2010年09月一覧

第283話 2010/09/26

「洛中洛外日記」の出版構想

9月23日に水野代表宅で『古代に真実を求めて』14集の編集会議を行いました。採用稿の選考などを行った後、ひとしきり古代史談義の花が咲き、今後の「古田史学の会」運営などの雑談会となりました。
その中で、太田副代表より各人が著書を出版したらどうかとの意見が出されましたので、わたしとしてはこの「洛中洛外日記」をきりの良い時点で出版する考 えのあることを述べました。本にしておくと読み返すのに便利ですし、自らの思考や研究の変遷などを確認したり整理するのにも好都合ですから。
幸いにして、「洛中洛外日記」はわたしの予想以上に好評を博しているようですし、古田史学や「古田史学の会」の歴史を記録する役割も少しは果たしていますので、書籍として後世に残しておいても許されるのではないかとも思っています。
他方、関西例会等に参加できない遠方の会員から、「洛中洛外日記」の更新頻度を上げて欲しいという有り難い声も頂いていますが、新発見や新たなアイデ ア、古田学派内のニュースに触れた内容にすることを心がけていますので、今の程度の更新ペースになってしまいます。仕事が忙しいのを理由にはできません が、出張などが続くと、さすがに歴史研究にまで頭がまわらないのが実状です。
とは言え、「洛中洛外日記」の執筆はわたし自身の知的刺激にもなっていますので、これからも頑張って書き続けます。ご批判も含めた叱咤激励をお願いいたします。


第282話 2010/09/19

孝徳紀「東国国司詔」の新展開

 関西例会では大化改新詔の研究が進められていますが、その中心的研究者の正木さんが今回も新たな仮説を発表されました。それは、孝徳紀の東国国司詔の中に文武天皇の即位の宣命が挿入されているというものです。ちょっと恐い仮説ですがなかなか説得力のある論証が試みられました。会報での発表が期待されます。 
 竹村さんからは今回も多数の発表がなされましたが、中でも日本書紀訓註の一覧データは示唆的でした。日本書紀には難解な字などに訓註(読み)が施されて いますが、万葉仮名が整理統一される以前の古い史料に基づいたと思われる神代紀や神武紀に特に訓註が多く施されています。ところが、皇極紀・孝徳紀・斉明紀・天武紀にも他の天皇紀に比べて訓註が頻出しているのです。他方、天智紀は訓註がゼロです。
 この現象は日本書紀編纂時の原史料の性格の違いによるものと思われますが、この現象が竹村さんの一覧データにより明白となりました。このような史料のデータ化は文献史学の地道な基礎研究に属すると思いますが、こうしたデータが例会に報告されることは研究者として大変ありがたいことです。
 9月度関西例会の発表テーマは次の通りです。

〔古田史学の会・9月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 武烈を誰が殺(や)った(豊中市・木村賢司)

2). 菩薩は全て女性(豊中市・木村賢司)

3). 「評」の淵源についての若干の考察(川西市・正木裕)
「評」の淵源は、前漢代の「廷尉評(平)」にあり、後漢の光武帝は詔獄(警察・裁判)を所掌させ、魏・晋以後もその職は強化された。一方、「都督」の淵 源も光武帝代の督軍御史(督軍制)にあり、魏の曹丕は地方諸州の軍政を所掌する都督を初めて常設し、数万〜十数万の軍の指揮を執らせた。 この様に、金印を授かった後漢から、倭国が臣従した魏・晋朝にかけ都督と評は並存しており、そうした状況の下、倭国が都督—評督制を創設したことは想像に 難くない。

4). 西村干支計算表を使って、日本書紀の干支の比較検討(木津川市・竹村順弘)
1)朔日干支の記事分布とその概要 2)干支記事の偏在有無の検証 3)例外記事の考察 4)結語

5). 日本書紀訓註の謎(木津川市・竹村順弘)

6). こなべ古墳の被葬者(木津川市・竹村順弘)

7). 新羅本紀「阿麻来服」記事と「倭皇天智天皇」(大阪市・西井健一郎)

8). 東国国司詔の実年代(川西市・正木裕)
(1)『書紀』大化元年(六四五)八月の「東国国司招集の詔」の発せられた実年は、九州年号大化元年(六九五)であり、近畿天皇家が、九州王朝により任命されていた国宰の権限を剥奪・縮小し、律令施行に向け新職務を課す主旨。
(2)大化二年(六四六)三月の「東国国司の賞罰詔」は、文武二年・九州年号大化四年(六九八)に、近畿天皇家が、新政権への忠誠度や新職務の執行状況により、国宰を考査し処断・賞罰を行う旨の表明。
(3) 賞罰詔中に記す「去年八月」の詔とは、文武元年八月(六九七)の文武即位の宣命を指し、文武への忠誠と、国法遵守を命じたもので、これを基に賞罰が行われたと考えられる。

9). 三国史記と日本書紀の二倍年暦(木津川市・竹村順弘)

10). 日本第四紀地図とナラ山(木津川市・竹村順弘)

○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・牽牛子塚古墳見学会・他(奈良市水野孝夫)


第281話 2010/09/19

筑後の物部氏

第207話「九州王朝の物部」で、 九州王朝のある時期の王族は物部氏ではなかったかとする仮説を関西例会で発表したと述べましたが、その根拠の一つに高良玉垂命の系図(稲員家系図・松延家 系図・等)に玉垂命が物部であると記されていることにありました。あるいは高良大社文書の『高良記』にも玉垂命が物部であることは「秘すべし」とあり、も し外部に知れたなら「全山滅亡」とまで記されていることでした。
わたしは高良玉垂命は倭の五王時代の筑後遷宮した九州王朝の王たちではないかとする説を発表していましたから、そうすると倭の五王は物部氏になってしまうと考えざるを得ないことになったのです。もちろん、まだ断言できるほどの確信はありません。
そうしたことから、もう一つ気に掛かっていたのが、『和名抄』に記録されている筑後国生葉郡物部郷の存在でした。『太宰管内志』ではその物部郷は「今は 廃れてなし」とされており、所在地は謎に包まれていました。そこで、第222話「蘇我氏の出身地」で触れましたように、西村秀己さんの携帯による電話帳検 索により福岡県の物部さんの分布を調べてもらったところ、何とうきは市浮羽町に集中していたのでした。
わたしは福岡県内であれば筑豊地方に物部さんが多いと漠然と推定していたのですが、検索結果は浮羽町だったので、大変驚きました。そうすると物部郷も浮 羽町かその近隣にあったと考えて良いように思われます。ちなみに、わたしの本籍地は旧「浮羽郡浮羽町大字浮羽」でした。
そうすると、この物部郷の物部さんと高良大社玉垂命の物部との関係が気になりますが、今のところよくわかりません。また、浮羽郡在地の大氏族である「い くはの臣」と物部氏との関係も検討が必要です。10月9日(土)に久留米地名研究会主催で講演を予定していますので、この点を当地の皆さんにうかがってみ たいと考えています。


第280話 2010/09/12

ドラッカーと古田武彦

 最近、仕事上の必要性からピーター・F・ドラッカーの著作やその解説書を集中して読んでいます。ご存じの通り、ドラッカーは「経営学の父」「20世紀を代表する知の巨人」と称されている人物ですが、その難解な表現や概念に悪戦苦闘しながら読み進めています。
 難解ではあるのですが、その論理性や学問の方法が古田先生から教えられたフィロロギーの手法と相通じるものがあり、読んでいて大変波長があうのです。特
にドラッカーは歴史学者でもあり、その深い洞察力には驚かされ、勉強になります。もっと早くから読んでおけばよかったと少なからず後悔していますが、今か
らでも遅すぎることはないと毎日のように貪り読んでいます。
 そんな中、一昨日は『知の巨人ドラッカー自伝』(日経ビジネス人文庫)を読み終えました。それでドラッカーと古田先生との面白い共通点があることを知り
ました。たとえば、古田先生の初期三部作『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』(朝日新聞社刊。ミネルバ書房から古田武彦コレ
クションとして最近復刻されました)は有名ですが、ドラッカーにも初期三部作というものがあるそうです。『経済人の終わり』『産業人の未来』『会社という
概念』の3冊です。
 中でも、ドラッカーの処女作『経済人の終わり』は、台頭するファシズムや全体主義を批判し、ナチスドイツとソ連が手を組むと予想していたため、左翼や共
産主義者の妨害にあい出版の引受先がなかなか見つからなかったとのこと(1939年の出版の半年後、独ソ不可侵条約が締結され、ドラッカーの予言は的中し
ました)。  
 古田先生の親鸞研究の名著『親鸞思想』も真宗教団の圧力により、当初出版予定していた京都の某書肆からは出版予告までしておきながら出版されなかったと
いう歴史があり、この点もドラッカーとの共通点の一つでしょう(『親鸞思想』は後に冨山房から出版され、明石書店から復刻されました)。
 ドラッカーの信望者を「ドラッカリアン」とよぶそうですが、それに習えば私は「フルタリアン」ですが、もうすぐ「ドラッカリアン」にもなりそうな予感を持ちながら、酷暑の京都でドラッカーを読んでいます。


第279話 2010/09/11

難波京条坊の初確認

 9月1日から2日にかけての webや新聞紙上で、難波京に条坊跡が確認されたとのニュースが掲載されました。大阪文化財研究所の高橋工難波宮調査事務所長から発表されたもので、天王寺区上町遺跡で奈良時代の難波京の条坊に架かっていた橋の橋脚が発見され、条坊の痕跡と見られるという内容です。この発見により、難波京に条坊が存在していたことはほぼ確実と思われます。
 実は今回の新発見をわたしたちはマスコミ発表前に知っていました。8月の関西例会での特別講演として、高橋工氏が「古代の難波 — 発掘調査の最前線」というテーマで発表された中で、最大の眼目が今回の条坊痕跡の発見だったからです。高橋氏も、まだマスコミには発表していない最新のテーマと言われていまし た。
 マスコミへの発表前ということもあり、高橋氏にご迷惑をおかけしないよう配慮して「洛中洛外日記」でも今日まで触れずにきました。本当に画期的な発見だと思います。
 橋脚から出土した土器が8世紀前半のものとのことですので、この橋は聖武天皇による後期難波宮の時代の築造とされていますが、条坊も後期難波宮になって初めて造営されたのか、それとも前期難波宮(九州王朝の副都)時代に既に造営されていたのかという、重要な課題があり、今後も調査研究を深めていきたいと思っています。