「 2012年06月 」一覧

第422話 2012/06/10

「十五社神社」と「十六天神社」

 先日訪れた天草で見た「十五社神社」が気になり、ネットで調べたのですが、阿蘇十二神などを含む十五柱の祭神が祭られて いるため「十五社神社」と称されたとする説明や、「龍王」が訛って「じゅうご」と呼ばれたことにより「十五社」と当て字されたとする説などがあるようで す。
 わたしは「十五柱の祭神が祭られているため」とする説には賛成できません。なぜなら、祭神の数で命名されたのであれば、十五社だけでなく、「十一社」や 「十二社」、「十三社」、「十四社」という名前の神社も多数あってしかるべきですが、そのような神社名はあまり聞いたことがありません。やはり、本来の語 源の音(おん)に対して、後世「十五社」という字が当てられたとするべきでしょう。もちろん先に紹介した「龍王」がその語源かどうかは、わたしにはまだわ かりません。
 わたしがこのように判断したのには、ある一つの研究経験があったからです。それは筑前に多数分布する「十六天神社」についての研究と考察の経験です。通 常、この「十六天神社」についても、天神・地神が十六柱祭られているからと説明されることが多いのですが、「十五社神社」と同じ理由から、わたしはこの説 明に納得できなかったのです。それならなぜ「十七天神社」「十八天神社」「十九天神社」が無いのかという理由からです。
 ところが筑前の地誌などを調べてみると、この「十六天神社」の祭神を埴安彦・埴安姫とするものがあることに気づいたのです。というのも、同じく筑前に数 多く分布する神社に地禄神社があり、その祭神が埴安彦・埴安姫なのです。そこでわたしは、「ぢろく」あるいは「じろく」と呼ばれていた神社の当て字に「地 禄」と「十六」が用いられ、それぞれ「地禄天神社」「十六天神社」となり、後世にいたって「十六天神社」の方は十六柱の天神・地神を祭神とする付会がなさ れたのではないかと考えるに至ったのです。
 このように考えれば、筑前に濃密に分布する「十六天神社」と「地禄天神社」が共に祭神を埴安彦・埴安姫とする状況をうまく説明できるのです。しかし、問 題はこの次です。なぜ埴安彦・埴安姫が「ぢろく天神社」に祭られたのかという問題です。日本書紀神話では埴安神はイザナミがカグツチ神を生んだときにその 糞から生成した神とされ、「土の神」とされています。その「土の神」がなぜ「天神」とされ、「ぢろく」と呼ばれているのかが研究課題として残っているので す。
 おそらく、埴安彦・埴安姫は天孫降臨以前の北部九州の土着の神々ではなかったかと想像していますが(「地禄田神」という表記もあり、興味深いと思います)、天草の「十五社神社」の縁源とともに、これからも検討していきたいと考えています。


第421話 2012/06/09

『古田史学会報』110号の紹介

 一昨日と昨日、鹿児島県・熊本県・宮崎県を仕事で回ってきました。天草市で宿泊したのですが、途中、八代市や宇土半島を通過しました。同地域は、『倭姫世記』に記された「淡海」を琵琶湖ではなく八代市河口とされた西村秀己さんの研究以来、古田学派内で注目を浴びていること もあって、出張のついでとは言え実見することができてラッキーでした。
宿泊した天草では、「十五社神社」という今まで知らなかった神社が散見され、興味を引かれました。このことについては、別途書きたいと思います。
『古田史学会報』110号が発行されましたのでご紹介します。拙論「観世音寺・大宰府政庁II期の創建年代」の他、札幌市の期待の新人、阿部周一さんの 「無文銀銭」-その成立と変遷-などが掲載されています。阿部稿はなかなかの労作で、九州王朝と無文銀銭の関係を詳しく考察されています。
掲載論文・記事は次の通りです。なお、六月十七日には古田史学の会会員総会と記念講演を開催しますので、会員の皆様のご出席をお願いします。記念講演会は非会員の方も参加できます。

〔『古田史学会報』110号の内容〕
○観世音寺・大宰府政庁II期の創建年代  京都市 古賀達也
○補遺 観世音寺建立と「碾磑」  川西市 正木 裕
○「無文銀銭」–その成立と変遷  札幌市 阿部周一
○磐井の冤罪 IV  川西市 正木 裕
○「邪馬一国」は「女王国」ではない
-『東海の古代』の石田敬一氏への回答-  姫路市 野田利郎
○(書評)古田武彦著『人麿の運命』 京都市 古賀達也
○遺跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○古田史学の会会員総会・記念講演会(六月十七日)のご案内
○「古田史学会報」原稿募集


第420話 2012/06/02

「はるくさ」木簡の考察

 難波宮編年の勉強を続けていて気がついたことがあります。それは難波宮南西地点から出土した「はるくさ」木簡に関することです。第352話「和歌木簡と九州年号」でもふれましたが、万葉仮名で「はるくさのはじめのとし」と読める歌の一部と思われる文字が記された木簡が、前期難波宮整地層(谷を埋め立てた層)から出土し、注目されました。
 わたしは、この「はじめのとし」という表記に興味をいだき、これは年号の「元年」のことではないかと考え、この時期の九州年号として、「常色元年」 (647)の可能性が高いと判断しました(「としのはじめ」であれば新年正月のことですが)。もちろん「白雉元年」(652)の可能性もありますが、『日 本書紀』によれば652年に完成したとされる前期難波宮の整地層からの出土ですから、やはり「常色元年」だと思います。
 このわたしの理解が正しければ、この木簡の歌は、春草のように勢いよく成長している九州王朝の改元を言祝(ことほ)いだ歌の一部ということになります。 そうすると、この歌は九州王朝の強い影響下で詠まれたものであり、その木簡が出土した前期難波宮を九州王朝の宮殿(副都)とするわたしの説に整合します。 ちなみに、この常色年間は九州王朝が全国に評制を施行した時期に当たり、「はるくさの」という枕詞がぴったりの時代です。
 さらに言えば、7世紀中後半での九州年号の改元は、「常色元年」「白雉元年」を過ぎると、「白鳳元年」(661)、「朱雀元年」(684)、「朱鳥元 年」(686)、「大化元年」(695)であり、これらの年が「はじめのとし」の候補となるのですが、661年は斉明天皇の時代です(近江京造営時期)。 684年と686年では天武天皇の晩年であり、その数年後に宮殿が完成したとすれば、それは藤原宮造営時期と同年代になります。しかし、出土土器の編年は、前期難波宮整地層と藤原宮整地層とでは明確に異なります。
 したがって、「はるくさ」木簡の「はじめのとし」を九州年号の「元年」のことと理解すると、前期難波宮整地層の年代は7世紀中頃にならざるを得ないと言 う論理性を有していることに気づいたのです。この論理性の帰結と、現在の考古学編年が一致して前期難波宮の造営を7世紀中頃としていることは重要なことだと思います。もちろん、「はじめのとし」を「元年」ではなく、もっと合理的でふさわしい別の意味があれば、わたしのこの説は撤回します。今のところ「元年」と理解するのが最も妥当と思っていますが、いかがでしょうか。