「 2009年08月 」一覧

第223話 2009/08/16

「白雉二年」奉納面は尉(じょう)面

 8月15日の関西例会では、西条市の福岡八幡神社蔵「白雉二年」奉納面の研究が大下さんより発表され、同奉納面が「翁」の面ではなく、「重荷尉 (おもにじょう)」か「石王尉」の面の可能性が高いことが判明しました。九州王朝を淵源とする能楽の可能性も指摘されるなど、今後の発展と会報での発表が期待されます。

 また、8月8日に御逝去された力石巌さん(古田史学の会・九州の代表)へ参加者全員で黙祷を捧げました。名古屋の林さん、奈良の飯田さんと、この数年相次ぐ同志の訃報に悲しみが絶えません。残された私たちがしっかりと古田史学を継承し、学問的成果をあげていくことが鬼籍に入られた同志への何よりの供養と思います。
 
  〔古田史学の会・8月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1).戦前ハイキング・京の山鉾巡行、大阪の文楽・他(豊中市・木村賢司)
  2).彦島史観でみた万葉56歌人「春日蔵首老」(大阪市・西井健一郎)
  3).中国正史と邪馬壹国の人口(木津川市・竹村順弘)
  4).「白雉二年銘奉納面」について(豊中市・大下隆司)
  5).34年遡上の二人(横浜市・長谷信之)
  6).持統七年(693)十月「始講仁王経」の考察─『日本書紀』の「始」の字義について─(京都市・古賀達也)
  7).淡路洲と「島戸」─万葉集304「遠の朝廷」の作歌場所の探究─(姫路市・野田利郎)
  ○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・「漢委奴国王」金印の調査・他(奈良市・水野孝夫)


第222話 2009/08/13

蘇我氏の出身地
 『古田史学会報』の編集を西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)に手伝っていただくことになり、編集ソフトの操作方法などの説明を本日行いました。終了後、最近の古田先生の新説やお互いの研究動向について長時間飲みながら談論しました。

   そのおり、わたしが蘇我氏の出身地が九州であることの史料根拠として、推古紀十九年条にある推古天皇の次の歌を紹介しました。
  「真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の馬 太刀ならば 呉の真刀 うべしかも 蘇我の子らを 大君の つかはすらしき」
   推古天皇自らが、蘇我氏を大君がつかはすらしきと述べているのですから、この大君は推古天皇ではなく、九州王朝の天子と見なさざるを得ず、そうすると蘇我氏は元九州王朝の人物と考えられると指摘しました。
   西村さんも、蘇我氏九州出身説に賛成され、更に九州の豊国(大分県)の出身であるとされたのです。その根拠をたずねると、西村さんいわく。
   「『日本霊異記』(上巻第五話)の記事に蘇我馬子が祀っていた仏像を豊国に捨てろとあり、崇仏派の蘇我氏は豊国出身と思われる。」というものでした。
 そこでわたしは、それなら全国の「蘇我」さんの分布を調べるといいですねというと、西村さんはケータイに入力している電話帳データベースを検索されたの
です。ちなみに、西村さんのケータイには古事記、日本書紀、倭人伝、和名抄、延喜式神名帳などが登録されており、検索機能付きという優れ物です。
   さて、その検索結果は、なんと最も「蘇我」さんが多い県は大分県だったのでした。同時に、有名な古代氏族である「蘇我」さんが件数としてはかなり少ないことにも驚きましたが、この西村説との一致は偶然とは思えないものを感じさせます。
 この他、話が弾んで「物部」さんの分布についても検索しました。こちらも驚愕の結果がでましたが、別の機会にご紹介したいと思います。


第221話 2009/08/11

条坊と宮域

 古代日本における王都や王宮は、それぞれ目的や設計思想に基づいて造られていますが、中でも代表的な様式として、『周礼』考工記に基づく正方形の条坊都市 の中央に王宮があるタイプと、「天子は南面する」という思想に基づく条坊都市中央北部に王宮があるタイプが著名です。なお、後者を古田先生は「北朝様式」 とされています。

 今回、井上氏の研究成果に基づいて提案した九州王朝の宮殿の変遷をこの様式から見ますと、初期太宰府の「王城」宮は『周礼』様式、前期難波宮は「天子南面」様式、そして太宰府政庁(2期)は「天子南面」様式となり、九州王朝は前期難波宮から「天子南面」様式という設計思想を採用したことになります(ただし、前期難波宮は条坊が無かったようです)。すなわち、九州王朝は七世紀中頃から「天子南面」思想を、その副都に採用したことになるのです。その事情についてはこれからの研究課題ですが、重要で興味深いテーマです。
 九州王朝に対して、大和朝廷の王都を見ますと、大和朝廷にとって最初の条坊都市である藤原京(新益京)は『周礼』様式で、平城京からは「天子南面」様式となります。これも九州王朝との関係で考察する必要がありそうですが、特に藤原京完成時はまだ九州王朝が健在なので、太宰府政庁(2期)や前期難波宮と同 じ「天子南面」様式の採用を憚ったのではないでしょうか。
 実は藤原京の宮域については、一旦造った条坊と側溝を埋め立てて宮域にしたということが発掘調査でわかっており、初めから条坊と同時に宮域ができたのではないのです。これは、もしかすると藤原宮の建築にあたって、条坊区画のどの部分を宮域にするのか、九州王朝に遠慮してなかなか決められなかった痕跡かもしれませんね。(つづく)


第220話 2009/08/10

条坊都市太宰府と前期難波宮

 九州王朝の首都太宰府に対して、前期難波宮を九州王朝の副都とする仮説をわたしは提案していますが、実はこの仮説にも弱点がありました。それは、礎石を持つ瓦葺きの太宰府政庁(2期)に対して、その後(九州年号の白雉元年、652年)に造られたとした前期難波宮が朝堂院様式の大規模な宮殿でありながら堀立柱で板葺きであるという点でした。これは宮殿様式の発展から見て、ちょっとアンバランスかなという思いがあったのです。

 しかしこの問題も井上氏の研究成果により発展解消できそうなのです。新たな仮説によれば、九州王朝の宮殿様式の発展が次のような順序になるからです。まず、7世紀初頭(九州王朝の倭京元年、618年)に、通古賀地区の字扇屋敷を宮域とする初期太宰府の宮殿、仮に同地にある王城神社にちなんで「王城」宮と呼んでおきますが、この「王城」宮を中心とする条坊都市初期太宰府が建都され、九州年号の白雉元年(652年)に前期難波宮(朝堂院様式・堀立柱)を副都として創設、その後に太宰府政庁(2期、朝堂院様式・礎石造り)が新設されるという順序です。

 これですと、最も新しい王宮となる太宰府政庁(2期)が朝堂院様式と礎石を持っていることになり、前期難波宮がまだ礎石造りでないこととうまく整合するのです。なお、初期太宰府の「王城」宮がどのような様式であったかは不明ですが、この発展史からすれば、掘立柱の板葺きであった可能性が大です。今後の考古学的調査の結果や研究を待ちたいと思います。
   さらにこの宮殿発展史にはもう一つの視点が重要です。それは、条坊都市中の宮殿の位置です。(つづく)


第219話 2009/08/09

観世音寺創建瓦「老司1式」の論理
 太宰府条坊と政庁・観世音寺の中心軸はずれており、政庁や観世音寺よりも条坊が先行して構築されたという井上信正氏(太宰府市教育委員会)の調査研究を
知るまで、わたしは条坊都市太宰府は政庁(九州王朝天子の宮殿)を中心軸として7世紀初頭(九州年号の倭京年間618〜623)に成立したと考えていまし
た。すなわち、条坊と政庁は同時期の建設と見ていたのでした。

 しかし、この仮説には避けがたい難題がありました。それは観世音寺の創建時期との整合性です。観世音寺は、『二中歴』年代歴に白鳳年間(661〜
683)とする記述「観世音寺を東院が造る」があること、更に創建瓦の老司1式が藤原宮のものよりも古く、むしろ川原寺と同時期とする考古学的編年から、
その創建時期を7世紀中頃としていました。その結果、条坊都市太宰府ができてから、観世音寺が創建されるまで20〜40年の差があり、その間、政庁の東に
ある観世音寺の寺域が「更地」だったこととなり、ありえないことではないかもしれませんが、何とも気持ちの悪い問題点としてわたしの脳裏に残っていたので
す。
   ところが、井上氏の研究のように、条坊が先で政庁と観世音寺が後なら、この問題は生じません。およそ次のような順序で太宰府は成立したことになるからです。
   通古賀地区の宮域を中心とした条坊都市が7世紀初頭に成立。次いで7世紀中頃に条坊の北東部に観世音寺が創建され、その後に政庁(第2期)が完成。
   もちろん、これはまだ検討途中の仮説ですが、この場合、条坊の右郭中央部にあった宮域が、後に北部中心部に新設されたことになり、「天子は南面」するという思想に基づいて、宮域の新設移動が行われたのではないでしょうか。
 このように、井上氏の研究は、九州王朝の首都太宰府の建都と変遷を考察する上で大変有益なものなのですが、大和朝廷一元史観側にすると、とんでもない大
問題が発生します。それは、藤原宮に先行するとされる老司1式の創建瓦を持つ観世音寺よりも太宰府条坊は古いということになり、日本最初の条坊都市は通説
の藤原京ではなく太宰府ということに論理的必然的になってしまうからです。
   九州王朝説からすれば、これは当然の帰結ですが、九州王朝を認めたくない一元史観(日本古代史学界・考古学界)からすれば、とんでもない話しなのです。大和朝廷のお膝元の藤原京よりも早く、九州太宰府に条坊都市ができたことになるのですから。
  このように通説にとって致命的な「毒」を含んでいる井上氏の研究が、これから一元史観の学界の中でどのように遇されるのか興味津々といったところです。(つづく)


第218話 2009/08/02

太宰府条坊の中心領域

 7月の関西例会で伊東さんが紹介された、太宰府条坊と政庁の中心軸はずれているという井上信正氏(太宰府市教育委員会)の調査研究は衝撃的でした。そのずれの事実から、政庁(2期)や観世音寺よりも条坊の方が先に完成していたという指摘も重要でした。すなわち、現都府楼跡の政庁は条坊が完成したとき(七世紀初頭、九州年号の「倭京」年間と思われる。)にはまだ無く、条坊都市に当然存在したはずの中心領域、すなわち九州王朝の王宮は別にあったことになるからです。
 この点に関しても、井上氏は重要な指摘をされています。それは条坊右郭中央にある通古賀地区に注目され、同地域の小字扇屋敷(王城神社がある)付近からは比較的古い遺物が集中して出土しており、この地区が条坊創建時の中心領域と推定されています。
 しかも、この扇屋敷を中心とする領域は、小規模ながら藤原宮を中心とする大和三山・飛鳥川の配置とよく似ており、同じ風水思想による都市設計ではないかとされています。すなわち、扇屋敷の北には小丘陵(小字東蓮寺)があり、東には古代寺院般若寺から伸びる丘陵地が、南には南東から北西に流れる鷺田川があるのです。
 これを九州王朝説から考察すれば、七世紀初頭の条坊都市の中心領域は通古賀地区であり、ここに九州王朝の宮殿が造られたと考えることが可能です。しかも、「王城神社」という名称も注目されます。更には、井上氏も指摘されていますが、この扇屋敷の中心軸の丁度南のライン上に基山山頂があることも、この地域が重要地点であったことを感じさせるのです。
 まだ研究途中ですが、七世初頭の九州王朝は太宰府に条坊都市を造り、その中心として通古賀地区扇屋敷に宮殿を造ったという仮説は有力のように思われます。そして、もしこの仮説が正しければ、太宰府を先行例として藤原宮・藤原京は太宰府条坊都市と同じ設計思想で造られたことになり、この視点から新たな問題が惹起されてくるのです。(つづく)


第217話 2009/08/01

『古田史学会報』93号の紹介

 『古田史学会報』93号の編集が終わりました。本号は古田先生の論文「仏像論」が掲載されています。古田先生ならではの斬新な切り口で、仏像への思想史的考察が深められた珠玉の一編です。
 今回、初めての試みとして、大下さんと正木さんとの「白雉二年」奉納面をテーマとしたインターネットメールの交信記録を掲載しました。研究者同士の素早い情報交換とアイデアのやりとりが魅力です。ネットによる「共同研究」ともいうべきもので、新しい研究スタイルの可能性さえ感じさせます。

『古田史学会報』93号の内容
○仏像論  古田武彦
○新刊の紹介『なかった 真実の歴史学』第六号
○壬申の乱の謎  千歳市 今井俊圀
○伊倉 10 ─天子宮は誰を祀るか─  武雄市 古川清久
○連載小説「彩神」第十四話 梔子(1) 深津栄美
○古田史学の会 第十五回定期会員総会の報告
○「白雉二年」奉納面メール談論  豊中市 大下隆司/川西市 正木 裕
○古田史学の会 関西例会のご案内
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○〈DVD〉「東京古田会News」のご紹介
○『古田史学会報』原稿募集