観を「飯の種にしている古代史学界は沈黙を守ったままであることは、ご存じの通りです。まったく非学問的態度であると言わざるを得ません。この聖武天皇による「証言」は九州王朝を滅ぼした側のトップの発言であり、公式記録『続日本紀』に採用された記録であるだけに、その意味は重要であり、プロの学者であれば理解できないはずがありません。
 にもかかわらず、この白鳳と朱雀は『日本書紀』に記された白雉と朱鳥を、よりおめでたい鳥の名前に改変したものという、何の史料根拠もないへんてこな旧説(屁理屈)で、プロの学者達はすませているのです。おめでたいのは彼らの頭かもしれませんが、彼らは九州王朝説はなかったことにしたい、古田武彦はいなかったことにしよう、という「共同謀議」のまま30年来頑張っているのですが、何とも痛ましい限りです。プロの学者として恥ずかしくないのでしょうか。
 このような態度は、自然科学では実験データの無視・改竄に相当するもので、およそ許されることではありません。企業研究では、まずそのような研究者(社員)はクビでしょう。わたしは職業柄、いろんな自然科学系の学会発表を聴講してきましたが、このような発表は未だ聞いたことがありません。日本古代史学界は「学問」の学界ではない、そのような疑惑さえ生じさせる惨状です。わたし自身、彼らが古田説を知ってて無視・排除する現場を少なからず見てきていますし、古田先生からは更に多くの「実例」をお聞きしています。本当に酷いものです。(つづく)