2013年01月一覧

第519話 2013/01/30

『養老律令』の中の大宰府

 大和朝廷は自らの最初の律令として「大宝律令」を公布しましたが、残念ながら現在は伝わっていません。その後『養老律令』を制定し、その内容から「大宝律令」の復元研究が試みられてきました。その『養老律令』の中には九州王朝の痕跡が残されているのですが、その最たるものは「大宰府」です。
 『養老律令』には中央官庁の組織とともに地方官組織についても規定されているのですが、九州の9国(筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・大隅・薩摩)だけは大宰府を介して支配しており、他の諸国とは異なる扱いとなっています。すなわち、大和朝廷は九州王朝の旧直轄支配領域(九州島)だけは、九州 王朝の「中央組織」であった大宰府による間接支配を行ったのです。
 こうした九州島諸国の特異な支配形態こそ、九州王朝が存在した痕跡(証拠)であり、大和朝廷一元史観では説明困難な『養老律令』の史料事実なのです。なお、現存地名は「太宰府」ですが、『養老律令』などでは「大宰府」の字が使用されています。


第518話 2013/01/29

「律令」の中の九州王朝

 今年に入って、『養老律令』の研究を進めています。2月24日の東京講演(多元的古代研究会主催)での発表の準備も兼ねていますが、『養老律令』を精査することにより、九州王朝の痕跡を探し、九州王朝史復元が進められると考えたからです。
 701年に九州王朝に代わって列島の代表王朝となったばかりの大和朝廷の姿を研究することにより、その直前の7世紀の九州王朝の実体が見えてくると思う
のですが、その理由として大和朝廷は九州王朝の制度を利用し、王朝交代直後の諸制度は九州王朝の影響を色濃く受けていると考えられるからです。
 たとえば、701年以後の行政単位である「郡」の名称や規模が九州王朝の「評」とほぼ同じということや、『日本書紀』に九州王朝史書の盗用が行われてい
ることから、大和朝廷は九州王朝の「実績」「権威」を受け継ごうとしたことが判明しており、これらのことから大和朝廷は九州王朝に自らの姿を似せて体制作
りを試みたと考えられるのです。
 たとえば、『養老律令』には「蔵司(くらのつかさ)」という職掌(役所)がありますが、九州王朝の都である大宰府政庁の西側に「蔵司」という地名があり
大規模倉庫遺跡が出土していることから、「蔵司」という職掌はもともと九州王朝に存在していたと考えられ、九州王朝律令にも「蔵司」の項目があったと推定
されるのです。
 このように大和朝廷の「律令」を研究することにより、九州王朝の復元研究も可能となるのです。来る東京講演ではこうした視点から「王朝交代の古代史 –7世紀の九州王朝」について発表します。ご期待ください。


第517話 2013/01/21

「ガリ」地名の広がり

 先週、雪の中を北陸三県へ出張しました。そのおり偶然、石川県白山市に根上(ねあがり)という地名があることを知りました。この「ねあがり」という地名は吉野ヶ里などと同類の「ガリ」地名ではないかと感じました。
 弥生時代の環濠集落として有名な吉野ヶ里遺跡のように地名接尾語「ガリ」を持つ地名は佐賀平野に多くみられるのですが、筑後川を挟んで東側の筑後平野に
は、わたしの記憶では無かったように思います。このように「ガリ」地名は非常に偏った分布を示します。
 一方、大阪府と奈良県の境にある暗峠の「クラガリ」や、信州尖石遺跡の「トガリ」も同様に「ガリ」地名ではないかと推測しています。さらに東日本大震災
で被災した大曲(おおまがり)も「ガリ」地名のように思えます。もしかすると北海道の石狩平野のイシカリや山口県光市のヒカリもそうかもしれません。
 このように見てみると、「ガリ」地名は日本列島内の広範囲に分布している可能性があります。この「ガリ」の意味はよくわかりません。地名接尾語「が
(賀)」に「り(里)」がついたのかもしれませんが、今のところ不明とせざるを得ません。これら地名成立がいつの時代まで遡るのかも今後の課題です。どな
たか調査研究してみませんか。


第516話 2013/01/19

倭人伝の官名と青銅器

 本日の関西例会は新年最初にふさわしく、優れた研究発表が続きました。中でも正木さんの発表は驚きのあまり参加者が拍手を忘れるというほど優れたものでした。詳細は「古田史学会報」で発表予定ですが、倭人伝に記された伊都国や奴国の官職名が古代中国の祭祀に用いられた青銅器に由来するというものです。
 服部さんは初めての例会発表でしたが、これもまた優れたもので、「古田史学会報」への寄稿を要請しました。「法隆寺の物差しは中国南朝尺の材」とされた川端俊一郎説への批判ですが、わたしも疑問に感じていた点を鋭く指摘されました。
 竹村さんの発表は、日本列島や沖縄の縄文人と東てい(魚是)国との関係に言及したもので、今後の展開が期待されます。
 わたしからは、新潟県「城の山古墳」から出土した盤龍鏡は九州王朝からのものとする考察を発表し、大和朝廷一元史観による新聞発表を批判しました。また、七世紀の須恵器編年についての報告では、前期難波宮創建を天武朝とする小森俊寛説が成立しないことと、大宰府政庁の須恵器編年と近畿の須恵器編年との矛盾について論じました。
 1月例会の報告テーマは次の通りでした。

〔1月度関西例会の内容〕
1). 「法隆寺の物差しは中国南朝尺の材」は成り立つか(八尾市・服部静尚)
2). てい(魚是)海(木津川市・竹村順弘)
3). アンチョビとキュウリエソ(木津川市・竹村順弘)
4). 古田武彦著作で綴る史蹟百選・九州篇その2(木津川市・竹村順弘)
5). 新潟県「城の山古墳」出土盤龍鏡の考察(京都市・古賀達也)
6). 7世紀の須恵器編年 — 小森俊寛説が成立しない理由(京都市・古賀達也)
7). 「魏志倭人伝」伊都国・奴国の官名 — 仁平さんとともに(川西市・正木裕)
8). 北河堀町所在遺跡発掘調査現地説明会資料の解説(京都市・古賀達也)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・賀詞交歓会の報告・中村通敏氏「大津透説批判CD」・谷川清隆氏「日本書紀成立に関する一試案」・その他


第515話 2013/01/18

新潟県「城の山古墳」出土の盤龍鏡

 先日、四国出張の際に高松市で西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人・会報編集担当・会計担当)と夕食をご一緒しました。西村さんは古田先生のご近所(向日市)から高松市に転居されたので、同地でお会いすることとなりました。研究情報の交換や、「古田史学の会」の運営などについて意見交換を行い、楽しい一夕となりました。
 その翌朝、ホテルで読んだ読売新聞(2013/01/16)に「新潟の古墳に中国製銅鏡」という記事がありました。あいもかわらず大和朝廷一元史観により解説された内容で、「大和政権からもたらされた可能性が高い」とか「日本書紀の記述より300年も前に、大和政権の影響がこの地に及んでいた」などの記事が並んでいました。
 同紙によれば、胎内市の「城の山」古墳(四世紀前半)から昨年出土した銅鏡が、後漢(1世紀後半~2世紀前半)か魏晋代(3世紀中頃)に作られた中国製の盤龍鏡(直径約10cm)だったとのことです。この記事が正しければ、九州王朝説の立場から次のような推察が可能です。
 まず、この古墳の主は、魏晋朝と交流があり大量の中国鏡を授与された邪馬壱国・九州王朝の影響下にあったと考えられます。
 次に、この古墳の主(一族)は、後漢・魏晋代の鏡を九州王朝から下賜され(その時期は不明)、それを4世紀まで持ち続け、墓に埋納したのですから、少なくとも古墳時代には九州王朝を盟主として仰いでいたはずです。
 その4世紀前半という古墳の編年からすれば、関東よりも新潟の方がより早く九州王朝の影響下に入った可能性が考えられます。関東が九州王朝の支配下に入ったのは、常陸国風土記に見える「倭武天皇」伝承から判断して、5世紀頃と思われます。
 出土した銅鏡が、近畿を中心に分布する三角縁神獣鏡ではなく、盤龍鏡であることも留意すべき点でしょう。
 おおよそ以上のように新聞記事から推察しましたが、最終判断は実物や他の出土品等を見た上で行うべきこと、言うまでもありません。新聞紙面などで「大和朝廷の影響」というような記事があれば、「九州王朝の影響」と読み変えれば、より多元的古代の真実に近づけるのではないでしょうか。


第514話 2013/01/15

「古田武彦研究自伝」

 12日に大阪で古田先生をお迎えし、新年賀詞交換会を開催しました。四国の合田洋一さんや東海の竹内強さんをはじめ、遠くは関東や山口県からも多数お集まりいただきました。ありがとうございます。
 今年で87歳になられる古田先生ですが、お元気に二時間半の講演をされました。その中で、ミネルヴァ書房より「古田武彦研究自伝」を出されることが報告
されました。これも古田史学誕生の歴史や学問の方法を知る上で、貴重な一冊となることでしょう。発刊がとても楽しみです。
 当日の朝、古田先生をご自宅までお迎えにうかがい、会場までご一緒しました。途中の阪急電車の車中で、古代史や原発問題・環境問題についていろいろと話
しました。わたしは、原発推進の問題を科学的な面からだけではなく、思想史の問題として捉える必要があることを述べました。
 原発推進の論理とは、「電気」は「今」欲しいが、その結果排出される核廃棄物質は数十万年後までの子孫たちに押しつけるという、「化け物の論理」であ
り、この「論理」は日本人の倫理観や精神を堕落させます。日本人は永い歴史の中で、美しい国土や故郷・自然を子孫のために守り伝えることを美徳としてきた
民族でした。ところが現代日本は、「化け物の論理」が国家の基本政策となっています。このような「現世利益」のために末代にまで犠牲を強いる「化け物の論
理」が日本思想史上、かつてこれほど横行した時代はなかったのではないか。これは極めて思想史学上の課題であると先生に申し上げました。
 すると先生は深く同意され、ぜひその意見を発表するようにと勧められました。賀詞交換会で古田先生が少し触れられた、わたしとの会話はこのような内容
だったのです。古代史のテーマではないこともあり、こうした見解を「洛中洛外日記」で述べることをこれまでためらってきましたが、古田先生のお勧めもあ
り、今回書いてみました。


第513話 2013/01/03

王朝交代の古代史

 あけましておめでとうございます。
 平成25年も興味をもっていただけるような充実した「洛中洛外日記」を綴っていきます。
 1月12日の新年賀詞交換会で古田先生のお話を聞いた後は、2月24日(日)の東京での講演(多元的古代研究会主催)の準備に入ります。演題は「王朝交代の古代史 -七世紀の九州王朝-」です。
 この数年、七世紀の九州王朝の復元研究にあたり、八世紀の大和朝廷との比較という研究方法を進めてきました。すなわち、701年を基点とした「王朝の相 似形」という視点で九州王朝の姿を推定するという方法です。例えば、列島の「全国」支配に必要な官僚群と官僚が勤務する役所は、その支配領域や律令支配の 形が九州王朝と大和朝廷でそれほど変わらなければ、両者は701年を基点として同じような規模や形式の宮殿・官衙を有していたはずという考え方です。
 701年直近の大和朝廷の王宮は藤原宮や平城宮ですが、共に大極殿や朝堂院を有した当時としては巨大(列島内最大)なものです。中でも律令体制を維持す るための朝堂院と官衙群を持った王宮であることは、七世紀の飛鳥にあった近畿天皇家の宮殿と比較しても、その差は歴然としています。すなわち、列島内ナン バーワン(701以後)と臣下としてのナンバーツー(700以前)の差です。厳密にいえば、藤原宮は701年をまたいで存在していますので、その位置づけは複雑で、今後の研究課題です。
 比べて、それらに匹敵する九州王朝の王宮・官衙は残念ながら大宰府政丁2期遺構は「内裏」も「朝堂院」も格段に見劣りがします。その理由も今後の研究課題です(白村江敗戦後の造営なのでこの程度の規模になったのではないか)。しかしながら、前期難波宮だけは藤原宮や平城宮に匹敵する規模と形式を有していますから、まさに九州王朝の副都にふさわしいのです。
 2月24日(日)の東京講演ではこうした「王朝の相似形」という方法論を駆使した研究成果を発表します。関東の皆様にお聞きいただければ幸いです。