「 2011年09月 」一覧

第339話 2011/09/25

「大歳庚寅」象眼鉄刀銘の考察

 出張先の名古屋のホテルで読んだ中日新聞(9月22日)に、福岡市西区の元岡古墳群から出土した鉄刀に象眼があり、エックス線写真によると、「大歳庚寅正月六日庚寅日時作凡十二果(練)」の文字が確認されたとのことでした(「練」は推定)。
 「庚寅正月六日庚寅」と、年干支・日付干支があるので、570年の庚寅であることがわかります。九州王朝中枢領域から出土した6世紀後半の金石文ですか ら、わたしも大変貴重な史料が出たと喜びました。その後、今日まで銘文について検討を行い、いくつかの興味深い問題が見えてきました。
 まず第一は、その年・日付干支から、九州王朝では『三正綜覧』などで復原された「長暦」が少なくとも6世紀後半から7世紀全般にわたって使用されていたという事実がわかります。たとえば、この他に九州王朝系金石文で年・日付干支の両方が判明するものとして、法隆寺釈迦三尊像光背銘「(壬午)二月廿一日癸酉」(622)、妙心寺銅鐘「戊戌年四月十三日壬寅」(698)の存在があり、いずれも「長暦」によることがわかっていました。こうした九州王朝中枢の金石文が指し示す史料事実から九州王朝使用暦が一層明確となったわけです。
 九州王朝説論者の中には、『三正綜覧』による暦日干支復原を否定し、妙心寺銅鐘の戊戌年を638年とする見解もあるようですが、それは無理であったことが今回の鉄刀の出土により更に明らかとなりました。
 第二に注目されるのが「大歳庚寅」という大歳干支表記です。この「大歳○○」(○○は干支)という表記方法は『日本書紀』に見られる独特のもので、各天皇の即位元年条末尾に記載されています。神武天皇など若干の例外はありますが、各天皇の即位年干支の表記方法なのです。この大歳干支表記について、岩波 『日本書紀』補注では百済からもたらされたものではないかと説明されています。
 しかし今回の出土で、大歳干支表記が九州王朝下で使用されていた ことが判明し、『日本書紀』はその九州王朝の大歳干支表記を採用したこととなり、しかも天皇即位年の表記に使用されているという『日本書紀』の史料事実から、これも九州王朝史書からの模倣の可能性があることから、九州王朝でも歴代天子の即位年記録に大歳干支を使用していたものと推察できるのです。
 そうであれば、この庚寅年の570年に九州年号が「和僧」から「金光」に改元されていることから、もしかすると前年の和僧五年(569)に九州王朝の倭王が没し、翌年の庚寅に次の倭王が即位したことから、鉄刀には「大歳庚寅」と象眼されたように思われます。このように九州年号の改元と一致していることは示唆的です。
 以上のように、今回出土した鉄刀銘文は九州王朝史研究にとっても貴重な金石文であり、更なる研究が必要です。なお、出土した古墳が7世紀中頃と編年されていますが、鉄刀銘文の庚寅年(570)と離れていることから、北部九州の古墳編年についても検討の余地が必要かもしれません。更に同古墳から出土した古墳時代では国内最大級の銅鈴の検討なども今後の課題です。


第338話 2011/09/24

公卿補任のONライン

 9月17日の関西例会で、竹村さんが公卿補任(くぎょうぶにん)の調査結果を報告されました。公卿補任は近畿天皇家の歴代の職員録で従三位以上が記されています。著者や成立年代は不明とのことですが、そこに記された739年まで年別の登録人員数の集計をされました。
その結果、701年を境に人数が増えるという現象を発見されたのです。そしてその原因として、701年以降になって近畿天皇家は自らの官僚名を正確に記 し、それ以前の九州王朝の官僚は記されていないため、人数が少ないのではないかとされました。正に王朝交代の画期点である701年(ONライン)が公卿補任にも反映している可能性を指摘されたのです。大変優れた調査結果と考察だと感心しました。
 竹村さんには、公卿補任だけでなく、例えば『二中歴』の「都督歴」なども調査されるよう要請しました。このところ、竹村さんの研究発表には刺激されることが多く、毎月の例会が楽しみです。
 奈良市の原さんからも久しぶりに発表があり、当麻寺の中将姫伝説などを教えていただきました。
当日の発表は次の通りでした。
 
〔古田史学の会・9月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 『俾弥呼』を読む(向日市・西村秀己)
2). 青木さんからの手紙(豊中市・木村賢司)
3). 「論争のすすめ」(会報105号)について(豊中市・大下隆司)
4). 公卿補任の大宰帥(木津川市・竹村順弘)
5). 大宰帥の家系図(木津川市・竹村順弘)
6). 当麻寺の曼陀羅由来・他(奈良市・原幸子)
7). 久留米・太宰府地名研究会講演会の報告(川西市・正木裕)
 
○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田氏近況・会務報告・住吉神社研究・他(奈良市・水野孝夫)

第337話 2011/09/10

畢生の書『俾弥呼(ひみか)』

 待望の一書が出ました。古田先生の新著、ミネルヴァ日本評伝選『俾弥呼(ひみか)』です(ミネルヴァ書房、2800円税別)。1971年に『「邪馬台国」はなかった』で衝撃の古代史デビューを飾った古田先生の「畢生の書」と、『俾弥呼(ひみか)』の「おわりに」で自ら書かれているように、古田史学のみならず日本古代史研究の歴史に残る一冊となりました。
 内容は、初めて古田史学に触れる読者にも理解できるよう、自らの学説の解説や、研究者にとっても貴重な「学問の方法」を明確に意識されたものとなってい ます。また、俾弥呼のことだけにとどまらず、倭人伝研究の精髄を縦横無尽に展開されていることは、その目次を見ただけでも明確です。
 古田学派の研究者にとって、同書は『「邪馬台国」はなかった』とともに必読(熟読玩味)の一書といえるでしょう。80歳を過ぎて、なおこのような名著を世に出される古田先生に敬意を表すると共に、心から同書の刊行をお祝いしたいと思います。
 なお、『俾弥呼(ひみか)』発刊と『「邪馬台国」はなかった』刊行40周年を記念して、古田先生による記念講演会「俾弥呼とは誰か」が、10月8日(土) 京都教育文化センター(京都市左京区・定員350名。資料代500円。13時30分~16時)で開催されます(主催:ミネルヴァ書房)。記念すべき1日と なるでしょう。是非、ご参加下さい。


第336話 2011/09/03

『勝山記』の観世音寺創建記事

 大型の台風12号の接近のため、今日は外出を控えて終日原稿執筆の予定ですが、昨日、山梨県の会員で井上さんからお便りが届き、九州年号史料としても有名な『勝山記』のコピーが同封されていました。
 『勝山記』は今から20年ほど前に読んだことがあるのですが、現在は当時よりも九州年号研究もはるかに進展していますし、問題意識も深まっていますので、送られたコピーを見ましたところ、いくつかの面白い記事が目にとまりました。
 その一つが観世音寺の創建に関する記載でした。『勝山記』の白鳳10年(670)の項に、「鎮西観音寺造」と記されているのですが、鎮西の観音寺とは太宰府の観世音寺のことと考えられ、その創建年次が具体的に記された史料としては管見では『勝山記』だけなのです。
 『二中歴』年代歴には白鳳年間の細注として、「観世音寺東院造」とあるのですが、白鳳の何年かまでは記されてはいません。従って、『勝山記』のように白鳳10年という具体的年次のわかる史料は貴重なものです。もちろん、『勝山記』の史料批判も含めて今後の課題として残されており、この白鳳10年記事が 歴史事実かどうかは総合的に判断しなければなりませんが、観世音寺の創建年次を記した史料として貴重なものであることに違いはありません。
 今回、『勝山記』の白鳳10年(670)「鎮西観音寺造」の記事に、わたしが興味を引かれたのには、ある理由がありました。それは、『二中歴』の白鳳年号細注の「観世音寺東院造」の読み方として、わしは「観世音寺を東院が造る」と解し、東院を人名とする読みが有力と考えているのですが、そうではなく「観世音寺の東院を造る」と読み、東院を建物とする理解も可能であり、そちらが正しいとする見解もあるからです。
 もちろん読み方としてはどちらも可能なのですが、年代歴の九州年号細注の記載方法として、「倭京二年難波天王寺聖徳建」という記事があり、こちらは「難波天王寺を聖徳が建てた」と読まざるを得ません。ですから同様の表記ルールで読むのが史料批判上まっとうな方法ですから、観世音寺の場合も東院という人物が造ったと読むべきですし、それに何よりも、もし東院とは別に観世音寺本体が創建されていたのなら、年代歴にはそちらが記載されるべきなのではないでしょうか。『二中歴』九州年号細注には「始めて~」という記載が多く、その始めての事例を記載することが目的のような年代歴なのですから、観世音寺本体の創建を記さず、その「東院」の創建記事のみを記したとは考えにくいのです。
 更にいうなら、白鳳年間に観世音寺の東院を造ったと読みたい論者の目的は、観世音寺創建年代を更に古くしたいということにあるようです。従って、『二中歴』の白鳳の記事を、その表記ルールを無視して、「白鳳年間に創建されたのは観世音寺の東院」としなければ、都合が悪かったのです。
 しかしこうした理解は、表記ルールだけでなく、考古学的にも無理があります。今までも度々指摘してきましたが、観世音寺創建瓦の「老司1式」は7世紀中 頃から後半の瓦とされていますので、『二中歴』の白鳳年間創建でぴったり一致しています。その上、観世音寺遺構とは別に「東院」伽藍のような遺構は発見されていません。
 このように、『二中歴』年代歴の表記ルールや考古学的事実からも、観世音寺は白鳳年間に創建されたと理解せざるを得ないのです。その上で、今回「発見」した『勝山記』の白鳳10年(670)「鎮西観音寺造」の記事は、こうした理解を支持する史料根拠となるのです。他にも九州年号を用いた年代記に観世音寺創建記事が見つかるかもしれません。更に調査したいと思います。『勝山記』コピーを送っていただいた井上さんに感謝申し上げます。